小椋佳さんの縁語と創造性

 作詞家の小椋佳さんは若い時に相当悩んだそうだ。人は何故生きるのか、創造性のみが生きる証にみたいな哲学的に深く思慮することなく、東京大学を卒業してしまい社会に出てしまったことを悔いていることを吐露している深夜TV番組を令和3年7月の最後の日、8月1日にならんとする前の時間帯に私は観たのだ。

 私は創造性が人の生きている証だというような小椋氏的哲学的な思唯もせず、機械的に、人間味もなく只、効率よく発明をしたい、創造をしたいと理由で、よく世間で言われているような閃きで発明出来たとか、創造できたとかというプロセスをもっと科学的にやりたいと、若い頃から考えていた。次のイノベーションというプロセスを外部からインプットする前に、図解は省くが言葉の連関性を少し数学的に纏めることによって出来そうだということを、サラリーマンを早期退職してコンサルティング業を始めて、異業種セミナー、コンサルティングセミナーで紹介する機会もあった。
 イノベーションという既存にあるものを新しい組み合わせで、今までにない機能や効果をもたらすという行動、活動が単に科学的発明という領域でなく、ビジネスの領域で叫ばれ、興隆し、大きな成果や事業実績を欧米企業があげて、国内企業も後を追いかけ、それなりの成果を示してきている。
 さて、小椋佳さんは作詞をする際に、縁語(ご縁があるという表現を使うが、類似している言葉、仲間のような言葉)を用いて、言葉の世界を広げて、創造性を高めているようなお話をされていたのだ。例えば、海という言葉から島、波というような縁語を発生させて、さらに生まれた島や波という言葉から次々と縁語を発生させて、言葉を紡ぎ、唄の歌詞を創造していく独自のプロセスを作り上げたそうだ。それらはまさにイノベーションであって”苦しんで生み出す”そうだ。そのTV番組では奥様の談話があって、本当は”楽しんでやって欲しい”との事だった。小椋さんの縁語というやり方は中心の言葉があってその言葉から比較的容易に類推、創りだせる言葉の集合体といえる。
 閃きを科学するプロセスは言葉、そのものではなく、言葉の集合体で説明される知の一つの事象で、例えば中心の事象xxがあって、容易に類推できる事象xxxと容易には類推できない事象yyyがあって、容易に類推出来ない事象をある段階、あるステップで繋ぎ、今までにない事象を見出していこうとする方法である。
 小椋さんの縁語でも、海から容易に創りだせる島や波という言葉でも、逆に島から”海”という言葉を思い浮かべる重みと波から”海”という言葉を思い浮かべられる重みとは同等でなく、違うはずである。それも人の経験や背景で違うのも当然であろう。海から島を思い浮かべる頻度と島から海を思い浮かべられる頻度が異なるということだ。

異業種の会などで私の紹介した5つの事象例は
 A 水は0度で凍る。
 B 氷は0度で溶ける。
 C コップに入れた水と氷の共存、冷たい飲み物
 D コーラを飲む。炭酸水、氷、味の共存。
 E 塩を加えると温度が下がる、添加物を加えると凝固点温度が下がる。

 ここで一つ一つの事象の間に連関ベクトルを定義する。一般に連関ベクトルの大きさの特徴は異なり、例えばA-B B-Aはほゞ同じ大きさと思われるが、A-E E-Aは異なる。さらに、A-C C-Aや
C-D D-Cも異なる。さて、これらの事象を4ステップで繋ぎ、その連関ベクトルが小さいと推定されるルート、D-C-A-Eによって、コーラを飲む—添加物を加えると凝固点温度が下がる という普通は類推しないような事象にも注目してみようという、知的財産創造プロセスへのアドバイスになる信じ、提案している。紙面が限られているので、ご自分の創造したい領域で、考えてみてはいかがでしょうか。

 素人の戯言で申し訳ないのだが、小椋さんの縁語は文字が読めない・書けない小さな子供でも諳んじられる音を中心とした「ことば」で紡がれ、自然発生的に創造される歌詞とメロディーが上手く共鳴するように織り重なって、心地よい歌を沢山生んだものに違いないと確信した。
  「歌創り50年青春に帰る」というTV番組のタイトルも、何か老け込んだと言っても怒られない、誰もが否定はされない今現実の小椋さんではあるが、彼の若さ、あどけなさは彼の歌詞・メロディーに染み入っており、それらが若い人に引き継がれ口ずさまれ、生き続けていく。

二つの疑問;新型コロナウィルス感染率とワクチン接種

昨日、令和4年1月9日現在、東京都内の1日当たりの感染判明者は1224人、総検査数が分からないが、感染者率が10%とすると、その他90%の発熱相談者約11000人の方は新型コロナに感染していなくとも、他の何らかの発熱をもたらしたウィルス、病原菌に起因すると想定される感染症に罹患しており、コロナの9倍もの方が社会活動しているのだ。

2番目の問題として、今回のオミクロン種罹患者で2回のワクチン接種者はワクチン効果で軽症、もしくは無症状率が高いと報じられている。ということは、ワクチン2回接種者が普通の社会行動をして、自ら感染源として作用していることとなる。私はこの状態が過去に見なかった週毎の10倍以上の感染者上昇率をもたらしているのではないかと推測している。

旧型のコロナ種患者は肺に重篤な症状をもたらしたが、このオミクロン種罹患者は鼻・喉に炎症をもたらす程度で、始めの指摘の発熱相談者数に含まれないのだ。

高速・高集積度の半導体チップを搭載したイーサネットスイッチの売上が好調

令和3年12月16日リリース情報、オリジナルソースは文末のサイトを参照して下さい。

2021年第3四半期の結果がDell’Oro社より以下のように公表された。データセンター向けにイーサネットスイッチが11%も売り上げが伸びた。シスコ、アリスタ、Huaweiがトップ3社(順に)であるが、トップのシスコは数%シェアーを落としている。2番手のグループのwhite box maker のアリスタやジャニパーが伸ばしている。

グーグルとアマゾンは既に400Gbps スイッチを300万ポートもハイパースケールDCに導入済でマイクロソフトも第3四半期より導入開始するという。

Ethernet Switch Revenues Reach New High as Cisco Loses Ground – SDxCentral

プラズマ・Plasma

言葉は多才、複雑だなと、最近実感した事があった。翻訳の仕事をしたり、主に英語の資料を分析解釈しているコンサルの仕事をしていると、辞書のごとく英語のある言葉が日本語の特定な訳語に1:1に対応するなど稀であって、文化の多様性で腹や胸の辺りをグサッと刺されるようなある種、変に高揚する気分になる。このような言語文化の課題は時間と変遷が絡む現代日本語と古文の関係にも言え、要は理解される様に分かりやすく嚙砕いて伝えることが出来ればほっと安心する。
物を意味する言葉、形容する言葉、感情表現する言葉、抽象的思考状態などを表現する言葉へと、だんだんと文化の差が広がると言葉の表現もかけ離れて、時には日本文化にはあるが欧米文化では無いとか、その逆も多々あることを経験している。
さて、最近プラズマというカタカナ英語(外来語)が気になるのである。明治時代の文人はカタカナ読みの外来語は使わず、漢字の意味を吟味・尊重し、出来るだけ漢字2文字の「好字」スタイルに表現した努力と才力には敬服する。理系の私はプラズマと聞くとplasma state、すなわち、ものを構成している原子がバラバラになり、電子や原子核が分離してしまうような高エネルギー状態を思い浮かべてしまうのである。
というのは、最近国内メーカの商品でプラズマ乳酸菌をうたっているものがあって、その名称にプラズマというカタカナ文言を使用しているので、一体どんな乳酸菌なのか、その理由・由縁が気になったのである。その商品のメーカはラクティス・プラズマというカタカナ文言を引用して、その商品説明では、プラズマ乳酸菌は免疫細胞を取り仕切る直接プラズマ・サイトイド樹状細胞に働くとあり、プラズマ・サイトイド樹状細胞は元の英語表記は調べるとplasmacytoid dendric cell となっている。樹状細胞がdendric cellであり、plasma-cytoidをやっつければ私の気は少しは澄むだろう。医薬系の資料では 共起表現・形質細胞様の樹状細胞という専門用語が使われている。私に混乱の状態へもたらしたプラズマはプラズマ・サイトイドからきており、共起表現・形質細胞様という訳の分からない漢字で表記したものが原因であった。
しかしこれで終わりでない。訳の分からない漢字の羅列の正体を突き止めないと、私もすっきりと出来ないし、お付き合いして読んで頂いている方にも合点してすっきりとしてもらいたいのである。そもそも、英語のプラズマという文言が年代的には
1712年、ラテン語・ギリシャ語の型で作られたとか、薄く広げたという意味のplasmaを語源として形状、 かたちを示すものとされた。
1845年、血液の液状の部分、遊離細胞の血球やリンパ球などを示すとされ(生化学領域)、
1928年に物理の世界でイオン化したガスを意味するものとなったと詳しい英語の辞書に書かれて いたのである。
私は1953年生まれ、1700年代や1800年代の古い生化学の事などの知識もなく、最近の物理のプラズマ状態という極めて限られた世界の事のみを信じ、それが普遍的な事だと変な理解をしていた為にこんな顛末になってしまった。プラズマとは、血液の赤血球を除いたもはや赤色をしていない黄色味を帯びた一見一様に見える液体を当時の光学顕微鏡で見たところ、沢山密集した小さなつぶ状の物であり、人の健康や病気に関わっているという大発見をして、そういった微細な形状の密集体を意味したものなのだと納得できた。
最近、もっと悩ますnon-cognitive skill を非認知能力と和訳している分野があり、これは認知能力が低下した高齢者の認知症の事ではなく、これをノン・コグニティブ・スキルとカタカナ表記して済ませる事も出来ない。年明けの近いうちに、また呟いてみたい。

令和3年11月2日記す

20年前のノート

四月一日、年度末の仕事や確定申告も済んだので、書類をまとめ書棚のだいたい決めた場所に差し込んでいたら、上から四段目の一番右端で普段は物陰になって何が差し込んであるのか分からないところにあったノートを取り出すと、二十年前の2001年が書き初めで、サラリーマンを早期退職する2004年の年末の直前までに、私が仕事上や普段の事で、気になった事や将来に向けた少し科学的な構想を手書きでメモした汚い自分のペン字が見えた。

恐らく、皆さんと同じく初めの一頁目は綺麗な字で書き始めて、そのうち、自分で書いた字を判読するのに難儀するようなページが続いた。おかしなもので、書いたページが時系列になっておらず、長い空白のページが途中に居座っている所などあり、今日の令和三年四月一日エイプリルフールの日にこのノートを見つけたと差し込みたい位である。

書き方は、日付とメモのタイトルで、幾つか気になったものを列挙する形式で、箇条書きや少しまとまった文章で書いたものが混在しており、その時々の頭の中の思考形態を反映していたかもしれない。次に全部ではないが、それらを示す。

  • 大学時代、研究室で指導を受けた助手の方(年代的には既に某国立大の教授)の科学的自論
  • 法隆寺の五重塔の心柱と各層の組み合わせの耐震構造(壊れない程度にずれる歪む)と自分のコメント
  • 消費・インフラ分析と各利用製品の耐用年数
  • 学会で講演会を聴講したまとめたメモ(業務上であり詳細は省く)
  • JRの列車乗車中にメモしたと注意書きのある、図解の古代、百済、新羅、高句麗出自の日本列島への移民となぜ、東国からわざわざ遠路西国の警備に防人があてられたのか
  • サラリーマン時代にコンサル講座を受けた関連の講演会メモやコンサル研修仲間との談話
  • 自分で考えた将来へ向けた安定健全な投資行動について(低金利時代に入るので高配当株がいいとか)
  • セラミックスの破壊モデルに基づく地震予知(破壊初期時にピエゾ電気効果と超音波が発生する)
  • 2001年に書き留めたこれからのIT時代に向かう姿勢(トラフィックが一万倍になる年数とか)
  • 当時の仕事に関係した通信ネットワークや光海底ケーブルについて
  • 自分のブログのネタ記事(複数ある)
  • 今後の労働環境と日本の強み向上(人材育成が重要)
  • 地元東京北区瀧野川地域、主に神社仏閣を探索した際のメモ(当時まだデジカメの性能が低かった)

それらの中で、2003年に東北大で開催された情報通信関係の学会の個別専門分野の学会講演発表の詳しいメモに交じって、当時普通の学部卒で若くして前年2002年のノーベル化学賞を受賞された民間企業の田中耕一氏(会場の東北大学工学部ご出身)の特別講演(三月十三日)のメモ書きもkey words と付記され、赤字で綺麗に残っていた。以下、具体的に私がメモったものをそのまま紹介する。

☆細かな技術論は別にして
  新鮮さの維持が大切     
  時にはテーマ・仕事を変えよう    
・門外漢の新鮮さ    
・過去に取らわれない、既成事実にそくばくされない  
 0を 1にする発明、努力
 1 ~を100、1000に改良、改善する努力

定かでないのだが、これら赤字のメモは田中さんが話された言葉そのものだったのか、仰った内容を私が咀嚼したものだったのか?やはりノーベル賞研究者の苦しみが分かるのは、何と言っても0を1にする発明発見であろう。1を100にする努力と比べてもその比は無限に大なるものである。(注;当時外資系企業勤務で英語ばかりで日本語力が落ち、下線を付したように誤字や平仮名のままの部分があった) 

私は日記を書かないが頭の片隅には覚えておく癖をつけている。最近では齢のせいか備忘録としてパソコンのエクセルファイルに地域活動の支援メモを何かを行った日だけ残している。それだけでも非常に助かっている。複数の人達と運営している活動では、文書化していないものも多く、誰が決めたのか、俺は知らない・聞いていないということも多く、幸い大きなトラブルに至った事はなかった。

20年前のノートのように身近に隠れていそうな玉手箱を探されては如何でしょうか。

物の認知とCloaking

これまで私の独り言で無や空について仏教関連や数学的に素人なりに呟いた。最近、無や空に気になったことがあった。空(から)とは大きな滝があって、ごうごうと大量の水が飛沫を上げて落下している様をみて、普通はその水の向こうには山崖が窪んだ何もない空間があるようなことだとTVで説明している方がおられたのである。実際30年以上も前にナイアガラの滝のカナダ側で、観光客としてその滝の落水の内側を歩いた体験を思い出した。

そんなきっかけで、そこに物が有るか無いかの認知についてちょっと科学的に触れてみたくなった。

聞かれた事があるかも知れないが、暗闇で飛ぶコウモリは洞窟の中でぶつからずに獲物を捕えることが出来るという。これを学者が研究し発表した論文を読んだことがあるのだが、コウモリは赤外線でなく超音波を発し、高度な認知機能を持っており、その超音波も高音と低音の異なった周波数を上手く使い分け、反射してくる超音波から動く獲物の方向や距離を知るという。それで獲物を捉えて自らの生の為の糧とするのである。

これを少し一般化して、科学的に見てみたい。
物を検知、認知するために何かを発して、その何かが物から反射してきたり、透過する状態を知る、受ける過程(物と発した何かとの相互作用)を解析しなければならない。例えば手元のガラスが赤く見えるのは、理由は三つあって、一つはガラス自体が赤く発光している場合と透明なガラスの向こうに赤く光る光源があって透過して赤く見える場合、さらにガラス表面に赤い塗料が塗ってあって白色光を当て赤く散乱して赤く見える場合である。
その何かとは、拡張すると、光や音、電磁波や超音波、エネルギー粒子(電子、陽子、中性子等々)である。受けるとは検出器、アンテナ、受光器、マイクロフォン、最近はその検出器を2次元・平面的に配列させたものまで開発され、実用化されている。
身の回り、特に医療の検査では、電磁波の一つであるレントゲン、X線で胸部写真を撮り、その影で、古くは結核、今では肺炎、癌などを判定する。超音波エコー画像でも体内の臓器の状態判定がされる。一番進んで断層写真技術(CT)を繋ぎ合わせて、Ⅹ線CT、磁場を使うMRI-CTなどで、体内の高精細な3次元立体像を得て、病層の状況が判定される。以上は、見えないところを暴露させて、明らかにしていこうというものである。

逆に、同じような科学的手法、過程で、物があるのだが、無いように認知させてしまうことが出来てしまう。よく聞く話だが、レーダに捕らわれない・映らない戦闘機だとか、海上の軍用船などである。仮に可視光(眼に見える)を発し、何かにぶつかり反射すると強弱は別にして可視光は発した方向に戻り、その何かが存在することが認知される。もし、その発した可視光が物から戻ってこない状況を再現出来れば、物が存在していても、見えないから「無いと認知させてしまうカムフラージュ」が可能である。
これをレーダのある周波数の無線と考えると、その無線・電磁波を吸収できるような材料で飛行機や船が作れればいいのである。実際は日本が昭和の初期に開発したフェライト材料が電波を吸収するので、使われているそうだ。叉、これには子供に興味がある透明マント(cloak)が引き合いに出される。この透明マントを着て悪戯(わるさ)をしても正体がばれずに済むというわけだ。
最新の技術では微細加工で検出用の物理的波動の波長(発する何か)より小さなものを作ると、見えないという原理原則があり、可視光(普通は500nm程度の波長)では100nm以下のものは見えないので、電磁波の仲間で波長が1nm(ナノメータ)より小さいX線を使うと見えてくるのである。無線電波の領域でも、電波の波長を算出し、その波長より小さな物は見えづらくなる。類似の技術がこれからの5Gスマフォやさらに次世代のモバイル端末に応用すべく開発がスタートしている。

しかし、人の触覚・触るという行為は光や電波を照射して認知されなくても、闇の中でも掴める・触れることで、物があると認知出来てしまう。これは如何なるものかとふと考えたのだが、触って何かあるという事は物理の作用・反作用で質量と重力が関わるものであることが分かる。

最後に、人の認知とはその存在、影響力、将来性、可能性などを社会的活動・交流、コミュニケーションなどから受けとめるものと思うが、人としてこちらから発する何かとはそれらで十分であろうか。まだ相対(あいたい)する透明マントのようなカムフラージュしてしまう状態とはいかなるものであろうか。人を知る、認知する事はそう容易くはいかない。いっそのこと、こちらの心を開き曝け出し、人を常にリスペクト(respect)すればいいのかもしれない。 (令和3年3月記す)

ギメの日本美

  私の独り言は自然に内なるところから湧き出るものでなく、何か外からの刺激があってそれに反応し、結果として表出してくるものが多い。令和3年1月20日の深夜番組NHKのBS放送(後で調べたのだが、2003年に放送された番組の再放送)を観て呟きたくなった。
明治9年に仏より来日したエミール・ギメという若い実業家が日本中の仏様(ほとけさま)、仏像の類と幕末から明治維新の時代に書かれた絵図を収集し(対価の金銭を払い購入した)、仏に持ち帰り自分の美術館を建て、保存保管していたという内容である。
  幕末に和蘭(オランダ)や英米人が来日し、浮世絵や江戸の郊外、谷中巣鴨辺りの植木を買い集め欧州へ持ち帰った話なども多い。また、明治になって経済的に困窮した旧大名、旧家が手放した物品も欧米へ流出した。
よく宿題みたいに本を読んだ感想とか映画を見た印象を文章にしてくれと言われても、子供たちは本当に良かった、素晴らしかったと体感できても、それを文章にしろと言われても、なかなか出来ないものだ。この深夜番組も感動が先で、後で文章にした少し作業的になってしまうが、その感動を少しでも残したいという私の意図がある。写真、絵などを省き、その感動を文字だけにしたためてお伝えすることは一番の難題と分かっている。
  TV番組の場合はこれでもかこれでもかというくらいに鮮明な映像を見せつけてくれるが、ギメが収集した大小の仏像、木造・青銅製の仏像だけでなく、番組では一般庶民が所有していたと思われる大黒様に焦点を当て、ギメが多種多様の日本美として受け入れた仏像を紹介していた。廃仏毀釈で不要とされた「日本の美」を日本人は簡単に処分してしまったのである。
  驚くことには、法隆寺にあった仏像、目黒の行人坂先にある幡龍寺の丈六(高さ4.8m)、青銅製の阿弥陀如来像まで収集し、残念だが三分割されて仏まで輸送され、今でも博物館で保管管理され、日本美として鎮座している姿が紹介されていた。しかし、三分割された切り口は痛々しかった。法隆寺より流出した国宝級の仏像(脇侍・勢至菩薩)は近年里帰りし、主の仏像(阿弥陀仏)と合わせて三体が一緒に写真に収まっていたが、流出した経緯は不明のままである。 記録によるとギメは中国の仏像として購入したらしい。
  さらに関連の仏像を紹介説明している書物まで収集し、その書物を求めたであろう日光にある骨董店にまで取材に出かけ、十二代当主になる淺倉屋・吉田文夫氏の話も番組で取り上げられ、ギメの日本美に対する探求心のようなものまで掘り下げていた。
  今回のNHKのこの番組は著名な写真家が仏にあるギメの美術館、生家を訪れるのだが、あまり番組の内容や私の感動体験をリードしてくるものではなかったので、敢えてお名前は記さなかった。実際、ギメが訪れたあろう日本国内の地を番組の為に巡られた日仏外交研究家クリスチャン・ポラック氏は温厚、静寂感、ゆったりと喋る日本語は十分受け入れられるものであった。
  最後に、ギメが気にいった武者絵師の河鍋暁斎にモデルになってくれと依頼し、同行した画家・レガメが河鍋像を描き始めたところ、河鍋もじっとしながら暇だったので、筆でささっとレガメ像を描き上げてしまったという笑い話みたいなことも番組で取り上げて、私はその部分が一番印象的であった。ギメに同行した画家・レガメの描く河鍋は銅板エッチングのような細い線の集合体として硬く感じたが、河鍋の日本美は、非常に速く走らせる一本の筆で描く墨の濃淡、筆の力具合で変わる太さの集合体からなる人物像であった。

  追記、東京ステーションギャラリーで2020年11月28日から2月7日まで開催されている「河鍋暁斎の底力」展を1月27日にに偶々知る。是非2月に入って訪れてみたいと思う。1月30日記す。

意外な自分自身の経験

先日(2020年9月初旬)、CATVのローカル番組で2007年に放送された関東大震災の横浜での記録が再放送されていた。震源地は相模湾だったが大都市東京の悲惨さばかりが後年報道されて、震源に近い横浜の災害状況がどうだったのか報道されていることは極めて少なかった。
私は今67歳、横浜生まれ、父も大正10年の横浜生まれで、関東大震災の2年前だった。この番組を見て、父が生まれた中区長者町(伊勢佐木町の近く、私の出生本籍地も)が壊滅的な被害を受けたことを白黒の映像から知ってぞっとした。
都内でも火災で10万人以上の死者があり、横浜でも同様に火災で多くの死者が出て、2歳の父がその焦げた瓦礫の下になってしまったと想像すると、、、、<今の私の独り言は幽霊詞になってしまう>
父が生き延び、その小さな父を守ったくれた祖父も昭和20年に63歳で戦死ではなく病死したそうである。父が6年後に結婚し、昭和28年に私が横浜の生麦で生まれ、横浜出身として、世間に言いふらすようになった。

ここからが自分の経験とは何か、少し考えてみたい。
実際、私が横浜で暮らしたのは、7年と5か月と短い。小学校1年の途中で同じ神奈川県の小1時間かかる農家がまだ牛を農耕に使っていた他地域へ、普通の工場の勤め人だったオヤジが家を建てたので引っ越した。しかしこの短い横浜と言う経験が私を育ててくれたと思う。

経験は実体験と後で学んだ歴史的事実が加わった今でいうバーチャル経験であってもいい、想像すると人の経験はこの類である。。
それは関東大震災の番組の中で、ある老人(87歳、震災時父と同じ2歳)があたかも自分が被災した事、町の様子、例えば木造のxx橋が崩れる前に山の手側(今の元町の高台)に逃げ延びられたことを説明されていた。非常に生々しい内容だが、TVのテロップでは当時大きかったお兄様より後年お聞きになった話がベースとされたとあり、それらを自分の体験に転嫁されたようである。これがバーチャルであって、自分の小さい頃の横浜の経験も同じだと思ったのである。

本当に当時小さな私が意識し記憶している体験を列挙し、それらが後の学習によって正しいのであるが加飾された例(*印がある行の説明)を幾つか上げる。

鶴見区生麦に生まれた私は、家族で2両で繋がった電車(京浜急行)に乗って出かけた。
*生麦が、薩摩藩士が幕末、英国人を切りつけた歴史的場所などと当時知る由もない。歴史書

二年保育の幼稚園に通ったが、そこは家族経営の幼稚園で園長先生が二階に住んでおり、時々朝、園長先生を呼びに行かされた。
*その幼稚園は、後プロレスラーになった猪木選手の実家で、ブラジル移住後はお兄さんが残り経営した。当時猪木選手は中学生だったらしいが、小さな私は見かけたこともなかった。親の話

横浜の大桟橋でよく遊んだ。
*写真好きだった父が残してくれた桟橋で撮った兄との兄弟写真があり、それを見て桟橋によく行ったと記憶している。

よく覚えている叔母さん(父の姉)の家に行った時に頼んでくれて美味しかった店屋もののトロミのある中華そば。
*家は南京町(当時は中華街とは呼ばれていない)の近くにあり、中華麺は横浜で有名な生碼麺。「さんまーめん
という発音は記憶している。

その叔母さんの家に行くには電車で生麦から横浜駅へ、そこで乗り換えるのだが、路面電車(市電)とバスがあった。
*バスは野庭口行の市バスと上大岡を経て鎌倉街道をゆく大船行のオレンジ色の鎌倉急行があって、いつもバスに乗せられた。

父からよく聞いた話、父が山下公園で遊んだこと、海辺なので鮭の切り身を餌にカニを釣ったこと。
*山下公園は関東大震災の瓦礫で浅瀬を埋め立てて出来た公園(昭和五年)であることを後年知る。歴史書

これらの学習した横浜は後で学んだことが加わって自分の体験として身についた。よく考えるとそれはバーチャルで加飾された体験である。皆さんの小さい頃の体験・経験を振り返ってみては如何ですか。

リフォーム前の壁掛け作品

令和になって、5月の連休後に、築30年を向える我が家のリビングとキッチンスペースの大リフォーム工事が始まった。2月頃から業者と打ち合わせを開始し、これからは30歳をとうに過ぎた子供達が使うので、子供達の好み要望を沢山出してもらい、それに合わせて業者からの提案を受け、煮詰めて最終案となった。どちらかというと私の願望は抑えた。わざわざ大阪にいる二男は建築科出身ということもあって東京の打合わせに顔を出し、業者もメールで二男へ回答などもくれていた。二男は予算の金額には目もくれず、良いものや改造案をどんどん出していく性格だ。娘もキッチンのシステム化や対面式・オープン化でどしどし母親を押していく。長男夫婦は綺麗好きで、食洗機は勿論、配置でも物を出来るだけ置かないようにシンプル派だ。

個性と性格が出て当たり前、システムキッチンのショールーム見学へはお嫁さんや娘は勿論、二男は結構業者に食らいついたようだ。私も同行したが、皆が気に入る環境作りが出来れば善しとした。最後の詰めは家内と娘が行き、キッチンの色をもっと明るく白っぽくしてきて、少し予算額を下げた。

普通、新しく仕上がった壁紙の壁には写真の1枚や2枚、絵画の1枚や2枚位、別に骨董的価値に問わず、飾りたくなるものだが、今回のリフォームの約束は一切何も壁には掛けないと決めたのである。時を知る時計もない。

実はリフォーム前はご多分にもれず、どこの家庭でも見られる光景のように子供が小さい頃から撮った写真を大きくしてフレームに入れ、壁に吊るしておいたのだ。枚数は定かでないが、娘が3才頃初めて料理をしてサラダを作った、東京に大雪が降り雪を掻き集め“かまくら”をやっとのことで作り上げ、小さな子供が2人入れる小さな穴が鎮座、子供の剣道、体操姿、京都の修学旅行、一番成長したもので次男の高校の入学式でなぜだか止まった。それらの中で白黒の作品2つだけ違っていた。1枚は私が学生時代(1975年)に北海道(道東)野付半島近くの尾岱沼で冬撮影した白鳥と、もう一つは30年前の新築祝いで家内の知り合いから頂いた銅版版画(エッチング)である。

私の冬の凍った湖と数羽の白鳥よりも、頂いたエッチングの主(学校の美術系の先生と伺っていたが作家と呼んでおこう)が気になった。私は一度もお会いしたことのない作家さん(家内の知り合いの女性の旦那さん;年齢的に定年退職され、数年前都内よりご出身地の方へ戻られている)であるが、エッチング作品に残されているアルファベットの署名で調べると著名な方と分かった。xxx展覧会の審査員を務めていらっしゃる。人の顔をデフォルメした当時お祝いで頂いた作品(木霊Xと題されている)から進化転化され、写真と間違えそうな位、繊細で緻密な森の木々を描いた作品はインターネットで紹介されていた。ご出身の群馬の山奥か、私の記憶を辿ると上高地の沢沿いのまだ樹木が残って枝落ちし、それが朽ちかける経過のように凄い年数を思わせる作品だ。私には寂しげだが長い長い静かな生命を感じた。

なぜ、30年前の当時このような作品を頂いた由縁を考えると、ご両親のお仕事の関係で子供さん達を朝早く保育園に連れて行くことが出来ず、家内が代わって知り合い(地元の学校の同級生同士)のお子さん達を連れて行ってあげていたのだ。当時は待機児童という言葉もなく、近所で協力していたのだ。家内も仕事をしていたが朝、時間の余裕は少しあったようだ。インターネットで、作家さんご夫妻が昨年、〜木と水と土と〜 と題して二人展を開催されていたこと知り、お子様たちも親の手から離れたのだろうと安堵した気持ちになった。まさに森の木とせせらぎの水、土とは奥様の陶芸家としての粘土だと私の独り言となった。

令和元年7月2日記す