私の百五十年

 一昨年、令和四年は鉄道開業150周年記念だそうである。現桜木町と汐留新橋間を所謂蒸気機関車が初めて営業開始をした。当時は横浜と呼ばれて、小さな漁村だった所が日本の開国とともに近代化へ突っ走った拠点となり、色々な出来事の一つとして、メモリーである。現在の横浜は神奈川と呼ばれていた線路が左折する前の地域へ移り、旧横浜の漁村は大桟橋を始め、レインボーブリッジなど巨大な港のインフラ整備がされ、隣接した大企業の跡地が再開発されてみなとみらい地区と変貌してしまった。<私は令和六年から約七十年遡って、七十/百五十年を断片的には観てきた事を示してみる。>

 私は横浜生まれで、母方は埼玉、父方の家系は新潟出の祖父を持ち、両親は横浜の出であり、親類も南京町、伊勢佐木町、蒔田町界隈に多かった。私はてっちゃんでもなく撮り鉄でもないが、初の鉄道乗りの記憶は鶴見から大宮まで(母方の実家が埼玉県北足立郡にあり、大宮でバスに乗り換えた)の汚れた小豆色をした省線くずれの京浜東北線であった。約百五十年前は、歴史的には江戸時代の終焉から明治維新への日本にとって、大変革のスタートから暫く時が過ぎている。自分の生きてきた世界で、江戸時代の人を実体験的に聞いたのは家内の母(九十六歳)が小さい時、義母の祖父が一緒に暮らしていたそうで、爺やんは江戸時代生れだと以前、口にしていたのが、唯一私の江戸時代である。自分の家系では男親系は短命で、精々私の二人の祖父までの話で、遡って明治中期、百三十年前位で止まってしまう。私の旧姓の祖父は新潟県(明治初期の人口は日本で一番であった)の出で三男、親元を離れ、当時どのルートを歩いたのかは定かでないが、日本では正確で立派な戸籍が残っており、旧中仙道筋を通って東京を目指し、途中の埼玉の戸田の在の女性を伴侶とし(現在戸田の美女木にの寺に墓がある)、大正時代の始めに東京巣鴨で叔母さんが生まれたことが記録に残っている。現在の大塚の近くであり、更に東京を越えて横浜、桜木町近くの伊勢佐木町・長者町辺りに住み始めたようだ。そこで実父がうまれ、私の本籍も生を受けた時はそこであった。

  私は鶴見区の生麦で生れ、近くに生麦駅(京急線)があり、並行して国鉄の踏切があり、そこを初の特急こだまが通過したのを見た記憶がある。当時私は学校に入学前の幼稚園生だったが、なぜだか家に小さな時刻表があり、よく時刻表で遊んだ記憶と書かれた地名の漢字を読んで入学前に結構漢字を理解していた。その後の出来事、生麦の家は社宅で茅ヶ崎に小さな一戸建てを父が建てる計画を進めており、横浜から茅ヶ崎まで東海道線で行く必要があり、ポケット時刻表があったわけであった。鉄道開通百五十周年といわれても、、、インターネットなど無かった時代の時刻表の利便性、楽しさに触れなければならない。それは遊びであり、どこか出かけたつもで(今でいうバーチャルみたいな世界)時刻表の鉄道(私の学生時代までは電車と蒸気機関車が混在していた)と拠点の駅で乗り換えが出来る民間バスの時刻表も豊富であった事を覚えている。さて、どういったバーチャル体験が出来るかを説明すると、特急・急行・準急列車が豊富で、更に新幹線など無い時代には夜行列車も豊富で、学生時代にはお世話になったが、幼少期の頃でもレ点(列車の通過駅)が気に入り、レ点がずっと続いていると、それは特急だと嬉しさが顔に出る。普通列車・急行が停車する駅、例えば、2330/2347    2342/2345 と普通が2330に着いて、続いて急行が2342に到着し、3分後の2345に出発したのち、更に2分後の2347に普通列車が出ていくという二つの列車が停車する駅だという事が分かる。夜行急行でも時間調整で400/430  と早朝に30分も止まるケースもあり、面白さが小さな少年に醸し出てくるのだ。

 小1の秋に茅ヶ崎へ引っ越して、小・中学校の生活が始まったが、当時は余り長距離の鉄道を乗る機会など無かった。両親、その先の祖父母の出自を紹介したが、皆近くにいて、西日本、東北・北海道なども縁が無かった。父方の祖母が当時昭和の初め42-3才で病死して、祖母の実家に近くの寺に墓を設け、浦和の在で茅葺の農家の家が残っており、小さい時の記憶では横浜の町中から、場違いの東北のどこぞの村へお邪魔したような雰囲気が残る田園で、今では埼京線と東北新幹線が並行し、スピードアップして走る荒川の川向こうの埼玉県戸田の美女木辺りの事である。精々、中学の修学旅行で京都方面へ日の出号で往復した事だけで、新幹線は利用できなかった。高校へ入学しても、長距離鉄道チャンスを逃した。ひと学年で四百名以上もいたので、確か山陰・山陽、四国と分散の修学旅行プランだったが、ある事情で学年で数名行けなくなった。ある事情とはクラブ活動で県大会まで勝ち残ったというか、辛うじて生き残ったので、修学旅行の方を諦めたのである。

 1972年に大学に入って、漸く私の第二の鉄道利用期となる。個人的な旅行と運動クラブの合宿旅行、そして研究室へ入ってからの地方の学会参加の三つのカテゴリー。神奈川県から都内の大学へ進学し、国鉄と私鉄を乗り換えて通学は可能であったが、クラブとアルバイトで忙しく、アパートに一人住まいとなった。入学して半年ぐらい経ってからである。今考えるとこれが私が実家との縁切りになった時期である。 

 その後二十歳から、一挙に四十六~七年間の鉄道や航空機の経験は割愛し、最近のイベントと鉄道開業時の努力につぃて触れる。山手線に新駅誕生という事で名称募集があり、私は高輪シーサイドで応募したが、高輪ゲートウェイで決定。暫くして新駅を見学し、なんとこの新駅脇で、横浜―新橋開業時の盛土遺跡(鉄道を通す場所が無く、やむなく当時海側に盛土をして、そこに走らせた)が発見されたそうで、其処も見学できた。そこの少し陸側がちょうど今の国道一号線で、正月の三日の昼頃で箱根駅伝の常勝校A学院を追って、K大学が差をつめていた日であった。

文化の継承する強さと弱さ

手もとにあった冊子のページ(注1)をめくると、松尾芭蕉が江戸をたち、東北地方を目指して奥の細道の第一歩となった日は、遡ること西行法師の没後五百年忌であったという事が記されていた。それは偶然でなく、芭蕉がその日(西暦1689年の元禄二年三月二十七日陰暦)と決めていたのである。それは西行法師が陸奥に旅立ち、歌を詠んだことに起因し、芭蕉が自らも西行法師の辿られた跡をなぞることで、歌の技量を高めたいとか西行が実体験したであろう事を自らも同様な実体験できる(五百年という時空を隔てても)のではという強い願望があったと推察される。さらに、芭蕉を慕い、芭蕉の没後五百年になって(西暦1694年十月十二日陰暦が芭蕉の没年)西暦2194年になるが、自らも芭蕉の奥の細道を巡った江戸と言う時代の経験を実体験したいという方が現れるであろうかは分からないが、現状の東北各県の人口減少を鑑み、果たして没後五百年(西暦2194年)に徒で巡るんだという強い意志をお持ちの方がおられるかも知れない。西行法師、松尾芭蕉、〇〇■■という名の方が現れ、五百年、千年間の文化の継承を個人の強い意志で成し遂げた。というようなニュースが未来人は果たして聞けるかどうか?

現代で自分の回りでそのような事(類似の事)を実際に実行した人、又は今計画中の知合いはいらっしゃるのだろうか。

新型コロナウィルス感染により世界中で行動が制限されて、特に陸続きの国境間を挟む二国では国境封鎖までして・・・・我が日本では大海に囲まれているがそれでも完全隔離は出来なかった。船舶・飛行機など手段によって人の移動が特別なケースで許されるので、2022年に2021東京オリンピックを開催したぐらいなので、段々と新型コロナに慣れっこになってしまった。

そんなこんなで、地元の町会・自治会などの行事を皆で合意の上で、暫く中断してしまった。そして、毎年行っていた地元の餅つき大会や節分の豆撒きが昨年四年ぶりに行われ、今年の夏には、二年おきに行う神社の本祭が六年ぶりに行われようとしている。この四‐六年という短そうな期間でも実際に準備に関わっていると大変なのである。残念ですがその僅か六年の間で二名の自治会長が亡くなられ新会長に替わっている。神社の宮神輿渡御という氏子地域を神輿が巡行するという全国各地で行われている普通の夏祭り・秋祭りではあるが、この六年間で神社総代役員代表も三名も替わり、自治会の役員よりも高齢者で構成されている神社総代役員で物故者になられた方はちょっと指を折っても両手が必要な十名位もおられ、一番大事な鳶の棟梁も昨秋亡くなってしまった。

ごく最近のネット配信新聞によると、

千二百年続けている裸祭(愛知県稲沢市の国府宮神社)は女人禁制であったが、今年から女性が参加したという事例もあり、文化の新たな継承も生まれる。但し、男女混合ではなく時間帯を分け、法被を纏う方法で女性からのたっての要望により実現にこぎつけたという。

また、こちらも千二百年間続けられた黒石寺の(裸祭り)蘇民祭は最後の行事を人がいないという理由で閉じた。

三十年毎に行われる源義家で有名な平塚神社(北区西ヶ原、筆者の近く)の本祭は平成十四年に行われ、ちょうど三十回目の九百年であったという。私は実際に宮神輿巡行や女性神主さんの大パレードの写真を撮った事を鮮明に覚えている。

伝承形態
  ことば    
   口頭伝承    
   文章
  道具や模型
  唄・踊りなどの実体験

文化の伝承は易しくないが、自分の時代にリソースがないという理由でいとも簡単に絶えさせてしまう事は非常な決断である。よくあるケースは神社仏閣の行事だが、日本・韓国では女人禁制の風習が多い文化でも、少しずつ変化がみられるようだ。

洋風の着物・簡単着物を身に付け、足元は皮のブーツもしくはカラフルな所謂有名ブランドのスニーカーにして、闊歩したいというシニアの女子が現れ、このような新しい意識と新しい行動は文化の創造の一つと思えるのだが?

日本では、古代日本(西暦九百年まで)、中世日本(千三百五十年)、近代日本(千八百六十年)、現代日本(二千二十年代まで)と大まかに区分すると区切りの期間では海を隔てたよその輩、異種文化の影響を受入れ、日本流の導入検閲がなされて異種文化が己のものに姿を変えて、いつしか和風、日本流、xx道みたいにしてしまう。これは日本文化の強みと言えます。

二十年毎に伊勢神宮では遷宮が行われ、斎宮が白木をもって建て替えられる。二千十三年が六十二回目だったそうです。ありとあらゆるものが新調され供される。これは日本文化継承の一番の強みでしょう。

注1;本誌 三河アララギ 平成三十一年1月号 芭蕉、、、中屋氏

注2;ふんどし姿の男たちが厄を落とそうと激しくぶつかり合う奇祭「国府宮(こうのみや)はだか祭」で令和6年2月22日、愛知県稲沢市の国府宮神社で開かれた。1200年前から続く伝統行事で、もみ合いに先立つ神事に初めて女性が参加。法被に身を包み「わっしょい」と声を上げてササを奉納した。

注3:蘇民祭 黒石寺蘇民祭(こくせきじそみんさい)令和6年は、2月17日(土)に妙見山(みょうけんざん)黒石寺で最後の開催

あおいマスク

 今日は令和5年10月の上旬、予定されている行動をとらねばならない。それは毎月通院している主治医に急に呼び出された20日前に決まったとある理由にて、早朝より都内の大学病院にて頭部のMRI検査と造影剤を注射してX線による血流検査を行う事である。
 普通に、自宅の白いマスクをして、先ずMRI検査室へ赴くと、先生より院内専用のあおいマスクに替えて下さいと言われて、捨てはしなかったが白い自宅マスクを取り、少しきついあおいマスクを装着して、検査台へ上がり横たわった。そこでお決まりの頭部を固定され、防音用の耳栓を押し込んで検査に入った。閉所恐怖症の方には辛いが、私は平気。だが今回はちょっと違う、このあおいマスクを通して呼吸しなければならない。狭い筒状の中に頭部が固定された状態で、閉所恐怖症でありませんと言った手前、ゆっくりと鼻から息を吸い、口から吐き出すというカイロプラクティック整体の若先生に教わった方法で乗り切った。
  余裕が出て、MRIの磁場が印加される際に、耳を遮蔽しているのだが凄い音がする。その音を聴き澄ませていると音の低、中、高域の3つが使われていて、それらが各々、別々に数秒間のうちに音の強弱が正確に繰り返され、デジタルの8ビットのように聞こえたのである。その初めの規格化みたいなことが済むとついに本番の検査が開始され、時間は正確には分からないが数十秒間ずつ、ブーブー、がーがー、キーキー、時には短くドンと変な音楽みたいなセッションが続いて、20分の行程が終了した。
 次は別の検査室へ移動し、少し時間をおいて脳の血流検査のパートへ入った。こちらは、X線CTの部類だが、造影剤を注射針で腕の血管へ注入しながら画像を取る方法らしい。血液検査や献血では左利きの私は左手を差し出すが、今回は装置の移動方向と私の寝ている方向との関係で選択の余地はなく、はい、右手でということになった。
 私は初めての経験だ。同じような検査台へ仰向けになり<これが結構堪えるのだが>、普段背中が丸く前傾になっている姿勢をいきなり数十分間、固い台へ臥し、頭部はやはり固定されて静かにしていなければならない。ここの若い先生は時間が長くなるので、あおいマスクをずらして結構と言い、息がし易い状態でこちらは音もなく遮光用のアイマスクをお願いしますといわれ、ウトウトして知らないうちにこれで終了ですと声がかかった。こちらはそれで40分もの検査時間。
 こういった検査は70歳を超えた高齢者医療保険証を持たされている者にとっては特段特別な事ではないが、相当な検査費用だ。これまで45年間も払い続けている健康保険料、まだ若く病院の世話にはならないよという健常者の保険料、そして税金助成が原資だが、まだ仕事をしているお前は現役並みの実入りがあるからと言われ、逆らえずに3割の自己負担をしている。
 最近は大学病院もモダンで何とかというカフェもあり、ドリンク付きの簡単なランチサンドウィッチを食べ帰宅。もっと余裕を持った生活をすればいのだが、それが出来ずに、早々にノートPCでメールチェック、タブレットでニュース閲覧をして、それらを終えて、好きなYoutTubeでもと思い、アプリを立ち上げたところ、勝手に私の好きな朗読が紹介されており、何と菊池寛のマスク:小文の題目が、いつもの朗読者窪田等氏で紹介されていたのである。なんと偶然、今日のあおいマスクの記憶がタブレットの画面へ指を急がせたのである。
 そこには菊池寛の別世界があり、約100年前の大正8年のスペイン風邪の大流行の際に書かれた短編マスクであることを初めて知ったのである。今まさに我々が経験している新型コロナウィルスによる状況が、流行性感冒と呼ぶことしかできなかった時代と同じような経験が記されている。しかし、100年前の医学の状況はいいかばかりか、悲惨なことが書かれておらず、死者が国内で1日3000人を超えたとかあり、菊池寛の関心事は弱者である自分の不健康、弱い脈、心臓の弁の併合が悪い・手術が出来ない、脂肪心、駆けてはけない・脅かし、発熱・流行性感冒への恐れ、野菜食、伝染を恐れ妻も出来るだけ外出せぬよう家に籠った生活が記されいる。
 ところで、菊池寛はマスクについて、3月末でも気温も上がっているのにまだマスクをせねばならぬ、さらに、5月になって暑くともマスクが必要なのかと、文句まがいの気持ちを吐露。そこに、23-4才の黒い布製マスクをしている若者への嫉妬が加わるのだ。感染拡大に繋がる大勢の人がいるスポーツ観戦にこれから行くであろう若者がよっぽど強い男と見えたのであろう。
 令和の新型コロナの感染抑制対策に対してはノーベル賞を受賞したm-RNAワクチンに頼っているが、最近になって副作用による死者数が非常に多い事、直っても長期の後遺症で強そうな若者も含んで相当な数の人々がマスクを外そうが別の部類と思われる症状で普通の営みが送れずに臥している。私は終わりに記した現代医療でも予期せぬ二つの重大事に遭遇し、未結審の訴えの如く次の100年へ先延ばしにはしてくれるなという想いでいっぱいである。

クローン羊誕生とその後

 ChatGPT・生成AIよりもっと気になる事が、湧いてきた。
 1996年クローンドリーの開発者、イアン・ウィルムット氏(英国)が79歳で亡くなられたというニュース記事が今日9月12日報じられていた。偶々なのであるが、最近アミノ酸の円偏光に興味があって、特定のアミノ酸類の組み合わせからなるDNAについて素人勉強をしていた。細胞の中には遺伝子情報が詰まっているDNAや遺伝情報を転写、アミノ酸の収集とタンパク質の合成をつかさどるRNAなどが含まれ生命体を維持している。
まず、アミノ酸の円偏光であるが、アミノ酸レベルの高分子になると全く同じ分子組成で鏡像関係にある2つの立体構造(右・左タイプ)が存在し、全く同じ化学的性質を有するが、物理的特性で光を当てると右回りの偏光特性を示すものと左回りの偏光特性を示すものとに分かれるのが知られている。
 ここで少し宇宙的現象についてお話する。
太陽の様な水素H2からなるガス球で核融合反応が進むと元素の周期律表の鉄Feまでは創られるそうだ。理科でよく聞くクラーク数、人の身体に含まれ生命維持に大切な微量金属元素はFeよりも重たく、そのような金属はどのような現象で宇宙的に創られるのだろうか。
 そうです、聞いたことがあると思いますが超新星爆発で重い金属まで核融合が進んでその残骸が吹き飛ばされたのです。そういった宇宙的プロセスで形成された微量金属が我々人の生命維持に重要な役割をしているのです。
 クローンは全く同じ遺伝子DNAを有する生物個体。自然発生的には一卵性双生児がそうである。人のDNAは複数の異なったアミノ酸の組み合わせから出来ていて、世界で初めて黒っぽい色をした小惑星のサンプルを持ち帰った日本のはやぶさ2のサンプルを詳しく調べたら、色々なアミノ酸、それも左右タイプのものが見いだされたという。これは確率的に宇宙空間のある化学的反応が促進できた環境であったということでしょう。
 

  哺乳動物のクローン、非常に難しいが1%以下の0.〷% で成功するらしい。
  食肉用家畜牛のクローン、表示義務なし、出回っているらしい。
  中国が猿のクローン誕生成功、ある国の研究者は私はやらないと断言。

 その裏にある研究、幹細胞、ES細胞、iPS細胞の組織培養・臓器分化可能性があるうちに、自分の細胞をもとにクローンである培養組織を使う治療、しかし、易しくはない、免疫抑制、癌化抑制、コスト削減のために特定個人の組織細胞を共通化して万人に適用化する研究も開始されているが、課題も多い。
 数年前には、臓器が動物の体内位置で、複数の特定臓器同士の立体的配置を備えた培養サンプルを国内の著名大学の若手研究者が開発していることも知った。 受精卵・分化可能性、高等生物は進行するにつれて分化可能性は失われる。人工授精に対しても現在では何も批判は言われなくなった。一卵性双生児は自然なクローン。究極でSF的な、脳の無い臓器移植の為だけにクローン人の医療的開発応用を良しとする? 私は断固として否と言いたい。
 一方地球上の植物生物は非常に多様で、生きるということからすれば食物連鎖の初めに当たる、動物への必須アミノ酸を供している。
ソメイヨシノ(桜)はそもそも植物のクローン。 江戸時代に作られ、以降接ぎ木で世代を継承、同じDNAであることが確認されている。接ぎ木は平安時代から知られていた。クローンの傾向、開花時期が早くなるという。単に温暖化ではない。
 挿し木もある。小枝を土に差し込む。植物の細胞が分化全能性を有する。最近の情報では茄子のように2段接ぎ木でないと上手くいかないものもあり、病気予防の為に、台木、中間台木も使う。渋柿に甘柿を接ぎ木する、60年前の私が10歳前頃に母方の祖父がやってくれたことを覚えている。 今夏8月下旬にNHK BS放送で、樹齢1300年のやくし桜の小枝を30年前から接ぎ木し育て、それから何百ッ本もの苗木とし、全国各地へ配布して親木と同じくさらに1000年も花を咲かせ続けたいとする仕事をする90歳の古老の話は気持ちが晴れ晴れとする。
 丁度脱稿しようとしていた10月2日にノーベル医学生理学賞が、新型コロナが蔓延し、その緊急対応策としてm-RNAワクチンを開発した2名の欧米学者に授与されるとうニュースが飛び込んできた。これは高等動物、究極の人間であるが、誰しもが病になると、生きたい、人のお世話になっても、つまり他人の臓器移植まで望み、長い道のりであるが本独り言で呟いたクローン人間の臓器、その臓器の組織細胞を欲する研究、ES細胞、iPS細胞、体幹細胞まで行きつくと、植物の接ぎ木の晴れ晴れとした気持にはなれないのである。

自分だけの歴史

 異なった色の積み木を重ねるように自分だけのフェイクではないが、面白くもない本当の歴史を作ってみたいとお考えになったことがあるだろうか?フェイクとは偽りのという意味をいい、そうではないので事実・本当の事だ。もう少しこだわりがあるのだが、異なった色の積み木と始めに申し上げたが、絵の具が何かで木に色を浸み込ませたのではなくて、箱根の寄木細工のように、種々の木々を切ってよく見ると、木は肌だけでなく中身も特徴のある色合いを持っており、それで異なった色の組み合わせが可能となって、素晴らしい箱根寄木細工となるのだそうだ。実は私自身も畳一枚くらいの大きな無垢の木一枚で机を作りたかったのであるが、木工の工房のデザイナーに裏ワザを教わったことがあり、見せかけの大きな一枚の木を例えば小さな7-8枚で構成して造る時、木目・木肌・木地の似たものを用意して、上手く木目を合わせながら接着剤で割り合わせて、本物と間違いそうな張り合わせの“無垢の大きな木”を造って少しでもお安くするそうだ。そんな裏話を18年位前に聞き、それは良くないと思い、逆に7-8種類の色合いを持つ原木を探してもらい、それらを目立つように張り合わせて大きな一枚にして頂いて、それを今でも自分の机として使っている。
  歴史の構築と言えば、よくあることだが小説家が史実を綿密に調査して、“小説としての歴史”を、史実として後年になって発表し多くの人に知らしめし、関心をもたらすことが多い。江戸幕末から明治への変換期に多く、坂本龍馬が一番の例であろう。深くは立ち入らない。 
 以前、意外な自分自身の経験と題して2年前に、今年ちょうど百年になる関東大震災の実体験談として、私の実父と同じ歳の方の話が紹介されていた。ちょっとおかしい、実父は当時2歳で震災を体験したらしいが記憶がないと生前、話は聞いたことが無かった。よく調べると私の実父と同じ歳の方は年齢が少し上のお兄さんから後年聞いた話をもとにして実体験談として語ったそうで、これらは学習した横浜での関東大震災で、後で学んだことが加わって自分の体験として身についたもので、よく考えるとそれは今流のバーチャルで加飾された体験である。よくある事らしいが、親、年上の兄姉から伝え聞いた話で、公知の一般史実は意外と知られていないのかも知れない。
 最近、自分の心・魂をハッとさせた事があった。それは今年の令和五年に入ってからで、世間ではTV放送開始七十周年記念とかさわいでいるが、私も七十歳になって、小津安二郎監督が東京物語を執筆するために、定宿としていた茅ヶ崎館に滞在していたと知ったことである。さらに、小津安二郎のカメラマン<厚田雄春氏>に関して本アララギに寄稿し、素朴な50ミリのレンズと静寂・白黒の世界観に心を打たれ高揚している時に、小津監督が茅ヶ崎館に滞在し、東京物語を執筆した時期が私の生まれた昭和二十八年と知り、さらに執筆日記が残されていて、私が生まれた四月二十一日が自分にとっての歴史的出来事であることを知ったことが契機となった。

   表  勝手に積み重ねる自分の歴史
小津監督、東京物語構想 二月、執筆開始 四月八日
  昭和二十八年四月二十一日に、私は生を受ける。
小津監督、東京物語執筆脱稿 五月二十八日
  7才の時に横浜・鶴見区生麦の花月園近くから移り住んだ茅ヶ崎 昭和三十五年秋
小津監督、短い人生を閉じる。昭和三十八年
 地元の高校へ入学し、友人となった大船出身のW君の父親が大船の松竹撮影所の仕事をされていた。 昭和四十四年春
  当時は小津監督も知らず、W君に何も聞けなかった。
  
 たったこれだけの私の歩みは先ず、
東京物語の執筆期間は構想を含め昭和二十八年二月から五月末、当時の日記には四月二十と二十二日の記載はあるようだが間の二十一日は抜けているようだ。それが気になり、小津監督の東京物語執筆前後の日記を追ってみた。
 翌二十二日髭剃り、鼻の下長くなる、大阪の宿をやる<と書かれており、非常に日常的である>。詳しくは茅ヶ崎館で同宿し東京物語の仕事をしていた脚本家の野田氏の日記では、二十日;車券を買って少し当たる。気候は温かし海岸を散歩する、 二十一日;車券を買うが当たらず、暇をしていて、気候も温和 とあり、競輪の車券買いを度々依頼したとあり、近在の伊東・小田原・平塚、東へ向かうと花月園、川崎競輪場と懐かしい場所があり、それらは文豪の坂口安吾も競輪が好きで戦後の似た時代に娯楽として楽しんでいたようだ。私はその花月園競輪場の西側の関東ローム層の崖っぷちの下にあった父の勤めていた会社の社宅で気候も温かく平穏な下で生まれたようだ。皆さんの小さい頃の体験・経験を振り返ってみては如何ですか。

参照資料
野田高梧氏日記、小津安二郎氏日記・昭和28年4月分

家から富士山が見えても富士から自分っちは分からぬ

 都内には富士見橋とか富士見坂という地名は多い。何故かと、聞く必要もないであろう。其処へ行くと西の方向に富士山が見えるのである。私も結婚して45年、東京に来て51年も経ってしまい、あちこちにスカイスクレーパーが、始めは徐々に、段々と加速して行き、にょきにょきと雨後の筍のようにあちこちの猫の額を埋めつくす。と、ある時、今年が最後のダイアモンド富士山となりますと、突然身近の富士見坂の際にポスターや看板が並ぶのである。大概は最後のダイアモンド富士山の占有する遠くののっぽビルにこれから住むであろう主の素性や懐具合に文句は言わない。
 なぜか、ダイアモンド富士を撮っていた昔カメラ小僧と言われ、今や高級なデジカメセットを携える親爺さんは、その富士見坂付近の住人でないと予想される。ひょっとして、今後ダイアモンド富士を独り占めするスカイスクレーパーの新住人かも知れないのである。ごちゃごちゃ、最後のダイアモンド富士を捉えようとするマニアと素人さんからなる群衆は互いに気にせず、いい場所取りをして、喧嘩沙汰にもならず、最後のショットを満足げに納め帰路に向かう。
 実は、最近同窓会のお知らせを頂いて、コロナ禍で3年前に亡くなられた若かりし頃ご指導頂いた担任の先生の墓参をするので集合されたしという主旨であった。
学校の先生が担任としてクラスを持った生徒たちの数、専門教科として受講した生徒たちの数を40年位の間先生と呼ばれ、運良くば、A先生はこの専門教科では当時素晴らしかったと言われるような伝説が残っておれば、相当な人数になるであろう。ここで、えいやっと40年x250人/年=10,000人とする。約1万人の教え子のひとりが私である。
 同窓会は3-5年に1回ぐらいのペースで開催していたが、最近、具体的にお話すると2011年(3月に東日本大震災があり、東日本地区で被災した大企業に勤めていたクラスメートも多く)、その頃の同窓会も延び延びになって、私も電子メールアドレスの変更届が上手くいかずに連絡が途絶えた。更に2019年頃からの新型コロナ騒ぎで、同窓会は面と向かっての開催が出来なく、本当に今回の連絡が久々となった。
 40代、50代、そして60代へ突入し、今年で皆70代となった。ここで定かでないのであるが、恐らく50代の同窓会の時、担任の先生にある思い出を詳細にお話した。最終学年(18歳)の授業の時、受験勉強の範囲外の数学のテーラー展開式(詳しくは高木貞治著・解析概論を参照)の説明をされて、黒板の左から右へ一杯に式をチョークで書き記したのである。ここまでであったら、こんな先取りの授業の話で終わって、家から富士山が見えてもで終わってしまうのであるが、私はさらに話を続けたのである。
 xx先生、大学に入学して更に所属した研究室(材料科学の修士コース、21-24歳)での研究内容の話を続け、非線形関数を無理やりにテーラー展開で近似線形関数を作成し、それをもとに当時誰も挑戦していなかった観測した実験値とテーラー展開による近似線形関数を最少2乗法で収斂させて式に含まれる材料の構造パラメータを求めることが可能になりましたと。
 xx先生はそうかい、そんなテーラー展開の説明をされたことをお忘れになっており、少々拍子抜けし吃驚したが、そんなものかなと思いをはせた。
 多くの教え子がたった一人の先生を囲むようにして存在し、その教え子と先生との距離感やどのような付き合い・興味といった方向感がそれぞれあることがわかるのである、インフルエンサーという言葉が知られているが、確かに私は数学の担任の先生の影響を受けたが、現代版インフルエンサー講演に集まる特定のインフルエンサーの影響を受けたいとか、俺は私はインフルエンサーだと言う穿った気持ちを持ちたいのではなく、無意識の中で互いに伝播し合えばいいのではないかと思う。
 私の記憶では、関東地域ではなぜか、富士を夕日の西に臨むのが普通で、富士見坂でなくとも平らで広々とした関東平野ではどこでも富士を眺むことができ、日光から浅草への帰り道、まだ富士が小さく低く望める東武線沿線、茅ケ崎の実家の西向きの玄関から大山丹沢連峰と毎日見える富士、茅ケ崎の海岸から西に顔を振り向ければスカイスクレーパーに切り取られることなく、自分の富士を箱根山の外輪山と好きに鎮座させ、楽しむことができるのである。

寺田寅彦の“知と疑い”大正4年

コンサルティングの仕事をしていると、発明とか発見とか知的活動を促進させ、世の中にどんどん新しいものを提供していくことが一見世の中を良くするもんだと信じ込んでいるが、実は特許のような知的財産権を得ようとすることは経済事業活動であり、争い事も多い。昨日2020年06月04日の新聞にノーベル賞学者が実施権を許諾した特許を用い事業化をしている企業を訴えたという。企業がリスクがあるのも承知して、莫大な投資をして製品が良く売れたので、後になって分け前をもっとよこせといったような類にも聞こえる。最初の発明者と発明者の所属している大学と企業との契約内容は知らないが、ある薬品メーカのオプジーボである。
以前、ノーベル賞を受賞した湯川秀樹の創造性に関する書籍を読んで、はっとすることがあった。時代的にパソコンはまだ無かったが、第2次大戦後暫くして、計算機が出始めた頃に湯川博士は最近の若い研究者は計算に頼りすぎ、アナログ的な直感をもっと磨いた方が宜しいと指摘されていた。
今回、大正4年(西暦1915年)に寺田寅彦が書いた“知と疑い”という小文を2004年頃青空文庫からテキストに落としておいたファイルがパソコンに眠っていたものを読み返した。直感的にはよくも105年も前に普通に人には分かりづらい表現・語句を引用し寅彦先生も書いたもんだなと思った。しかし、読み直すと小文の内容は非常に重要な発明、発見、創造、そして関連して知恵とかイノベーションを網羅しているものであるが、私か今使った語句は一切使われていないのである。それらは寅彦独特の言葉を用い表現されている。
その前に、なぜ難解な“知と疑い”になったのか、その時代背景を私なりに説明を加えたい。西暦1915年頃はアインシュタインが一般相対性理論を発表した直後で、そこから遡ること7-8年前、Minkowski <ミンコフスキ>空間(寅彦はWeltという独語を使用)が発表され、数学的に時間軸を加えた4次元空間で示すことができると公表された頃であった。数学的にはn次元のベクトルと新たなベクトルの外積をとり、これをn+1次元のベクトルと定義するようなことである。
寅彦は実際どのような語彙を使って表現していたのだろうか。もちろん現代版カタカナ外来語、イノベーションなどといったものはない。(注:イノベーションとはneue kombinationen , 既存の要素で新しい組み合わせを生み出す事、後出―1番目の疑う人) 2004年に保存しファイルには注意事項として太書きした部分(寅彦の文)があって次に紹介する。

しかして暗は無限大であって明は有限である。
雨が降って天気のよい日のある事を知る人の少ない。
疑う人におよそ二種ある。

最初の文など一般人にはチンプンカンプンであろう。無限と有限を寅彦は微分で表現し、おそらく無限とは微分が無限でこれを暗とし、明はすなわち微分が有限な様態を示している。
注目したいのは3番目の文、疑う人は2種類あるという指摘である。
私なりの言葉でいうと、過去の先達が積み上げた知識体系を会得し、研究して新たに発見を加える事(人)と全ての知識体系が完成しもう終わりだと普通は言ってしまうが、そこでさらに何もやることはないとは、おかしいと疑う事(人)の2つがあって、寅彦は同時にこれら2つの能力を発揮する人は極めて稀であると言っている。寅彦は、寅彦の言葉で 一人にしてその二を兼ぬる人ははなはだまれである。これを具備した人にして始めて碩学(せきがく)の名を冠するに足らんか。 と、この小文を閉じている。
知は疑う事から始まる。リンゴがリンゴの木から落ちたり、錘を付けた振り子がただ振れていると疑わずに放置したり、天王星の動きが少しおかしいけど、これがデータのバラツキだと判断して疑わず外周の新惑星の発見に至らないとか、古典力学で十分だとか電子運動の実験的解明(疑いを持つ)が無かったら相対性原理の発見に至らない105年前の平凡な暮らし向きを我々は続けていたかも知れないのである。

夢のある話

日本でも月を目指す宇宙飛行士の人選の結果が話題になっている。
本当に夢のあるわくわくする話である。人生100年と言われる現代でも、よく考えるとそうたびたびある夢のある話ではない。それも、応募された志高き人、夢をかなえようと幼き頃に心に決めた多くの中で、再チャレンジの一番高齢(といっても40半ば)の男性と20歳代の女性の2名が夢を叶えようとする一番札を抑えた。

米国が約53年もの前に月面に初めてブーツの足跡を付けたのだ。
技術をかじった事のある人間にとって50余年も前の未熟な技術で、今考えると能く月に行こうと、恐ろしい程の夢を持ったものだ。しかし誰しも数十年先の技術向上は決して否定はしないがそれがどれ程の高度化を達成出来ているのかも未知であって、数十年待って安心して夢を叶える行動を取っても意味がないのは明白で、今挑戦することに意味があるのである。

しかし、今年70歳になる自分が学生の頃、ちょうど大学院を目指して研究室に所属した時期に、日本では放射光リング(今は筑波研究学園都市に加えスプリング8という関西にある放射光リングの呼称が有名になり)が夢でその実現に向かって、装置開発グループや私のいた研究室は放射光と言ってもX線レベルの電磁波で、ある種の高強度のX線が得られたとしてどのような実験が出来るかというテーマを研究し始めていた。後年になって夢はかなえられてしまったのだが、真空の導管中を電子ビームを光の速度の近くまで加速させ、その電子ビームを磁場で少し曲げると、接線方向に放射光が発散し、それを応用しようとするものである。

大学院を卒業して、そんな放射光をも忘れて、現在のインターネットのベースとなっている光通信事業の開拓に夢中になっていた時、ある種のデータのわずかな差異に、、、それはかっこ良く言えば、品質問題、quality management, quality control of product performance specification問題に遭遇し、その現象は6シグマ運動や高度な統計数学が関わるものであった。
こう言った「がちがち」の数学が関わるものは時代によらず必要なのだが、感覚的には昭和から平成への時代感覚で、話を戻すと公開された月を目指す宇宙飛行士の選考過程で見られた内容は平成から令和の時代に必要なグループで人が仕事を成し遂げようとする際に要求されるコミュニケーション・リーダーシップに焦点が当てられていたようだ。さらに、科学者・エンジニアのような高度な専門職的作業は出来て当たり前、その先の火星探査への片道切符とか死に直面するような宇宙飛行士の人としての振る舞い、他人との関係性の取り方、ただリーダとして強引に他人を引っ張るだけではない姿、人物像を評価して見たいという意向が感じられた。

話を昭和から平成の時代にもどすと、私が関わった高度な統計数学が関わる光通信ネットワークの事例の話をして見たい。当時の日本と米国を結ぶような世界で一番長距離の大陸間海底光伝送では予め光が伝搬する光ファイバーのコアの部分の光屈折率を例えば9000㎞の長さ方向に渡って調整しておかなければならないのである。それは、単に標準的な製品仕様値(平均値+/-δ)を満足しているだけでは不十分で、9000㎞長の経路毎に例えば始めの50㎞は1.4650で次の50kmは1.4654というように長手方向の変動に関する値を管理制御すること、実際には光信号が伝搬する際の遅延時間を表記する光屈折率の波長分散という性能に関わる仕様のお化けみたいなものがある。

当時、米国の大手計測機器メーカーのものを使って計測するのが業界的標準になっており、私はもの作りのメーカ側の立場で製品検査を、お客様も値の張る米国製の計測器を購入し、受入検査をされていた。私が勤務していた米国メーカと顧客企業とで取り交わした仕様値を満足しており、受け入れ合格なのであるが、当時、私は技術責任者としてその膨大な品質データを検証していた。
何かがある? という疑問であった。

光ファイバーは石英ガラスから作られているが、その屈折率は空気中と真空中とでは値が0.03%にも満たない程度であるが、差異があるのである。起因は光の伝搬速度を真空中の値を1とすると空気中では0.03%程度遅いことにある。僅か1000分の0.3、ppm表示だと300ppm。そうなんです、検査時の基準を真空中の値、空気中の値とするかが両者で異なっていたことに起因して、データの分布図をメーカの出荷時と顧客の受け入れ時の値とを比較すると、一つのピークを持ったガウス曲線というよりも2つのずれたピークを持つガウス曲線としてみた方がいいのではないかという私が何かがある?と言った疑問が解けたのである。

こんな僅かな事も私にとっては当時夢のような話で、本社の製造部門だけでなく、開発・品質管理や顧客技術支援部門、その他多くの人達を巻き込み、課題・対策の情報共有が出来たというあたり前と言ってしまえばそうであるが、あたり前の簡単なことが認識出来ずに、月さらに火星探査へと連なる「かぐや姫の夢」を壊したくないのです。

私の澁澤榮一氏

普通、著名人の名は知っていても、何かの事情がない限りその方の人となりに深く立ち入ろうとはしない。私も東京北区に住み始めて40数年、今年67になる。北区では澁澤榮一氏が一万円札の肖像画に選ばれたとか、NHKの大河ドラマ番組の主人公に選ばれたとかで、盛り上がっている。私は澁澤氏の名は知っていたが、深く立ち入ろうとしたのは約10年前のことである。そのことをマイブログに書き残しておいたのを思い出した。その後、地元の先輩に誘われ、深谷の澁澤榮一の実家見学まで出来た運を得た。


2010年11月15日記す。Bank (ブログの題目)

この英語は、我々は今では“銀行”という言葉で受け入れ、金融機関の主役を演じていることは誰でもが知っている。

先日、早稲田穴八幡神社で、毎年開催されている古本市で買い求めた一冊の古書、幸田露伴著、澁澤榮一傳(昭和十四年六月十日初版発行、岩波書店)を、昨日目を通していた。購入して直ぐ、全頁は読まずに、ページを捲って部分的にどのような澁澤榮一が描かれているのかと探ろうとはしておいた。

昨日の朝、NHKの番組紹介で、12月に入って再開する坂上の雲の第2弾の紹介をしていて、ちょうどテーブルの上にあった、少し時代は早いが活躍したこの澁澤榮一傳のページを捲った。ページを進めると、第一国立銀行をひきいた澁澤が明治初めに、bankという英語に和訳の“銀行”を授けたと説明している所に出会った。以下その下りを私が現代的に示したものである。

銀は銀(シルバー)だけを意味せず、金銀の兌換性を言い、行(注)は鋪、業、糸屋・米屋・石屋の様に使われている屋の意味を持たせてあるという。鋪は店舗、業は広く使われ、商業というある程度大規模な経済活動をしているもの、xx屋は中小企業の商いから物作り工房などの意もあると思う。

注:行は元人の百二十行、明人の三百六十行の行の如くと書中で引用されている。調べたところ、元人の百二十行は不詳だが、明人の三百六十行は蘇州版画で蘇州の繁栄を象徴する商店や運河のにぎやかな光景を描いており、それを引用したものと推察される。神奈川大学の非文字研究サイトに出ています。

http://www.himoji.jp/

http://www.himoji.jp/jp/publication/pdf/nenpo/No03/097-111.pdf

これらの漢字の組み合わせを変えると、金行、金鋪、金業、金屋、銀鋪、銀業、銀屋などが出来るが、やはり“銀行”が澁澤にはぴったりだったのだろう。

さて、本来の銀行の役割は蘇州版画三百六十行図にあるように、繁栄を象徴する商店や運河のにぎやかな光景をいつまでも作り出したり、継続したりすることであって欲しいと思う。いたずらに、マネーゲームを先導したり、金融経済政策として管理、制御する側に立ち過ぎないで欲しいとも願う。

地元北区に、澁澤榮一資料館もあり、明治以降に三菱をまとめ上げた岩崎弥太郎に視線が行ってしまうが、関東の澁澤榮一にも目を向けて欲しい。

詳しくは、澁澤榮一資料館サイトを参照して下さい。

かくして、Bankに象徴されるように、明治時代に入ってからの澁澤氏の活躍貢献(多くの銀行、株式会社設立や事業支援、慈善団体の設立・支援)が評価されているようだ。

が、しかし、私は、江戸幕府の大政奉還から明治維新時の国難の際に、澁澤氏は日本におらず欧州に居て、水戸藩の徳川昭武(御年十五歳)の巴里万博視察団随行員団の端くれとして働き、万博後留学中の水戸藩の徳川昭武を帰国させるべきか、万が一欧州滞留が長引くかも知れぬと、会計係として不足していた資金の工面、質素な生活、さらに今でいう保険や有価証券投資(数年は日本へ帰還出来ない事を想定)をして、借金返済や少しの蓄財までした能力(榮一は欧州の経験豊富な経済・金融界の知古より仕組みを学んだ)に注目して頂きたいし、チャレンジ精神を評価して欲しいのである。

澁澤氏は昭和六年九十二才で旅立たれたが、明治維新の時は若干二十七才であった。今の時代で、若輩の二十七才でこれだけの使命を受け、そして主君を守り、欧州の経済的仕組みを理解し、習得し得た成果を開花させ熟成出来るだろうかと考え込んでしまった。

白; 知らないことの新鮮さ

最近、読み聞かせ、それも文字を習う前の小さな子を対象としない、大人の読み聞かせを体験する機会があった。大人を対象にするので、朗読やちょっとした江戸時代の小話を聴く、みじかい落語の感じがした。このような体験の延長で声優さんのいろいろな作品を朗読しているYoutubeを検索・視聴し、そんなことを暇に任せてお盆休み前にしていたら、芥川龍之介の作品は短編が多いので、結構、朗読対象になっていたことを知った。これまで、長編作品のたけくらべなど難解な樋口一葉の作品に挑戦し、そのままになっていた。今年のお盆前には芥川の羅生門の朗読を始めとして、蜘蛛の糸を繰り返し繰り返し、聴き惚れてしまった。

そして、六九歳になって初めて知ることになる「白」という短編作品がYoutubeのトップページを飾っており、それは淡いグレーと濃いグレーの単調2段階でデザインされて、特徴の無い犬が淡いグレーで描かれており、ははーん、これで<しろ>という犬の話になるのだなと思ってしまった。以降、私はその朗読を聴いた「白」の感想を呟くつもりはなく、詳しくは文字で全貌が紹介されている青空文庫などを参照して頂きたい。

さて、子供の絵本の読み聞かせ会などがあるが、文字をまだ知らない小さな子は絵本で与えられているカラフルな絵柄という作家特有な映像と耳から得た聞きことば情報を的確に覚え、自分の頭に刻み込んでいるのだ。諳んじている自分の知っている絵本の内容を早くお披露目したく、我が家では子供がまだ小さい時、家内が絵本を読み始めると長男がまだそこまで進んでいないストーリーを弟・妹にばらしてしまい、よく小さな喧嘩の始まりとなった。

大人の読み聞かせには例として初めて聞く作品の朗読が一番だと思う。初めて聴く新鮮な言葉を受け入れ、それを瞬時に同期させ、こんな情景なんだろなとか、思い浮かべる自らが創造する色合いの情景は私には楽しい。個人個人によって情景の配置や色合いは異なって当たり前であろう。しかし、著名な作品が映画化、TVドラマ化され、さらにヒットしてしまうと自分で想像するという前に監督だのドラマ演出家の意図が前面に出て、作品の著者が意図していない方向へどんどん行ってしまう事もあろうが、そういう時は小さな諦めも必要だ。

私は初めての「白」から1週間ほどして、2度目の<しろ>を探した。というのは、芥川は結婚9年目で自殺してしまったが、その4年前の結婚5年目にして自殺を暗示させる作品を残そうとしていたのかと背筋が本当にゾッとした。隣のくろと呼ばれる黒い犬が犬殺しに捕まり、自分は咄嗟に逃げ、自分だけ生き残った事を苛み、「白」の中で1度だけ自殺したいということばが出てきた。実は<しろ>は外観が黒い犬「芥川は鍋底よりも黒いと表現している」に変わってしまい、田端の駅付近から流浪の旅に出るのだが、出来れば死にたい死にたいと、あちこちで、蛇や狼と戦い、火や鉄道に飛び込み子供を助け、アルプスの山では遭難しかけた一高生を助け、死にきれずに自宅に戻るのある。その流浪の旅は決してカラフルでなく、ほとんど白黒の世界に近かった。

数年前、私は芥川が世間で言われている神経衰弱で病み、藤沢の鵠沼の海岸近くで療養し、自殺する前に東京田端の自宅との間を行き来した時期について調べた。新婚生活を始めた鎌倉にも近い鵠沼、その後田端の自宅に戻っても二階に籠り文章を練る作業に没頭し、神経衰弱の源は自分の作品なのか、それとも別なものなのかと、さらに健康もすぐれずにいたという。鎌倉や鵠沼と聞くと自然豊かな、新緑の緑を表現する場合や碧い海と連なる同じくあおい空を表現する場合には、組み合わせや、グラデーションまで考えると数え切れないわくわくする空間を想像し、そんな色合いが豊富な世界・暮らし向きを勝手に考えてしまうが、実はそうでなかった芥川の白黒の濃淡の世界が支配していたのだろうと想った。

朗読を拝聴し、自らは書かれた文字を目線で追う作業の代りに(といより軽減し)、余裕を持って色とは別の次元の世界の探索、つまり書き手の気持ち、意図、精神状況、心理状態等々を想像・推測出来ると信じている。<しろ>は人の話していることは分かっている。しかし、人は<しろ>の言葉は分かっていないという。「白」では精々茶色い世界までしか覗けず、それでも裕福だと思い詰めている。<しろ>が何とか自分の家に戻って来るが外観が黒く汚れているので、坊ちゃん・お嬢ちゃんには分かってもらえず、手荒く・ぞんざいに扱われてしまう状況に落ち込んでしまった。

よく、漱石の話で出てくる I love you を月が綺麗ですねと訳せる心持と、どうしても引用させて頂きたいのだが、芥川と結婚が決まっていた文はお相手のお名前は聞かれても言い出せずに、そっと羅生門の冊子を差し上げたという逸話を最近知ることになって、芥川も文さん位のある種の心持の余裕があればもっと長い結婚生活をおくれたのではないかと思った次第です。