私は結婚後、家内の実家がある北区田端に住み始めた。私の年代・世代(昭和28年の巳年)では大学受験前は所謂大学封鎖や安田講堂封鎖等々の学生運動が血気盛んな状況で、そんな中でも、誰も文学青年ではないのだが、私も理系を目指していた一高校生ではあったが、坂口安吾、井伏鱒二、太宰治、織田作之助や教科書に出てくる作家の森鴎外・夏目漱石・正岡子規・寺田寅彦・芥川龍之介などの名を上げられる程度のちっぽけなものであった。大学入学後、江藤淳に少しはまったが、それは文士というより、当時古墳や遺跡発掘が漸く始まって、古代史や萬葉集の方に私の興味は向きかけたのは20代前半の事であった。
さて、これから田端<芸術村>文士村に関連する私から見た小さな発見や意外なことについて、飛び飛びになってしまう時系列的な出来事について呟きたい。
田端文士村なんてあったのか、を世に知らしめたのはJR田端駅前に田端文士村記念館が再開発プロジェクト事業の一つとして建設されてからの事、1993年11月(平成5年)。私が田端に移り住んでから15年が過ぎていた。当時は私の長男が通い始めた地元の中学校の校歌が文士村の一員室生犀星によって書かれたものであることだけはよく知っていた。また文化勲章の栄誉に称えられた、陶芸家の板谷波山や 柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺 の句を詠んだ正岡子規のお墓がある大龍寺は自宅前の道を挟んだ至近距離にあったのだ。
芸術関係の方々は上野にある今の東京芸大の関係者がひとりふたりと芸大までの地の利が良いという理由で移り住むようになって、芥川龍之介の3歳年上で1889年生の室生犀星は北原白秋を慕い、石川県の同郷の高等小学校で一緒だった芸術家吉田三郎<板谷波山の弟子>を頼って1917年(大正6年)に田端の借家に、大学入学前という年齢は若いのだが芥川龍之介は家族とともに1914年(大正3年)下町から山の手の地に移り住んで来た。また芥川は板谷波山の友人で鋳金家の香取秀真と関わり、初期の頃は陶芸家の板谷波山が中心であったことが分かった。
注;田端文士村のHPには芸術家・文士が誰の勧めで田端に移り住むことになった背景説明まで記されていて、貴重な情報となっている。例として板谷波山の勧めで、益子焼の名を世に広く知らしめた濱田庄司(民藝運動を推進)も 昭和3年から暫く田端495番地にいた。
田端文士村記念館のHP情報も年とともに充実してきているようで、最近勉強させられたことは、昭和9年に上京し田端608番地にいた五味保義は島木赤彦・土屋文明に師事し、その後戦後のアララギ誌の発行責任者となった歌人。
ここからが8月号の独り事の本題です。前述の通り、充実してきた文士村HPによると、初代講談社の社主・野間氏の名が文士村文士のメンバーとして、野間氏の略歴が記され、田端に別邸を構えていたとあり、当時の社名は大日本雄辯会講談社、その中核として雑誌雄辯の編集長として抜擢されたのが・やなせ清さん・やなせたかし(アンパンマンで有名な漫画家)の父であった。最近講談社で柳瀬清さんに関する資料が見つかり、講談社の資料センターの公表物を参照させて頂いている。清さんは1921年4月まで、雑誌雄辯の編集長として在籍し、その後清は東京朝日新聞社に引き抜かれて転職し、比較的直ぐに中国へ記者として、家族と共に赴任したとされている。
確かに初代社主の野間氏は田端に別邸を構えていたので田端文士村の一員で、雑誌雄辯の凄腕編集長として活躍した柳瀬清の一家は東京府北豊島郡滝野川町の借家住まいと言う事迄判明した。その滝野川町には大字が複数あって<滝野川、西ヶ原、中里、上中里等々>、その一つが田端、残念かな、その借家の正確な大字は不明で田端でなかったようだ。清も文で立ち文を極めたいという志はあったようだが、それが実を結ぶ前に赴任先で、病で急逝してしまった。33歳であったそうだ。