プラズマ・Plasma

言葉は多才、複雑だなと、最近実感した事があった。翻訳の仕事をしたり、主に英語の資料を分析解釈しているコンサルの仕事をしていると、辞書のごとく英語のある言葉が日本語の特定な訳語に1:1に対応するなど稀であって、文化の多様性で腹や胸の辺りをグサッと刺されるようなある種、変に高揚する気分になる。このような言語文化の課題は時間と変遷が絡む現代日本語と古文の関係にも言え、要は理解される様に分かりやすく嚙砕いて伝えることが出来ればほっと安心する。
物を意味する言葉、形容する言葉、感情表現する言葉、抽象的思考状態などを表現する言葉へと、だんだんと文化の差が広がると言葉の表現もかけ離れて、時には日本文化にはあるが欧米文化では無いとか、その逆も多々あることを経験している。
さて、最近プラズマというカタカナ英語(外来語)が気になるのである。明治時代の文人はカタカナ読みの外来語は使わず、漢字の意味を吟味・尊重し、出来るだけ漢字2文字の「好字」スタイルに表現した努力と才力には敬服する。理系の私はプラズマと聞くとplasma state、すなわち、ものを構成している原子がバラバラになり、電子や原子核が分離してしまうような高エネルギー状態を思い浮かべてしまうのである。
というのは、最近国内メーカの商品でプラズマ乳酸菌をうたっているものがあって、その名称にプラズマというカタカナ文言を使用しているので、一体どんな乳酸菌なのか、その理由・由縁が気になったのである。その商品のメーカはラクティス・プラズマというカタカナ文言を引用して、その商品説明では、プラズマ乳酸菌は免疫細胞を取り仕切る直接プラズマ・サイトイド樹状細胞に働くとあり、プラズマ・サイトイド樹状細胞は元の英語表記は調べるとplasmacytoid dendric cell となっている。樹状細胞がdendric cellであり、plasma-cytoidをやっつければ私の気は少しは澄むだろう。医薬系の資料では 共起表現・形質細胞様の樹状細胞という専門用語が使われている。私に混乱の状態へもたらしたプラズマはプラズマ・サイトイドからきており、共起表現・形質細胞様という訳の分からない漢字で表記したものが原因であった。
しかしこれで終わりでない。訳の分からない漢字の羅列の正体を突き止めないと、私もすっきりと出来ないし、お付き合いして読んで頂いている方にも合点してすっきりとしてもらいたいのである。そもそも、英語のプラズマという文言が年代的には
1712年、ラテン語・ギリシャ語の型で作られたとか、薄く広げたという意味のplasmaを語源として形状、 かたちを示すものとされた。
1845年、血液の液状の部分、遊離細胞の血球やリンパ球などを示すとされ(生化学領域)、
1928年に物理の世界でイオン化したガスを意味するものとなったと詳しい英語の辞書に書かれて いたのである。
私は1953年生まれ、1700年代や1800年代の古い生化学の事などの知識もなく、最近の物理のプラズマ状態という極めて限られた世界の事のみを信じ、それが普遍的な事だと変な理解をしていた為にこんな顛末になってしまった。プラズマとは、血液の赤血球を除いたもはや赤色をしていない黄色味を帯びた一見一様に見える液体を当時の光学顕微鏡で見たところ、沢山密集した小さなつぶ状の物であり、人の健康や病気に関わっているという大発見をして、そういった微細な形状の密集体を意味したものなのだと納得できた。
最近、もっと悩ますnon-cognitive skill を非認知能力と和訳している分野があり、これは認知能力が低下した高齢者の認知症の事ではなく、これをノン・コグニティブ・スキルとカタカナ表記して済ませる事も出来ない。年明けの近いうちに、また呟いてみたい。

令和3年11月2日記す

20年前のノート

四月一日、年度末の仕事や確定申告も済んだので、書類をまとめ書棚のだいたい決めた場所に差し込んでいたら、上から四段目の一番右端で普段は物陰になって何が差し込んであるのか分からないところにあったノートを取り出すと、二十年前の2001年が書き初めで、サラリーマンを早期退職する2004年の年末の直前までに、私が仕事上や普段の事で、気になった事や将来に向けた少し科学的な構想を手書きでメモした汚い自分のペン字が見えた。

恐らく、皆さんと同じく初めの一頁目は綺麗な字で書き始めて、そのうち、自分で書いた字を判読するのに難儀するようなページが続いた。おかしなもので、書いたページが時系列になっておらず、長い空白のページが途中に居座っている所などあり、今日の令和三年四月一日エイプリルフールの日にこのノートを見つけたと差し込みたい位である。

書き方は、日付とメモのタイトルで、幾つか気になったものを列挙する形式で、箇条書きや少しまとまった文章で書いたものが混在しており、その時々の頭の中の思考形態を反映していたかもしれない。次に全部ではないが、それらを示す。

  • 大学時代、研究室で指導を受けた助手の方(年代的には既に某国立大の教授)の科学的自論
  • 法隆寺の五重塔の心柱と各層の組み合わせの耐震構造(壊れない程度にずれる歪む)と自分のコメント
  • 消費・インフラ分析と各利用製品の耐用年数
  • 学会で講演会を聴講したまとめたメモ(業務上であり詳細は省く)
  • JRの列車乗車中にメモしたと注意書きのある、図解の古代、百済、新羅、高句麗出自の日本列島への移民となぜ、東国からわざわざ遠路西国の警備に防人があてられたのか
  • サラリーマン時代にコンサル講座を受けた関連の講演会メモやコンサル研修仲間との談話
  • 自分で考えた将来へ向けた安定健全な投資行動について(低金利時代に入るので高配当株がいいとか)
  • セラミックスの破壊モデルに基づく地震予知(破壊初期時にピエゾ電気効果と超音波が発生する)
  • 2001年に書き留めたこれからのIT時代に向かう姿勢(トラフィックが一万倍になる年数とか)
  • 当時の仕事に関係した通信ネットワークや光海底ケーブルについて
  • 自分のブログのネタ記事(複数ある)
  • 今後の労働環境と日本の強み向上(人材育成が重要)
  • 地元東京北区瀧野川地域、主に神社仏閣を探索した際のメモ(当時まだデジカメの性能が低かった)

それらの中で、2003年に東北大で開催された情報通信関係の学会の個別専門分野の学会講演発表の詳しいメモに交じって、当時普通の学部卒で若くして前年2002年のノーベル化学賞を受賞された民間企業の田中耕一氏(会場の東北大学工学部ご出身)の特別講演(三月十三日)のメモ書きもkey words と付記され、赤字で綺麗に残っていた。以下、具体的に私がメモったものをそのまま紹介する。

☆細かな技術論は別にして
  新鮮さの維持が大切     
  時にはテーマ・仕事を変えよう    
・門外漢の新鮮さ    
・過去に取らわれない、既成事実にそくばくされない  
 0を 1にする発明、努力
 1 ~を100、1000に改良、改善する努力

定かでないのだが、これら赤字のメモは田中さんが話された言葉そのものだったのか、仰った内容を私が咀嚼したものだったのか?やはりノーベル賞研究者の苦しみが分かるのは、何と言っても0を1にする発明発見であろう。1を100にする努力と比べてもその比は無限に大なるものである。(注;当時外資系企業勤務で英語ばかりで日本語力が落ち、下線を付したように誤字や平仮名のままの部分があった) 

私は日記を書かないが頭の片隅には覚えておく癖をつけている。最近では齢のせいか備忘録としてパソコンのエクセルファイルに地域活動の支援メモを何かを行った日だけ残している。それだけでも非常に助かっている。複数の人達と運営している活動では、文書化していないものも多く、誰が決めたのか、俺は知らない・聞いていないということも多く、幸い大きなトラブルに至った事はなかった。

20年前のノートのように身近に隠れていそうな玉手箱を探されては如何でしょうか。

物の認知とCloaking

これまで私の独り言で無や空について仏教関連や数学的に素人なりに呟いた。最近、無や空に気になったことがあった。空(から)とは大きな滝があって、ごうごうと大量の水が飛沫を上げて落下している様をみて、普通はその水の向こうには山崖が窪んだ何もない空間があるようなことだとTVで説明している方がおられたのである。実際30年以上も前にナイアガラの滝のカナダ側で、観光客としてその滝の落水の内側を歩いた体験を思い出した。

そんなきっかけで、そこに物が有るか無いかの認知についてちょっと科学的に触れてみたくなった。

聞かれた事があるかも知れないが、暗闇で飛ぶコウモリは洞窟の中でぶつからずに獲物を捕えることが出来るという。これを学者が研究し発表した論文を読んだことがあるのだが、コウモリは赤外線でなく超音波を発し、高度な認知機能を持っており、その超音波も高音と低音の異なった周波数を上手く使い分け、反射してくる超音波から動く獲物の方向や距離を知るという。それで獲物を捉えて自らの生の為の糧とするのである。

これを少し一般化して、科学的に見てみたい。
物を検知、認知するために何かを発して、その何かが物から反射してきたり、透過する状態を知る、受ける過程(物と発した何かとの相互作用)を解析しなければならない。例えば手元のガラスが赤く見えるのは、理由は三つあって、一つはガラス自体が赤く発光している場合と透明なガラスの向こうに赤く光る光源があって透過して赤く見える場合、さらにガラス表面に赤い塗料が塗ってあって白色光を当て赤く散乱して赤く見える場合である。
その何かとは、拡張すると、光や音、電磁波や超音波、エネルギー粒子(電子、陽子、中性子等々)である。受けるとは検出器、アンテナ、受光器、マイクロフォン、最近はその検出器を2次元・平面的に配列させたものまで開発され、実用化されている。
身の回り、特に医療の検査では、電磁波の一つであるレントゲン、X線で胸部写真を撮り、その影で、古くは結核、今では肺炎、癌などを判定する。超音波エコー画像でも体内の臓器の状態判定がされる。一番進んで断層写真技術(CT)を繋ぎ合わせて、Ⅹ線CT、磁場を使うMRI-CTなどで、体内の高精細な3次元立体像を得て、病層の状況が判定される。以上は、見えないところを暴露させて、明らかにしていこうというものである。

逆に、同じような科学的手法、過程で、物があるのだが、無いように認知させてしまうことが出来てしまう。よく聞く話だが、レーダに捕らわれない・映らない戦闘機だとか、海上の軍用船などである。仮に可視光(眼に見える)を発し、何かにぶつかり反射すると強弱は別にして可視光は発した方向に戻り、その何かが存在することが認知される。もし、その発した可視光が物から戻ってこない状況を再現出来れば、物が存在していても、見えないから「無いと認知させてしまうカムフラージュ」が可能である。
これをレーダのある周波数の無線と考えると、その無線・電磁波を吸収できるような材料で飛行機や船が作れればいいのである。実際は日本が昭和の初期に開発したフェライト材料が電波を吸収するので、使われているそうだ。叉、これには子供に興味がある透明マント(cloak)が引き合いに出される。この透明マントを着て悪戯(わるさ)をしても正体がばれずに済むというわけだ。
最新の技術では微細加工で検出用の物理的波動の波長(発する何か)より小さなものを作ると、見えないという原理原則があり、可視光(普通は500nm程度の波長)では100nm以下のものは見えないので、電磁波の仲間で波長が1nm(ナノメータ)より小さいX線を使うと見えてくるのである。無線電波の領域でも、電波の波長を算出し、その波長より小さな物は見えづらくなる。類似の技術がこれからの5Gスマフォやさらに次世代のモバイル端末に応用すべく開発がスタートしている。

しかし、人の触覚・触るという行為は光や電波を照射して認知されなくても、闇の中でも掴める・触れることで、物があると認知出来てしまう。これは如何なるものかとふと考えたのだが、触って何かあるという事は物理の作用・反作用で質量と重力が関わるものであることが分かる。

最後に、人の認知とはその存在、影響力、将来性、可能性などを社会的活動・交流、コミュニケーションなどから受けとめるものと思うが、人としてこちらから発する何かとはそれらで十分であろうか。まだ相対(あいたい)する透明マントのようなカムフラージュしてしまう状態とはいかなるものであろうか。人を知る、認知する事はそう容易くはいかない。いっそのこと、こちらの心を開き曝け出し、人を常にリスペクト(respect)すればいいのかもしれない。 (令和3年3月記す)

ギメの日本美

  私の独り言は自然に内なるところから湧き出るものでなく、何か外からの刺激があってそれに反応し、結果として表出してくるものが多い。令和3年1月20日の深夜番組NHKのBS放送(後で調べたのだが、2003年に放送された番組の再放送)を観て呟きたくなった。
明治9年に仏より来日したエミール・ギメという若い実業家が日本中の仏様(ほとけさま)、仏像の類と幕末から明治維新の時代に書かれた絵図を収集し(対価の金銭を払い購入した)、仏に持ち帰り自分の美術館を建て、保存保管していたという内容である。
  幕末に和蘭(オランダ)や英米人が来日し、浮世絵や江戸の郊外、谷中巣鴨辺りの植木を買い集め欧州へ持ち帰った話なども多い。また、明治になって経済的に困窮した旧大名、旧家が手放した物品も欧米へ流出した。
よく宿題みたいに本を読んだ感想とか映画を見た印象を文章にしてくれと言われても、子供たちは本当に良かった、素晴らしかったと体感できても、それを文章にしろと言われても、なかなか出来ないものだ。この深夜番組も感動が先で、後で文章にした少し作業的になってしまうが、その感動を少しでも残したいという私の意図がある。写真、絵などを省き、その感動を文字だけにしたためてお伝えすることは一番の難題と分かっている。
  TV番組の場合はこれでもかこれでもかというくらいに鮮明な映像を見せつけてくれるが、ギメが収集した大小の仏像、木造・青銅製の仏像だけでなく、番組では一般庶民が所有していたと思われる大黒様に焦点を当て、ギメが多種多様の日本美として受け入れた仏像を紹介していた。廃仏毀釈で不要とされた「日本の美」を日本人は簡単に処分してしまったのである。
  驚くことには、法隆寺にあった仏像、目黒の行人坂先にある幡龍寺の丈六(高さ4.8m)、青銅製の阿弥陀如来像まで収集し、残念だが三分割されて仏まで輸送され、今でも博物館で保管管理され、日本美として鎮座している姿が紹介されていた。しかし、三分割された切り口は痛々しかった。法隆寺より流出した国宝級の仏像(脇侍・勢至菩薩)は近年里帰りし、主の仏像(阿弥陀仏)と合わせて三体が一緒に写真に収まっていたが、流出した経緯は不明のままである。 記録によるとギメは中国の仏像として購入したらしい。
  さらに関連の仏像を紹介説明している書物まで収集し、その書物を求めたであろう日光にある骨董店にまで取材に出かけ、十二代当主になる淺倉屋・吉田文夫氏の話も番組で取り上げられ、ギメの日本美に対する探求心のようなものまで掘り下げていた。
  今回のNHKのこの番組は著名な写真家が仏にあるギメの美術館、生家を訪れるのだが、あまり番組の内容や私の感動体験をリードしてくるものではなかったので、敢えてお名前は記さなかった。実際、ギメが訪れたあろう日本国内の地を番組の為に巡られた日仏外交研究家クリスチャン・ポラック氏は温厚、静寂感、ゆったりと喋る日本語は十分受け入れられるものであった。
  最後に、ギメが気にいった武者絵師の河鍋暁斎にモデルになってくれと依頼し、同行した画家・レガメが河鍋像を描き始めたところ、河鍋もじっとしながら暇だったので、筆でささっとレガメ像を描き上げてしまったという笑い話みたいなことも番組で取り上げて、私はその部分が一番印象的であった。ギメに同行した画家・レガメの描く河鍋は銅板エッチングのような細い線の集合体として硬く感じたが、河鍋の日本美は、非常に速く走らせる一本の筆で描く墨の濃淡、筆の力具合で変わる太さの集合体からなる人物像であった。

  追記、東京ステーションギャラリーで2020年11月28日から2月7日まで開催されている「河鍋暁斎の底力」展を1月27日にに偶々知る。是非2月に入って訪れてみたいと思う。1月30日記す。

意外な自分自身の経験

先日(2020年9月初旬)、CATVのローカル番組で2007年に放送された関東大震災の横浜での記録が再放送されていた。震源地は相模湾だったが大都市東京の悲惨さばかりが後年報道されて、震源に近い横浜の災害状況がどうだったのか報道されていることは極めて少なかった。
私は今67歳、横浜生まれ、父も大正10年の横浜生まれで、関東大震災の2年前だった。この番組を見て、父が生まれた中区長者町(伊勢佐木町の近く、私の出生本籍地も)が壊滅的な被害を受けたことを白黒の映像から知ってぞっとした。
都内でも火災で10万人以上の死者があり、横浜でも同様に火災で多くの死者が出て、2歳の父がその焦げた瓦礫の下になってしまったと想像すると、、、、<今の私の独り言は幽霊詞になってしまう>
父が生き延び、その小さな父を守ったくれた祖父も昭和20年に63歳で戦死ではなく病死したそうである。父が6年後に結婚し、昭和28年に私が横浜の生麦で生まれ、横浜出身として、世間に言いふらすようになった。

ここからが自分の経験とは何か、少し考えてみたい。
実際、私が横浜で暮らしたのは、7年と5か月と短い。小学校1年の途中で同じ神奈川県の小1時間かかる農家がまだ牛を農耕に使っていた他地域へ、普通の工場の勤め人だったオヤジが家を建てたので引っ越した。しかしこの短い横浜と言う経験が私を育ててくれたと思う。

経験は実体験と後で学んだ歴史的事実が加わった今でいうバーチャル経験であってもいい、想像すると人の経験はこの類である。。
それは関東大震災の番組の中で、ある老人(87歳、震災時父と同じ2歳)があたかも自分が被災した事、町の様子、例えば木造のxx橋が崩れる前に山の手側(今の元町の高台)に逃げ延びられたことを説明されていた。非常に生々しい内容だが、TVのテロップでは当時大きかったお兄様より後年お聞きになった話がベースとされたとあり、それらを自分の体験に転嫁されたようである。これがバーチャルであって、自分の小さい頃の横浜の経験も同じだと思ったのである。

本当に当時小さな私が意識し記憶している体験を列挙し、それらが後の学習によって正しいのであるが加飾された例(*印がある行の説明)を幾つか上げる。

鶴見区生麦に生まれた私は、家族で2両で繋がった電車(京浜急行)に乗って出かけた。
*生麦が、薩摩藩士が幕末、英国人を切りつけた歴史的場所などと当時知る由もない。歴史書

二年保育の幼稚園に通ったが、そこは家族経営の幼稚園で園長先生が二階に住んでおり、時々朝、園長先生を呼びに行かされた。
*その幼稚園は、後プロレスラーになった猪木選手の実家で、ブラジル移住後はお兄さんが残り経営した。当時猪木選手は中学生だったらしいが、小さな私は見かけたこともなかった。親の話

横浜の大桟橋でよく遊んだ。
*写真好きだった父が残してくれた桟橋で撮った兄との兄弟写真があり、それを見て桟橋によく行ったと記憶している。

よく覚えている叔母さん(父の姉)の家に行った時に頼んでくれて美味しかった店屋もののトロミのある中華そば。
*家は南京町(当時は中華街とは呼ばれていない)の近くにあり、中華麺は横浜で有名な生碼麺。「さんまーめん
という発音は記憶している。

その叔母さんの家に行くには電車で生麦から横浜駅へ、そこで乗り換えるのだが、路面電車(市電)とバスがあった。
*バスは野庭口行の市バスと上大岡を経て鎌倉街道をゆく大船行のオレンジ色の鎌倉急行があって、いつもバスに乗せられた。

父からよく聞いた話、父が山下公園で遊んだこと、海辺なので鮭の切り身を餌にカニを釣ったこと。
*山下公園は関東大震災の瓦礫で浅瀬を埋め立てて出来た公園(昭和五年)であることを後年知る。歴史書

これらの学習した横浜は後で学んだことが加わって自分の体験として身についた。よく考えるとそれはバーチャルで加飾された体験である。皆さんの小さい頃の体験・経験を振り返ってみては如何ですか。

リフォーム前の壁掛け作品

令和になって、5月の連休後に、築30年を向える我が家のリビングとキッチンスペースの大リフォーム工事が始まった。2月頃から業者と打ち合わせを開始し、これからは30歳をとうに過ぎた子供達が使うので、子供達の好み要望を沢山出してもらい、それに合わせて業者からの提案を受け、煮詰めて最終案となった。どちらかというと私の願望は抑えた。わざわざ大阪にいる二男は建築科出身ということもあって東京の打合わせに顔を出し、業者もメールで二男へ回答などもくれていた。二男は予算の金額には目もくれず、良いものや改造案をどんどん出していく性格だ。娘もキッチンのシステム化や対面式・オープン化でどしどし母親を押していく。長男夫婦は綺麗好きで、食洗機は勿論、配置でも物を出来るだけ置かないようにシンプル派だ。

個性と性格が出て当たり前、システムキッチンのショールーム見学へはお嫁さんや娘は勿論、二男は結構業者に食らいついたようだ。私も同行したが、皆が気に入る環境作りが出来れば善しとした。最後の詰めは家内と娘が行き、キッチンの色をもっと明るく白っぽくしてきて、少し予算額を下げた。

普通、新しく仕上がった壁紙の壁には写真の1枚や2枚、絵画の1枚や2枚位、別に骨董的価値に問わず、飾りたくなるものだが、今回のリフォームの約束は一切何も壁には掛けないと決めたのである。時を知る時計もない。

実はリフォーム前はご多分にもれず、どこの家庭でも見られる光景のように子供が小さい頃から撮った写真を大きくしてフレームに入れ、壁に吊るしておいたのだ。枚数は定かでないが、娘が3才頃初めて料理をしてサラダを作った、東京に大雪が降り雪を掻き集め“かまくら”をやっとのことで作り上げ、小さな子供が2人入れる小さな穴が鎮座、子供の剣道、体操姿、京都の修学旅行、一番成長したもので次男の高校の入学式でなぜだか止まった。それらの中で白黒の作品2つだけ違っていた。1枚は私が学生時代(1975年)に北海道(道東)野付半島近くの尾岱沼で冬撮影した白鳥と、もう一つは30年前の新築祝いで家内の知り合いから頂いた銅版版画(エッチング)である。

私の冬の凍った湖と数羽の白鳥よりも、頂いたエッチングの主(学校の美術系の先生と伺っていたが作家と呼んでおこう)が気になった。私は一度もお会いしたことのない作家さん(家内の知り合いの女性の旦那さん;年齢的に定年退職され、数年前都内よりご出身地の方へ戻られている)であるが、エッチング作品に残されているアルファベットの署名で調べると著名な方と分かった。xxx展覧会の審査員を務めていらっしゃる。人の顔をデフォルメした当時お祝いで頂いた作品(木霊Xと題されている)から進化転化され、写真と間違えそうな位、繊細で緻密な森の木々を描いた作品はインターネットで紹介されていた。ご出身の群馬の山奥か、私の記憶を辿ると上高地の沢沿いのまだ樹木が残って枝落ちし、それが朽ちかける経過のように凄い年数を思わせる作品だ。私には寂しげだが長い長い静かな生命を感じた。

なぜ、30年前の当時このような作品を頂いた由縁を考えると、ご両親のお仕事の関係で子供さん達を朝早く保育園に連れて行くことが出来ず、家内が代わって知り合い(地元の学校の同級生同士)のお子さん達を連れて行ってあげていたのだ。当時は待機児童という言葉もなく、近所で協力していたのだ。家内も仕事をしていたが朝、時間の余裕は少しあったようだ。インターネットで、作家さんご夫妻が昨年、〜木と水と土と〜 と題して二人展を開催されていたこと知り、お子様たちも親の手から離れたのだろうと安堵した気持ちになった。まさに森の木とせせらぎの水、土とは奥様の陶芸家としての粘土だと私の独り言となった。

令和元年7月2日記す

45年前の万葉の旅と令和


令和元年5月の連休明けに始まった築30年の我が家のリフォーム工事の為に数か月前より、家の中の断捨離を子供達に急(せ)かされながらやった。ちょうど5月17日の朝、断捨離を済ませ生き残った古本が綺麗に並べられて、ベットの横の本棚の奥の右側に、万葉の旅(上、下、現代教養文庫・社会思想社;1972年)が見えた。そうだな、理系の学生の私だったが、学生時代、時間があるとこの万葉の旅で詠われている万葉歌の故地を尋ねるのを趣味としていた。学生時代の講義では故江藤淳先生のレポートで悲劇の大津皇子や二上山を題材にした時もこの万葉の旅にお世話になった。

前置きよりも、私はとっさに、下巻を掴み見出しをパラパラと送り、キーワード;大宰府を探してしまった。大宰府には(一)(二)があって、見出しの(二)の前のP126に“梅花の宴”が纏められており、約45年前に手にした本には、こう書かれていた。

梅花の歌三二首と中国詩文を模倣駆使した美文の序とが巻五に所収されている。

序の一節に「時に初春の令月、気淑く風和ぎ、梅は鏡前の粉を披き・・・」

この一節が新年号・令和の由縁とされたもので、世間で騒がれている大先生以上の著者の犬養孝氏は既に昭和39年9月にあとがきを記している。

残念だが、当時九州旅行では他の万葉歌が歌われている地区を旅してしまった。大宰府は超有名どころで、当時は徒歩でしか行けないような鄙びた別な所を探し回った。本の見出しに鉛筆でチェックした跡が残されている所を旅したのだなと記憶を戻した。学生時代という短い期間ではあったが、本で見たり、実際に訪れ、8世紀ごろ以前の日本の国の広さ(文化、支配圏)が、万葉歌が詠われている最北端地、最南端地で理解できるのではないかと思い、訪ねてみた。

最北は東北線の小牛田近くの黄金神社(当時金が採れたという)で、せいぜい宮城県多賀城遺跡の少し北であり、最南は鹿児島県阿久根市の薩摩の追門(黒の瀬戸、鳴門の渦潮みたいな流)である。黄金神社は雪降る大学3年生の2月ごろ訪れ、当時は本当に普通の神社で私の他に誰も訪れている人はなかった。薩摩の追門は少し暖かい時期に尋ね、確か国鉄の阿久根の次の折口駅から徒歩で往復した。いわゆる天草の入り組んだ瀬の一つで、古代当時は隼人が中心だった地域である。歩いて腹が減ったので確か駅前の小さなラーメン屋で麺を注文したら、ちゃんぽん麺みたいな汁と麺が出され、おばさん一人でやっている店で味わった。阿久根へは薩摩半島の長崎鼻を訪れ、西鹿児島経由で来た。当時の国鉄の列車に乗っていて非常に脳裏に焼きついている事は、北九州辺りの方言は分かるのだが、熊本を過ぎもっと南の地域では乗り込んできた老婆の九州弁は若い学生にとってイントネーションがベトナムかアジア南部の方が話している様だった。

この万葉の旅は上、中、下の3冊あるのだが、今は(中)が迷子で見当たらない。(上)にはメッカの大和地域で詠われた万葉歌が多く紹介され、詳細に分類されている。付け足しだがこの(上)を参考にして、学生当時(1976年頃)、友人の父親が単身赴任で住んでおられた奈良西大寺近くの官舎を根城にさせて頂き、大和三山、山の辺の道などを、友人と供に歩いて味わった。色彩豊かな壁画が描かれた高松塚古墳が1972年に発見された4年後であるが、当時は見学者を受け入れる状況にはなっていなかったと思う。

九州の旅は鹿児島大であった学会の後の一人旅だったが、今振り返ると昭和の帝が、約13年後に身罷われ、更に30年後に現上皇が自ら退位の意を表され、普通は深い悲しみの中で新年号を受け入れるのであるが、この令和の新年号はどちらかというと慶事の雰囲気漂う中で待ち望んだ。予期もせず、こういう初めての、心の持ちように万葉歌がしてくれたと想いたい。

岡本太郎 2

平成30年4月9日、自宅で仕事部屋兼ジャンクルームの断舎利をしていたらこの独り言をプリントアウトした紙片(前月号の独り言)が出て来た。読み返すと平成17年記すとあり、文末で、しばらくして岡本太郎に会いに行ってみようと呟いていた。その呟きから約13年も知らずに過ぎてしまった。

最近、旧大阪万博跡にある太陽の塔がリニューアルされて、再び多くの訪問者の眼を楽しませているというニュースを聞いたが、しばらくすると来場者数は期待していたほどではないという、追いかけのニュースを聞くと現代人には太郎の想いの念力も効かなくなっている時代に変わっているのかとも、少し寂しい。

また、別なことも頭に沸いてきた。岡本太郎と知の関係を呟くのに関係なさそうであるが、ある出版社の記者との逸話をまだ口外していなかったのか定かでないが、お話ししよう。私が昭和の時代53-60年頃、電気会社に勤めていた若い頃(24-32才)に、ある先輩がいて、両親が文筆家とお聞きしていていた。先輩が米国へ転職し、私もその後転職し、消息を聞くこともなく十数年が過ぎて、その先輩が帰国され再会できた。先輩との雑談の中で、“俺の父が若いとき岡本太郎の原稿取りをしていて”、よく自宅(おそらく青山にあった頃)押しかけたそうで、酒が好きな岡本太郎を新橋界隈からご自宅までお供したような関係だったそうである。こんな話では太郎の知的挑戦に係わる呟きに繋がらないが、私にとって、偶然再会した先輩のお父様を介して岡本太郎の人となりを知って非常に身近になったことは、知識・情報が積み重なりある種の構造化した成果と言える。

さらに、記憶をたどると、東京都庁が高層化し西新宿へ移転する前(1985-90年頃)に、今の有楽町国際フォーラム辺りに旧都庁舎があり、取り壊す前に一般の都民が立ち入れる建物のある処に太郎の作品がオブジェとしてあり、そこを見学したことを思い出した。

さらに、続く時は続くもので、平成30年4月の中旬(正確にいうと、紙片を見いだした9日から1週間後の16日)、出けた先のあるカフェ風のお店でお客用に本棚があり、古本が置いてあった。般若心経・・・という見出しに引かれ、直ぐさまその古本を手に取った。著者は大城立裕氏、発行は1981年、正確な著名は般若心経入門である。

なぜ、般若心経のタイトルに惹かれたかという理由も述べなければならないが、最近インド仏教の経典の梵語・サンスクリット語を古代中国が漢字化した時代の経緯を知り、音写と意訳の2通りで訳された語彙が、後年日本へも輸入され、多くのところにサンスクリット語をベースにした語彙が、それとは知らずに我々は日本語として使ってしまっていることを知ったのであった。例えば知に関するもので、知恵があるが、本来は智慧という仏教用語をベースにしているという。

さらに表紙をめくると、おっと、なんと岡本太郎の推薦文がお出ましになったのである。沖縄の大城氏と岡本太郎には交流があり、初めは大城氏も太郎の母、岡本かの子氏との接点があり、太郎と知り合うようになったと本文に紹介されていた。私の最初の川崎・二子での出会い(現高津区二子は岡本かの子の実家大貫家があった)と似ている。

太郎の言葉は以下のように吐かれていた。

色即是空、空即是色、強烈な世界観だ。 しかしこれをただ頭で考え、言葉で受けとめるだけでは、大した意味はない。生活の中に生かさなければ。大城立裕は自らの戦争体験を重ねあわせ、これを噛みくだく。 私はかつて沖縄に行き、島々の清らかな気韻、透明感、その凄みに打たれて「沖縄文化論」を書いた。沖縄には無の豊かさ、存在の原点で生きている充実感がある。だから沖縄の人、大城君がこの般若心経にぶつかって感動したのは自然である。 現代人は無のなかでナマ身で生きる、無即有の生命の自在さを失ってしまっている。豊饒な空の世界にこそ目をひらいてほしい。

出張先のカフェでこんな形で、13年後の再会になろうとは微塵にも思わなかった。13年前の本意は生田にある美術館にまた訪れたいという軽い気持ちだった。また、“無”に関する呟きにも少し腑に落ちたのであった。無と空とは完全には一致しないが、般若心経の色即是空は物の因果関係性から説いたもので、物が無いのではなく、例えば食物連鎖を考えると、最初の植物性プランクトン→動物性プランクトンがいないと、連鎖の最上位にいる人は生きていけない、存在できない。このような因縁・因果の関係性が世の中には沢山あり、人の営みを支えてくれていることを教えてくれている。岡本太郎の豊饒な空の世界はなんと素晴らしい。人は手にとって確認可能な物質的な言葉と、人が考えたり、想像したり、抽象的概念を示す言葉とを創造しそれらの因果関係を、自らを豊かにしていると思わせてくれた。

平成30年4月25日(水)、仕事で出かけた横浜からの帰り道で東横線を久々に利用し田園調布の“太陽の塔”を再確認しようと決めた。何しろ数十年前の古い事なので、私の勝手な思い込みで、その塔が有るのか無いのか、建造物自体が残っているのか心配したが、正に残っており、“鎮座”していた。通り過ぎる電車の中から観察すると、それは屋根の千木みたいな位置にある大きな丸い飾り物のように見えた。後で調べると、それは世界真光文明教団の建物と分かった。遠目に“太陽の塔”と信じ見えたものは、その宗教団体の星をモチーフにしたシンボルであった。

大阪に行く機会は無いわけではないので、川崎・生田の山でなく大阪万博跡のリニューアルされた太郎と本当の再会をしてみたいとも想っている。5月1日この原稿に終止符を打とうとしている時、大城氏が1967年沖縄初の芥川賞を受賞されていたことを知り、なんと私の無知を曝け出すことか。

1ドルコイン

大学院1年(1976年)の夏、初めて米国に旅行に行った。42年前を振り返ることになってしまった。お金が無かったので、夏はアルバイトをしてお金を貯めてから、大学の夏休みの終わりごろ日本を発ち、2週間して9月に入って戻ってきた。

当時は米1ドルが280円前後と記憶していて、ドル札両替も銀行でパスポートの後ろの方のページに何ドル両替と記録された。バイトで稼いだお金と航空券購入の残金など合わせて、500ドル位両替した。これからケチケチ旅行が始まったのであるが、ちょっと変わった事とは帰国した際に大きな米国1ドルコイン2つがズボンのポケットに入っていたことであった。

旅行の道中記録も詳しく書きたいところであるが、それは別の機会とするが、どこをたどったかは、下に示す。

羽田空港→/ホノルル(ハワイ)/ロサンゼルス/デンバー/フォートコリンズ/ララミー/イエローストーン公園/シャイアン/アルバカーキ―/コロラド渓谷/ロスアンゼルス(デズニーランド、アナハイム)/ホノルル/ハワイ島(ヒロ、コナ)/ホノルル/→羽田空港

この道中で沢山の経験をし、色々な方のお世話になり無事に帰国したわけであるが、この1ドルコインに絞って話をしたい。当時は米国西海岸へは一旦ホノルル経由の飛行機となる。しかし、このホノルルがキーワードとなり、単なる経由地ではなく、私の父方の叔母さん(姉)の家族が住んでおり、帰りに会うことも目的だった。今もそうであるが、米国のコインはクオーター(25セント)が一般的で、当時大きな1ドルコインなども知らず、1,5,10,20ドル札で十分であった。

結論を先に明かしてしまうと、普通の米国人でも当時、入手は簡単でなく、ホノルルの郊外、パールハーバー(真珠湾)を見渡せる小高い処に住む叔母さんがやっとのことで手に入れ、私と兄の分2枚を土産として贈ってくれたのである。本当に色々な土産の中で今でも残っている唯一のものである。結婚し、自宅を離れ、大きな1ドルコイン1枚が常に私と共に、散逸、迷うこともなく42年間連れ添ってきているのである。

もう、かなり前に亡くなった大正一桁生まれの叔母は、このコインはラスベガスのカジノで使うために作られ、そこでだけでしか流通していないような話をしてくれたことを覚えている。調べると本当だ。後年仕事で訪米し、ついでにラスベガスや近郊のカジノを覗いたが、まだ直接現金コインをスロットマシーンみたいなものに入れる機械が残っていた。その時でも大型の1ドルコインを差し込むものは見当たらず、クオーターだけの機械だった。余談ではあるが、同行した米国人の友人がクオーターのスロットで大当たりをして、じゃらじゃら一山の25セントコインをゲットした時、1ドルなら金額が同じでも量は減らせるなと感じた次第である。

この約40年の間に、円が円高となり、ドルがドル安となる訳だが、円が1ドル79円ゾーンまで高くなった時もあり、最近は110-114円ゾーンで安定している。当時500ドルだった携行していた金額は1772ドルにもなった時もあったが、泡銭という言葉がぴったりのようだ。細かな話であるが、ケチケチ旅行で最後のホノルルの買い物で、当時の日本円で数万円もするような、ドイツ・アディタス製、ブルーのバックスキンのランニングシューズを30ドル程度で購入し(そのためにドル現金を使わないよう残しておいた)、履いていた古いシューズを捨て、新しいものに履き替えて土産として帰国した。今となっては笑い話になるようだが、40年以上前でもハワイのコナコーヒーはあって、土産として買ったのだが、ハワイの叔母にコナコーヒーは有名でもなく、味も普通のものだと言われたことが鮮明に覚えていた。昨今コナコーヒーは有名となり、価格も高く、何がどう変わったのか、私は定かでない。

最近のフォトニクスと見えない日本

久しぶりに、米国OIDAのサイトを覗いた(閲覧した)。

そこで米国国家プロジェクト、NPI  National Photonics Initiativesの活動が紹介されていた。

ほぼ1年遅れで見ることになったのだが、2017年の後半に2018年のフォトニクスを予想するみたいな記事(動向)があって、精査した。2018年の実績、成果と言ってもいい、Lidar, VCSEL, Additive Manufacturing, Basic research: Make America great again? 等々が取り上げられていた。

Lidar 技術はもともと大気汚染を監視する為に開発されたという。それが車の自動運転のためのセンサーとし脚光を浴びることになった。

VCSELは通信用だけでなく、上のLidarの光源、アップルの携帯端末の搭載される3Dセンサー向けに膨大な数(従来の10倍)のVCSEL半導体チップが必要であること、米国の大手メーカ2社の名前(L社、F社)が示されていて、日本の企業は蚊帳の外である。

Additive manufacturingにはガスレーザではなく、高強度狭短パルスファイバーレーザが必要で、業界のメーカが買収などを通じて、大手は市場の40%を抑えているという。

Basic researchのセグメントでは、量子暗号化通信や人工知能AIへ米国だけでなく、中国、欧州が巨額の開発投資をしているとあり、日本の引用などは無かった。