今年福男の還暦頃の呟き

日本の時刻制度”橋本万平著(塙書房;昭和四十一年九月二十日発行)という古本を手にした時期も忘れ、ちょっとは役立った話の紹介をしたい。

知り合いの方が「お八つ」とはのお話が、「六つ」というと午前の六時ころか、十八時ころかが分からないので、午前は「明け六つ」で、午後は「暮れ六つ」と言った室町時代のころから日の出から日の入りを六等分する不定時法が定着した。ひるの「八つ」はだいたい十四時ころで、その頃間食をしたので「おやつ」というのだそうだ。<今風にいうと“おやつ”は大体午後三時頃に、腹が減って来た頃に口にする、お菓子みたいな食べ物のこと。>
私は横浜生まれで、その後神奈川県の中部、茅ケ崎で育った私の記憶では、友人の実家(大農家)ではおやつを“おこじゅ“と呼んでいた。それはネットなどがない昭和四十年前後の頃の話。今、ネットを紐解くと、”おこじゅー“は神奈川や多摩地域の”おやつ“のことの方言と説明されている。
 さて、知り合いの薀蓄では旧暦の時間の分割の仕方が西洋風とは異なり、日本では不定時方法によると、昼の八つは今の午後二時頃になるそうだが、今は定時の午後三時頃に口にするちょっとした食べ物が“おやつ”になってしまっている。さらに続けると、今我々は一日に三食食事を取っているが、その昔は日本も西洋も朝、夕の二食だったと聞いている。そんなことで、身体を使う仕事をしている人が殆んどだった昔はちょうど腹が減る頃に何かを食したいことになる。所謂、おやつ・間食で、恐らくそれが昼食(ランチ)となり、三食制へと変わっていたのではないかと推測出来るのである。現代人は、朝、昼、晩と三食も食らう人種となってしまっても、さらにおやつと称して午後三時頃何かお菓子・フルーツ・最近では見栄えのいいスウィーツみたいなものをしっかり食べるようになってしまっている。昼食を食べることが本来の“おやつ“とするとそれで十分なはずである。
武士の家計簿に、暦が太陽暦になったとき、江戸時代の人が大混乱を起こしているさまが書かれているそうだ。正月のいつに餅つきをするのかさえ分からなくなっている。特に武家には年中行事があって、それがいつになったかが分からなくなり「鮒の藻刈りに酔いたる体」。鮒が住処を失って息も絶え絶えになってしまったという感想を述べているそうだ。武士の家計簿に大混乱と記されていてそれだけ、一大社会変革でもあったようだ。太陽暦との一番の誤りは七夕だと思います。今の七月初めは梅雨で、彦星と織姫が澄み通った夜空で出会い事は稀で、旧暦の七月七日を新暦で言うとだいたい1カ月以上ずれて八月十五日位になる。そうすれば真夏で夜空も期待できる訳ですから。次に、新年の挨拶で新春をお喜び申し上げますなんて、何で寒い最中に言うのかという事も、旧暦の正月は、新暦の二月中旬前になるので、そろそろ季節代りを期待しての挨拶がぴったりになる。
現代人には、頭の中には概念として、旧暦(太陰暦)と今我々がお世話になっている新暦・太陽暦があることを知っている。しかし、人が年間の四季を通じて、肌身で感じる日常の生活では、十二ヵ月制の太陽暦と季節感や二十四節気との間に、実は乖離があることを感じている。地軸が傾いているので、地球上の何処に住んでいても、季節によって昼夜の長さが刻々と変わるという生活は避けられないので、便宜上不定時法が浸透したのだと思っている。今、我々は時間を計る仕組みやその機械装置のことを“とけい”と呼んでいるが、古くは水が滴る量をもとに時を見ていたので、それは漏刻(水時計)と呼ばれていた。手元の古本には陽とともに暮して来た人の習慣で、昼間の明るさ(猫時計;猫の目の瞳の細さを便宜的に利用)や棒を立てて、その蔭の長さから時を知る方法が浸透している事も説明されている。その棒は長さが二尺又は四尺あって、蔭の長さや方向で冬至の日まできちんと読みとっていて、“土圭”と呼ばれていたそうだ。それが今の時計という言葉に変化したようだ。
現代最新物理では、重力によって時の刻みも影響を受けてしまう事(アインシュタインの理論)や人知を遥かに超えた精度を持つ時間の計測方法が確立されてはいるが、<最近、一台が5億円もする>超精密な光格子時間計測器・時計も売り出されており、凄い世の中になってきたように思われるが、実際五億円もする時計はインターネットが高速になってきているという我々のニーズ要求がそうさせているのだ。所詮我々の生活は一息や一歩という尺度ですむ事が多く、農耕は太陽と季節、漁師は潮の流れ・満ち引きを正確に理解する事で、糧を失わぬよう叡智を凝らしてきた。所謂、腹時計の方が有用な時もあることを忘れてはいけないようだ。
2013 New Yearとして、2013年、平成二十五年巳年も恙なく、穏やかに新年を迎えることが出来ました。あまり、過ぎ去った昨年を振り返ることなく、新年の歩みを確実に進めて行きたいと思います。近在の八幡様へ初詣に行き、神社暦を頂いたところ、新暦・旧暦が合せて記載されておりました。旧暦の正月は新暦の二月十日です、という事は新暦の正月は旧暦でまだ十一月二十日と有ります。暦の定め具合によって正月を祝う気持ちは変わりませんが、世間の風習は旧暦起源で行われ、季節感を堪能出来ます。東アジア起源と思われる旧暦の行事は我々が農耕民族であったことの証である収穫を確実にする(生きて行く為に必要な糧を得る)季節毎に行うべき活動が集約されているものです。これらは伝統的なイノベーションであることに間違いありません。
平成二十五年の今年は私自身巳年の還暦となり、神社でお目にかかった近在の方も同じ干支との事、年齢的には二周り上の親の世代の方でした。そういえば、祖母も巳年、親の更に二周り上の世代でした。八十台で亡くなりましたが、存命であれば百八歳。先日、日本の百十五歳の男性の方が世界一の長寿だとニュースで報道されていましたが、人の運命によっては、まだまだ暦上で歩みを進め、干支も廻り続けておられます。IT社会になったと言えども、”社会的収穫”を確実にする”IT暦”や節目毎の行動を示唆する”IT風習”は未だ我々自身で提案出来ておらず、身に付いたとも言えない状況です。いつか近い将来、そんなITイノベーションがオープンに共有出来る時代が来るはずです。

2013年元旦初夢前に、夢を語る。

私の百五十年

 一昨年、令和四年は鉄道開業150周年記念だそうである。現桜木町と汐留新橋間を所謂蒸気機関車が初めて営業開始をした。当時は横浜と呼ばれて、小さな漁村だった所が日本の開国とともに近代化へ突っ走った拠点となり、色々な出来事の一つとして、メモリーである。現在の横浜は神奈川と呼ばれていた線路が左折する前の地域へ移り、旧横浜の漁村は大桟橋を始め、レインボーブリッジなど巨大な港のインフラ整備がされ、隣接した大企業の跡地が再開発されてみなとみらい地区と変貌してしまった。<私は令和六年から約七十年遡って、七十/百五十年を断片的には観てきた事を示してみる。>

 私は横浜生まれで、母方は埼玉、父方の家系は新潟出の祖父を持ち、両親は横浜の出であり、親類も南京町、伊勢佐木町、蒔田町界隈に多かった。私はてっちゃんでもなく撮り鉄でもないが、初の鉄道乗りの記憶は鶴見から大宮まで(母方の実家が埼玉県北足立郡にあり、大宮でバスに乗り換えた)の汚れた小豆色をした省線くずれの京浜東北線であった。約百五十年前は、歴史的には江戸時代の終焉から明治維新への日本にとって、大変革のスタートから暫く時が過ぎている。自分の生きてきた世界で、江戸時代の人を実体験的に聞いたのは家内の母(九十六歳)が小さい時、義母の祖父が一緒に暮らしていたそうで、爺やんは江戸時代生れだと以前、口にしていたのが、唯一私の江戸時代である。自分の家系では男親系は短命で、精々私の二人の祖父までの話で、遡って明治中期、百三十年前位で止まってしまう。私の旧姓の祖父は新潟県(明治初期の人口は日本で一番であった)の出で三男、親元を離れ、当時どのルートを歩いたのかは定かでないが、日本では正確で立派な戸籍が残っており、旧中仙道筋を通って東京を目指し、途中の埼玉の戸田の在の女性を伴侶とし(現在戸田の美女木にの寺に墓がある)、大正時代の始めに東京巣鴨で叔母さんが生まれたことが記録に残っている。現在の大塚の近くであり、更に東京を越えて横浜、桜木町近くの伊勢佐木町・長者町辺りに住み始めたようだ。そこで実父がうまれ、私の本籍も生を受けた時はそこであった。

  私は鶴見区の生麦で生れ、近くに生麦駅(京急線)があり、並行して国鉄の踏切があり、そこを初の特急こだまが通過したのを見た記憶がある。当時私は学校に入学前の幼稚園生だったが、なぜだか家に小さな時刻表があり、よく時刻表で遊んだ記憶と書かれた地名の漢字を読んで入学前に結構漢字を理解していた。その後の出来事、生麦の家は社宅で茅ヶ崎に小さな一戸建てを父が建てる計画を進めており、横浜から茅ヶ崎まで東海道線で行く必要があり、ポケット時刻表があったわけであった。鉄道開通百五十周年といわれても、、、インターネットなど無かった時代の時刻表の利便性、楽しさに触れなければならない。それは遊びであり、どこか出かけたつもで(今でいうバーチャルみたいな世界)時刻表の鉄道(私の学生時代までは電車と蒸気機関車が混在していた)と拠点の駅で乗り換えが出来る民間バスの時刻表も豊富であった事を覚えている。さて、どういったバーチャル体験が出来るかを説明すると、特急・急行・準急列車が豊富で、更に新幹線など無い時代には夜行列車も豊富で、学生時代にはお世話になったが、幼少期の頃でもレ点(列車の通過駅)が気に入り、レ点がずっと続いていると、それは特急だと嬉しさが顔に出る。普通列車・急行が停車する駅、例えば、2330/2347    2342/2345 と普通が2330に着いて、続いて急行が2342に到着し、3分後の2345に出発したのち、更に2分後の2347に普通列車が出ていくという二つの列車が停車する駅だという事が分かる。夜行急行でも時間調整で400/430  と早朝に30分も止まるケースもあり、面白さが小さな少年に醸し出てくるのだ。

 小1の秋に茅ヶ崎へ引っ越して、小・中学校の生活が始まったが、当時は余り長距離の鉄道を乗る機会など無かった。両親、その先の祖父母の出自を紹介したが、皆近くにいて、西日本、東北・北海道なども縁が無かった。父方の祖母が当時昭和の初め42-3才で病死して、祖母の実家に近くの寺に墓を設け、浦和の在で茅葺の農家の家が残っており、小さい時の記憶では横浜の町中から、場違いの東北のどこぞの村へお邪魔したような雰囲気が残る田園で、今では埼京線と東北新幹線が並行し、スピードアップして走る荒川の川向こうの埼玉県戸田の美女木辺りの事である。精々、中学の修学旅行で京都方面へ日の出号で往復した事だけで、新幹線は利用できなかった。高校へ入学しても、長距離鉄道チャンスを逃した。ひと学年で四百名以上もいたので、確か山陰・山陽、四国と分散の修学旅行プランだったが、ある事情で学年で数名行けなくなった。ある事情とはクラブ活動で県大会まで勝ち残ったというか、辛うじて生き残ったので、修学旅行の方を諦めたのである。

 1972年に大学に入って、漸く私の第二の鉄道利用期となる。個人的な旅行と運動クラブの合宿旅行、そして研究室へ入ってからの地方の学会参加の三つのカテゴリー。神奈川県から都内の大学へ進学し、国鉄と私鉄を乗り換えて通学は可能であったが、クラブとアルバイトで忙しく、アパートに一人住まいとなった。入学して半年ぐらい経ってからである。今考えるとこれが私が実家との縁切りになった時期である。 

 その後二十歳から、一挙に四十六~七年間の鉄道や航空機の経験は割愛し、最近のイベントと鉄道開業時の努力につぃて触れる。山手線に新駅誕生という事で名称募集があり、私は高輪シーサイドで応募したが、高輪ゲートウェイで決定。暫くして新駅を見学し、なんとこの新駅脇で、横浜―新橋開業時の盛土遺跡(鉄道を通す場所が無く、やむなく当時海側に盛土をして、そこに走らせた)が発見されたそうで、其処も見学できた。そこの少し陸側がちょうど今の国道一号線で、正月の三日の昼頃で箱根駅伝の常勝校A学院を追って、K大学が差をつめていた日であった。

二者択一とは

 あるTV番組でIT機器装置を使ってALS病(筋ジストロフィー症とは異なる)患者が目線でしか示すことが出来ない、自分は生きているという意志表示が出来るんだという一面と、それに対する意志表示;欧州では安楽死を選択できるんだという患者とが取り上げられて、生か死かみたいな二者択一の話かなと私は思った。しかし、はたと困った視聴者がほとんどではないかと私は察した。生死の選択が自ら出来るんだ? 本当に、単純な二者択一というプロセスで生死をみる事が出来て良いのだろか、ALS患者さんも症状が軽微な時期に、もっと考えてみることは出来ないのだろうか?

 病気と患者さん、周囲のご家族などの関係者、患者さんを受け入れている医療関係者だけの単純な世界の話に留めず、もう少し文学的な面で生きるもの、生きるべきもの、生きたいと願うとか、今はやりの多様性という視点でもいいかも知れない、等々の議論がもっと必要だろうという提案もその番組であったように記憶している。現在の「文学」は私個人的にはエンターテインメントが主流になりつつある、サスペンスとか、xx殺人事件で犯人捜し、そのプロセスで細かなトリック作戦(列車の時刻表や乗換方法など)が話題に取り上げられるというもはや文学という言葉とは違う表記が必要と思うのだが。

 右か左か、yes か no か という二者択一といってもそう簡単ではなく、ある道を右に曲がって更に進むと今度は三叉路があるかもしれない、左に曲がると道は一本であるのだが、うねったり、上り坂や下り坂がいろいろ続き、多様である。 人は問いに対して、yes/noで聞かれると思考が単純になり、それにたいする反応は、はい、そうですとか、いいえ、違いますという無味乾燥になってしまう。そこで工夫を考え、問う際に具体的に数値やwhat how的にやると今の所コミュニケーションは上手くいっているとプロ野球のあるチームの新監督が語っていた。その新監督は若いので自分なりの考えで、いかにして勝負の現場で選手のモチベーションを上げる方法として、取りあえずトライして行こうと思ったのだろう。
以前高校野球の地方チームの監督が考え出した若い高校生の育成、モチベーションの上げ方はチームという複数のプレーヤと一試合で何人まで、何回出たり引っ込んだり出来るかを前提とした新しい選手管理法で全国優勝を成し遂げたという成功例を紹介したが、翌年そのチームは、都会の若い選手だが、普段の生活から野球の練習方法まで、出来るだけ(管理はするのだが) 自主性を重んじる學校に敗れた。まだまだこのように若い成長途上の人・組織には画一な答えはないことが分かる。

左と言う言葉がなかったら、右と<右でない方>、
下という言葉がなかったら、上と<上でない方> のように
反対語とか対照語が、文化圏や固有言語を有する民族、
国によって違っているのが当たり前でしょう。

 この5月の連休の終わりに、夜のラジオ番組がテレビ番組になって再放送されていた。映像がないラジオのトークと映像それもカラフルでふんだんにあるテレビ番組でのトークは如何に異なっているのが当たり前と察したが、その番組はあくまでも元のラジオ番組に寄り添ったものであった。ラジオトークの内容は引きこもりの方(以後彼らという)が、私には元気にしているんだなと単純に思い受け入れたのだが、葉書で投稿(今の時代ネットのSNSもあるのだが、あえてゆっくりとした昭和の文通みたいな急ぐ理由もないコミュニケーション)して、自分はいじめに合っていたとか、いじめた側の人の、何であの時そんな傷つけることをしてしまったのかという自分を苛める声もあり、久しぶりに考え込んでしまった。結構似た事に同じように彼らは反応しているんだと感じた。

 それは、普通に考えると、暖かくなって、<春は心地よい、気持ちが良く、好きだ>としてしまうが、多感な彼らは<春は、、、、嫌いだ>そうだ。何故春は嫌いなんだという背景を議論したり、彼らがそう感じるのかについてもっと聞きたい・教えて欲しい。もう一つ、紹介するが ありがとう に対する言葉が、申しわけない とか ごめんなさい であるという。 春が好き、嫌い、という二者択一。ありがとう と (申しわけない、ごめんなさい) の組み合わせは二者択一なのか、ありがとうならば、 thank you に対してno thank you と私は短絡的に考えてしまって、「結構です」と軽く言ってしまう。 番組中で、投稿されたご意見で、過集中(over concentration? 一つの事に過度に専念する?)という私も普段聞きなれない言葉が参照されていたが、彼らが多感であり、物事を多様な感性で問い、深く考えることが出来る能力を持っている事の証であることに気づいた。引きこもりとは、決して狭い空間に留まっているのではなく、周囲の人から話しかけられたり、自ら知らない人に話掛けようとしないでいるだけなんだ。二者択一は実は多くの選択肢から一つを選び抜くという非常に難しいプロセスと同等であることに気付いたのである。

文化の継承する強さと弱さ

手もとにあった冊子のページ(注1)をめくると、松尾芭蕉が江戸をたち、東北地方を目指して奥の細道の第一歩となった日は、遡ること西行法師の没後五百年忌であったという事が記されていた。それは偶然でなく、芭蕉がその日(西暦1689年の元禄二年三月二十七日陰暦)と決めていたのである。それは西行法師が陸奥に旅立ち、歌を詠んだことに起因し、芭蕉が自らも西行法師の辿られた跡をなぞることで、歌の技量を高めたいとか西行が実体験したであろう事を自らも同様な実体験できる(五百年という時空を隔てても)のではという強い願望があったと推察される。さらに、芭蕉を慕い、芭蕉の没後五百年になって(西暦1694年十月十二日陰暦が芭蕉の没年)西暦2194年になるが、自らも芭蕉の奥の細道を巡った江戸と言う時代の経験を実体験したいという方が現れるであろうかは分からないが、現状の東北各県の人口減少を鑑み、果たして没後五百年(西暦2194年)に徒で巡るんだという強い意志をお持ちの方がおられるかも知れない。西行法師、松尾芭蕉、〇〇■■という名の方が現れ、五百年、千年間の文化の継承を個人の強い意志で成し遂げた。というようなニュースが未来人は果たして聞けるかどうか?

現代で自分の回りでそのような事(類似の事)を実際に実行した人、又は今計画中の知合いはいらっしゃるのだろうか。

新型コロナウィルス感染により世界中で行動が制限されて、特に陸続きの国境間を挟む二国では国境封鎖までして・・・・我が日本では大海に囲まれているがそれでも完全隔離は出来なかった。船舶・飛行機など手段によって人の移動が特別なケースで許されるので、2022年に2021東京オリンピックを開催したぐらいなので、段々と新型コロナに慣れっこになってしまった。

そんなこんなで、地元の町会・自治会などの行事を皆で合意の上で、暫く中断してしまった。そして、毎年行っていた地元の餅つき大会や節分の豆撒きが昨年四年ぶりに行われ、今年の夏には、二年おきに行う神社の本祭が六年ぶりに行われようとしている。この四‐六年という短そうな期間でも実際に準備に関わっていると大変なのである。残念ですがその僅か六年の間で二名の自治会長が亡くなられ新会長に替わっている。神社の宮神輿渡御という氏子地域を神輿が巡行するという全国各地で行われている普通の夏祭り・秋祭りではあるが、この六年間で神社総代役員代表も三名も替わり、自治会の役員よりも高齢者で構成されている神社総代役員で物故者になられた方はちょっと指を折っても両手が必要な十名位もおられ、一番大事な鳶の棟梁も昨秋亡くなってしまった。

ごく最近のネット配信新聞によると、

千二百年続けている裸祭(愛知県稲沢市の国府宮神社)は女人禁制であったが、今年から女性が参加したという事例もあり、文化の新たな継承も生まれる。但し、男女混合ではなく時間帯を分け、法被を纏う方法で女性からのたっての要望により実現にこぎつけたという。

また、こちらも千二百年間続けられた黒石寺の(裸祭り)蘇民祭は最後の行事を人がいないという理由で閉じた。

三十年毎に行われる源義家で有名な平塚神社(北区西ヶ原、筆者の近く)の本祭は平成十四年に行われ、ちょうど三十回目の九百年であったという。私は実際に宮神輿巡行や女性神主さんの大パレードの写真を撮った事を鮮明に覚えている。

伝承形態
  ことば    
   口頭伝承    
   文章
  道具や模型
  唄・踊りなどの実体験

文化の伝承は易しくないが、自分の時代にリソースがないという理由でいとも簡単に絶えさせてしまう事は非常な決断である。よくあるケースは神社仏閣の行事だが、日本・韓国では女人禁制の風習が多い文化でも、少しずつ変化がみられるようだ。

洋風の着物・簡単着物を身に付け、足元は皮のブーツもしくはカラフルな所謂有名ブランドのスニーカーにして、闊歩したいというシニアの女子が現れ、このような新しい意識と新しい行動は文化の創造の一つと思えるのだが?

日本では、古代日本(西暦九百年まで)、中世日本(千三百五十年)、近代日本(千八百六十年)、現代日本(二千二十年代まで)と大まかに区分すると区切りの期間では海を隔てたよその輩、異種文化の影響を受入れ、日本流の導入検閲がなされて異種文化が己のものに姿を変えて、いつしか和風、日本流、xx道みたいにしてしまう。これは日本文化の強みと言えます。

二十年毎に伊勢神宮では遷宮が行われ、斎宮が白木をもって建て替えられる。二千十三年が六十二回目だったそうです。ありとあらゆるものが新調され供される。これは日本文化継承の一番の強みでしょう。

注1;本誌 三河アララギ 平成三十一年1月号 芭蕉、、、中屋氏

注2;ふんどし姿の男たちが厄を落とそうと激しくぶつかり合う奇祭「国府宮(こうのみや)はだか祭」で令和6年2月22日、愛知県稲沢市の国府宮神社で開かれた。1200年前から続く伝統行事で、もみ合いに先立つ神事に初めて女性が参加。法被に身を包み「わっしょい」と声を上げてササを奉納した。

注3:蘇民祭 黒石寺蘇民祭(こくせきじそみんさい)令和6年は、2月17日(土)に妙見山(みょうけんざん)黒石寺で最後の開催

家から富士山が見えても富士から自分っちは分からぬ

 都内には富士見橋とか富士見坂という地名は多い。何故かと、聞く必要もないであろう。其処へ行くと西の方向に富士山が見えるのである。私も結婚して45年、東京に来て51年も経ってしまい、あちこちにスカイスクレーパーが、始めは徐々に、段々と加速して行き、にょきにょきと雨後の筍のようにあちこちの猫の額を埋めつくす。と、ある時、今年が最後のダイアモンド富士山となりますと、突然身近の富士見坂の際にポスターや看板が並ぶのである。大概は最後のダイアモンド富士山の占有する遠くののっぽビルにこれから住むであろう主の素性や懐具合に文句は言わない。
 なぜか、ダイアモンド富士を撮っていた昔カメラ小僧と言われ、今や高級なデジカメセットを携える親爺さんは、その富士見坂付近の住人でないと予想される。ひょっとして、今後ダイアモンド富士を独り占めするスカイスクレーパーの新住人かも知れないのである。ごちゃごちゃ、最後のダイアモンド富士を捉えようとするマニアと素人さんからなる群衆は互いに気にせず、いい場所取りをして、喧嘩沙汰にもならず、最後のショットを満足げに納め帰路に向かう。
 実は、最近同窓会のお知らせを頂いて、コロナ禍で3年前に亡くなられた若かりし頃ご指導頂いた担任の先生の墓参をするので集合されたしという主旨であった。
学校の先生が担任としてクラスを持った生徒たちの数、専門教科として受講した生徒たちの数を40年位の間先生と呼ばれ、運良くば、A先生はこの専門教科では当時素晴らしかったと言われるような伝説が残っておれば、相当な人数になるであろう。ここで、えいやっと40年x250人/年=10,000人とする。約1万人の教え子のひとりが私である。
 同窓会は3-5年に1回ぐらいのペースで開催していたが、最近、具体的にお話すると2011年(3月に東日本大震災があり、東日本地区で被災した大企業に勤めていたクラスメートも多く)、その頃の同窓会も延び延びになって、私も電子メールアドレスの変更届が上手くいかずに連絡が途絶えた。更に2019年頃からの新型コロナ騒ぎで、同窓会は面と向かっての開催が出来なく、本当に今回の連絡が久々となった。
 40代、50代、そして60代へ突入し、今年で皆70代となった。ここで定かでないのであるが、恐らく50代の同窓会の時、担任の先生にある思い出を詳細にお話した。最終学年(18歳)の授業の時、受験勉強の範囲外の数学のテーラー展開式(詳しくは高木貞治著・解析概論を参照)の説明をされて、黒板の左から右へ一杯に式をチョークで書き記したのである。ここまでであったら、こんな先取りの授業の話で終わって、家から富士山が見えてもで終わってしまうのであるが、私はさらに話を続けたのである。
 xx先生、大学に入学して更に所属した研究室(材料科学の修士コース、21-24歳)での研究内容の話を続け、非線形関数を無理やりにテーラー展開で近似線形関数を作成し、それをもとに当時誰も挑戦していなかった観測した実験値とテーラー展開による近似線形関数を最少2乗法で収斂させて式に含まれる材料の構造パラメータを求めることが可能になりましたと。
 xx先生はそうかい、そんなテーラー展開の説明をされたことをお忘れになっており、少々拍子抜けし吃驚したが、そんなものかなと思いをはせた。
 多くの教え子がたった一人の先生を囲むようにして存在し、その教え子と先生との距離感やどのような付き合い・興味といった方向感がそれぞれあることがわかるのである、インフルエンサーという言葉が知られているが、確かに私は数学の担任の先生の影響を受けたが、現代版インフルエンサー講演に集まる特定のインフルエンサーの影響を受けたいとか、俺は私はインフルエンサーだと言う穿った気持ちを持ちたいのではなく、無意識の中で互いに伝播し合えばいいのではないかと思う。
 私の記憶では、関東地域ではなぜか、富士を夕日の西に臨むのが普通で、富士見坂でなくとも平らで広々とした関東平野ではどこでも富士を眺むことができ、日光から浅草への帰り道、まだ富士が小さく低く望める東武線沿線、茅ケ崎の実家の西向きの玄関から大山丹沢連峰と毎日見える富士、茅ケ崎の海岸から西に顔を振り向ければスカイスクレーパーに切り取られることなく、自分の富士を箱根山の外輪山と好きに鎮座させ、楽しむことができるのである。

夢のある話

日本でも月を目指す宇宙飛行士の人選の結果が話題になっている。
本当に夢のあるわくわくする話である。人生100年と言われる現代でも、よく考えるとそうたびたびある夢のある話ではない。それも、応募された志高き人、夢をかなえようと幼き頃に心に決めた多くの中で、再チャレンジの一番高齢(といっても40半ば)の男性と20歳代の女性の2名が夢を叶えようとする一番札を抑えた。

米国が約53年もの前に月面に初めてブーツの足跡を付けたのだ。
技術をかじった事のある人間にとって50余年も前の未熟な技術で、今考えると能く月に行こうと、恐ろしい程の夢を持ったものだ。しかし誰しも数十年先の技術向上は決して否定はしないがそれがどれ程の高度化を達成出来ているのかも未知であって、数十年待って安心して夢を叶える行動を取っても意味がないのは明白で、今挑戦することに意味があるのである。

しかし、今年70歳になる自分が学生の頃、ちょうど大学院を目指して研究室に所属した時期に、日本では放射光リング(今は筑波研究学園都市に加えスプリング8という関西にある放射光リングの呼称が有名になり)が夢でその実現に向かって、装置開発グループや私のいた研究室は放射光と言ってもX線レベルの電磁波で、ある種の高強度のX線が得られたとしてどのような実験が出来るかというテーマを研究し始めていた。後年になって夢はかなえられてしまったのだが、真空の導管中を電子ビームを光の速度の近くまで加速させ、その電子ビームを磁場で少し曲げると、接線方向に放射光が発散し、それを応用しようとするものである。

大学院を卒業して、そんな放射光をも忘れて、現在のインターネットのベースとなっている光通信事業の開拓に夢中になっていた時、ある種のデータのわずかな差異に、、、それはかっこ良く言えば、品質問題、quality management, quality control of product performance specification問題に遭遇し、その現象は6シグマ運動や高度な統計数学が関わるものであった。
こう言った「がちがち」の数学が関わるものは時代によらず必要なのだが、感覚的には昭和から平成への時代感覚で、話を戻すと公開された月を目指す宇宙飛行士の選考過程で見られた内容は平成から令和の時代に必要なグループで人が仕事を成し遂げようとする際に要求されるコミュニケーション・リーダーシップに焦点が当てられていたようだ。さらに、科学者・エンジニアのような高度な専門職的作業は出来て当たり前、その先の火星探査への片道切符とか死に直面するような宇宙飛行士の人としての振る舞い、他人との関係性の取り方、ただリーダとして強引に他人を引っ張るだけではない姿、人物像を評価して見たいという意向が感じられた。

話を昭和から平成の時代にもどすと、私が関わった高度な統計数学が関わる光通信ネットワークの事例の話をして見たい。当時の日本と米国を結ぶような世界で一番長距離の大陸間海底光伝送では予め光が伝搬する光ファイバーのコアの部分の光屈折率を例えば9000㎞の長さ方向に渡って調整しておかなければならないのである。それは、単に標準的な製品仕様値(平均値+/-δ)を満足しているだけでは不十分で、9000㎞長の経路毎に例えば始めの50㎞は1.4650で次の50kmは1.4654というように長手方向の変動に関する値を管理制御すること、実際には光信号が伝搬する際の遅延時間を表記する光屈折率の波長分散という性能に関わる仕様のお化けみたいなものがある。

当時、米国の大手計測機器メーカーのものを使って計測するのが業界的標準になっており、私はもの作りのメーカ側の立場で製品検査を、お客様も値の張る米国製の計測器を購入し、受入検査をされていた。私が勤務していた米国メーカと顧客企業とで取り交わした仕様値を満足しており、受け入れ合格なのであるが、当時、私は技術責任者としてその膨大な品質データを検証していた。
何かがある? という疑問であった。

光ファイバーは石英ガラスから作られているが、その屈折率は空気中と真空中とでは値が0.03%にも満たない程度であるが、差異があるのである。起因は光の伝搬速度を真空中の値を1とすると空気中では0.03%程度遅いことにある。僅か1000分の0.3、ppm表示だと300ppm。そうなんです、検査時の基準を真空中の値、空気中の値とするかが両者で異なっていたことに起因して、データの分布図をメーカの出荷時と顧客の受け入れ時の値とを比較すると、一つのピークを持ったガウス曲線というよりも2つのずれたピークを持つガウス曲線としてみた方がいいのではないかという私が何かがある?と言った疑問が解けたのである。

こんな僅かな事も私にとっては当時夢のような話で、本社の製造部門だけでなく、開発・品質管理や顧客技術支援部門、その他多くの人達を巻き込み、課題・対策の情報共有が出来たというあたり前と言ってしまえばそうであるが、あたり前の簡単なことが認識出来ずに、月さらに火星探査へと連なる「かぐや姫の夢」を壊したくないのです。

45年前の万葉の旅と令和


令和元年5月の連休明けに始まった築30年の我が家のリフォーム工事の為に数か月前より、家の中の断捨離を子供達に急(せ)かされながらやった。ちょうど5月17日の朝、断捨離を済ませ生き残った古本が綺麗に並べられて、ベットの横の本棚の奥の右側に、万葉の旅(上、下、現代教養文庫・社会思想社;1972年)が見えた。そうだな、理系の学生の私だったが、学生時代、時間があるとこの万葉の旅で詠われている万葉歌の故地を尋ねるのを趣味としていた。学生時代の講義では故江藤淳先生のレポートで悲劇の大津皇子や二上山を題材にした時もこの万葉の旅にお世話になった。

前置きよりも、私はとっさに、下巻を掴み見出しをパラパラと送り、キーワード;大宰府を探してしまった。大宰府には(一)(二)があって、見出しの(二)の前のP126に“梅花の宴”が纏められており、約45年前に手にした本には、こう書かれていた。

梅花の歌三二首と中国詩文を模倣駆使した美文の序とが巻五に所収されている。

序の一節に「時に初春の令月、気淑く風和ぎ、梅は鏡前の粉を披き・・・」

この一節が新年号・令和の由縁とされたもので、世間で騒がれている大先生以上の著者の犬養孝氏は既に昭和39年9月にあとがきを記している。

残念だが、当時九州旅行では他の万葉歌が歌われている地区を旅してしまった。大宰府は超有名どころで、当時は徒歩でしか行けないような鄙びた別な所を探し回った。本の見出しに鉛筆でチェックした跡が残されている所を旅したのだなと記憶を戻した。学生時代という短い期間ではあったが、本で見たり、実際に訪れ、8世紀ごろ以前の日本の国の広さ(文化、支配圏)が、万葉歌が詠われている最北端地、最南端地で理解できるのではないかと思い、訪ねてみた。

最北は東北線の小牛田近くの黄金神社(当時金が採れたという)で、せいぜい宮城県多賀城遺跡の少し北であり、最南は鹿児島県阿久根市の薩摩の追門(黒の瀬戸、鳴門の渦潮みたいな流)である。黄金神社は雪降る大学3年生の2月ごろ訪れ、当時は本当に普通の神社で私の他に誰も訪れている人はなかった。薩摩の追門は少し暖かい時期に尋ね、確か国鉄の阿久根の次の折口駅から徒歩で往復した。いわゆる天草の入り組んだ瀬の一つで、古代当時は隼人が中心だった地域である。歩いて腹が減ったので確か駅前の小さなラーメン屋で麺を注文したら、ちゃんぽん麺みたいな汁と麺が出され、おばさん一人でやっている店で味わった。阿久根へは薩摩半島の長崎鼻を訪れ、西鹿児島経由で来た。当時の国鉄の列車に乗っていて非常に脳裏に焼きついている事は、北九州辺りの方言は分かるのだが、熊本を過ぎもっと南の地域では乗り込んできた老婆の九州弁は若い学生にとってイントネーションがベトナムかアジア南部の方が話している様だった。

この万葉の旅は上、中、下の3冊あるのだが、今は(中)が迷子で見当たらない。(上)にはメッカの大和地域で詠われた万葉歌が多く紹介され、詳細に分類されている。付け足しだがこの(上)を参考にして、学生当時(1976年頃)、友人の父親が単身赴任で住んでおられた奈良西大寺近くの官舎を根城にさせて頂き、大和三山、山の辺の道などを、友人と供に歩いて味わった。色彩豊かな壁画が描かれた高松塚古墳が1972年に発見された4年後であるが、当時は見学者を受け入れる状況にはなっていなかったと思う。

九州の旅は鹿児島大であった学会の後の一人旅だったが、今振り返ると昭和の帝が、約13年後に身罷われ、更に30年後に現上皇が自ら退位の意を表され、普通は深い悲しみの中で新年号を受け入れるのであるが、この令和の新年号はどちらかというと慶事の雰囲気漂う中で待ち望んだ。予期もせず、こういう初めての、心の持ちように万葉歌がしてくれたと想いたい。

平成26年第48回彩花展

時にはこんな分野にも顔を出しています。会場は池袋・東武百貨店8F 。

木村映鶯先生と作品

木村映鶯先生と作品

生徒さんの作品

生徒さんの作品

私が気に入った緑のモノトーンの作品

私が気に入った緑のモノトーンの作品

こちらも単色系、私の気に入った作品、稲ではありません

こちらも単色系、私の気に入った作品、稲ではありません

第48回の彩花展のポスターです。今回は会場も明るく、展示レイアウトも以前とは変わっているようでした。自由な発想の草月流です。ご招待で池坊流派の作品も展示されていましたが、やはりデザイン構成が異なっていました。

ポスター

ポスター

 

意外なオンラインe-learning受講者像

知っておいたら今年2014年はワクワクするかも。

①平均年齢が34歳、②82%が大卒以下の学歴、③81%が社会人として仕事についている、④世界のFortune500社に入る企業の40%以上が研修ツールとして採用している、⑤オンライン教育を採用している企業は50%以上の生産性を向上させる可能性を秘めている、⑥その様な企業が研修に費やしている経費1ドル毎に30ドルに値する生産性を生みだしている、⑦人事管理者への調査では離職者の最大の理由として研修が不充分であるとしているのは12%、⑧社員へ最良のe-learningとOJTを提供しる企業は社員1人当り26%以上の売上増を生みだしている、⑨2011年には世界でe-learningの自主学習に3兆5000億円が投入されたが、現在では5兆5000億円、さらに2015年には2倍になる、⑩企業の72%がe-learningは業界での変革に対応出来るように最新な状態に居られるように助かっているし、ニッチな市場で優位性を維持できると述べている、⑪教育・研修志向文化を持つ企業はそうでない企業よりも市場で優れている、⑫内訳として34%以上の企業で顧客のニーズにもっと対応したい、⑬46%以上は業界でリーダ役を果したい、⑭17%以上が市場のトップシェアを獲得したいと考えている。

参考資料:

http://www.trainingzone.co.uk/blogs-post/14-e-learning-statistics-you-need-know-2014/186371