闇と光汚染

 昨年末、お付き合いのある企業様から所謂翌年の新年のご挨拶の品を頂いた。翌日、その頂いた手作り写真カレンダーを開くと、名刺大のカードが挟んであり、2023年/先を見る との表書き、裏には一寸先は闇か光明か と添えてあり、その裏の添え書の方がレコードのA面のように聴こえたのである。
 これまで、私が漢字文化で一応育った60余年の間、字の構成としてはある時、気が付いていたのは間違いないことであろうが、きちんと意識して、門構えのなかに音という文字が挟まれていて、それをヤミとして自分自身に受け入れていたのか少々怪しくなった。なぜなのか、漢字の古典として、部首等の組合せで新たな文字を生み出していく、今流のイノベーションが普通に行われるのが象形文字である漢字文化の骨格である。なぜ、門構えに音で、音とは一見関係なさそうなヤミを意味させるのであろうか?
 全くの個人的経験であるが、信貴山の朝護孫子寺に行くとお堂の地下に造られた空間をわざわざお金を払ってまでして、そのヤミを体験(戒壇巡り)したことがあった。そこは本当に全く光明のない真っ暗な空間で、壁つたいに人は歩く事しか出来ない。指先の触覚(感覚)が頼りである。しかし、暗くても、人が2人居て、声だけが2人を結びつけられる事も出来るのである。闇というのはこういう感覚的に分類出来ることばで、物理的意味も持っている。

さて、もう一つの光明であるが、次の2010年6月のマイブログで2009年に話題として取り上げた光汚染について書き残してあった。

追記 *1、*2
  昨年2009年の前半に、海外の雑誌に掲載されていた環境問題。これまで、環境問題の中で汚染物質排出はフロンガス、二酸化炭素ガスや 有害金属、有害有機物質、炭素微粒子、石綿などが取り上げられ、指摘されていたが、 ある海外雑誌では、light pollution を取り上げていた。
 過剰過ぎる夜の照明。これは安全な night life や 夜間屋外活動(スポーツ、イベント、 何もプロだけでなく一般の人が夜間帯に行うものが非常に多い)を拡大してきた。夜間が明るくなると、人の生理的営みが神経的にも阻害されてくるそうだ。 人だけでなく、人工の光が与える動物への影響もあるという。
  *1半導体の1種であるLED照明が開発されて、エネルギー効率が従来の白熱灯に比べて約3分の1と非常に小さくなったことは良いのだが、装置のコストも低減されて、従来と同じエネルギーをと投入すると光る光束の量は3倍になり、夜空が更に明るく輝いてしまう光汚染(公害)となってしまっているのだ。
 400年前のガリレオが初めて手製の望遠鏡で見た星は今や都会では決して見れないとうノスタルジー的文章からその海外雑誌は始まっているが、一度エコ、省エネの観点だけでなく、夜間照明の在り方も検討課題の一つとして入れたい。光で汚染と言われると、いい気分がしない。せいぜい、キャンプの焚火の明るさで済ませる生活がいいのだろうか。現代人類の生活がここまで来てしまってると後戻りは出来ない。
 米国NASA提供が提供している夜間衛星写真(添付URL)は、おそらく想像以上に地球規模で夜の世界の営みが奥地まで進んでいる事を物語っている。
http://apod.nasa.gov/apod/ap001127.html
このサイトの中央にある写真をクリックすると詳細な夜間の光の分布を見ることが出きる。
 この写真を見て、何を想像してしまうか。想像力の豊かな人ほど悲観的になってしまうかもしれない。今や、全世界にくまなく広まっている、電気供給網(グリッド)が出来上がっていることは、エジソンの時代の電球の発明から100数十年という長い時間が見える。この光の分布を見ていると、地球上のちっぽけな狭い日本だけでエコ、グリーン運動を血眼に行っても、本音のところ効果がなさそうに思える。グローバルな取り組みが是非必要であろう。

 地球上にいて、今でもかなりの奥地へ行くと、そこの夜は闇夜でなく、天を見上げると満天の星と天の川で一杯である。その様子を高感度映像でどこかのTV番組が流していた。それは、人工の照明がないからこそある、ありのままの世界であって、古の人は、現代の宇宙へ上がってしまった衛星からではなく、地上から宇宙の地図の光のグリッドを見て、想像を広げ、神話などを語っていたのであろう。その高感度TV放映像の中を、素早く右から左方向動き、消え去った強い光があった。やはり、人の仕業の”未確認飛行物体”が夜間でも蠢いている証であった。*2私自身の体験でも1980年代の後半の米国東岸部のノースカロライナ州の田舎の夜空は、まだこのような「闇夜」であった。

先日の朝焼け

 

DSCN5291 64

先日、都内で土砂降りになる前の朝5時ごろの朝焼けです。写真1

DSCN5295 64

何か、雲が生きているように、もくもく対流している姿です。写真2

いずれも、都内北区某所から南東方向の空を見上げています。

 

とけい

現代人には、頭の中には概念として、旧暦(太陰暦)と今我々がお世話になっている新暦・太陽暦があることを知っている。しかし、人が年間の四季を通じて、肌身で感じる日常の生活では、12か月制の太陽暦と季節感や二十四節気との間に、実は乖離があることを感じている。

先日知り合いが、twitterで日の出から日の入りまでの時間帯を6等分する不定時法について呟かれていて、昼の八つ時に間食をしたのが“おやつ”の語源だと教えてくれた。そんなきっかけで、毎度の通り部屋の隅に積み上げてある古本の中に、確か古い時刻制度のことを書いたものがあるはずだと探し出した。それは、“日本の時刻制度”橋本万平著(塙書房;昭和41年9月20日発行)である。

地軸が傾いているので、地球上の何処に住んでいても、季節によって昼夜の長さが刻々と変わるという生活は避けられないので、便宜上不定時法が浸透したのだと思っている。今、我々は時間を計る仕組みやその機械装置のことを“とけい”と呼んでいるが、古くは水が滴る量をもとに時を見ていたので、それは漏刻(水時計)と呼ばれていた。手元の古本には陽とともに暮して来た人の習慣で、昼間の明るさ(猫時計;猫の目の瞳の細さを便宜的に利用)や棒を立てて、その蔭の長さから時を知る方法が浸透している事も説明されている。その棒は長さが2尺又は4尺あって、蔭の長さや方向で冬至の日まできちんと読みとっていて、“土圭”と呼ばれていたそうだ。それが今の時計という言葉に変化したようだ。

現代最新物理では、重力によって時の刻みも影響を受けてしまう事(アインシュタインの理論)や人知を遥かに超えた精度を持つ時間の計測方法が確立されてはいるが、所詮我々の生活は一息や一歩という尺度ですむ事が多く、農耕は太陽と季節、漁師は潮の流れ・満ち引きを正確に理解する事で、糧を失わぬよう叡智を凝らしてきた。所謂、腹時計の方が有用な時もあることを忘れてはいけないようだ。

偶々、同じような時に、twitterで2013年の新年が“新暦”の1月23日に始まる13カ月制の旧暦をベースにした手帳なども販売されていること(ルナワークス)も学んだ。有難い仕組みである。旧暦手帳を買いに行こうと思う。

http://www.lunaworks.jp/kyureki_diary/diary1.html

お八つ

平成24年10月16日の知り合いの方のtweet。

「六つ」というと午前の6時ころか、18時ころかが分からないので、午前は「明け六つ」で、午後は「暮れ六つ」と言った。室町ころから日の出から日の入りを6等分する不定時法が定着した。ひるの「八つ」はだいたい14時ころで、その頃間食をしたので「おやつ」というのだそうだ。

https://twitter.com/sabo0509

今風にいうと“おやつ”は大体午後3時ごろに、腹が減って来た頃に口にする、お菓子みたいな食べ物のこと。

横浜生まれで、その後神奈川県の中部、茅ケ崎で育った私の記憶では、友人の実家(大農家)ではおやつを“おこじゅ“と呼んでいた。それはネットなどがない昭和40年前後の頃の話。今、ネットを紐解くと、”おこじゅー“は神奈川や多摩地域の”おやつ“のことの方言と説明されている。

さて、知り合いのtweetでは旧暦の時間の分割の仕方が西洋風とは異なり、日本では不定時方法によると、昼の八つは今の午後2時ごろになるそうだが、今は定時の午後3時ごろに口にするちょっとした食べ物が“おやつ”になってしまっている。

さらに続けると、今我々は1日に三食食事を取っているが、その昔は日本も西洋も朝、夕の二食だったと聞いている。そんなことで、身体を使う仕事をしている人が殆んどだった昔はちょうど腹が減る頃に何かを食したいことになる。所謂、おやつ・間食で、恐らくそれが昼食(ランチ)となり、三食制へと変わっていたのではないかと推測出来るのである。

現代人は、朝、昼、晩と三食も食らう人種となってしまっても、さらにおやつと称して午後3時ごろ何かお菓子みたいなものをしっかり食べるようになってしまっている。昼食を食べることが本来の“おやつ“とするとそれで十分なはずである。

Designという言葉

最近、私の周辺でデザインという“言葉”がキーワードになっているシーンが多い。教育関係のInstructional design とか イノベーション関係で Design thinking 。

実際にデザインという言葉の本来の意味を確認する為に、英英辞書を手に取る前に、これまでの自分にとってのデザインという言葉はどのようなものであったか振り返ってみた。“設計”というより、紙に何かクレヨンかペンで、ささっと図形を描いて、視覚的に見える図柄のような認識だった。それがそのうち、設計するという抽象的な言葉へ認識が移っていた。

さて、眼の前の英英辞書;The AMERICAN HERITAGE dic・tion・ar・y のdesign のページを開いて、ちょっとどころか非常に驚いたのである。To conceive; invent が最初の説明であった。確かに、その幾つか後に、名詞で a drawing or sketch という説明もある。いや、これまで、このスケッチや図柄という概念に引きずられていた事を反省した。

To conceive; invent なんだと言われると、“設計“どころか、深く考え、創造し、心(意識)の中に形作るものであるという意味があり、それも他人の真似ごとでなく、最初に考えつかないと、本来のdesignという言葉に値しないようだ。

こう合点がいくと、教育関係のInstructional designや、イノベーション関係のDesign thinkingが活きて来た。言葉にも命があるように思えた。時代が変わると言葉の意味も変遷して行くことも認識しておかないといけないようだ。

大学の売りとは何か?

無料で高等教育がonlineで受講できるシステムが欧米を中心に進んでいる。例えば、edX とか Courseraという学習コースで、米国の著名な大学 Harvard, MIT, Stanford, Princeton の教授の講座をインターネット経由で好きな時間に、本当に無料で受講できるのである。

それでは、大学の神髄の売りは何処に求められるのかをAndrew Norton氏が議論し、提案している。

ある一定の知識を身につけるだけならば、どの教授でも、どの大学の名(冠)でも、似たような内容が提供されている教材で十分である。しかし、それは、オンラインのコースを履修・修了したという事実だけで、所謂実際のキャンパスに通い、学士号を取得したことと、分けて考えている。

事実、オーストラリアの大学では高等教育に関する予算が20年間にも渡って、減少させられていて、オンラインのコースの方は低コストで構築出来るので、この種の教育が進んでいる。例えば、国家試験があって、資格を取得する様な教育は、別に何処の大学、教授が誰か、教材が何かはあまり関係なく、最終的な資格試験に合格すれば良いのである。

しかし、高等教育を学んだ人材を採用する企業側からの強い要望として、今グローバルに急速に伸びつつあるオンライン履修者に対して、何かが欠けていると言われている。詳しい分析では、実際に大学というキャンパスで実体験出来る素晴らしい事として、interpersonal とcommunication 能力が養えると指摘している。企業側の評価として、オンライン履修者にはこれら2点が欠けているとしている。

特に、高等教育の場では、知を売るだけではない、実体験できる場がある事が評価されているのだと思う。Instructional Design (ID) では、認知技能、運動技能、更に態度に関して教育工学的な立場から、それぞれ異なったIDを開発しないといけないとされている。まさに、運動技能や態度を育成出来るであろう face to face の実体験が出来る場を、如何に提供すべきかかが、今後の大学の売りになっていくキーポイントと期待している。

キーワード;Free online education vs. on campus education

参照;

edX: http://www.edxonline.org/

Coursera: https://www.coursera.org/

情報元;

http://theconversation.edu.au/when-courses-are-free-online-whats-left-for-universities-to-sell-8134

リミックス(remix)の文化と著作権

以下、2009年3月24日通信業界の国際カンファレンス、2009 OFC Plenary sessionで、実際に聴講した講演に関するまとめである。

ローレンス・レッシグ氏、スタンフォード大教授、米国で最も影響力のある公共的な知識家、法律の専門家。デジタル通信時代の知財の専門家。ローレンス氏は、過去の(創造物の)蓄積や法律や技術で社会が推奨するか、又は禁止する環境に依存して、如何に・どのように創造的な仕事が形成されるという社会基軸を持つ創造性に重点をおいて研究している。

 

19世紀以前はread writeの文化

20世紀はread onlyの文化

21世紀は新しくコピーライトの概念を考え直さなければいけない。

 

copy Re-mix
Professional Needs copy right Gray zone
amateur Gray zone free

 

インターネットでは企業や個人が多くの引用物(絵、音楽、写真、動画)を混ぜ合せながら作られるコンテンツが掲載されるが、その文化やコピーライト・著作権とはどんなものかと考察している。

アマチア(公開されても商用に対価を取って販売されない)のリミックスは自由に出来なくてはいけないという精神があると思う。

http://www.reuters.com/article/2009/03/22/idUS42888+22-Mar-2009+BW20090322

当時残しておいたメモ書きをもとに、3年も経てから何故まとめたかは、Open Education の仕組みの中で、インターネット上に公開される教材・コンテンツなどのクリエイティブ・コモンズ・ライセンス(CCライセンス)活動を推進している団体があることを教えて頂いたからです。

http://creativecommons.jp/licenses/

Open Educationの成功と失敗

Open Educationに関する“Opening up education”という書籍(出版はMIT Press、原著英語のみの公開)を紹介して頂いた。

http://mitpress.mit.edu/opening_up_education/

これは、飯吉透氏とビジェイ・クマール氏が27件もの実体験レポートを編集された形式で出版されている。スポンサーはカーネギー財団である。タイトルは副題を含めて、和意は“教育は開かれた:公開技術、公開コンテンツ、公開知識を通した教育の革新”と必ずしも、日本語として普段使い慣れている語彙ではないが、そんな意味があるとご理解頂ければ幸いである。

全体は以下の3章で構成され、それぞれ27件の個別のレポートが各章の趣意に合うように構成されている。

セクション  I 公開教育技術

セクション II 公開教育のコンテンツ

セクションIII 公開教育に関する知識

英文量としてはA4サイズで、500ページもあり、読破するにはかなりな挑戦的な量である。

 

27編の中で第24番目の論文 (Learning Design: Sharing Pedagogical Know-How;デザインを学ぶ-教育工学的ノウ・ハウの共有)の内容にちょっと目を通した。驚いたことに文頭に公開教育で経験した“2つの成功と1つの失敗”と述べられていたことである。どんな成功と失敗があったのか気になって読み進めた。簡単に言うと、マネージメントシステムの開発と教育コンテンツを公開共有することは成功、しかし教育工学的ノウ・ハウを教える側の教諭間で共有するプロセスが欠如していたことが失敗と反省されていた。

1番目の成功はMoodle, Sakai,  LRN,  ATutor  とか他の様々な創造的なコースマネジメントシステムを開発したことと運用出来たことと記されている。

2番目の成功はOpenCourseWare, MERLOT, ARIADNE, 他の様々な先駆的なコンテンツを自由に共有出来たという事である。

気になる、反省している失敗例は、実際のe-learningコースで、経験のある教師が提供している“教える”というプロセスをきちんと捉えていなかったこと。これまでの多くのe-learningは図書館に所蔵されているコンテンツと似ているだけで、本来e-learningの最大の特徴であった教室内の協調的学習経験とはなっていなかったと記されている。如何に教えるというプロセスが科学的に、工学的に捉える事が易しくないという事を暗示している。

 

参考までに27編のタイトルを挙げておく。

 

セクション I 公開教育技術

1  序論、公開教育技術:強烈に沸きあがった強い意識

2  公開教育技術の設計について

3  門は閉じられた、公開教育への技術と文化の障害

4  公開ソース(内容 コンテンツのこと)戦略は問題? iLabs プロジェクトから学んだこと

5  公開教育の結果の評価

6  収穫は大き過ぎたか? 教育で得られる沢山な“収穫”の構成

7  デジタル図書、学習グループと公開教育

8  公開教育における公開ソース(コンテンツ);期待と挑戦

 

セクション II 公開教育のコンテンツ

9  セクションIIの序論、公開教育コンテンツ;形を変えて教育へアクセスする(近づく)

10 公開教育リソースを通して教育の機会を広げる( 多くの人が参加できる)

11 グループベースの研究活動として、公開学習を創り上げた

12 MERLOTグループの経験から学んだこと:教育工学的コンテンツと研究戦略とを併用することにより、公開教育リソースの効果を拡大させる

13 なぜ、公開教育を利用したりそのユーザのことを理解しなければいけないのか

14 公開コースの資料:共有するという文化を形成する

15 Connecxionsの事例:公開教育へ移行するための挑戦と(参加できる)機会

16 2005-2012年の間の公開コース資料

17 イノベーションを通した教育の革新: 公開するということで教育・学習を変貌させることが出来るか?

 

セクションIII 公開教育に関する知識 

18 セクションIIIの序論、公開教育知識: 教室の扉を開け放つ以上のこと

19 直接・生の要望: 公開(協調)理解へ向けた学習と教育の奨学制度

20 オープンスペースの真ん中で: 複数の階層のある公開教育グループを通した学びに関する知識の積み重ね

21 公開教育: 継続的で効果的な公開教育へのカギ

22 継続的な公開教育イノベーションのための技術で出来る知識の創出と共有の普及と紹介

23 システムの変化への足場

24 デザインを学ぶ: 教育工学的ノウ・ハウの共有

25 共通知識: 高等教育における公開性

26 何のために公開する? 振興組織のリーダーシップと変革の事例研究

27 公開知識へ向けて次に何をすべきか?

 

蔵前ビストロモンペリエ

こちらは正真正銘の下町のフレンチのお店のお進めです。
昨晩知り合いと久しぶりにお邪魔しました。

お料理の写真はあえて載せませんが、お皿などのデザインにはこだわりがあり、白色で統一、青でお店の名前が刻まれています。

白いお皿と(銀ではない)フォーク

頂いたお料理の味の説明などもあえてしません。是非来店され、ご自身の舌で味わって下さい。

昨晩は、オリーブ、魚(氷見漁港)、肉(鴨)、ビール、赤ワイン、コニャック、焼酎など頂きました。

焼酎は馴染みのお客さん、ご持参の日本酒のもろみ新潟・八海山から蒸留して造ったそうです。(宜有千萬)

日本酒から造ったという焼酎

オーナーさんは荒山さんというこだわりのある方です。(写真有り)

笑顔のオーナーさん

オーナーさんはITが嫌いで、お店のHPなどは作成していません。しかし、口コミ、その他お店紹介といったようなサイトには掲載はされております。

所在地:東京都台東区蔵前3-16-7
電話:03-3864-1611

Think Different from Apple

これまで知らなかったのですが、アップルがThink Differentというコマーシャルを継続的に出しています。Twitterで、知り合いの方が教えてくれました。

これが日本語テロップ付きの古いもの。

http://t.co/XNbGqEln

次が偶然でしょうか、2011年版で、スチーブジョブスが亡くなる前にリリースされたもの(8月下旬)で、英語原文のままです。終わりが、スティーブ、元気になってくれと締められています。

http://t.co/KKvP8q25

こういったアップル社の斬新な啓発に触発されて、YouTubeでは個人の方がそれなりの視点で作成されたと思われる個人的Think Different の提案が一杯あります。

Steve Jobs氏が御逝去されてから、私は彼のスピーチ映像を聴くことが増え、何だかnative Englishのトレーニング機会が増えてきた。そうですね、この歳になってもブラッシュアップというところです。違った事を考えるだけでなく、それを実行してみて、初めて達成感、満足感を得られると思います。