家から富士山が見えても富士から自分っちは分からぬ

 都内には富士見橋とか富士見坂という地名は多い。何故かと、聞く必要もないであろう。其処へ行くと西の方向に富士山が見えるのである。私も結婚して45年、東京に来て51年も経ってしまい、あちこちにスカイスクレーパーが、始めは徐々に、段々と加速して行き、にょきにょきと雨後の筍のようにあちこちの猫の額を埋めつくす。と、ある時、今年が最後のダイアモンド富士山となりますと、突然身近の富士見坂の際にポスターや看板が並ぶのである。大概は最後のダイアモンド富士山の占有する遠くののっぽビルにこれから住むであろう主の素性や懐具合に文句は言わない。
 なぜか、ダイアモンド富士を撮っていた昔カメラ小僧と言われ、今や高級なデジカメセットを携える親爺さんは、その富士見坂付近の住人でないと予想される。ひょっとして、今後ダイアモンド富士を独り占めするスカイスクレーパーの新住人かも知れないのである。ごちゃごちゃ、最後のダイアモンド富士を捉えようとするマニアと素人さんからなる群衆は互いに気にせず、いい場所取りをして、喧嘩沙汰にもならず、最後のショットを満足げに納め帰路に向かう。
 実は、最近同窓会のお知らせを頂いて、コロナ禍で3年前に亡くなられた若かりし頃ご指導頂いた担任の先生の墓参をするので集合されたしという主旨であった。
学校の先生が担任としてクラスを持った生徒たちの数、専門教科として受講した生徒たちの数を40年位の間先生と呼ばれ、運良くば、A先生はこの専門教科では当時素晴らしかったと言われるような伝説が残っておれば、相当な人数になるであろう。ここで、えいやっと40年x250人/年=10,000人とする。約1万人の教え子のひとりが私である。
 同窓会は3-5年に1回ぐらいのペースで開催していたが、最近、具体的にお話すると2011年(3月に東日本大震災があり、東日本地区で被災した大企業に勤めていたクラスメートも多く)、その頃の同窓会も延び延びになって、私も電子メールアドレスの変更届が上手くいかずに連絡が途絶えた。更に2019年頃からの新型コロナ騒ぎで、同窓会は面と向かっての開催が出来なく、本当に今回の連絡が久々となった。
 40代、50代、そして60代へ突入し、今年で皆70代となった。ここで定かでないのであるが、恐らく50代の同窓会の時、担任の先生にある思い出を詳細にお話した。最終学年(18歳)の授業の時、受験勉強の範囲外の数学のテーラー展開式(詳しくは高木貞治著・解析概論を参照)の説明をされて、黒板の左から右へ一杯に式をチョークで書き記したのである。ここまでであったら、こんな先取りの授業の話で終わって、家から富士山が見えてもで終わってしまうのであるが、私はさらに話を続けたのである。
 xx先生、大学に入学して更に所属した研究室(材料科学の修士コース、21-24歳)での研究内容の話を続け、非線形関数を無理やりにテーラー展開で近似線形関数を作成し、それをもとに当時誰も挑戦していなかった観測した実験値とテーラー展開による近似線形関数を最少2乗法で収斂させて式に含まれる材料の構造パラメータを求めることが可能になりましたと。
 xx先生はそうかい、そんなテーラー展開の説明をされたことをお忘れになっており、少々拍子抜けし吃驚したが、そんなものかなと思いをはせた。
 多くの教え子がたった一人の先生を囲むようにして存在し、その教え子と先生との距離感やどのような付き合い・興味といった方向感がそれぞれあることがわかるのである、インフルエンサーという言葉が知られているが、確かに私は数学の担任の先生の影響を受けたが、現代版インフルエンサー講演に集まる特定のインフルエンサーの影響を受けたいとか、俺は私はインフルエンサーだと言う穿った気持ちを持ちたいのではなく、無意識の中で互いに伝播し合えばいいのではないかと思う。
 私の記憶では、関東地域ではなぜか、富士を夕日の西に臨むのが普通で、富士見坂でなくとも平らで広々とした関東平野ではどこでも富士を眺むことができ、日光から浅草への帰り道、まだ富士が小さく低く望める東武線沿線、茅ケ崎の実家の西向きの玄関から大山丹沢連峰と毎日見える富士、茅ケ崎の海岸から西に顔を振り向ければスカイスクレーパーに切り取られることなく、自分の富士を箱根山の外輪山と好きに鎮座させ、楽しむことができるのである。

寺田寅彦の“知と疑い”大正4年

コンサルティングの仕事をしていると、発明とか発見とか知的活動を促進させ、世の中にどんどん新しいものを提供していくことが一見世の中を良くするもんだと信じ込んでいるが、実は特許のような知的財産権を得ようとすることは経済事業活動であり、争い事も多い。昨日2020年06月04日の新聞にノーベル賞学者が実施権を許諾した特許を用い事業化をしている企業を訴えたという。企業がリスクがあるのも承知して、莫大な投資をして製品が良く売れたので、後になって分け前をもっとよこせといったような類にも聞こえる。最初の発明者と発明者の所属している大学と企業との契約内容は知らないが、ある薬品メーカのオプジーボである。
以前、ノーベル賞を受賞した湯川秀樹の創造性に関する書籍を読んで、はっとすることがあった。時代的にパソコンはまだ無かったが、第2次大戦後暫くして、計算機が出始めた頃に湯川博士は最近の若い研究者は計算に頼りすぎ、アナログ的な直感をもっと磨いた方が宜しいと指摘されていた。
今回、大正4年(西暦1915年)に寺田寅彦が書いた“知と疑い”という小文を2004年頃青空文庫からテキストに落としておいたファイルがパソコンに眠っていたものを読み返した。直感的にはよくも105年も前に普通に人には分かりづらい表現・語句を引用し寅彦先生も書いたもんだなと思った。しかし、読み直すと小文の内容は非常に重要な発明、発見、創造、そして関連して知恵とかイノベーションを網羅しているものであるが、私か今使った語句は一切使われていないのである。それらは寅彦独特の言葉を用い表現されている。
その前に、なぜ難解な“知と疑い”になったのか、その時代背景を私なりに説明を加えたい。西暦1915年頃はアインシュタインが一般相対性理論を発表した直後で、そこから遡ること7-8年前、Minkowski <ミンコフスキ>空間(寅彦はWeltという独語を使用)が発表され、数学的に時間軸を加えた4次元空間で示すことができると公表された頃であった。数学的にはn次元のベクトルと新たなベクトルの外積をとり、これをn+1次元のベクトルと定義するようなことである。
寅彦は実際どのような語彙を使って表現していたのだろうか。もちろん現代版カタカナ外来語、イノベーションなどといったものはない。(注:イノベーションとはneue kombinationen , 既存の要素で新しい組み合わせを生み出す事、後出―1番目の疑う人) 2004年に保存しファイルには注意事項として太書きした部分(寅彦の文)があって次に紹介する。

しかして暗は無限大であって明は有限である。
雨が降って天気のよい日のある事を知る人の少ない。
疑う人におよそ二種ある。

最初の文など一般人にはチンプンカンプンであろう。無限と有限を寅彦は微分で表現し、おそらく無限とは微分が無限でこれを暗とし、明はすなわち微分が有限な様態を示している。
注目したいのは3番目の文、疑う人は2種類あるという指摘である。
私なりの言葉でいうと、過去の先達が積み上げた知識体系を会得し、研究して新たに発見を加える事(人)と全ての知識体系が完成しもう終わりだと普通は言ってしまうが、そこでさらに何もやることはないとは、おかしいと疑う事(人)の2つがあって、寅彦は同時にこれら2つの能力を発揮する人は極めて稀であると言っている。寅彦は、寅彦の言葉で 一人にしてその二を兼ぬる人ははなはだまれである。これを具備した人にして始めて碩学(せきがく)の名を冠するに足らんか。 と、この小文を閉じている。
知は疑う事から始まる。リンゴがリンゴの木から落ちたり、錘を付けた振り子がただ振れていると疑わずに放置したり、天王星の動きが少しおかしいけど、これがデータのバラツキだと判断して疑わず外周の新惑星の発見に至らないとか、古典力学で十分だとか電子運動の実験的解明(疑いを持つ)が無かったら相対性原理の発見に至らない105年前の平凡な暮らし向きを我々は続けていたかも知れないのである。

卒FIT その後 II;蓄電池導入

そこでわが家の最新ソーラー発電と電力消費動向について説明します。令和5年5月2日は発電総量は31.4kwh (朝6時の0.1kwhから夕方17時の0.1kwhまで)、消費総量は22.2kwh (これはガス無しのオール電化です)。消費電力パターンは図の通り、早朝にやや高まっているのはヒートポンプ式のエコキュート温水貯蔵でドラム缶一杯ぐらいですかね、その前少しベースラインが増えているのは家人が夜更かしで風呂の沸かし直しや3台のTVを見たりしていた。朝の食事の用意はゆっくりとして、夕方からの食事の準備でピークに見えるのと明らかに違います。季節柄、エヤコンの使用がなく昼間はこんなに低レベルです。家の広さはかなり広く、大手住宅メーカの180平米(総2階)で熱遮断性については建築当初のままですが、リフォームで2か所窓を塞ぎました。

さて、その後蓄電池の導入を行い、5月下旬よりシステムが稼働しました。7月の下旬に至り都内でも連日35℃以上の猛暑になり、冷房機器を昼夜長時間使用せざるを得ない状況に陥り、日中天気も良く・日射量は高くソーラー発電量も大きく、蓄電システムの良さを実感した次第です。次の発電<昼間の青線>、買電<オレンジ色の棒グラフ>、売電<草色の棒グラフ>の3つのグラフは典型例です。先ず、真夜中の12時には、前日の晴天下で発電し蓄電池がフル充電され、それが放電され夜8時ごろまで利用され、空(蓄電池を完全に0%にしてしまうのはッシステム上危険で残20-30%で”ゼロ”設定とします)の状態になっています。我が家では夜も弱く冷房にしています。そして朝方3-4時の2時間で温水を沸かしますので、安い深夜電力を購入するシステムです。朝7時頃から発電が始まり、蓄電用と自家消費

下の運転中の状態を示す

夢のある話

日本でも月を目指す宇宙飛行士の人選の結果が話題になっている。
本当に夢のあるわくわくする話である。人生100年と言われる現代でも、よく考えるとそうたびたびある夢のある話ではない。それも、応募された志高き人、夢をかなえようと幼き頃に心に決めた多くの中で、再チャレンジの一番高齢(といっても40半ば)の男性と20歳代の女性の2名が夢を叶えようとする一番札を抑えた。

米国が約53年もの前に月面に初めてブーツの足跡を付けたのだ。
技術をかじった事のある人間にとって50余年も前の未熟な技術で、今考えると能く月に行こうと、恐ろしい程の夢を持ったものだ。しかし誰しも数十年先の技術向上は決して否定はしないがそれがどれ程の高度化を達成出来ているのかも未知であって、数十年待って安心して夢を叶える行動を取っても意味がないのは明白で、今挑戦することに意味があるのである。

しかし、今年70歳になる自分が学生の頃、ちょうど大学院を目指して研究室に所属した時期に、日本では放射光リング(今は筑波研究学園都市に加えスプリング8という関西にある放射光リングの呼称が有名になり)が夢でその実現に向かって、装置開発グループや私のいた研究室は放射光と言ってもX線レベルの電磁波で、ある種の高強度のX線が得られたとしてどのような実験が出来るかというテーマを研究し始めていた。後年になって夢はかなえられてしまったのだが、真空の導管中を電子ビームを光の速度の近くまで加速させ、その電子ビームを磁場で少し曲げると、接線方向に放射光が発散し、それを応用しようとするものである。

大学院を卒業して、そんな放射光をも忘れて、現在のインターネットのベースとなっている光通信事業の開拓に夢中になっていた時、ある種のデータのわずかな差異に、、、それはかっこ良く言えば、品質問題、quality management, quality control of product performance specification問題に遭遇し、その現象は6シグマ運動や高度な統計数学が関わるものであった。
こう言った「がちがち」の数学が関わるものは時代によらず必要なのだが、感覚的には昭和から平成への時代感覚で、話を戻すと公開された月を目指す宇宙飛行士の選考過程で見られた内容は平成から令和の時代に必要なグループで人が仕事を成し遂げようとする際に要求されるコミュニケーション・リーダーシップに焦点が当てられていたようだ。さらに、科学者・エンジニアのような高度な専門職的作業は出来て当たり前、その先の火星探査への片道切符とか死に直面するような宇宙飛行士の人としての振る舞い、他人との関係性の取り方、ただリーダとして強引に他人を引っ張るだけではない姿、人物像を評価して見たいという意向が感じられた。

話を昭和から平成の時代にもどすと、私が関わった高度な統計数学が関わる光通信ネットワークの事例の話をして見たい。当時の日本と米国を結ぶような世界で一番長距離の大陸間海底光伝送では予め光が伝搬する光ファイバーのコアの部分の光屈折率を例えば9000㎞の長さ方向に渡って調整しておかなければならないのである。それは、単に標準的な製品仕様値(平均値+/-δ)を満足しているだけでは不十分で、9000㎞長の経路毎に例えば始めの50㎞は1.4650で次の50kmは1.4654というように長手方向の変動に関する値を管理制御すること、実際には光信号が伝搬する際の遅延時間を表記する光屈折率の波長分散という性能に関わる仕様のお化けみたいなものがある。

当時、米国の大手計測機器メーカーのものを使って計測するのが業界的標準になっており、私はもの作りのメーカ側の立場で製品検査を、お客様も値の張る米国製の計測器を購入し、受入検査をされていた。私が勤務していた米国メーカと顧客企業とで取り交わした仕様値を満足しており、受け入れ合格なのであるが、当時、私は技術責任者としてその膨大な品質データを検証していた。
何かがある? という疑問であった。

光ファイバーは石英ガラスから作られているが、その屈折率は空気中と真空中とでは値が0.03%にも満たない程度であるが、差異があるのである。起因は光の伝搬速度を真空中の値を1とすると空気中では0.03%程度遅いことにある。僅か1000分の0.3、ppm表示だと300ppm。そうなんです、検査時の基準を真空中の値、空気中の値とするかが両者で異なっていたことに起因して、データの分布図をメーカの出荷時と顧客の受け入れ時の値とを比較すると、一つのピークを持ったガウス曲線というよりも2つのずれたピークを持つガウス曲線としてみた方がいいのではないかという私が何かがある?と言った疑問が解けたのである。

こんな僅かな事も私にとっては当時夢のような話で、本社の製造部門だけでなく、開発・品質管理や顧客技術支援部門、その他多くの人達を巻き込み、課題・対策の情報共有が出来たというあたり前と言ってしまえばそうであるが、あたり前の簡単なことが認識出来ずに、月さらに火星探査へと連なる「かぐや姫の夢」を壊したくないのです。

人工知能AIの急速な発展と疑い

人工知能に関する取り組み、開発研究の歴史はかなり長い。
AI; artificial intelligence の進捗は主に計算機、コンピュータの発展開発に依存。
コンピュータシステムの高速化はデバイス部品の小型化による。
デバイスは半導体チップのみならず、周辺のパッシブ部品を含み,単体半導体チップ間、複数の半導体チップを含む特定機能を有するボード間通信も高速化されている。
AI開発のソフトウェア面でも歴史的にいき詰まりも何度かあった。

ここ数年間(2020年以降)で、AIの一般利用という面で驚異的な事があった。
巨大IT企業や異種業種企業による巨額投資で進んだ。
画像認識や言語認識による翻訳サービスも格段の改善。

これらの新しい進行は学習・learningプロセスに大きく依存。
キーワードはmachine learning (ML), deep learning (DL) である。

AIを組み込んだロボットを含み、AIアプリが従来の雇用を奪い取るという懸念。
 単純作業はどんどんなくなっている?
 本当にそうなのか?
 歴史的にみると何もAIのない時代にも、消滅した雇用と新たに生まれた雇用がある、
 
GPT-3, GPT-4, ChatGPT という自動文章生成AI
 Chatとは所謂短い言葉で相手とやり取りするチャットのことである。
 GPTとはgenerative pre-trained transformer のことで、
  文章を生成する事前学習された変換装置を意味する。
 GPTに続く数字はGPTのバージョン番号で3世代と4世代では
  MLで参照させているデータベースの規模が格段と増大している。
 GPT-4ではデータがビジュアルであると説明されていて、テキストデータではなく、写真だったり、手書きのメモ(これから文字を自動的に読み取り、文として認識するとか)、写真の一部に写っている物を指定すると自動的に猫の顔だとか電気自動車とか認識する機能が備わっているという。

データマイニングと何が違う。テキストマイニグと何処が異なる。
 という疑問も沸くがマイニングは分析的で、
 GPTは前の文に続く後の文を予測生成する。

ネットでよくみられる、チャット式質問があるが、これは場合分けしてツリー状にしたものでAIといって少々だまし気味な所もあるが、プログラム化されてはいるが本当のAIではない。

2023年3月18日に閲覧したYouTube(YT)は刺激的。
 言語生成、文書作成ができるChatGPT4の解説であった。
 質問者が質問した疑問に対して、AIが回答した文章が長かった。
 それに対て、質問者がもっとリズミックな感じにしてと要求した。
 すると、AIは見た目英語だが、短いフレーズで箇条書き様に構成された文章で答え直したのである。

そうだ、日本語で大切な和歌・俳句は究極の57577という、短いフレーズとリズム感を兼ね備えた表現で、我々が、人の生き様という和風文化の経験を積み重ねたものである。日本語の特有さとデータベースが英語と比べて非常に小さいのでChatGPTの日本語による回答はまだまだ未熟だそうだ。

以上、全て私の作成した言葉・文章であることをお断りしておきたい。

注:気になるのだが、欧米のある国レベルで、ChatGPTの利用禁止がメディアで報じられている。理由は個人情報保護上の問題らしい。4月1日のエイプリルフールかと思ったが、まだ日付けは3月内。

令和5年4月1日記す

卒FITという言葉と行動

 卒という言葉は卒スで、亡くなる・死ぬこと、学校などを卒業すること。さて、アルファベットでFITとは英英辞書でみても多くの意味がある。今月、令和5年1月の24日に我が家でもとうとう卒FITを迎えるのだ。それは嬉しいか悲しいか、どちら側の情緒で表現できるのか、それとも全く関係ない事象で情緒なんてでは表せないとも言い切れないのである。正直言って十年もの間お世話になった事は間違いなく、本当に感謝しなければならない。わが家のデシジョンとして、オール電化にした。オール電化とはガスの供給も絶ち、事実、契約上ガス会社のメータを外す必要があり、安い夜間電力でヒートポンプを稼働し、お湯をドラム缶一杯分位を沸かし、普段の調理はIH加熱方式で行うのです。そんな時期に照明器具も全てLED 電球とした。 FIT(Feed-in-tariff)とは固定価格買取制度の事でソーラー発電を始め、再生可能エネルギーを10年間固定価格で買い取ってくれる制度の事です。これが終了することを卒FITと言うのです。
 例えば学校を卒業すると、次に新たに何をしたいのか、何をするのかが関心事となる様に、卒FITでも次の手立てをよく考えなければならないのです。よく、キーワードとして目につくことは10年間高値で、例えば42円/kwhで、送電グリッド網の管理電力会社が買い取ってくれてた発電電力をどこかへ安値(x円)で売り渡さざるを得ない状況なのか、自前で蓄電池システム(大容量の蓄電池抱える電気自動車などを含む)を高額で投資せざるを得ない状況(百万円以上、EV車ならそれ以上、若干の公的助成金もあるが)の選択を迫られている。私も1年前頃から、新興蓄電池システムを開発提供している企業の資料を読み始め、昨年の夏ごろから来る卒FITに対して良い案はないかと力を入れて調査を開始した。比較的直ぐに、私にとって、魅力的なシステムが提案されている事を知った。ここでは具体的なサービス名を書くと特定企業のものと判明するので、一般的な説明とする。それは、自前で蓄電池システムを持たないバーチャルシステムで、ソーラーの発電量と昼夜でソーラー発電量が自分の家の消費量を賄えない時に、grid網から電力を市場価格で買わなければならないのであるが、それをスマートメータで相殺してくれるという物である。普通家庭のソーラー発電では、電力の消費量>ソーラー発電量なので、一般家庭にとって莫大な金額を投資せずに済み、相殺された使用した分だけ電気料金を支払えば十分なのである。
  一見どこにメリットがあるのだろうかと迷うが、現在電気代は1kwhで30円以上で、買取価格8-10円よりもはるかに高いのである。ここで少し概算計算をしてみるが、10年前の購入電気代はわが家の実際値で1kwh当たり20円を下回っていた時期もあり、そのころの余剰買取価格が8-10円という数字でも、そう違和感はなかった。といいうのは、天然ガスを自前で採掘できる国の電力代金は七円レベルで、それでも少しは利益を出せると言われていた。それ以前では原子力発電によるコストは4円レベルとも言われていた。<2011年の東日本大震災での福島原発事故で廃炉処理を含めたリアルな発電コストは4円ではとても済まない事が判明> 2022年末の時点での対ドル、円安130-150円、化石燃料コストの爆発的増加、諸々の諸経費のインフレ率の想定以上の高騰などの要因で2023年半ばに更なる価格上昇も予定されており、今の30円/kwhを上回る電力価格のポテンシャルを相殺できるのである。そんなチャンスを8-10円で売り渡し、更に蓄電池システムという決して元が取れない投資には、私はgoを出せなかった。
 課題はなぜ国を始めとする行政機関が卒FITで助成金まで付与して、蓄電池システム導入を進めているのかというと、災害時停電というグリッド網からの電力供給がオフ状態になってもソーラー発電と蓄電しシステムで自律的に出来るだけ長く息絶えずにいて欲しいが為と季節的に訪れる電力逼迫時の負荷軽減である/これは最近わが家にリフォームで出入りしている企業の本音の話である。
 かくして、卒FITの次に、特に我が国日本は家の断熱化(冷暖房に有効)、省エネ化をあらゆる面で進めるということにつきると思います。

そこでわが家の最新ソーラー発電と電力消費動向について説明します。令和5年5月2日は発電総量は31.4kwh (朝6時の0.1kwhから夕方17時の0.1kwhまで)、消費総量は22.2kwh (これはガス無しのオール電化です)。消費電力パターンは図の通り、早朝にやや高まっているのはヒートポンプ式のエコキュート温水貯蔵でドラム缶一杯ぐらいですかね、その前少しベースラインが増えているのは家人が夜更かしで風呂の沸かし直しや3台のTVを見たりしていた。朝の食事の用意はゆっくりとして、夕方からの諸受持の準備でピークに見えるのと明らかに違います。季節柄、エヤコンの使用がなく昼間はこんなに低レベルです。家の広さはかなり広く、大手住宅メーカの180平米(総2階)で熱遮断性については建築当初のままですが、リフォームで2か所窓を塞ぎました。

闇と光汚染

 昨年末、お付き合いのある企業様から所謂翌年の新年のご挨拶の品を頂いた。翌日、その頂いた手作り写真カレンダーを開くと、名刺大のカードが挟んであり、2023年/先を見る との表書き、裏には一寸先は闇か光明か と添えてあり、その裏の添え書の方がレコードのA面のように聴こえたのである。
 これまで、私が漢字文化で一応育った60余年の間、字の構成としてはある時、気が付いていたのは間違いないことであろうが、きちんと意識して、門構えのなかに音という文字が挟まれていて、それをヤミとして自分自身に受け入れていたのか少々怪しくなった。なぜなのか、漢字の古典として、部首等の組合せで新たな文字を生み出していく、今流のイノベーションが普通に行われるのが象形文字である漢字文化の骨格である。なぜ、門構えに音で、音とは一見関係なさそうなヤミを意味させるのであろうか?
 全くの個人的経験であるが、信貴山の朝護孫子寺に行くとお堂の地下に造られた空間をわざわざお金を払ってまでして、そのヤミを体験(戒壇巡り)したことがあった。そこは本当に全く光明のない真っ暗な空間で、壁つたいに人は歩く事しか出来ない。指先の触覚(感覚)が頼りである。しかし、暗くても、人が2人居て、声だけが2人を結びつけられる事も出来るのである。闇というのはこういう感覚的に分類出来ることばで、物理的意味も持っている。

さて、もう一つの光明であるが、次の2010年6月のマイブログで2009年に話題として取り上げた光汚染について書き残してあった。

追記 *1、*2
  昨年2009年の前半に、海外の雑誌に掲載されていた環境問題。これまで、環境問題の中で汚染物質排出はフロンガス、二酸化炭素ガスや 有害金属、有害有機物質、炭素微粒子、石綿などが取り上げられ、指摘されていたが、 ある海外雑誌では、light pollution を取り上げていた。
 過剰過ぎる夜の照明。これは安全な night life や 夜間屋外活動(スポーツ、イベント、 何もプロだけでなく一般の人が夜間帯に行うものが非常に多い)を拡大してきた。夜間が明るくなると、人の生理的営みが神経的にも阻害されてくるそうだ。 人だけでなく、人工の光が与える動物への影響もあるという。
  *1半導体の1種であるLED照明が開発されて、エネルギー効率が従来の白熱灯に比べて約3分の1と非常に小さくなったことは良いのだが、装置のコストも低減されて、従来と同じエネルギーをと投入すると光る光束の量は3倍になり、夜空が更に明るく輝いてしまう光汚染(公害)となってしまっているのだ。
 400年前のガリレオが初めて手製の望遠鏡で見た星は今や都会では決して見れないとうノスタルジー的文章からその海外雑誌は始まっているが、一度エコ、省エネの観点だけでなく、夜間照明の在り方も検討課題の一つとして入れたい。光で汚染と言われると、いい気分がしない。せいぜい、キャンプの焚火の明るさで済ませる生活がいいのだろうか。現代人類の生活がここまで来てしまってると後戻りは出来ない。
 米国NASA提供が提供している夜間衛星写真(添付URL)は、おそらく想像以上に地球規模で夜の世界の営みが奥地まで進んでいる事を物語っている。
http://apod.nasa.gov/apod/ap001127.html
このサイトの中央にある写真をクリックすると詳細な夜間の光の分布を見ることが出きる。
 この写真を見て、何を想像してしまうか。想像力の豊かな人ほど悲観的になってしまうかもしれない。今や、全世界にくまなく広まっている、電気供給網(グリッド)が出来上がっていることは、エジソンの時代の電球の発明から100数十年という長い時間が見える。この光の分布を見ていると、地球上のちっぽけな狭い日本だけでエコ、グリーン運動を血眼に行っても、本音のところ効果がなさそうに思える。グローバルな取り組みが是非必要であろう。

 地球上にいて、今でもかなりの奥地へ行くと、そこの夜は闇夜でなく、天を見上げると満天の星と天の川で一杯である。その様子を高感度映像でどこかのTV番組が流していた。それは、人工の照明がないからこそある、ありのままの世界であって、古の人は、現代の宇宙へ上がってしまった衛星からではなく、地上から宇宙の地図の光のグリッドを見て、想像を広げ、神話などを語っていたのであろう。その高感度TV放映像の中を、素早く右から左方向動き、消え去った強い光があった。やはり、人の仕業の”未確認飛行物体”が夜間でも蠢いている証であった。*2私自身の体験でも1980年代の後半の米国東岸部のノースカロライナ州の田舎の夜空は、まだこのような「闇夜」であった。

New Header Photo updated

This header photo was taken by myself, when I have participated 2014 Photonics West at SF, CA. After completion of conference, I took my favorite bay cruise and got to shot the eight slopes in town of SF from bay side.

サブタイトル:さがしもの

 目が疲れた、指先も疲れたなという声にもならない終わりだった。それはある日の夕方のことで、今は4-5時間経って、あるTV番組を見終わって、70歳になった歌手の人生みたいな内容で、以前呟いた小椋佳さんが苦労して歌詞を考案する方法とは違ったやり方で歌詞を紡ぎ、作曲もする方のやはり苦労話に気が行ってしまったのである。その歌手は10代半ばで上京し、挫折の度に長崎という自分の故郷へ逃げ帰ったそうだ。私など、工場勤めの父の会社の横浜にあった社宅に生まれてから6年間、その後神奈川県の近郊に引っ越しそこに12年、東京の大学に入って大学近在で2か所下宿を変え、そのまま結婚したので棲みかも都内で、帰る故郷と言える町などはないなと、横道にそれた想いになった。
 何故そんなに疲れたのかという理由についてお話するのが本流である。サラリーマンを早期に辞め自営業になって、早17年を過ぎようとしている。それからブログを書き始めて、そのブログのトップページの写真を変えようと決めて、そうだ2016年に海外出張へ行って報告書を書いた資料のトップページで使ったある写真を探しはじめていたのである。結果を先に言うと、さがしものの写真は見つかったのであるが、そのプロセスは壮大で、デジカメ写真の画像を何枚、いや1000枚以上になったかもしれないのであった。
 探そうとしている写真はサンフランシスコSFの急坂の道で、それもbay側から見たもので、近くの港から出船する好きなクルージングの船から眺めたものである。SFには米国系外資企業のサラリーマン時代から毎年訪れていて、自営のコンサルタントになっても、顔を出すカンファレンスの種別は若干変わっても2005年から2016年まではSFを訪れていた。毎年必ずクルージングの船に乗ったわけはないが、時間があると、ナパバレーのワイナリーツアーかこのSFの急坂が平行に8本も並んで見えるクルージングに出かけていたのだ。始めの頃はただSFには急坂が多く、サラリーマンがスケボーを蹴ってオフィスに行く様子などがフィーチャーされていた。自分でも、クルージングで始めから8本もの急坂が綺麗に平行に並んで存在し、それをフレームに収められるとは想ってもいなかった。実際、4本だけ急坂が並んでいて、その4本の組み合わせも撮った写真によりまちまちであった。
 最初の早とちりは、2016年のカンファレンス報告書だったので、2016年のデジカメフォルダーを見分したのだが、見当たらなかったのである。そこで、過去の年度のフォルダーも探したのだが、見当たらなかったのである。そうだ、その頃はデジカメの性能が急速に向上し、機種も一番古かった国産のN社のものからS社の機種へ、更にS社の機種で安価で使いやすいレンズ系のF値がやや大きい自分でS500と呼んでいる3台をある時期混在して使っていたことを思い出した。現在はS500を自分で、Sは家内が使っている事にはなっているが、皆さんと同じように、性能が格段と良いスマートフォンのカメラ機能に頼っている。

そんなこんなで、結局2014年のフォルダーにそのものは鎮座していたのである。何年にも渡りSFの急坂に向けてシャッターが押されていたが、8本も綺麗に並んで撮れていたのは実は1枚で、4本であったり、bayクルージングは私が個人的に興味を持っている8本の坂のことなどお構いなしに、都合の良い所でゆっくりと進んでくれることもなく、陸からの距離も私の頭の中のベストショットのポジホンに関係なく、行きかっていたので、ただボーッと遠目に丘が見えるだけだった。
  偶には私のとりとめのない、ストーリーのない独り言に、お付き合い頂いたことに、有難うと申し上げたい。SFはこの8本の急坂が仕事上での私の故郷と主張しているのかなと想った。

令和5年2月記す

私の澁澤榮一氏

普通、著名人の名は知っていても、何かの事情がない限りその方の人となりに深く立ち入ろうとはしない。私も東京北区に住み始めて40数年、今年67になる。北区では澁澤榮一氏が一万円札の肖像画に選ばれたとか、NHKの大河ドラマ番組の主人公に選ばれたとかで、盛り上がっている。私は澁澤氏の名は知っていたが、深く立ち入ろうとしたのは約10年前のことである。そのことをマイブログに書き残しておいたのを思い出した。その後、地元の先輩に誘われ、深谷の澁澤榮一の実家見学まで出来た運を得た。


2010年11月15日記す。Bank (ブログの題目)

この英語は、我々は今では“銀行”という言葉で受け入れ、金融機関の主役を演じていることは誰でもが知っている。

先日、早稲田穴八幡神社で、毎年開催されている古本市で買い求めた一冊の古書、幸田露伴著、澁澤榮一傳(昭和十四年六月十日初版発行、岩波書店)を、昨日目を通していた。購入して直ぐ、全頁は読まずに、ページを捲って部分的にどのような澁澤榮一が描かれているのかと探ろうとはしておいた。

昨日の朝、NHKの番組紹介で、12月に入って再開する坂上の雲の第2弾の紹介をしていて、ちょうどテーブルの上にあった、少し時代は早いが活躍したこの澁澤榮一傳のページを捲った。ページを進めると、第一国立銀行をひきいた澁澤が明治初めに、bankという英語に和訳の“銀行”を授けたと説明している所に出会った。以下その下りを私が現代的に示したものである。

銀は銀(シルバー)だけを意味せず、金銀の兌換性を言い、行(注)は鋪、業、糸屋・米屋・石屋の様に使われている屋の意味を持たせてあるという。鋪は店舗、業は広く使われ、商業というある程度大規模な経済活動をしているもの、xx屋は中小企業の商いから物作り工房などの意もあると思う。

注:行は元人の百二十行、明人の三百六十行の行の如くと書中で引用されている。調べたところ、元人の百二十行は不詳だが、明人の三百六十行は蘇州版画で蘇州の繁栄を象徴する商店や運河のにぎやかな光景を描いており、それを引用したものと推察される。神奈川大学の非文字研究サイトに出ています。

http://www.himoji.jp/

http://www.himoji.jp/jp/publication/pdf/nenpo/No03/097-111.pdf

これらの漢字の組み合わせを変えると、金行、金鋪、金業、金屋、銀鋪、銀業、銀屋などが出来るが、やはり“銀行”が澁澤にはぴったりだったのだろう。

さて、本来の銀行の役割は蘇州版画三百六十行図にあるように、繁栄を象徴する商店や運河のにぎやかな光景をいつまでも作り出したり、継続したりすることであって欲しいと思う。いたずらに、マネーゲームを先導したり、金融経済政策として管理、制御する側に立ち過ぎないで欲しいとも願う。

地元北区に、澁澤榮一資料館もあり、明治以降に三菱をまとめ上げた岩崎弥太郎に視線が行ってしまうが、関東の澁澤榮一にも目を向けて欲しい。

詳しくは、澁澤榮一資料館サイトを参照して下さい。

かくして、Bankに象徴されるように、明治時代に入ってからの澁澤氏の活躍貢献(多くの銀行、株式会社設立や事業支援、慈善団体の設立・支援)が評価されているようだ。

が、しかし、私は、江戸幕府の大政奉還から明治維新時の国難の際に、澁澤氏は日本におらず欧州に居て、水戸藩の徳川昭武(御年十五歳)の巴里万博視察団随行員団の端くれとして働き、万博後留学中の水戸藩の徳川昭武を帰国させるべきか、万が一欧州滞留が長引くかも知れぬと、会計係として不足していた資金の工面、質素な生活、さらに今でいう保険や有価証券投資(数年は日本へ帰還出来ない事を想定)をして、借金返済や少しの蓄財までした能力(榮一は欧州の経験豊富な経済・金融界の知古より仕組みを学んだ)に注目して頂きたいし、チャレンジ精神を評価して欲しいのである。

澁澤氏は昭和六年九十二才で旅立たれたが、明治維新の時は若干二十七才であった。今の時代で、若輩の二十七才でこれだけの使命を受け、そして主君を守り、欧州の経済的仕組みを理解し、習得し得た成果を開花させ熟成出来るだろうかと考え込んでしまった。

白; 知らないことの新鮮さ

最近、読み聞かせ、それも文字を習う前の小さな子を対象としない、大人の読み聞かせを体験する機会があった。大人を対象にするので、朗読やちょっとした江戸時代の小話を聴く、みじかい落語の感じがした。このような体験の延長で声優さんのいろいろな作品を朗読しているYoutubeを検索・視聴し、そんなことを暇に任せてお盆休み前にしていたら、芥川龍之介の作品は短編が多いので、結構、朗読対象になっていたことを知った。これまで、長編作品のたけくらべなど難解な樋口一葉の作品に挑戦し、そのままになっていた。今年のお盆前には芥川の羅生門の朗読を始めとして、蜘蛛の糸を繰り返し繰り返し、聴き惚れてしまった。

そして、六九歳になって初めて知ることになる「白」という短編作品がYoutubeのトップページを飾っており、それは淡いグレーと濃いグレーの単調2段階でデザインされて、特徴の無い犬が淡いグレーで描かれており、ははーん、これで<しろ>という犬の話になるのだなと思ってしまった。以降、私はその朗読を聴いた「白」の感想を呟くつもりはなく、詳しくは文字で全貌が紹介されている青空文庫などを参照して頂きたい。

さて、子供の絵本の読み聞かせ会などがあるが、文字をまだ知らない小さな子は絵本で与えられているカラフルな絵柄という作家特有な映像と耳から得た聞きことば情報を的確に覚え、自分の頭に刻み込んでいるのだ。諳んじている自分の知っている絵本の内容を早くお披露目したく、我が家では子供がまだ小さい時、家内が絵本を読み始めると長男がまだそこまで進んでいないストーリーを弟・妹にばらしてしまい、よく小さな喧嘩の始まりとなった。

大人の読み聞かせには例として初めて聞く作品の朗読が一番だと思う。初めて聴く新鮮な言葉を受け入れ、それを瞬時に同期させ、こんな情景なんだろなとか、思い浮かべる自らが創造する色合いの情景は私には楽しい。個人個人によって情景の配置や色合いは異なって当たり前であろう。しかし、著名な作品が映画化、TVドラマ化され、さらにヒットしてしまうと自分で想像するという前に監督だのドラマ演出家の意図が前面に出て、作品の著者が意図していない方向へどんどん行ってしまう事もあろうが、そういう時は小さな諦めも必要だ。

私は初めての「白」から1週間ほどして、2度目の<しろ>を探した。というのは、芥川は結婚9年目で自殺してしまったが、その4年前の結婚5年目にして自殺を暗示させる作品を残そうとしていたのかと背筋が本当にゾッとした。隣のくろと呼ばれる黒い犬が犬殺しに捕まり、自分は咄嗟に逃げ、自分だけ生き残った事を苛み、「白」の中で1度だけ自殺したいということばが出てきた。実は<しろ>は外観が黒い犬「芥川は鍋底よりも黒いと表現している」に変わってしまい、田端の駅付近から流浪の旅に出るのだが、出来れば死にたい死にたいと、あちこちで、蛇や狼と戦い、火や鉄道に飛び込み子供を助け、アルプスの山では遭難しかけた一高生を助け、死にきれずに自宅に戻るのある。その流浪の旅は決してカラフルでなく、ほとんど白黒の世界に近かった。

数年前、私は芥川が世間で言われている神経衰弱で病み、藤沢の鵠沼の海岸近くで療養し、自殺する前に東京田端の自宅との間を行き来した時期について調べた。新婚生活を始めた鎌倉にも近い鵠沼、その後田端の自宅に戻っても二階に籠り文章を練る作業に没頭し、神経衰弱の源は自分の作品なのか、それとも別なものなのかと、さらに健康もすぐれずにいたという。鎌倉や鵠沼と聞くと自然豊かな、新緑の緑を表現する場合や碧い海と連なる同じくあおい空を表現する場合には、組み合わせや、グラデーションまで考えると数え切れないわくわくする空間を想像し、そんな色合いが豊富な世界・暮らし向きを勝手に考えてしまうが、実はそうでなかった芥川の白黒の濃淡の世界が支配していたのだろうと想った。

朗読を拝聴し、自らは書かれた文字を目線で追う作業の代りに(といより軽減し)、余裕を持って色とは別の次元の世界の探索、つまり書き手の気持ち、意図、精神状況、心理状態等々を想像・推測出来ると信じている。<しろ>は人の話していることは分かっている。しかし、人は<しろ>の言葉は分かっていないという。「白」では精々茶色い世界までしか覗けず、それでも裕福だと思い詰めている。<しろ>が何とか自分の家に戻って来るが外観が黒く汚れているので、坊ちゃん・お嬢ちゃんには分かってもらえず、手荒く・ぞんざいに扱われてしまう状況に落ち込んでしまった。

よく、漱石の話で出てくる I love you を月が綺麗ですねと訳せる心持と、どうしても引用させて頂きたいのだが、芥川と結婚が決まっていた文はお相手のお名前は聞かれても言い出せずに、そっと羅生門の冊子を差し上げたという逸話を最近知ることになって、芥川も文さん位のある種の心持の余裕があればもっと長い結婚生活をおくれたのではないかと思った次第です。