ギメの日本美

  私の独り言は自然に内なるところから湧き出るものでなく、何か外からの刺激があってそれに反応し、結果として表出してくるものが多い。令和3年1月20日の深夜番組NHKのBS放送(後で調べたのだが、2003年に放送された番組の再放送)を観て呟きたくなった。
明治9年に仏より来日したエミール・ギメという若い実業家が日本中の仏様(ほとけさま)、仏像の類と幕末から明治維新の時代に書かれた絵図を収集し(対価の金銭を払い購入した)、仏に持ち帰り自分の美術館を建て、保存保管していたという内容である。
  幕末に和蘭(オランダ)や英米人が来日し、浮世絵や江戸の郊外、谷中巣鴨辺りの植木を買い集め欧州へ持ち帰った話なども多い。また、明治になって経済的に困窮した旧大名、旧家が手放した物品も欧米へ流出した。
よく宿題みたいに本を読んだ感想とか映画を見た印象を文章にしてくれと言われても、子供たちは本当に良かった、素晴らしかったと体感できても、それを文章にしろと言われても、なかなか出来ないものだ。この深夜番組も感動が先で、後で文章にした少し作業的になってしまうが、その感動を少しでも残したいという私の意図がある。写真、絵などを省き、その感動を文字だけにしたためてお伝えすることは一番の難題と分かっている。
  TV番組の場合はこれでもかこれでもかというくらいに鮮明な映像を見せつけてくれるが、ギメが収集した大小の仏像、木造・青銅製の仏像だけでなく、番組では一般庶民が所有していたと思われる大黒様に焦点を当て、ギメが多種多様の日本美として受け入れた仏像を紹介していた。廃仏毀釈で不要とされた「日本の美」を日本人は簡単に処分してしまったのである。
  驚くことには、法隆寺にあった仏像、目黒の行人坂先にある幡龍寺の丈六(高さ4.8m)、青銅製の阿弥陀如来像まで収集し、残念だが三分割されて仏まで輸送され、今でも博物館で保管管理され、日本美として鎮座している姿が紹介されていた。しかし、三分割された切り口は痛々しかった。法隆寺より流出した国宝級の仏像(脇侍・勢至菩薩)は近年里帰りし、主の仏像(阿弥陀仏)と合わせて三体が一緒に写真に収まっていたが、流出した経緯は不明のままである。 記録によるとギメは中国の仏像として購入したらしい。
  さらに関連の仏像を紹介説明している書物まで収集し、その書物を求めたであろう日光にある骨董店にまで取材に出かけ、十二代当主になる淺倉屋・吉田文夫氏の話も番組で取り上げられ、ギメの日本美に対する探求心のようなものまで掘り下げていた。
  今回のNHKのこの番組は著名な写真家が仏にあるギメの美術館、生家を訪れるのだが、あまり番組の内容や私の感動体験をリードしてくるものではなかったので、敢えてお名前は記さなかった。実際、ギメが訪れたあろう日本国内の地を番組の為に巡られた日仏外交研究家クリスチャン・ポラック氏は温厚、静寂感、ゆったりと喋る日本語は十分受け入れられるものであった。
  最後に、ギメが気にいった武者絵師の河鍋暁斎にモデルになってくれと依頼し、同行した画家・レガメが河鍋像を描き始めたところ、河鍋もじっとしながら暇だったので、筆でささっとレガメ像を描き上げてしまったという笑い話みたいなことも番組で取り上げて、私はその部分が一番印象的であった。ギメに同行した画家・レガメの描く河鍋は銅板エッチングのような細い線の集合体として硬く感じたが、河鍋の日本美は、非常に速く走らせる一本の筆で描く墨の濃淡、筆の力具合で変わる太さの集合体からなる人物像であった。

  追記、東京ステーションギャラリーで2020年11月28日から2月7日まで開催されている「河鍋暁斎の底力」展を1月27日にに偶々知る。是非2月に入って訪れてみたいと思う。1月30日記す。

意外な自分自身の経験

先日(2020年9月初旬)、CATVのローカル番組で2007年に放送された関東大震災の横浜での記録が再放送されていた。震源地は相模湾だったが大都市東京の悲惨さばかりが後年報道されて、震源に近い横浜の災害状況がどうだったのか報道されていることは極めて少なかった。
私は今67歳、横浜生まれ、父も大正10年の横浜生まれで、関東大震災の2年前だった。この番組を見て、父が生まれた中区長者町(伊勢佐木町の近く、私の出生本籍地も)が壊滅的な被害を受けたことを白黒の映像から知ってぞっとした。
都内でも火災で10万人以上の死者があり、横浜でも同様に火災で多くの死者が出て、2歳の父がその焦げた瓦礫の下になってしまったと想像すると、、、、<今の私の独り言は幽霊詞になってしまう>
父が生き延び、その小さな父を守ったくれた祖父も昭和20年に63歳で戦死ではなく病死したそうである。父が6年後に結婚し、昭和28年に私が横浜の生麦で生まれ、横浜出身として、世間に言いふらすようになった。

ここからが自分の経験とは何か、少し考えてみたい。
実際、私が横浜で暮らしたのは、7年と5か月と短い。小学校1年の途中で同じ神奈川県の小1時間かかる農家がまだ牛を農耕に使っていた他地域へ、普通の工場の勤め人だったオヤジが家を建てたので引っ越した。しかしこの短い横浜と言う経験が私を育ててくれたと思う。

経験は実体験と後で学んだ歴史的事実が加わった今でいうバーチャル経験であってもいい、想像すると人の経験はこの類である。。
それは関東大震災の番組の中で、ある老人(87歳、震災時父と同じ2歳)があたかも自分が被災した事、町の様子、例えば木造のxx橋が崩れる前に山の手側(今の元町の高台)に逃げ延びられたことを説明されていた。非常に生々しい内容だが、TVのテロップでは当時大きかったお兄様より後年お聞きになった話がベースとされたとあり、それらを自分の体験に転嫁されたようである。これがバーチャルであって、自分の小さい頃の横浜の経験も同じだと思ったのである。

本当に当時小さな私が意識し記憶している体験を列挙し、それらが後の学習によって正しいのであるが加飾された例(*印がある行の説明)を幾つか上げる。

鶴見区生麦に生まれた私は、家族で2両で繋がった電車(京浜急行)に乗って出かけた。
*生麦が、薩摩藩士が幕末、英国人を切りつけた歴史的場所などと当時知る由もない。歴史書

二年保育の幼稚園に通ったが、そこは家族経営の幼稚園で園長先生が二階に住んでおり、時々朝、園長先生を呼びに行かされた。
*その幼稚園は、後プロレスラーになった猪木選手の実家で、ブラジル移住後はお兄さんが残り経営した。当時猪木選手は中学生だったらしいが、小さな私は見かけたこともなかった。親の話

横浜の大桟橋でよく遊んだ。
*写真好きだった父が残してくれた桟橋で撮った兄との兄弟写真があり、それを見て桟橋によく行ったと記憶している。

よく覚えている叔母さん(父の姉)の家に行った時に頼んでくれて美味しかった店屋もののトロミのある中華そば。
*家は南京町(当時は中華街とは呼ばれていない)の近くにあり、中華麺は横浜で有名な生碼麺。「さんまーめん
という発音は記憶している。

その叔母さんの家に行くには電車で生麦から横浜駅へ、そこで乗り換えるのだが、路面電車(市電)とバスがあった。
*バスは野庭口行の市バスと上大岡を経て鎌倉街道をゆく大船行のオレンジ色の鎌倉急行があって、いつもバスに乗せられた。

父からよく聞いた話、父が山下公園で遊んだこと、海辺なので鮭の切り身を餌にカニを釣ったこと。
*山下公園は関東大震災の瓦礫で浅瀬を埋め立てて出来た公園(昭和五年)であることを後年知る。歴史書

これらの学習した横浜は後で学んだことが加わって自分の体験として身についた。よく考えるとそれはバーチャルで加飾された体験である。皆さんの小さい頃の体験・経験を振り返ってみては如何ですか。

45年前の万葉の旅と令和


令和元年5月の連休明けに始まった築30年の我が家のリフォーム工事の為に数か月前より、家の中の断捨離を子供達に急(せ)かされながらやった。ちょうど5月17日の朝、断捨離を済ませ生き残った古本が綺麗に並べられて、ベットの横の本棚の奥の右側に、万葉の旅(上、下、現代教養文庫・社会思想社;1972年)が見えた。そうだな、理系の学生の私だったが、学生時代、時間があるとこの万葉の旅で詠われている万葉歌の故地を尋ねるのを趣味としていた。学生時代の講義では故江藤淳先生のレポートで悲劇の大津皇子や二上山を題材にした時もこの万葉の旅にお世話になった。

前置きよりも、私はとっさに、下巻を掴み見出しをパラパラと送り、キーワード;大宰府を探してしまった。大宰府には(一)(二)があって、見出しの(二)の前のP126に“梅花の宴”が纏められており、約45年前に手にした本には、こう書かれていた。

梅花の歌三二首と中国詩文を模倣駆使した美文の序とが巻五に所収されている。

序の一節に「時に初春の令月、気淑く風和ぎ、梅は鏡前の粉を披き・・・」

この一節が新年号・令和の由縁とされたもので、世間で騒がれている大先生以上の著者の犬養孝氏は既に昭和39年9月にあとがきを記している。

残念だが、当時九州旅行では他の万葉歌が歌われている地区を旅してしまった。大宰府は超有名どころで、当時は徒歩でしか行けないような鄙びた別な所を探し回った。本の見出しに鉛筆でチェックした跡が残されている所を旅したのだなと記憶を戻した。学生時代という短い期間ではあったが、本で見たり、実際に訪れ、8世紀ごろ以前の日本の国の広さ(文化、支配圏)が、万葉歌が詠われている最北端地、最南端地で理解できるのではないかと思い、訪ねてみた。

最北は東北線の小牛田近くの黄金神社(当時金が採れたという)で、せいぜい宮城県多賀城遺跡の少し北であり、最南は鹿児島県阿久根市の薩摩の追門(黒の瀬戸、鳴門の渦潮みたいな流)である。黄金神社は雪降る大学3年生の2月ごろ訪れ、当時は本当に普通の神社で私の他に誰も訪れている人はなかった。薩摩の追門は少し暖かい時期に尋ね、確か国鉄の阿久根の次の折口駅から徒歩で往復した。いわゆる天草の入り組んだ瀬の一つで、古代当時は隼人が中心だった地域である。歩いて腹が減ったので確か駅前の小さなラーメン屋で麺を注文したら、ちゃんぽん麺みたいな汁と麺が出され、おばさん一人でやっている店で味わった。阿久根へは薩摩半島の長崎鼻を訪れ、西鹿児島経由で来た。当時の国鉄の列車に乗っていて非常に脳裏に焼きついている事は、北九州辺りの方言は分かるのだが、熊本を過ぎもっと南の地域では乗り込んできた老婆の九州弁は若い学生にとってイントネーションがベトナムかアジア南部の方が話している様だった。

この万葉の旅は上、中、下の3冊あるのだが、今は(中)が迷子で見当たらない。(上)にはメッカの大和地域で詠われた万葉歌が多く紹介され、詳細に分類されている。付け足しだがこの(上)を参考にして、学生当時(1976年頃)、友人の父親が単身赴任で住んでおられた奈良西大寺近くの官舎を根城にさせて頂き、大和三山、山の辺の道などを、友人と供に歩いて味わった。色彩豊かな壁画が描かれた高松塚古墳が1972年に発見された4年後であるが、当時は見学者を受け入れる状況にはなっていなかったと思う。

九州の旅は鹿児島大であった学会の後の一人旅だったが、今振り返ると昭和の帝が、約13年後に身罷われ、更に30年後に現上皇が自ら退位の意を表され、普通は深い悲しみの中で新年号を受け入れるのであるが、この令和の新年号はどちらかというと慶事の雰囲気漂う中で待ち望んだ。予期もせず、こういう初めての、心の持ちように万葉歌がしてくれたと想いたい。

岡本太郎 2

平成30年4月9日、自宅で仕事部屋兼ジャンクルームの断舎利をしていたらこの独り言をプリントアウトした紙片(前月号の独り言)が出て来た。読み返すと平成17年記すとあり、文末で、しばらくして岡本太郎に会いに行ってみようと呟いていた。その呟きから約13年も知らずに過ぎてしまった。

最近、旧大阪万博跡にある太陽の塔がリニューアルされて、再び多くの訪問者の眼を楽しませているというニュースを聞いたが、しばらくすると来場者数は期待していたほどではないという、追いかけのニュースを聞くと現代人には太郎の想いの念力も効かなくなっている時代に変わっているのかとも、少し寂しい。

また、別なことも頭に沸いてきた。岡本太郎と知の関係を呟くのに関係なさそうであるが、ある出版社の記者との逸話をまだ口外していなかったのか定かでないが、お話ししよう。私が昭和の時代53-60年頃、電気会社に勤めていた若い頃(24-32才)に、ある先輩がいて、両親が文筆家とお聞きしていていた。先輩が米国へ転職し、私もその後転職し、消息を聞くこともなく十数年が過ぎて、その先輩が帰国され再会できた。先輩との雑談の中で、“俺の父が若いとき岡本太郎の原稿取りをしていて”、よく自宅(おそらく青山にあった頃)押しかけたそうで、酒が好きな岡本太郎を新橋界隈からご自宅までお供したような関係だったそうである。こんな話では太郎の知的挑戦に係わる呟きに繋がらないが、私にとって、偶然再会した先輩のお父様を介して岡本太郎の人となりを知って非常に身近になったことは、知識・情報が積み重なりある種の構造化した成果と言える。

さらに、記憶をたどると、東京都庁が高層化し西新宿へ移転する前(1985-90年頃)に、今の有楽町国際フォーラム辺りに旧都庁舎があり、取り壊す前に一般の都民が立ち入れる建物のある処に太郎の作品がオブジェとしてあり、そこを見学したことを思い出した。

さらに、続く時は続くもので、平成30年4月の中旬(正確にいうと、紙片を見いだした9日から1週間後の16日)、出けた先のあるカフェ風のお店でお客用に本棚があり、古本が置いてあった。般若心経・・・という見出しに引かれ、直ぐさまその古本を手に取った。著者は大城立裕氏、発行は1981年、正確な著名は般若心経入門である。

なぜ、般若心経のタイトルに惹かれたかという理由も述べなければならないが、最近インド仏教の経典の梵語・サンスクリット語を古代中国が漢字化した時代の経緯を知り、音写と意訳の2通りで訳された語彙が、後年日本へも輸入され、多くのところにサンスクリット語をベースにした語彙が、それとは知らずに我々は日本語として使ってしまっていることを知ったのであった。例えば知に関するもので、知恵があるが、本来は智慧という仏教用語をベースにしているという。

さらに表紙をめくると、おっと、なんと岡本太郎の推薦文がお出ましになったのである。沖縄の大城氏と岡本太郎には交流があり、初めは大城氏も太郎の母、岡本かの子氏との接点があり、太郎と知り合うようになったと本文に紹介されていた。私の最初の川崎・二子での出会い(現高津区二子は岡本かの子の実家大貫家があった)と似ている。

太郎の言葉は以下のように吐かれていた。

色即是空、空即是色、強烈な世界観だ。 しかしこれをただ頭で考え、言葉で受けとめるだけでは、大した意味はない。生活の中に生かさなければ。大城立裕は自らの戦争体験を重ねあわせ、これを噛みくだく。 私はかつて沖縄に行き、島々の清らかな気韻、透明感、その凄みに打たれて「沖縄文化論」を書いた。沖縄には無の豊かさ、存在の原点で生きている充実感がある。だから沖縄の人、大城君がこの般若心経にぶつかって感動したのは自然である。 現代人は無のなかでナマ身で生きる、無即有の生命の自在さを失ってしまっている。豊饒な空の世界にこそ目をひらいてほしい。

出張先のカフェでこんな形で、13年後の再会になろうとは微塵にも思わなかった。13年前の本意は生田にある美術館にまた訪れたいという軽い気持ちだった。また、“無”に関する呟きにも少し腑に落ちたのであった。無と空とは完全には一致しないが、般若心経の色即是空は物の因果関係性から説いたもので、物が無いのではなく、例えば食物連鎖を考えると、最初の植物性プランクトン→動物性プランクトンがいないと、連鎖の最上位にいる人は生きていけない、存在できない。このような因縁・因果の関係性が世の中には沢山あり、人の営みを支えてくれていることを教えてくれている。岡本太郎の豊饒な空の世界はなんと素晴らしい。人は手にとって確認可能な物質的な言葉と、人が考えたり、想像したり、抽象的概念を示す言葉とを創造しそれらの因果関係を、自らを豊かにしていると思わせてくれた。

平成30年4月25日(水)、仕事で出かけた横浜からの帰り道で東横線を久々に利用し田園調布の“太陽の塔”を再確認しようと決めた。何しろ数十年前の古い事なので、私の勝手な思い込みで、その塔が有るのか無いのか、建造物自体が残っているのか心配したが、正に残っており、“鎮座”していた。通り過ぎる電車の中から観察すると、それは屋根の千木みたいな位置にある大きな丸い飾り物のように見えた。後で調べると、それは世界真光文明教団の建物と分かった。遠目に“太陽の塔”と信じ見えたものは、その宗教団体の星をモチーフにしたシンボルであった。

大阪に行く機会は無いわけではないので、川崎・生田の山でなく大阪万博跡のリニューアルされた太郎と本当の再会をしてみたいとも想っている。5月1日この原稿に終止符を打とうとしている時、大城氏が1967年沖縄初の芥川賞を受賞されていたことを知り、なんと私の無知を曝け出すことか。

今年2016年は夏目漱石没後100周年

平成28年5月7日、連休も終わろうとしている今日であるが、何気なく収納棚の奥に押し込まれている資料を取り出すと、これが以前青空文庫からプリントした寺田寅彦が記した“夏目漱石先生の追憶”だった。偶然であった。

文は長くもなく読み返すと、この追憶は寅彦が昭和7年12月に著したものであることが分かる。それはちょうど漱石が没してから16年後の事であった。今年から下がると84年も前のことになる。若い時に慕っていた師の没後16年になってから、著した追憶ということになる。おりしも、漱石が五高に英語の教師として松山から赴任してきた熊本である。先月震災にあい未だ余震がついているのも何かの縁と思うが、後年地震学者となった寺田寅彦が生徒としていて、熊本白川(藤崎神社近く)の漱石宅を訪れるところからこの追憶が始まっている。漱石夫妻は引越し好きで、この寅彦がある理由で伺うことになった家は五番目の内坪井の家に当たるそうである。

正岡子規、俳句の話や漱石の作品に登場してくる役が漱石の周辺でいる知り合いであるという話題は別にして、再読して是非ご紹介したいことを示す。

寅彦は、漱石先生が“文学の科学的研究方法”という大きなテーマを持っていたと想像していること、

寅彦は、漱石先生から、“自然の美しさを自分自身の目で発見する事、人間の心の中で真なるものと偽なるものとを見分け、真なるものを愛し偽なるものを憎むべき事”を教えられたとある。

記念展示会なども企画されている。ご参考までに。

http://www.kanabun.or.jp/exhibition/4344/

 

吉田長次郎氏との再会

もう1か年が過ぎてしまって、HPにアップする時期をなぜだか逸してしまっていた下記の話をご紹介したい。

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平成26年8月月末、自宅に突然のお電話頂いた。
お宅様のHPを拝見しました。
<あのー>、失礼ですが、吉田長次郎の娘です。
家族でも、寺田寅彦と父親が何か親交があったとは知っていますが、
詳しいことは分かりませんでした。父は約40年前に亡くなっています。
最近、ネットで検索したところ私(egami)のHPに書かれているのを見て、
ご家族も吃驚したというような内容でした。

吉田長次郎氏は寺田寅彦の随筆には無く、没後まとめられた書簡集に何か所か
お名前が出てくる程度の氏であると理解していた。詳しくは私のアーカイブを参考にして頂きたい。

http://e-bbb333.com/tripleB/archives/766

http://e-bbb333.com/tripleB/archives/495

なぜ私が長次郎氏に興味を持ったのかは、寅彦が昭和10年、年の瀬が迫った12月に病死するのであるが、
病床にいても、さらに代筆を頼んでまでもして、最期の手紙を送った受け取り主だったからである。
それは、病死した昭和10年の3月ごろに、長次郎氏が寅彦へ(正岡)子規30年記念号を贈った、返礼の
手紙であった。

私も電話先の娘さんへHPに書いた内容も見もせずに、頭の中に焼き付けられてる
これこれ、云々の理由、背景を話させて頂いた。
ふと考えると、家族が知っている親の世界と家族が知らない親の世界があって、
家族が知らない世界が現代の魔法のツール、インターネットのHP,ブログで
父親の死後40年を経て知ったという稀有なストーリになってしまった。

娘さん、西山展子さん(81歳)がまとめられた冊子・楽天に詳しく長次郎氏の生き様が
まとめられているが、これらは私がこれまで知らなかった一市民、長次郎氏の一生であった。
人は生を受けたからには、普通両親の出身地や親の仕事の関係でどこそこに
住み始め、そこが人生のスタートとなる。

長次郎氏も四国の多度津で命を受け、母親方の出身が松山で、松山が生活の基盤となったようだ。
長次郎氏は東京帝大を卒業し、文学、美術・絵画を得意とし、松山の学校で
教師を勤めたそうである。時代も時代、そんな環境で、夏目漱石の教え子の寺田寅彦、
若くして没した正岡子規の俳句を通して、人が人を誘い、切磋琢磨していたことが分かる。
残念かな、漱石の俳句、寅彦の俳句はそれほどでもなかった様だ。
吉田長次郎氏は、ホトトギスの会員で、吉田橙子(とうこ)と名乗って
俳句など文学活動をしていたそうである。

西山様の冊子・楽天には、父親長次郎氏が旧制高校の後に愛媛大となり、愛媛大で教鞭をとっている
最中に、西山様も学生として愛媛大に学び、学友の先生が長次郎氏であり、また自分の父親である
板挟みの環境にご苦労された事も書かれている。

長次郎氏は、退官後は東京に居を移し、暮らして、今から40年ほど前に80歳で旅立たれ、
正岡子規の倍以上、50台後半で去った寅彦、49才で去った漱石より充実した
人生を送られたに違いないと信じている。娘さんが、きちんと冊子・楽天を残されているからである。

最近話題の村岡花子も、子・孫が親・祖母を振り返り、親が生きた時代よりも、
死して現代に知らせしめた様なもので、私も村岡花子は知らなかった。

親が死して、その後、親の人智の及ばないで世界で子が親の生きざまをまとめ上げる。
そんな境遇には私は決してならないとは思うが、長次郎氏の娘さん、西山展子さんは
それを実行している。その努力に敬服したい。晩年の長次郎氏のお写真も頂きました。

合掌

2013 New Year

皆様

2013年、平成25年巳年も恙なく、穏やかに新年を迎えることが出来ました。あまり、過ぎ去った昨年を振り返ることなく、新年の歩みを確実に進めて行きたいと思います。

近在の八幡様へ初詣に行き、神社暦を頂いたところ、新暦・旧暦が合せて記載されておりました。旧暦の正月は新暦の2月10日です、という事は新暦の正月は旧暦でまだ11月20日と有ります。暦の定め具合によって正月を祝う気持ちは変わりませんが、世間の風習は旧暦起源で行われ、季節感を堪能出来ます。東アジア起源と思われる旧暦の行事は我々が農耕民族であったことの証である収穫を確実にする(生きて行く為に必要な糧を得る)季節毎に行うべき活動が集約されているものです。これらは伝統的なインベーションであることに間違いありません。

今年は私自身巳年の還暦となり、神社でお目にかかった近在の方も同じ干支との事、年齢的には2周り上の親の世代の方でした。そういえば、祖母も巳年、親の更に2周り上の世代でした。80代で亡くなりましたが、存命であれば108歳。先日、日本の115歳の男性の方が世界一の長寿だとニュースで報道されていましたが、人の運命によっては、まだまだ暦上で歩みを進め、干支も廻り続けておられます。

IT社会になったと言えども、”社会的収穫”を確実にする”IT暦”や節目毎の行動を示唆する”IT風習”は未だ我々自身で提案出来ておらず、身に付いたとも言えない状況です。いつか近い将来、そんなITイノベーションがオープンに共有出来る時代が来るはずです。

2013年元旦初夢前に、夢を語る。

とけい

現代人には、頭の中には概念として、旧暦(太陰暦)と今我々がお世話になっている新暦・太陽暦があることを知っている。しかし、人が年間の四季を通じて、肌身で感じる日常の生活では、12か月制の太陽暦と季節感や二十四節気との間に、実は乖離があることを感じている。

先日知り合いが、twitterで日の出から日の入りまでの時間帯を6等分する不定時法について呟かれていて、昼の八つ時に間食をしたのが“おやつ”の語源だと教えてくれた。そんなきっかけで、毎度の通り部屋の隅に積み上げてある古本の中に、確か古い時刻制度のことを書いたものがあるはずだと探し出した。それは、“日本の時刻制度”橋本万平著(塙書房;昭和41年9月20日発行)である。

地軸が傾いているので、地球上の何処に住んでいても、季節によって昼夜の長さが刻々と変わるという生活は避けられないので、便宜上不定時法が浸透したのだと思っている。今、我々は時間を計る仕組みやその機械装置のことを“とけい”と呼んでいるが、古くは水が滴る量をもとに時を見ていたので、それは漏刻(水時計)と呼ばれていた。手元の古本には陽とともに暮して来た人の習慣で、昼間の明るさ(猫時計;猫の目の瞳の細さを便宜的に利用)や棒を立てて、その蔭の長さから時を知る方法が浸透している事も説明されている。その棒は長さが2尺又は4尺あって、蔭の長さや方向で冬至の日まできちんと読みとっていて、“土圭”と呼ばれていたそうだ。それが今の時計という言葉に変化したようだ。

現代最新物理では、重力によって時の刻みも影響を受けてしまう事(アインシュタインの理論)や人知を遥かに超えた精度を持つ時間の計測方法が確立されてはいるが、所詮我々の生活は一息や一歩という尺度ですむ事が多く、農耕は太陽と季節、漁師は潮の流れ・満ち引きを正確に理解する事で、糧を失わぬよう叡智を凝らしてきた。所謂、腹時計の方が有用な時もあることを忘れてはいけないようだ。

偶々、同じような時に、twitterで2013年の新年が“新暦”の1月23日に始まる13カ月制の旧暦をベースにした手帳なども販売されていること(ルナワークス)も学んだ。有難い仕組みである。旧暦手帳を買いに行こうと思う。

http://www.lunaworks.jp/kyureki_diary/diary1.html

お八つ

平成24年10月16日の知り合いの方のtweet。

「六つ」というと午前の6時ころか、18時ころかが分からないので、午前は「明け六つ」で、午後は「暮れ六つ」と言った。室町ころから日の出から日の入りを6等分する不定時法が定着した。ひるの「八つ」はだいたい14時ころで、その頃間食をしたので「おやつ」というのだそうだ。

https://twitter.com/sabo0509

今風にいうと“おやつ”は大体午後3時ごろに、腹が減って来た頃に口にする、お菓子みたいな食べ物のこと。

横浜生まれで、その後神奈川県の中部、茅ケ崎で育った私の記憶では、友人の実家(大農家)ではおやつを“おこじゅ“と呼んでいた。それはネットなどがない昭和40年前後の頃の話。今、ネットを紐解くと、”おこじゅー“は神奈川や多摩地域の”おやつ“のことの方言と説明されている。

さて、知り合いのtweetでは旧暦の時間の分割の仕方が西洋風とは異なり、日本では不定時方法によると、昼の八つは今の午後2時ごろになるそうだが、今は定時の午後3時ごろに口にするちょっとした食べ物が“おやつ”になってしまっている。

さらに続けると、今我々は1日に三食食事を取っているが、その昔は日本も西洋も朝、夕の二食だったと聞いている。そんなことで、身体を使う仕事をしている人が殆んどだった昔はちょうど腹が減る頃に何かを食したいことになる。所謂、おやつ・間食で、恐らくそれが昼食(ランチ)となり、三食制へと変わっていたのではないかと推測出来るのである。

現代人は、朝、昼、晩と三食も食らう人種となってしまっても、さらにおやつと称して午後3時ごろ何かお菓子みたいなものをしっかり食べるようになってしまっている。昼食を食べることが本来の“おやつ“とするとそれで十分なはずである。

アインシュタインとE=mc2

寺田寅彦が大正10年10月に発表した“アインシュタイン”の中に、以下のように書かれているところがある。

ある対談でアインシュタインが次のように述べたそうである。「蒸気機関が発明されなかったら人間はもう少し幸福だったろう。」。また他の人と石炭のエネルギーの問題を論じている中に、「仮りに同一量の石炭から得られるエネルギーがずっと増したとすれば、現在より多数の人間が生存し得られるかもしれないが、そうなったとした場合に、それがために人類の幸福が増すかどうかそれは疑問である」と云ったとある。

という事は、アインシュタインが、蒸気機関が発明されて人類が幸福から遠のいたと考えていた。化学反応の石炭の酸化燃焼反応で得られるエネルギーよりもっと莫大なエネルギーを取りだせる方策をも考えていたのではないか。それで、より沢山のエネルギーを得ることで、人の幸福が更に遠のいていくと考えていたのだろうかと、今日、自問してしまった。

当時既に、アインシュタインのエネルギーと質量の関係、E=mc2という事は理解されており、人類は後年、核分裂反応の僅かな質量減少から、莫大なエネルギーを取ることに成功し、不幸な利用(爆弾)や平和利用(発電)という蔭で放射能汚染まで実体験してしまった。そんな事まで、当時のアインシュタインが考えていたとは思いたくないが。

引用;青空文庫

http://www.aozora.gr.jp/cards/000042/files/43074_23773.html

Eはエネルギー、mは質量、cは光の速度。