オーラルフレイルOF

 これは典型的な外来語の発音をそのまま表記した我々にはとんでもなく悪い言葉だ。口の機能の衰えを意味し、70を超えたシニアにとっては多様な老齢化疾病の直接・間接的症状の現れで、死にも繋がる。詳しくは、今はやりのAIサポートやウィキペディア(wiki)を参考にされたい。
 今日は私の独断、変わった見方でOFついて呟きたい。高度に発達したホモサピエンスは言語を習得し、文字を発明し、今や宇宙開発にピリピリし始めている。逆に失ってしまったもの、正に失いつつあるものに注視してみる。30-40万年前に樹上で暮らしていたグループが地上へ移行し、2足歩行の能力を得て、高度な言語能力を身に着けて行ったと研究者は述べていた。その時期に呼応して人類は失いつつあるものも複数あったという。
 よく例に私は上げるのであるが、4足動物で走るのが速いチータやヒョウがこれも走るのが早い草食動物を追いかけて捕え、その日の空腹を満たせるのが第一番の関心ごとだ。チータやヒョウでもそう簡単には、跳んではねる獲物は捕えられない。走る向きをパット変え 後ろから追っているチータも瞬時に走る方向を変え、こんなことを何度か繰り返して、やっと獲物を抑え、直ぐに空腹を満たしたところであるが、未だせねばならないことある。
 今度はハイエナや鷲のような餌を横取りする動物に対して、力がとんでもなく強い顎で獲物を噛んで、 木の上に引き上げるか茂みに引き込む。それでやれやれと獲物を食するという普通のストーリがTVなどで観られる。

これらのチータの口の機能について、独断してみる。              
もはや、高速で逃げ回る獲物を追って瞬時に身体の向きを変えられる能力は大脳で処理した結果をフィードバックして、次の行動を起こすという遅いプロセスではなく、小脳・脳幹で無意識の瞬時のうちに反応出来る能力であろう。
  それに対して、人類は言語能力を高めた結果、大脳でのゆっくりとした処理に呼応した口腔の構造が高音から低音までの発声に合うように細長くなり、顎も細長く変化してきたそうである。もはや、樹上で暮らしていた世代の人類が持っていた噛む力も弱くなっていったのであろう。
 さらに、人類は視覚の精細さと聴覚の高度化も進んで行ったと推察している。 その傍証として目の見えない視覚障碍者は耳が良いそうだ。ある視覚障碍者は、今はやりのネットビデオサービスのYouTubeで、若者が出来るだけ短い時間で多くの情報を入手したい、理解したいという世界的なニーズがあり、YouTube には再生速度が次の等倍速以上で、1.25 1.5 1.75 2.0倍速以上ので動画の音声を聴き分けられるという。

それ、ちゃう ちゃう と 大阪のおばちゃん
 これは チャウチャウ犬 のことではないと 東の関東地区の男性
 それは違う、違うのです。と大阪のおばちゃん言葉を関東風に翻訳。
 助詞の(は)が省略され、sore ha chigau no desu がSORE CHAU CHAU に。

言語的に省略と短縮がおこなわれ、話言葉がどんどん早くなり、俗っぽく変化する。
早口に対して、速読能力もよく注目される。普通の人は本を読む時、一文字づつ追って読むのだが、速読力のある方は文字を追って行くのではなく、複数の文字列を一塊として、平面的図形として捉え、自分のケースでは縦書き・横書きでも、1行17文字位が一番ピッタリ感がある。原稿用紙の20文字はちょっと長すぎて、読売新聞は縦書き1行12文字で書かれているが、12だと短すぎて、ピッタリ感がない。文字列の一塊は5-6行の総文字数で17x(5~6)、すなわち一目、一見で85~102文字がざっと見渡して私が理解できる図形範囲である。これを1秒間で視覚情報を処理可能な大脳の能力とも言えないか?
  もはや1秒で100文字分は人の音読限界を超えている。これら高度に特化した二つの能力は大脳をもっと発達進化の道へと開いた。しかし、失ったものも有ることを忘れてはいけない。

次のことは一般的なシニアの事象で、耳が悪くなりましね、聴こえ難くなりましたねと会話が進むようだが、、、。実は音の強弱に加えて、シニアの方は音の高低(すなわち、周波数)の高音域が聴こえなくなる。

すなわち、日本語は母音が主な言語でこれに撥音が組み合わさって構成されているある例だが、難聴で90歳を超えた老女と5-6歳の幼稚園児が、じゃんけんをしていた。
子供;じゃんけんぽい、じゃんけんぽい と大きな声で繰り返すのだが
老女;何 じゃん じゃん というだけ? 怪訝な表情
これは老女が け と ぽ が聞き取れていないこと・撥音も言い辛いことが判明したOFの分かりやすい例である。

私の百五十年

 一昨年、令和四年は鉄道開業150周年記念だそうである。現桜木町と汐留新橋間を所謂蒸気機関車が初めて営業開始をした。当時は横浜と呼ばれて、小さな漁村だった所が日本の開国とともに近代化へ突っ走った拠点となり、色々な出来事の一つとして、メモリーである。現在の横浜は神奈川と呼ばれていた線路が左折する前の地域へ移り、旧横浜の漁村は大桟橋を始め、レインボーブリッジなど巨大な港のインフラ整備がされ、隣接した大企業の跡地が再開発されてみなとみらい地区と変貌してしまった。<私は令和六年から約七十年遡って、七十/百五十年を断片的には観てきた事を示してみる。>

 私は横浜生まれで、母方は埼玉、父方の家系は新潟出の祖父を持ち、両親は横浜の出であり、親類も南京町、伊勢佐木町、蒔田町界隈に多かった。私はてっちゃんでもなく撮り鉄でもないが、初の鉄道乗りの記憶は鶴見から大宮まで(母方の実家が埼玉県北足立郡にあり、大宮でバスに乗り換えた)の汚れた小豆色をした省線くずれの京浜東北線であった。約百五十年前は、歴史的には江戸時代の終焉から明治維新への日本にとって、大変革のスタートから暫く時が過ぎている。自分の生きてきた世界で、江戸時代の人を実体験的に聞いたのは家内の母(九十六歳)が小さい時、義母の祖父が一緒に暮らしていたそうで、爺やんは江戸時代生れだと以前、口にしていたのが、唯一私の江戸時代である。自分の家系では男親系は短命で、精々私の二人の祖父までの話で、遡って明治中期、百三十年前位で止まってしまう。私の旧姓の祖父は新潟県(明治初期の人口は日本で一番であった)の出で三男、親元を離れ、当時どのルートを歩いたのかは定かでないが、日本では正確で立派な戸籍が残っており、旧中仙道筋を通って東京を目指し、途中の埼玉の戸田の在の女性を伴侶とし(現在戸田の美女木にの寺に墓がある)、大正時代の始めに東京巣鴨で叔母さんが生まれたことが記録に残っている。現在の大塚の近くであり、更に東京を越えて横浜、桜木町近くの伊勢佐木町・長者町辺りに住み始めたようだ。そこで実父がうまれ、私の本籍も生を受けた時はそこであった。

  私は鶴見区の生麦で生れ、近くに生麦駅(京急線)があり、並行して国鉄の踏切があり、そこを初の特急こだまが通過したのを見た記憶がある。当時私は学校に入学前の幼稚園生だったが、なぜだか家に小さな時刻表があり、よく時刻表で遊んだ記憶と書かれた地名の漢字を読んで入学前に結構漢字を理解していた。その後の出来事、生麦の家は社宅で茅ヶ崎に小さな一戸建てを父が建てる計画を進めており、横浜から茅ヶ崎まで東海道線で行く必要があり、ポケット時刻表があったわけであった。鉄道開通百五十周年といわれても、、、インターネットなど無かった時代の時刻表の利便性、楽しさに触れなければならない。それは遊びであり、どこか出かけたつもで(今でいうバーチャルみたいな世界)時刻表の鉄道(私の学生時代までは電車と蒸気機関車が混在していた)と拠点の駅で乗り換えが出来る民間バスの時刻表も豊富であった事を覚えている。さて、どういったバーチャル体験が出来るかを説明すると、特急・急行・準急列車が豊富で、更に新幹線など無い時代には夜行列車も豊富で、学生時代にはお世話になったが、幼少期の頃でもレ点(列車の通過駅)が気に入り、レ点がずっと続いていると、それは特急だと嬉しさが顔に出る。普通列車・急行が停車する駅、例えば、2330/2347    2342/2345 と普通が2330に着いて、続いて急行が2342に到着し、3分後の2345に出発したのち、更に2分後の2347に普通列車が出ていくという二つの列車が停車する駅だという事が分かる。夜行急行でも時間調整で400/430  と早朝に30分も止まるケースもあり、面白さが小さな少年に醸し出てくるのだ。

 小1の秋に茅ヶ崎へ引っ越して、小・中学校の生活が始まったが、当時は余り長距離の鉄道を乗る機会など無かった。両親、その先の祖父母の出自を紹介したが、皆近くにいて、西日本、東北・北海道なども縁が無かった。父方の祖母が当時昭和の初め42-3才で病死して、祖母の実家に近くの寺に墓を設け、浦和の在で茅葺の農家の家が残っており、小さい時の記憶では横浜の町中から、場違いの東北のどこぞの村へお邪魔したような雰囲気が残る田園で、今では埼京線と東北新幹線が並行し、スピードアップして走る荒川の川向こうの埼玉県戸田の美女木辺りの事である。精々、中学の修学旅行で京都方面へ日の出号で往復した事だけで、新幹線は利用できなかった。高校へ入学しても、長距離鉄道チャンスを逃した。ひと学年で四百名以上もいたので、確か山陰・山陽、四国と分散の修学旅行プランだったが、ある事情で学年で数名行けなくなった。ある事情とはクラブ活動で県大会まで勝ち残ったというか、辛うじて生き残ったので、修学旅行の方を諦めたのである。

 1972年に大学に入って、漸く私の第二の鉄道利用期となる。個人的な旅行と運動クラブの合宿旅行、そして研究室へ入ってからの地方の学会参加の三つのカテゴリー。神奈川県から都内の大学へ進学し、国鉄と私鉄を乗り換えて通学は可能であったが、クラブとアルバイトで忙しく、アパートに一人住まいとなった。入学して半年ぐらい経ってからである。今考えるとこれが私が実家との縁切りになった時期である。 

 その後二十歳から、一挙に四十六~七年間の鉄道や航空機の経験は割愛し、最近のイベントと鉄道開業時の努力につぃて触れる。山手線に新駅誕生という事で名称募集があり、私は高輪シーサイドで応募したが、高輪ゲートウェイで決定。暫くして新駅を見学し、なんとこの新駅脇で、横浜―新橋開業時の盛土遺跡(鉄道を通す場所が無く、やむなく当時海側に盛土をして、そこに走らせた)が発見されたそうで、其処も見学できた。そこの少し陸側がちょうど今の国道一号線で、正月の三日の昼頃で箱根駅伝の常勝校A学院を追って、K大学が差をつめていた日であった。

二者択一とは

 あるTV番組でIT機器装置を使ってALS病(筋ジストロフィー症とは異なる)患者が目線でしか示すことが出来ない、自分は生きているという意志表示が出来るんだという一面と、それに対する意志表示;欧州では安楽死を選択できるんだという患者とが取り上げられて、生か死かみたいな二者択一の話かなと私は思った。しかし、はたと困った視聴者がほとんどではないかと私は察した。生死の選択が自ら出来るんだ? 本当に、単純な二者択一というプロセスで生死をみる事が出来て良いのだろか、ALS患者さんも症状が軽微な時期に、もっと考えてみることは出来ないのだろうか?

 病気と患者さん、周囲のご家族などの関係者、患者さんを受け入れている医療関係者だけの単純な世界の話に留めず、もう少し文学的な面で生きるもの、生きるべきもの、生きたいと願うとか、今はやりの多様性という視点でもいいかも知れない、等々の議論がもっと必要だろうという提案もその番組であったように記憶している。現在の「文学」は私個人的にはエンターテインメントが主流になりつつある、サスペンスとか、xx殺人事件で犯人捜し、そのプロセスで細かなトリック作戦(列車の時刻表や乗換方法など)が話題に取り上げられるというもはや文学という言葉とは違う表記が必要と思うのだが。

 右か左か、yes か no か という二者択一といってもそう簡単ではなく、ある道を右に曲がって更に進むと今度は三叉路があるかもしれない、左に曲がると道は一本であるのだが、うねったり、上り坂や下り坂がいろいろ続き、多様である。 人は問いに対して、yes/noで聞かれると思考が単純になり、それにたいする反応は、はい、そうですとか、いいえ、違いますという無味乾燥になってしまう。そこで工夫を考え、問う際に具体的に数値やwhat how的にやると今の所コミュニケーションは上手くいっているとプロ野球のあるチームの新監督が語っていた。その新監督は若いので自分なりの考えで、いかにして勝負の現場で選手のモチベーションを上げる方法として、取りあえずトライして行こうと思ったのだろう。
以前高校野球の地方チームの監督が考え出した若い高校生の育成、モチベーションの上げ方はチームという複数のプレーヤと一試合で何人まで、何回出たり引っ込んだり出来るかを前提とした新しい選手管理法で全国優勝を成し遂げたという成功例を紹介したが、翌年そのチームは、都会の若い選手だが、普段の生活から野球の練習方法まで、出来るだけ(管理はするのだが) 自主性を重んじる學校に敗れた。まだまだこのように若い成長途上の人・組織には画一な答えはないことが分かる。

左と言う言葉がなかったら、右と<右でない方>、
下という言葉がなかったら、上と<上でない方> のように
反対語とか対照語が、文化圏や固有言語を有する民族、
国によって違っているのが当たり前でしょう。

 この5月の連休の終わりに、夜のラジオ番組がテレビ番組になって再放送されていた。映像がないラジオのトークと映像それもカラフルでふんだんにあるテレビ番組でのトークは如何に異なっているのが当たり前と察したが、その番組はあくまでも元のラジオ番組に寄り添ったものであった。ラジオトークの内容は引きこもりの方(以後彼らという)が、私には元気にしているんだなと単純に思い受け入れたのだが、葉書で投稿(今の時代ネットのSNSもあるのだが、あえてゆっくりとした昭和の文通みたいな急ぐ理由もないコミュニケーション)して、自分はいじめに合っていたとか、いじめた側の人の、何であの時そんな傷つけることをしてしまったのかという自分を苛める声もあり、久しぶりに考え込んでしまった。結構似た事に同じように彼らは反応しているんだと感じた。

 それは、普通に考えると、暖かくなって、<春は心地よい、気持ちが良く、好きだ>としてしまうが、多感な彼らは<春は、、、、嫌いだ>そうだ。何故春は嫌いなんだという背景を議論したり、彼らがそう感じるのかについてもっと聞きたい・教えて欲しい。もう一つ、紹介するが ありがとう に対する言葉が、申しわけない とか ごめんなさい であるという。 春が好き、嫌い、という二者択一。ありがとう と (申しわけない、ごめんなさい) の組み合わせは二者択一なのか、ありがとうならば、 thank you に対してno thank you と私は短絡的に考えてしまって、「結構です」と軽く言ってしまう。 番組中で、投稿されたご意見で、過集中(over concentration? 一つの事に過度に専念する?)という私も普段聞きなれない言葉が参照されていたが、彼らが多感であり、物事を多様な感性で問い、深く考えることが出来る能力を持っている事の証であることに気づいた。引きこもりとは、決して狭い空間に留まっているのではなく、周囲の人から話しかけられたり、自ら知らない人に話掛けようとしないでいるだけなんだ。二者択一は実は多くの選択肢から一つを選び抜くという非常に難しいプロセスと同等であることに気付いたのである。

文化の継承する強さと弱さ

手もとにあった冊子のページ(注1)をめくると、松尾芭蕉が江戸をたち、東北地方を目指して奥の細道の第一歩となった日は、遡ること西行法師の没後五百年忌であったという事が記されていた。それは偶然でなく、芭蕉がその日(西暦1689年の元禄二年三月二十七日陰暦)と決めていたのである。それは西行法師が陸奥に旅立ち、歌を詠んだことに起因し、芭蕉が自らも西行法師の辿られた跡をなぞることで、歌の技量を高めたいとか西行が実体験したであろう事を自らも同様な実体験できる(五百年という時空を隔てても)のではという強い願望があったと推察される。さらに、芭蕉を慕い、芭蕉の没後五百年になって(西暦1694年十月十二日陰暦が芭蕉の没年)西暦2194年になるが、自らも芭蕉の奥の細道を巡った江戸と言う時代の経験を実体験したいという方が現れるであろうかは分からないが、現状の東北各県の人口減少を鑑み、果たして没後五百年(西暦2194年)に徒で巡るんだという強い意志をお持ちの方がおられるかも知れない。西行法師、松尾芭蕉、〇〇■■という名の方が現れ、五百年、千年間の文化の継承を個人の強い意志で成し遂げた。というようなニュースが未来人は果たして聞けるかどうか?

現代で自分の回りでそのような事(類似の事)を実際に実行した人、又は今計画中の知合いはいらっしゃるのだろうか。

新型コロナウィルス感染により世界中で行動が制限されて、特に陸続きの国境間を挟む二国では国境封鎖までして・・・・我が日本では大海に囲まれているがそれでも完全隔離は出来なかった。船舶・飛行機など手段によって人の移動が特別なケースで許されるので、2022年に2021東京オリンピックを開催したぐらいなので、段々と新型コロナに慣れっこになってしまった。

そんなこんなで、地元の町会・自治会などの行事を皆で合意の上で、暫く中断してしまった。そして、毎年行っていた地元の餅つき大会や節分の豆撒きが昨年四年ぶりに行われ、今年の夏には、二年おきに行う神社の本祭が六年ぶりに行われようとしている。この四‐六年という短そうな期間でも実際に準備に関わっていると大変なのである。残念ですがその僅か六年の間で二名の自治会長が亡くなられ新会長に替わっている。神社の宮神輿渡御という氏子地域を神輿が巡行するという全国各地で行われている普通の夏祭り・秋祭りではあるが、この六年間で神社総代役員代表も三名も替わり、自治会の役員よりも高齢者で構成されている神社総代役員で物故者になられた方はちょっと指を折っても両手が必要な十名位もおられ、一番大事な鳶の棟梁も昨秋亡くなってしまった。

ごく最近のネット配信新聞によると、

千二百年続けている裸祭(愛知県稲沢市の国府宮神社)は女人禁制であったが、今年から女性が参加したという事例もあり、文化の新たな継承も生まれる。但し、男女混合ではなく時間帯を分け、法被を纏う方法で女性からのたっての要望により実現にこぎつけたという。

また、こちらも千二百年間続けられた黒石寺の(裸祭り)蘇民祭は最後の行事を人がいないという理由で閉じた。

三十年毎に行われる源義家で有名な平塚神社(北区西ヶ原、筆者の近く)の本祭は平成十四年に行われ、ちょうど三十回目の九百年であったという。私は実際に宮神輿巡行や女性神主さんの大パレードの写真を撮った事を鮮明に覚えている。

伝承形態
  ことば    
   口頭伝承    
   文章
  道具や模型
  唄・踊りなどの実体験

文化の伝承は易しくないが、自分の時代にリソースがないという理由でいとも簡単に絶えさせてしまう事は非常な決断である。よくあるケースは神社仏閣の行事だが、日本・韓国では女人禁制の風習が多い文化でも、少しずつ変化がみられるようだ。

洋風の着物・簡単着物を身に付け、足元は皮のブーツもしくはカラフルな所謂有名ブランドのスニーカーにして、闊歩したいというシニアの女子が現れ、このような新しい意識と新しい行動は文化の創造の一つと思えるのだが?

日本では、古代日本(西暦九百年まで)、中世日本(千三百五十年)、近代日本(千八百六十年)、現代日本(二千二十年代まで)と大まかに区分すると区切りの期間では海を隔てたよその輩、異種文化の影響を受入れ、日本流の導入検閲がなされて異種文化が己のものに姿を変えて、いつしか和風、日本流、xx道みたいにしてしまう。これは日本文化の強みと言えます。

二十年毎に伊勢神宮では遷宮が行われ、斎宮が白木をもって建て替えられる。二千十三年が六十二回目だったそうです。ありとあらゆるものが新調され供される。これは日本文化継承の一番の強みでしょう。

注1;本誌 三河アララギ 平成三十一年1月号 芭蕉、、、中屋氏

注2;ふんどし姿の男たちが厄を落とそうと激しくぶつかり合う奇祭「国府宮(こうのみや)はだか祭」で令和6年2月22日、愛知県稲沢市の国府宮神社で開かれた。1200年前から続く伝統行事で、もみ合いに先立つ神事に初めて女性が参加。法被に身を包み「わっしょい」と声を上げてササを奉納した。

注3:蘇民祭 黒石寺蘇民祭(こくせきじそみんさい)令和6年は、2月17日(土)に妙見山(みょうけんざん)黒石寺で最後の開催

自分だけの歴史

 異なった色の積み木を重ねるように自分だけのフェイクではないが、面白くもない本当の歴史を作ってみたいとお考えになったことがあるだろうか?フェイクとは偽りのという意味をいい、そうではないので事実・本当の事だ。もう少しこだわりがあるのだが、異なった色の積み木と始めに申し上げたが、絵の具が何かで木に色を浸み込ませたのではなくて、箱根の寄木細工のように、種々の木々を切ってよく見ると、木は肌だけでなく中身も特徴のある色合いを持っており、それで異なった色の組み合わせが可能となって、素晴らしい箱根寄木細工となるのだそうだ。実は私自身も畳一枚くらいの大きな無垢の木一枚で机を作りたかったのであるが、木工の工房のデザイナーに裏ワザを教わったことがあり、見せかけの大きな一枚の木を例えば小さな7-8枚で構成して造る時、木目・木肌・木地の似たものを用意して、上手く木目を合わせながら接着剤で割り合わせて、本物と間違いそうな張り合わせの“無垢の大きな木”を造って少しでもお安くするそうだ。そんな裏話を18年位前に聞き、それは良くないと思い、逆に7-8種類の色合いを持つ原木を探してもらい、それらを目立つように張り合わせて大きな一枚にして頂いて、それを今でも自分の机として使っている。
  歴史の構築と言えば、よくあることだが小説家が史実を綿密に調査して、“小説としての歴史”を、史実として後年になって発表し多くの人に知らしめし、関心をもたらすことが多い。江戸幕末から明治への変換期に多く、坂本龍馬が一番の例であろう。深くは立ち入らない。 
 以前、意外な自分自身の経験と題して2年前に、今年ちょうど百年になる関東大震災の実体験談として、私の実父と同じ歳の方の話が紹介されていた。ちょっとおかしい、実父は当時2歳で震災を体験したらしいが記憶がないと生前、話は聞いたことが無かった。よく調べると私の実父と同じ歳の方は年齢が少し上のお兄さんから後年聞いた話をもとにして実体験談として語ったそうで、これらは学習した横浜での関東大震災で、後で学んだことが加わって自分の体験として身についたもので、よく考えるとそれは今流のバーチャルで加飾された体験である。よくある事らしいが、親、年上の兄姉から伝え聞いた話で、公知の一般史実は意外と知られていないのかも知れない。
 最近、自分の心・魂をハッとさせた事があった。それは今年の令和五年に入ってからで、世間ではTV放送開始七十周年記念とかさわいでいるが、私も七十歳になって、小津安二郎監督が東京物語を執筆するために、定宿としていた茅ヶ崎館に滞在していたと知ったことである。さらに、小津安二郎のカメラマン<厚田雄春氏>に関して本アララギに寄稿し、素朴な50ミリのレンズと静寂・白黒の世界観に心を打たれ高揚している時に、小津監督が茅ヶ崎館に滞在し、東京物語を執筆した時期が私の生まれた昭和二十八年と知り、さらに執筆日記が残されていて、私が生まれた四月二十一日が自分にとっての歴史的出来事であることを知ったことが契機となった。

   表  勝手に積み重ねる自分の歴史
小津監督、東京物語構想 二月、執筆開始 四月八日
  昭和二十八年四月二十一日に、私は生を受ける。
小津監督、東京物語執筆脱稿 五月二十八日
  7才の時に横浜・鶴見区生麦の花月園近くから移り住んだ茅ヶ崎 昭和三十五年秋
小津監督、短い人生を閉じる。昭和三十八年
 地元の高校へ入学し、友人となった大船出身のW君の父親が大船の松竹撮影所の仕事をされていた。 昭和四十四年春
  当時は小津監督も知らず、W君に何も聞けなかった。
  
 たったこれだけの私の歩みは先ず、
東京物語の執筆期間は構想を含め昭和二十八年二月から五月末、当時の日記には四月二十と二十二日の記載はあるようだが間の二十一日は抜けているようだ。それが気になり、小津監督の東京物語執筆前後の日記を追ってみた。
 翌二十二日髭剃り、鼻の下長くなる、大阪の宿をやる<と書かれており、非常に日常的である>。詳しくは茅ヶ崎館で同宿し東京物語の仕事をしていた脚本家の野田氏の日記では、二十日;車券を買って少し当たる。気候は温かし海岸を散歩する、 二十一日;車券を買うが当たらず、暇をしていて、気候も温和 とあり、競輪の車券買いを度々依頼したとあり、近在の伊東・小田原・平塚、東へ向かうと花月園、川崎競輪場と懐かしい場所があり、それらは文豪の坂口安吾も競輪が好きで戦後の似た時代に娯楽として楽しんでいたようだ。私はその花月園競輪場の西側の関東ローム層の崖っぷちの下にあった父の勤めていた会社の社宅で気候も温かく平穏な下で生まれたようだ。皆さんの小さい頃の体験・経験を振り返ってみては如何ですか。

参照資料
野田高梧氏日記、小津安二郎氏日記・昭和28年4月分

任されたカメラマン

令和五年六月中旬、何気なく目線を落としていたTV番組

なにやら主役は50ミリのレンズだと聞こえてきた。
50ミリのレンズは周辺の歪みが少ない 広角レンズは嫌い ロケも嫌い・映らないやじ馬が場を壊す ともさらに聞こえてきた。
映画か、何か撮影の話だなと思って、変えた自分の視線はそのTV画面に これから暫くの間、くぎ付けになって行く。

補正光学、映像の歪み補正を行うデジタルソフト技術などとんでもない 足の短い三脚が似合う低い目線の撮影用カメラ、普通の監督目線は上から目線で、下を見下ろす角度となり不自然であるという厳しい主張をお持ちのようだ。

画面は変って、
小津監督の白黒の時代もの、登場した男優さんは若い笠智衆。
ある映画のシーン、固定された画郭で動くものが三体、
立ち上る香取線香の煙、男優の喉ぼとけ(喋らずとも空唾を飲んで、動く)、
背景をゆっくり左から右へゆく船。
たったそれだけという感じではあるが、ロケも嫌い、それも普通は取り囲んでくれるファンを大事にと思うが、そうではない親分と想っている監督の意図する映像をとらえた50㎜のレンズをじっと操っているカメラマンがいることを忘れてはいけない。

ゆったりとした世界だが時の歩みは感じる、決して日本人が静寂で物静かだという事を表現したいとかではないであろう。文明開化で明治時代になると諸外国、特にイギリス、仏、独、米から日本国が西洋文化を急いで学ぶために人を招致したり、人伝に日本の魅力を聴いて訪れた人達の一人に、イザベラバード女氏がいて、残した旅行記をみると、日本の地方の山村を巡り歩いて旅をして残した日記にはまだまだ江戸の臭いが残る山村の夜の民衆の生活が描かれているが、意外と日本人のざわついた表現が各所に記されている。

この時代では昨今のアナログ、デジタルという堅苦しい説明などが不要な白黒の銀塩フィルムをとことん追求したもので、映像が生のまま(現代のデジタル技術であるような歪処理も出来ない)。ただフィルムの前のレンズを気に入るように使いこなすことで、監督の出来がきまるようだ。

白黒映画の小津安二郎監督のカメラ助手を十五年、カメラマンとして十五年以上、それ以降は任されたカメラマンとして監督が亡くなるまで尽くしたそうで、それが出来て涙を流している。

任されたカメラマンとは
任すよと自信をもって託す側の監督との間に古めかしい表現だが阿吽の関係がある。一般論として上司、リーダ、経営上級者とは互いに信頼と自信があるはずで、後になってこんなはずではなかったと変な涙を流されても困惑するだけだ。任されたカメラマンはすすり泣きするような、こみ上げるてくる涙を流すまいと堪えていた。

今時、嗚咽をこらえる程までに親分と子分、上司と部下、先生と教え子、マイスターと弟子といった関係が築かれるのか、任されたカメラマンの持つ自信は決して、独立して親分から離れず(自分が新監督としてはならない)あくまで影武者カメラマンに徹していたことであった。

家から富士山が見えても富士から自分っちは分からぬ

 都内には富士見橋とか富士見坂という地名は多い。何故かと、聞く必要もないであろう。其処へ行くと西の方向に富士山が見えるのである。私も結婚して45年、東京に来て51年も経ってしまい、あちこちにスカイスクレーパーが、始めは徐々に、段々と加速して行き、にょきにょきと雨後の筍のようにあちこちの猫の額を埋めつくす。と、ある時、今年が最後のダイアモンド富士山となりますと、突然身近の富士見坂の際にポスターや看板が並ぶのである。大概は最後のダイアモンド富士山の占有する遠くののっぽビルにこれから住むであろう主の素性や懐具合に文句は言わない。
 なぜか、ダイアモンド富士を撮っていた昔カメラ小僧と言われ、今や高級なデジカメセットを携える親爺さんは、その富士見坂付近の住人でないと予想される。ひょっとして、今後ダイアモンド富士を独り占めするスカイスクレーパーの新住人かも知れないのである。ごちゃごちゃ、最後のダイアモンド富士を捉えようとするマニアと素人さんからなる群衆は互いに気にせず、いい場所取りをして、喧嘩沙汰にもならず、最後のショットを満足げに納め帰路に向かう。
 実は、最近同窓会のお知らせを頂いて、コロナ禍で3年前に亡くなられた若かりし頃ご指導頂いた担任の先生の墓参をするので集合されたしという主旨であった。
学校の先生が担任としてクラスを持った生徒たちの数、専門教科として受講した生徒たちの数を40年位の間先生と呼ばれ、運良くば、A先生はこの専門教科では当時素晴らしかったと言われるような伝説が残っておれば、相当な人数になるであろう。ここで、えいやっと40年x250人/年=10,000人とする。約1万人の教え子のひとりが私である。
 同窓会は3-5年に1回ぐらいのペースで開催していたが、最近、具体的にお話すると2011年(3月に東日本大震災があり、東日本地区で被災した大企業に勤めていたクラスメートも多く)、その頃の同窓会も延び延びになって、私も電子メールアドレスの変更届が上手くいかずに連絡が途絶えた。更に2019年頃からの新型コロナ騒ぎで、同窓会は面と向かっての開催が出来なく、本当に今回の連絡が久々となった。
 40代、50代、そして60代へ突入し、今年で皆70代となった。ここで定かでないのであるが、恐らく50代の同窓会の時、担任の先生にある思い出を詳細にお話した。最終学年(18歳)の授業の時、受験勉強の範囲外の数学のテーラー展開式(詳しくは高木貞治著・解析概論を参照)の説明をされて、黒板の左から右へ一杯に式をチョークで書き記したのである。ここまでであったら、こんな先取りの授業の話で終わって、家から富士山が見えてもで終わってしまうのであるが、私はさらに話を続けたのである。
 xx先生、大学に入学して更に所属した研究室(材料科学の修士コース、21-24歳)での研究内容の話を続け、非線形関数を無理やりにテーラー展開で近似線形関数を作成し、それをもとに当時誰も挑戦していなかった観測した実験値とテーラー展開による近似線形関数を最少2乗法で収斂させて式に含まれる材料の構造パラメータを求めることが可能になりましたと。
 xx先生はそうかい、そんなテーラー展開の説明をされたことをお忘れになっており、少々拍子抜けし吃驚したが、そんなものかなと思いをはせた。
 多くの教え子がたった一人の先生を囲むようにして存在し、その教え子と先生との距離感やどのような付き合い・興味といった方向感がそれぞれあることがわかるのである、インフルエンサーという言葉が知られているが、確かに私は数学の担任の先生の影響を受けたが、現代版インフルエンサー講演に集まる特定のインフルエンサーの影響を受けたいとか、俺は私はインフルエンサーだと言う穿った気持ちを持ちたいのではなく、無意識の中で互いに伝播し合えばいいのではないかと思う。
 私の記憶では、関東地域ではなぜか、富士を夕日の西に臨むのが普通で、富士見坂でなくとも平らで広々とした関東平野ではどこでも富士を眺むことができ、日光から浅草への帰り道、まだ富士が小さく低く望める東武線沿線、茅ケ崎の実家の西向きの玄関から大山丹沢連峰と毎日見える富士、茅ケ崎の海岸から西に顔を振り向ければスカイスクレーパーに切り取られることなく、自分の富士を箱根山の外輪山と好きに鎮座させ、楽しむことができるのである。

夢のある話

日本でも月を目指す宇宙飛行士の人選の結果が話題になっている。
本当に夢のあるわくわくする話である。人生100年と言われる現代でも、よく考えるとそうたびたびある夢のある話ではない。それも、応募された志高き人、夢をかなえようと幼き頃に心に決めた多くの中で、再チャレンジの一番高齢(といっても40半ば)の男性と20歳代の女性の2名が夢を叶えようとする一番札を抑えた。

米国が約53年もの前に月面に初めてブーツの足跡を付けたのだ。
技術をかじった事のある人間にとって50余年も前の未熟な技術で、今考えると能く月に行こうと、恐ろしい程の夢を持ったものだ。しかし誰しも数十年先の技術向上は決して否定はしないがそれがどれ程の高度化を達成出来ているのかも未知であって、数十年待って安心して夢を叶える行動を取っても意味がないのは明白で、今挑戦することに意味があるのである。

しかし、今年70歳になる自分が学生の頃、ちょうど大学院を目指して研究室に所属した時期に、日本では放射光リング(今は筑波研究学園都市に加えスプリング8という関西にある放射光リングの呼称が有名になり)が夢でその実現に向かって、装置開発グループや私のいた研究室は放射光と言ってもX線レベルの電磁波で、ある種の高強度のX線が得られたとしてどのような実験が出来るかというテーマを研究し始めていた。後年になって夢はかなえられてしまったのだが、真空の導管中を電子ビームを光の速度の近くまで加速させ、その電子ビームを磁場で少し曲げると、接線方向に放射光が発散し、それを応用しようとするものである。

大学院を卒業して、そんな放射光をも忘れて、現在のインターネットのベースとなっている光通信事業の開拓に夢中になっていた時、ある種のデータのわずかな差異に、、、それはかっこ良く言えば、品質問題、quality management, quality control of product performance specification問題に遭遇し、その現象は6シグマ運動や高度な統計数学が関わるものであった。
こう言った「がちがち」の数学が関わるものは時代によらず必要なのだが、感覚的には昭和から平成への時代感覚で、話を戻すと公開された月を目指す宇宙飛行士の選考過程で見られた内容は平成から令和の時代に必要なグループで人が仕事を成し遂げようとする際に要求されるコミュニケーション・リーダーシップに焦点が当てられていたようだ。さらに、科学者・エンジニアのような高度な専門職的作業は出来て当たり前、その先の火星探査への片道切符とか死に直面するような宇宙飛行士の人としての振る舞い、他人との関係性の取り方、ただリーダとして強引に他人を引っ張るだけではない姿、人物像を評価して見たいという意向が感じられた。

話を昭和から平成の時代にもどすと、私が関わった高度な統計数学が関わる光通信ネットワークの事例の話をして見たい。当時の日本と米国を結ぶような世界で一番長距離の大陸間海底光伝送では予め光が伝搬する光ファイバーのコアの部分の光屈折率を例えば9000㎞の長さ方向に渡って調整しておかなければならないのである。それは、単に標準的な製品仕様値(平均値+/-δ)を満足しているだけでは不十分で、9000㎞長の経路毎に例えば始めの50㎞は1.4650で次の50kmは1.4654というように長手方向の変動に関する値を管理制御すること、実際には光信号が伝搬する際の遅延時間を表記する光屈折率の波長分散という性能に関わる仕様のお化けみたいなものがある。

当時、米国の大手計測機器メーカーのものを使って計測するのが業界的標準になっており、私はもの作りのメーカ側の立場で製品検査を、お客様も値の張る米国製の計測器を購入し、受入検査をされていた。私が勤務していた米国メーカと顧客企業とで取り交わした仕様値を満足しており、受け入れ合格なのであるが、当時、私は技術責任者としてその膨大な品質データを検証していた。
何かがある? という疑問であった。

光ファイバーは石英ガラスから作られているが、その屈折率は空気中と真空中とでは値が0.03%にも満たない程度であるが、差異があるのである。起因は光の伝搬速度を真空中の値を1とすると空気中では0.03%程度遅いことにある。僅か1000分の0.3、ppm表示だと300ppm。そうなんです、検査時の基準を真空中の値、空気中の値とするかが両者で異なっていたことに起因して、データの分布図をメーカの出荷時と顧客の受け入れ時の値とを比較すると、一つのピークを持ったガウス曲線というよりも2つのずれたピークを持つガウス曲線としてみた方がいいのではないかという私が何かがある?と言った疑問が解けたのである。

こんな僅かな事も私にとっては当時夢のような話で、本社の製造部門だけでなく、開発・品質管理や顧客技術支援部門、その他多くの人達を巻き込み、課題・対策の情報共有が出来たというあたり前と言ってしまえばそうであるが、あたり前の簡単なことが認識出来ずに、月さらに火星探査へと連なる「かぐや姫の夢」を壊したくないのです。

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This header photo was taken by myself, when I have participated 2014 Photonics West at SF, CA. After completion of conference, I took my favorite bay cruise and got to shot the eight slopes in town of SF from bay side.

サブタイトル:さがしもの

 目が疲れた、指先も疲れたなという声にもならない終わりだった。それはある日の夕方のことで、今は4-5時間経って、あるTV番組を見終わって、70歳になった歌手の人生みたいな内容で、以前呟いた小椋佳さんが苦労して歌詞を考案する方法とは違ったやり方で歌詞を紡ぎ、作曲もする方のやはり苦労話に気が行ってしまったのである。その歌手は10代半ばで上京し、挫折の度に長崎という自分の故郷へ逃げ帰ったそうだ。私など、工場勤めの父の会社の横浜にあった社宅に生まれてから6年間、その後神奈川県の近郊に引っ越しそこに12年、東京の大学に入って大学近在で2か所下宿を変え、そのまま結婚したので棲みかも都内で、帰る故郷と言える町などはないなと、横道にそれた想いになった。
 何故そんなに疲れたのかという理由についてお話するのが本流である。サラリーマンを早期に辞め自営業になって、早17年を過ぎようとしている。それからブログを書き始めて、そのブログのトップページの写真を変えようと決めて、そうだ2016年に海外出張へ行って報告書を書いた資料のトップページで使ったある写真を探しはじめていたのである。結果を先に言うと、さがしものの写真は見つかったのであるが、そのプロセスは壮大で、デジカメ写真の画像を何枚、いや1000枚以上になったかもしれないのであった。
 探そうとしている写真はサンフランシスコSFの急坂の道で、それもbay側から見たもので、近くの港から出船する好きなクルージングの船から眺めたものである。SFには米国系外資企業のサラリーマン時代から毎年訪れていて、自営のコンサルタントになっても、顔を出すカンファレンスの種別は若干変わっても2005年から2016年まではSFを訪れていた。毎年必ずクルージングの船に乗ったわけはないが、時間があると、ナパバレーのワイナリーツアーかこのSFの急坂が平行に8本も並んで見えるクルージングに出かけていたのだ。始めの頃はただSFには急坂が多く、サラリーマンがスケボーを蹴ってオフィスに行く様子などがフィーチャーされていた。自分でも、クルージングで始めから8本もの急坂が綺麗に平行に並んで存在し、それをフレームに収められるとは想ってもいなかった。実際、4本だけ急坂が並んでいて、その4本の組み合わせも撮った写真によりまちまちであった。
 最初の早とちりは、2016年のカンファレンス報告書だったので、2016年のデジカメフォルダーを見分したのだが、見当たらなかったのである。そこで、過去の年度のフォルダーも探したのだが、見当たらなかったのである。そうだ、その頃はデジカメの性能が急速に向上し、機種も一番古かった国産のN社のものからS社の機種へ、更にS社の機種で安価で使いやすいレンズ系のF値がやや大きい自分でS500と呼んでいる3台をある時期混在して使っていたことを思い出した。現在はS500を自分で、Sは家内が使っている事にはなっているが、皆さんと同じように、性能が格段と良いスマートフォンのカメラ機能に頼っている。

そんなこんなで、結局2014年のフォルダーにそのものは鎮座していたのである。何年にも渡りSFの急坂に向けてシャッターが押されていたが、8本も綺麗に並んで撮れていたのは実は1枚で、4本であったり、bayクルージングは私が個人的に興味を持っている8本の坂のことなどお構いなしに、都合の良い所でゆっくりと進んでくれることもなく、陸からの距離も私の頭の中のベストショットのポジホンに関係なく、行きかっていたので、ただボーッと遠目に丘が見えるだけだった。
  偶には私のとりとめのない、ストーリーのない独り言に、お付き合い頂いたことに、有難うと申し上げたい。SFはこの8本の急坂が仕事上での私の故郷と主張しているのかなと想った。

令和5年2月記す

感動は短くても 自分に正直に ありのままに

先日、令和四年十一月初旬の深夜、ケーブルテレビで世界最大の映画市場をもつ印度映画が流れていて、始めはチラ見程度の気持ちであった。しかし、ストーリーが、印度初の火星探査機の挑戦、それも米国や露が先行して、我が印度などは確率的に米国・露に勝てる確率は0.00・・・ 1%, コンマ以下の”ゼロ”がいくつあったのかも画面がさっと変わり、分からない位、不可能だと場面的には印度自国の政府機関の役人が大声を上げている。
そんな場面で、その初の火星探査機プロジェクトを成功させたいという壮大な希望を持つ女性科学者が、次の様な具体的な事、実際の数値計算解析結果に基づく説明をしだす辺たりから、私は虜になったように、見入ってしまったのである。

思い出すと、日本の第1回目のはやぶさプロジェクトで度重なるエンジン故障で行った軌道修正。これは技術的には燃料を最少にして、地球や月、金星などの大きな質量のある惑星・衛星の重力を使うスウィングバイ方法を何回も重ね、先ず火星探査機を地球の重力圏から脱出させる、その説明過程で素人の役人や予算を握る政治家に対して、分かりやすくヨーヨーを使った若者のプレイで解説;以下に私の経験も重ねて記す。

私は中学生の時、ラジコン部に入っていて、ほぼ同心円状に操縦訓練のために飛ばすワイヤー付きの小型のエンジン飛行機があって、これは彼らが用いたヨーヨーと同じだなと思った。円の中心で、かなりの力で接線方向に飛んでいこうとする飛行機を抑え引っ張っている自分がいる。ヨーヨーだと紐の長さをヨーヨー球を投げる力で変えられるので、徐々に力を大きくして行き、最後は紐が切れる位の力で地球の重力圏を脱出させるというモデルの説明とした。

ストーリーでは、火星と地球の最接近日が決まっており、その何か月前に探査機を打ち上げられるようにと、政治判断でなけなしの予算50億ルピーで火星探査機の開発を進めよという事になった。実際、1ルピーは2円ちょっとで、総予算は100億円という非常に厳しい額であることはこの映画の出演者の表情で分かる。

私が感動したのはここからで、開発スタッフと中心の女性科学者の家族(古めかしい日本でいう昭和の臭いのする夫と現代風の飛んでいるハイスクルー生位の娘)の人模様。

科学者の女性はスタッフに対して、予算が削られたので打ち上げる探査機の重量をxxxxkgに減らせとストレートに言う、機材は減らせないとスタッフが食って掛かると燃料はどくらい減らせるかと問うと若手女性スタッフが反応する。お母さん科学者は次々に誰だれは何んとか責任者と無駄なく素早く指示している。印度は英国の植民地だったので、話す英語だけでなく文化も欧米化しており、スタッフの事務所の定刻の終業時間になるとみな家路に急ごうと、事務所は彼女を除いて空となってしまう。そこで、彼女も家に帰ることにした。

家に帰ると、昭和の臭いのする夫と飛んでいる娘の方を持つ母親の科学者が、娘が楽しんでいるダンスホール、クラブ、ディスコと言ったどの呼び名が適当か、私にはこだわりはないが、要は夫婦が乗り込んだのである。さて、何が起きるであろうか、先ず、母親科学者は娘と同様なモダンなダンスに興じる、おやじはニヤニヤと女性が多いホールを眺めていたが、少し間をおいて、妻に諭されたように私は感じたのだが、踊りだしたのである。それが、モダンなダンスだったらこの独り言は呟くことは無かったが、動きがモダンダンスよりももっと強烈で、それをリードする音楽も現代風からぐっと離れた印度の伝統的なもので、日本で言うと昭和の臭いのする古めかしい夫、おやじが、身体をくねらす動き、伝統的印度ミュージックの両方がスピーディーな踊りを、彼の偽りのない正直で、ありのままの自分をさらけ出したのである。

ホールは喝采となったが、その後をしるすことは本意でなく、科学者のお母さん、妻は、なぜ私がサイエンスの道を選んだのかというくだりになって、小さい時にスターウォーズの映画(初作品は1977年)を観て感動したんですよ、という処で私は十分満足して深夜番組のスイッチを切った。