一昨年、令和四年は鉄道開業150周年記念だそうである。現桜木町と汐留新橋間を所謂蒸気機関車が初めて営業開始をした。当時は横浜と呼ばれて、小さな漁村だった所が日本の開国とともに近代化へ突っ走った拠点となり、色々な出来事の一つとして、メモリーである。現在の横浜は神奈川と呼ばれていた線路が左折する前の地域へ移り、旧横浜の漁村は大桟橋を始め、レインボーブリッジなど巨大な港のインフラ整備がされ、隣接した大企業の跡地が再開発されてみなとみらい地区と変貌してしまった。<私は令和六年から約七十年遡って、七十/百五十年を断片的には観てきた事を示してみる。>
私は横浜生まれで、母方は埼玉、父方の家系は新潟出の祖父を持ち、両親は横浜の出であり、親類も南京町、伊勢佐木町、蒔田町界隈に多かった。私はてっちゃんでもなく撮り鉄でもないが、初の鉄道乗りの記憶は鶴見から大宮まで(母方の実家が埼玉県北足立郡にあり、大宮でバスに乗り換えた)の汚れた小豆色をした省線くずれの京浜東北線であった。約百五十年前は、歴史的には江戸時代の終焉から明治維新への日本にとって、大変革のスタートから暫く時が過ぎている。自分の生きてきた世界で、江戸時代の人を実体験的に聞いたのは家内の母(九十六歳)が小さい時、義母の祖父が一緒に暮らしていたそうで、爺やんは江戸時代生れだと以前、口にしていたのが、唯一私の江戸時代である。自分の家系では男親系は短命で、精々私の二人の祖父までの話で、遡って明治中期、百三十年前位で止まってしまう。私の旧姓の祖父は新潟県(明治初期の人口は日本で一番であった)の出で三男、親元を離れ、当時どのルートを歩いたのかは定かでないが、日本では正確で立派な戸籍が残っており、旧中仙道筋を通って東京を目指し、途中の埼玉の戸田の在の女性を伴侶とし(現在戸田の美女木にの寺に墓がある)、大正時代の始めに東京巣鴨で叔母さんが生まれたことが記録に残っている。現在の大塚の近くであり、更に東京を越えて横浜、桜木町近くの伊勢佐木町・長者町辺りに住み始めたようだ。そこで実父がうまれ、私の本籍も生を受けた時はそこであった。
私は鶴見区の生麦で生れ、近くに生麦駅(京急線)があり、並行して国鉄の踏切があり、そこを初の特急こだまが通過したのを見た記憶がある。当時私は学校に入学前の幼稚園生だったが、なぜだか家に小さな時刻表があり、よく時刻表で遊んだ記憶と書かれた地名の漢字を読んで入学前に結構漢字を理解していた。その後の出来事、生麦の家は社宅で茅ヶ崎に小さな一戸建てを父が建てる計画を進めており、横浜から茅ヶ崎まで東海道線で行く必要があり、ポケット時刻表があったわけであった。鉄道開通百五十周年といわれても、、、インターネットなど無かった時代の時刻表の利便性、楽しさに触れなければならない。それは遊びであり、どこか出かけたつもで(今でいうバーチャルみたいな世界)時刻表の鉄道(私の学生時代までは電車と蒸気機関車が混在していた)と拠点の駅で乗り換えが出来る民間バスの時刻表も豊富であった事を覚えている。さて、どういったバーチャル体験が出来るかを説明すると、特急・急行・準急列車が豊富で、更に新幹線など無い時代には夜行列車も豊富で、学生時代にはお世話になったが、幼少期の頃でもレ点(列車の通過駅)が気に入り、レ点がずっと続いていると、それは特急だと嬉しさが顔に出る。普通列車・急行が停車する駅、例えば、2330/2347 2342/2345 と普通が2330に着いて、続いて急行が2342に到着し、3分後の2345に出発したのち、更に2分後の2347に普通列車が出ていくという二つの列車が停車する駅だという事が分かる。夜行急行でも時間調整で400/430 と早朝に30分も止まるケースもあり、面白さが小さな少年に醸し出てくるのだ。
小1の秋に茅ヶ崎へ引っ越して、小・中学校の生活が始まったが、当時は余り長距離の鉄道を乗る機会など無かった。両親、その先の祖父母の出自を紹介したが、皆近くにいて、西日本、東北・北海道なども縁が無かった。父方の祖母が当時昭和の初め42-3才で病死して、祖母の実家に近くの寺に墓を設け、浦和の在で茅葺の農家の家が残っており、小さい時の記憶では横浜の町中から、場違いの東北のどこぞの村へお邪魔したような雰囲気が残る田園で、今では埼京線と東北新幹線が並行し、スピードアップして走る荒川の川向こうの埼玉県戸田の美女木辺りの事である。精々、中学の修学旅行で京都方面へ日の出号で往復した事だけで、新幹線は利用できなかった。高校へ入学しても、長距離鉄道チャンスを逃した。ひと学年で四百名以上もいたので、確か山陰・山陽、四国と分散の修学旅行プランだったが、ある事情で学年で数名行けなくなった。ある事情とはクラブ活動で県大会まで勝ち残ったというか、辛うじて生き残ったので、修学旅行の方を諦めたのである。
1972年に大学に入って、漸く私の第二の鉄道利用期となる。個人的な旅行と運動クラブの合宿旅行、そして研究室へ入ってからの地方の学会参加の三つのカテゴリー。神奈川県から都内の大学へ進学し、国鉄と私鉄を乗り換えて通学は可能であったが、クラブとアルバイトで忙しく、アパートに一人住まいとなった。入学して半年ぐらい経ってからである。今考えるとこれが私が実家との縁切りになった時期である。
その後二十歳から、一挙に四十六~七年間の鉄道や航空機の経験は割愛し、最近のイベントと鉄道開業時の努力につぃて触れる。山手線に新駅誕生という事で名称募集があり、私は高輪シーサイドで応募したが、高輪ゲートウェイで決定。暫くして新駅を見学し、なんとこの新駅脇で、横浜―新橋開業時の盛土遺跡(鉄道を通す場所が無く、やむなく当時海側に盛土をして、そこに走らせた)が発見されたそうで、其処も見学できた。そこの少し陸側がちょうど今の国道一号線で、正月の三日の昼頃で箱根駅伝の常勝校A学院を追って、K大学が差をつめていた日であった。