ある意味では幸せな人生

令和四年四月に入って築百年以上と言われている平屋建ての「離れ」 からなる宿に泊まる機会があった。もともと西武系の企業が所有していたらしく、庭の手入れも行き届いて芝や木々も山間の地形に相応しく、昔流に言うと湯治にゆっくり日にちも数えずに休んで、楽しみたいという処であった。
  さて、ここからが舞台の幕開けで、その離れ宿に入りますと、玄関の引き戸の鍵が真新しくはなっているのだが、方式は古いものであった。畳敷きの二間の空間は全て襖で仕切られている。私の背丈は180㎝はないが、立ったままだと四畳位の玄関へ連なる小部屋と大部屋を仕切っている襖の取っ手に自分の手が届かない位低い所にあるのだ。そうだ、無作法に立ったままで襖の開け閉めをしてはいけないので、一度跪いて座るように腰を下げるとぴったりの高さに設計されているのだ。 次の大広間を見ると本当にただの畳敷きの部屋で椅子などはない。さすがに和風の卓机と座る時の背もたれは用意されていた。部屋の見分として、玄関から部屋に向かわずに板張りの廊下を左に行くとトイレ(便所、厠、御不浄等々の名称があるがあえてトイレと言葉を使った)があり、和風の板張りの空間で結構広く便器は流石に現代風のウォシュレット付きのものであったが、手を洗う水道は蛇口でなく、吊り下げ式ブリキ桶で下にあるネジを捻るとお水が適量流れ出てくる手水鉢のようなものを再現した古い仕掛けのものが残されていた。今回の宿でこれが私には一番気に入った。さらに一~二歩先は風呂場で脱衣所と浴室(洗い場と湯舟)になるわけだが、湯舟は石造りで温泉の源泉がゆっくりと出てくる。決して広くはないが百年前の日本人規格には十分であったと思う。
  私はこの数年来腰痛と坐骨神経痛に悩まされ、久しぶりに東京から近い温泉場に浸かりに来た訳だが一番の大敵は中腰状態で、それを避けるには立ったままの方が楽で、加えて椅子に座れば比較的普通の状態で維持できる。その離れの造りは鴨居も低く私が立ったままで手を少し伸ばせば簡単に掴まれる位である。

さて、庭を散策しようと玄関に向かうと靴を履こうとして靴ベラを探した。無いようだと思い、一瞬腰を曲げようとしたら白い長さの短いプラスチック状のものがあり、それが靴ベラであった。普段自宅では柄の長いほゞ立ったままで使える靴ベラを使っているので無意識に柄の短い靴ベラという概念が消え去っていたのだ。百年以上も前にこの離れでお客人を接待もてなしていたであろう小柄な日本人は何の不自由もなく、立ったり座ったりして、ふすまを開け・閉め、お出かけのお客人も玄関先に座って柄の短い靴ベラで十分な健康人であったに違いないと信じている。それに比べ、むやみに体格が良くなった現代人は胡坐をかいて畳に坐ること・こじんまりとした椅子に腰かけることや低いテーブル・洗面台の前にして中途半端な角度に腰を曲げたり、腰痛を発生させる機会が多いと感じているが、そうかと言って、大きな椅子、サイズを大きくしたテーブルや洗面台は規格品でそう容易く規格変更も出来ない。
  約百年前の日本人の寿命は42-43歳、偶然にも1920年に第一回の国勢調査が行われ正確なデータが残っている。体格・背丈はと調べると、当時の二十歳の男女で160-150㎝、40歳代の大人は150-140㎝台半ばでさらに小柄で、日本人が縄文・弥生・古代・近世時代と変遷する間で一番小柄だったという江戸時代を引きずっているように思われる。最近の寿命は女性で八十歳の後半に入っているようだが健康寿命は平均して十年は短い。という事はその十年間は如何様な状態なのかという事を議論する必要があろう。老いが迫り、認知能力も体力・機能低下も同時に起きてくればこれは単に病を治療することではなく、痛み・苦しみ・悲しみ等々との対峙である。人生五十年、還暦(六十歳)を迎えられることが最大のお祝い事だった時代に生きた人々は他の感染等の疾患には相当悩んだにはちがいないが、現代の高齢者が遭遇する十年以上の*torture も無く、高度成長期にイケイケどんどんと満身創痍で家庭を顧みず仕事だけに立ち向かい、ストレス多き環境を経験した世代にとってそのtortureが二度目の長きストレスになることにも関係無く、ある意味では短くとも幸せな人生を過ごせたのではないかと思った次第である。

*torture, 長らく米系外資系企業に勤務していた時に本社のマネージャが日本人相手の仕事は torture だよと度々言っていたことを思い出して引用した言葉である。辞書的意味 ; 拷問、罰、もともと捻られる捩じられるという責め。

自宅で出来る仮想体験 – 宇宙シアター

以前約9年前、三鷹の国立天文台の施設で4次元宇宙シアター体験(4D2Uドームシアター)が出来たことを書いた。簡単に言うとこれまでの宇宙天体観測で人類が知り得た全ての星、銀河の空間情報をコンピュータに取り込み、地球から飛び立った宇宙船に乗った様子が3Dシアターで楽しめる仕掛けである。先ず、太陽系から脱出、途中には小惑星帯、冥王星より外のオルト帯も離れ、われらの天の川銀河系(我々の太陽系は比較的外側の腕の所に位置している)から脱出、宇宙誕生から130億年の全容が見られる遠方まで宇宙船が進む。途中では銀河系が一様に分散分布しておらず、局部的に存在しそれが網目状になっている様子も分る。我々人類にとって調べることが出来ない宇宙領域もある。それは我々の銀河、天の川があまりにも明るく、天の川銀河の断面方向から見る先の宇宙が途中に存在するガスの吸収などで見えないことである。

このような仮想体験がクラウドで自宅のパソコンで可能であることを最近(令和4年1月21日)知ったのである。天体の観測データの蓄積とIT関連の技術革新;ネットワークの速度、デバイス、ハードウェアー、ソフトウェア―等々が僅か十余年で進み、YouTubeで The eBOSS 3D map of the Universe をキーワード検索して頂ければ視聴できます。

Hyper scale Data Center の市場規模

最近、hyperscale DCが世界で700か所も稼働していて、約半分が北米(米国)にあるという。アジアの中国には世界の15%(数)が稼働している。昨今のDCの稼働数の伸びよりも、DCとしての機能(サービス提供や速度)はhyperscale化しており、機能・容量としての伸び・成長はさらに大きい。

主要米国の企業はAmazon,Microsoft, Google とIBMでそれぞれ60か所以上で稼働しており、機能・容量の面でいうとFacebookが加わるという。詳しくは、オリジナルを参照して下さい。

Report: Almost half of global hyperscale data center capacity resides in U.S. | Cabling Installation & Maintenance

20年前のノート

四月一日、年度末の仕事や確定申告も済んだので、書類をまとめ書棚のだいたい決めた場所に差し込んでいたら、上から四段目の一番右端で普段は物陰になって何が差し込んであるのか分からないところにあったノートを取り出すと、二十年前の2001年が書き初めで、サラリーマンを早期退職する2004年の年末の直前までに、私が仕事上や普段の事で、気になった事や将来に向けた少し科学的な構想を手書きでメモした汚い自分のペン字が見えた。

恐らく、皆さんと同じく初めの一頁目は綺麗な字で書き始めて、そのうち、自分で書いた字を判読するのに難儀するようなページが続いた。おかしなもので、書いたページが時系列になっておらず、長い空白のページが途中に居座っている所などあり、今日の令和三年四月一日エイプリルフールの日にこのノートを見つけたと差し込みたい位である。

書き方は、日付とメモのタイトルで、幾つか気になったものを列挙する形式で、箇条書きや少しまとまった文章で書いたものが混在しており、その時々の頭の中の思考形態を反映していたかもしれない。次に全部ではないが、それらを示す。

  • 大学時代、研究室で指導を受けた助手の方(年代的には既に某国立大の教授)の科学的自論
  • 法隆寺の五重塔の心柱と各層の組み合わせの耐震構造(壊れない程度にずれる歪む)と自分のコメント
  • 消費・インフラ分析と各利用製品の耐用年数
  • 学会で講演会を聴講したまとめたメモ(業務上であり詳細は省く)
  • JRの列車乗車中にメモしたと注意書きのある、図解の古代、百済、新羅、高句麗出自の日本列島への移民となぜ、東国からわざわざ遠路西国の警備に防人があてられたのか
  • サラリーマン時代にコンサル講座を受けた関連の講演会メモやコンサル研修仲間との談話
  • 自分で考えた将来へ向けた安定健全な投資行動について(低金利時代に入るので高配当株がいいとか)
  • セラミックスの破壊モデルに基づく地震予知(破壊初期時にピエゾ電気効果と超音波が発生する)
  • 2001年に書き留めたこれからのIT時代に向かう姿勢(トラフィックが一万倍になる年数とか)
  • 当時の仕事に関係した通信ネットワークや光海底ケーブルについて
  • 自分のブログのネタ記事(複数ある)
  • 今後の労働環境と日本の強み向上(人材育成が重要)
  • 地元東京北区瀧野川地域、主に神社仏閣を探索した際のメモ(当時まだデジカメの性能が低かった)

それらの中で、2003年に東北大で開催された情報通信関係の学会の個別専門分野の学会講演発表の詳しいメモに交じって、当時普通の学部卒で若くして前年2002年のノーベル化学賞を受賞された民間企業の田中耕一氏(会場の東北大学工学部ご出身)の特別講演(三月十三日)のメモ書きもkey words と付記され、赤字で綺麗に残っていた。以下、具体的に私がメモったものをそのまま紹介する。

☆細かな技術論は別にして
  新鮮さの維持が大切     
  時にはテーマ・仕事を変えよう    
・門外漢の新鮮さ    
・過去に取らわれない、既成事実にそくばくされない  
 0を 1にする発明、努力
 1 ~を100、1000に改良、改善する努力

定かでないのだが、これら赤字のメモは田中さんが話された言葉そのものだったのか、仰った内容を私が咀嚼したものだったのか?やはりノーベル賞研究者の苦しみが分かるのは、何と言っても0を1にする発明発見であろう。1を100にする努力と比べてもその比は無限に大なるものである。(注;当時外資系企業勤務で英語ばかりで日本語力が落ち、下線を付したように誤字や平仮名のままの部分があった) 

私は日記を書かないが頭の片隅には覚えておく癖をつけている。最近では齢のせいか備忘録としてパソコンのエクセルファイルに地域活動の支援メモを何かを行った日だけ残している。それだけでも非常に助かっている。複数の人達と運営している活動では、文書化していないものも多く、誰が決めたのか、俺は知らない・聞いていないということも多く、幸い大きなトラブルに至った事はなかった。

20年前のノートのように身近に隠れていそうな玉手箱を探されては如何でしょうか。

リフォーム前の壁掛け作品

令和になって、5月の連休後に、築30年を向える我が家のリビングとキッチンスペースの大リフォーム工事が始まった。2月頃から業者と打ち合わせを開始し、これからは30歳をとうに過ぎた子供達が使うので、子供達の好み要望を沢山出してもらい、それに合わせて業者からの提案を受け、煮詰めて最終案となった。どちらかというと私の願望は抑えた。わざわざ大阪にいる二男は建築科出身ということもあって東京の打合わせに顔を出し、業者もメールで二男へ回答などもくれていた。二男は予算の金額には目もくれず、良いものや改造案をどんどん出していく性格だ。娘もキッチンのシステム化や対面式・オープン化でどしどし母親を押していく。長男夫婦は綺麗好きで、食洗機は勿論、配置でも物を出来るだけ置かないようにシンプル派だ。

個性と性格が出て当たり前、システムキッチンのショールーム見学へはお嫁さんや娘は勿論、二男は結構業者に食らいついたようだ。私も同行したが、皆が気に入る環境作りが出来れば善しとした。最後の詰めは家内と娘が行き、キッチンの色をもっと明るく白っぽくしてきて、少し予算額を下げた。

普通、新しく仕上がった壁紙の壁には写真の1枚や2枚、絵画の1枚や2枚位、別に骨董的価値に問わず、飾りたくなるものだが、今回のリフォームの約束は一切何も壁には掛けないと決めたのである。時を知る時計もない。

実はリフォーム前はご多分にもれず、どこの家庭でも見られる光景のように子供が小さい頃から撮った写真を大きくしてフレームに入れ、壁に吊るしておいたのだ。枚数は定かでないが、娘が3才頃初めて料理をしてサラダを作った、東京に大雪が降り雪を掻き集め“かまくら”をやっとのことで作り上げ、小さな子供が2人入れる小さな穴が鎮座、子供の剣道、体操姿、京都の修学旅行、一番成長したもので次男の高校の入学式でなぜだか止まった。それらの中で白黒の作品2つだけ違っていた。1枚は私が学生時代(1975年)に北海道(道東)野付半島近くの尾岱沼で冬撮影した白鳥と、もう一つは30年前の新築祝いで家内の知り合いから頂いた銅版版画(エッチング)である。

私の冬の凍った湖と数羽の白鳥よりも、頂いたエッチングの主(学校の美術系の先生と伺っていたが作家と呼んでおこう)が気になった。私は一度もお会いしたことのない作家さん(家内の知り合いの女性の旦那さん;年齢的に定年退職され、数年前都内よりご出身地の方へ戻られている)であるが、エッチング作品に残されているアルファベットの署名で調べると著名な方と分かった。xxx展覧会の審査員を務めていらっしゃる。人の顔をデフォルメした当時お祝いで頂いた作品(木霊Xと題されている)から進化転化され、写真と間違えそうな位、繊細で緻密な森の木々を描いた作品はインターネットで紹介されていた。ご出身の群馬の山奥か、私の記憶を辿ると上高地の沢沿いのまだ樹木が残って枝落ちし、それが朽ちかける経過のように凄い年数を思わせる作品だ。私には寂しげだが長い長い静かな生命を感じた。

なぜ、30年前の当時このような作品を頂いた由縁を考えると、ご両親のお仕事の関係で子供さん達を朝早く保育園に連れて行くことが出来ず、家内が代わって知り合い(地元の学校の同級生同士)のお子さん達を連れて行ってあげていたのだ。当時は待機児童という言葉もなく、近所で協力していたのだ。家内も仕事をしていたが朝、時間の余裕は少しあったようだ。インターネットで、作家さんご夫妻が昨年、〜木と水と土と〜 と題して二人展を開催されていたこと知り、お子様たちも親の手から離れたのだろうと安堵した気持ちになった。まさに森の木とせせらぎの水、土とは奥様の陶芸家としての粘土だと私の独り言となった。

令和元年7月2日記す

45年前の万葉の旅と令和


令和元年5月の連休明けに始まった築30年の我が家のリフォーム工事の為に数か月前より、家の中の断捨離を子供達に急(せ)かされながらやった。ちょうど5月17日の朝、断捨離を済ませ生き残った古本が綺麗に並べられて、ベットの横の本棚の奥の右側に、万葉の旅(上、下、現代教養文庫・社会思想社;1972年)が見えた。そうだな、理系の学生の私だったが、学生時代、時間があるとこの万葉の旅で詠われている万葉歌の故地を尋ねるのを趣味としていた。学生時代の講義では故江藤淳先生のレポートで悲劇の大津皇子や二上山を題材にした時もこの万葉の旅にお世話になった。

前置きよりも、私はとっさに、下巻を掴み見出しをパラパラと送り、キーワード;大宰府を探してしまった。大宰府には(一)(二)があって、見出しの(二)の前のP126に“梅花の宴”が纏められており、約45年前に手にした本には、こう書かれていた。

梅花の歌三二首と中国詩文を模倣駆使した美文の序とが巻五に所収されている。

序の一節に「時に初春の令月、気淑く風和ぎ、梅は鏡前の粉を披き・・・」

この一節が新年号・令和の由縁とされたもので、世間で騒がれている大先生以上の著者の犬養孝氏は既に昭和39年9月にあとがきを記している。

残念だが、当時九州旅行では他の万葉歌が歌われている地区を旅してしまった。大宰府は超有名どころで、当時は徒歩でしか行けないような鄙びた別な所を探し回った。本の見出しに鉛筆でチェックした跡が残されている所を旅したのだなと記憶を戻した。学生時代という短い期間ではあったが、本で見たり、実際に訪れ、8世紀ごろ以前の日本の国の広さ(文化、支配圏)が、万葉歌が詠われている最北端地、最南端地で理解できるのではないかと思い、訪ねてみた。

最北は東北線の小牛田近くの黄金神社(当時金が採れたという)で、せいぜい宮城県多賀城遺跡の少し北であり、最南は鹿児島県阿久根市の薩摩の追門(黒の瀬戸、鳴門の渦潮みたいな流)である。黄金神社は雪降る大学3年生の2月ごろ訪れ、当時は本当に普通の神社で私の他に誰も訪れている人はなかった。薩摩の追門は少し暖かい時期に尋ね、確か国鉄の阿久根の次の折口駅から徒歩で往復した。いわゆる天草の入り組んだ瀬の一つで、古代当時は隼人が中心だった地域である。歩いて腹が減ったので確か駅前の小さなラーメン屋で麺を注文したら、ちゃんぽん麺みたいな汁と麺が出され、おばさん一人でやっている店で味わった。阿久根へは薩摩半島の長崎鼻を訪れ、西鹿児島経由で来た。当時の国鉄の列車に乗っていて非常に脳裏に焼きついている事は、北九州辺りの方言は分かるのだが、熊本を過ぎもっと南の地域では乗り込んできた老婆の九州弁は若い学生にとってイントネーションがベトナムかアジア南部の方が話している様だった。

この万葉の旅は上、中、下の3冊あるのだが、今は(中)が迷子で見当たらない。(上)にはメッカの大和地域で詠われた万葉歌が多く紹介され、詳細に分類されている。付け足しだがこの(上)を参考にして、学生当時(1976年頃)、友人の父親が単身赴任で住んでおられた奈良西大寺近くの官舎を根城にさせて頂き、大和三山、山の辺の道などを、友人と供に歩いて味わった。色彩豊かな壁画が描かれた高松塚古墳が1972年に発見された4年後であるが、当時は見学者を受け入れる状況にはなっていなかったと思う。

九州の旅は鹿児島大であった学会の後の一人旅だったが、今振り返ると昭和の帝が、約13年後に身罷われ、更に30年後に現上皇が自ら退位の意を表され、普通は深い悲しみの中で新年号を受け入れるのであるが、この令和の新年号はどちらかというと慶事の雰囲気漂う中で待ち望んだ。予期もせず、こういう初めての、心の持ちように万葉歌がしてくれたと想いたい。

岡本太郎 2

平成30年4月9日、自宅で仕事部屋兼ジャンクルームの断舎利をしていたらこの独り言をプリントアウトした紙片(前月号の独り言)が出て来た。読み返すと平成17年記すとあり、文末で、しばらくして岡本太郎に会いに行ってみようと呟いていた。その呟きから約13年も知らずに過ぎてしまった。

最近、旧大阪万博跡にある太陽の塔がリニューアルされて、再び多くの訪問者の眼を楽しませているというニュースを聞いたが、しばらくすると来場者数は期待していたほどではないという、追いかけのニュースを聞くと現代人には太郎の想いの念力も効かなくなっている時代に変わっているのかとも、少し寂しい。

また、別なことも頭に沸いてきた。岡本太郎と知の関係を呟くのに関係なさそうであるが、ある出版社の記者との逸話をまだ口外していなかったのか定かでないが、お話ししよう。私が昭和の時代53-60年頃、電気会社に勤めていた若い頃(24-32才)に、ある先輩がいて、両親が文筆家とお聞きしていていた。先輩が米国へ転職し、私もその後転職し、消息を聞くこともなく十数年が過ぎて、その先輩が帰国され再会できた。先輩との雑談の中で、“俺の父が若いとき岡本太郎の原稿取りをしていて”、よく自宅(おそらく青山にあった頃)押しかけたそうで、酒が好きな岡本太郎を新橋界隈からご自宅までお供したような関係だったそうである。こんな話では太郎の知的挑戦に係わる呟きに繋がらないが、私にとって、偶然再会した先輩のお父様を介して岡本太郎の人となりを知って非常に身近になったことは、知識・情報が積み重なりある種の構造化した成果と言える。

さらに、記憶をたどると、東京都庁が高層化し西新宿へ移転する前(1985-90年頃)に、今の有楽町国際フォーラム辺りに旧都庁舎があり、取り壊す前に一般の都民が立ち入れる建物のある処に太郎の作品がオブジェとしてあり、そこを見学したことを思い出した。

さらに、続く時は続くもので、平成30年4月の中旬(正確にいうと、紙片を見いだした9日から1週間後の16日)、出けた先のあるカフェ風のお店でお客用に本棚があり、古本が置いてあった。般若心経・・・という見出しに引かれ、直ぐさまその古本を手に取った。著者は大城立裕氏、発行は1981年、正確な著名は般若心経入門である。

なぜ、般若心経のタイトルに惹かれたかという理由も述べなければならないが、最近インド仏教の経典の梵語・サンスクリット語を古代中国が漢字化した時代の経緯を知り、音写と意訳の2通りで訳された語彙が、後年日本へも輸入され、多くのところにサンスクリット語をベースにした語彙が、それとは知らずに我々は日本語として使ってしまっていることを知ったのであった。例えば知に関するもので、知恵があるが、本来は智慧という仏教用語をベースにしているという。

さらに表紙をめくると、おっと、なんと岡本太郎の推薦文がお出ましになったのである。沖縄の大城氏と岡本太郎には交流があり、初めは大城氏も太郎の母、岡本かの子氏との接点があり、太郎と知り合うようになったと本文に紹介されていた。私の最初の川崎・二子での出会い(現高津区二子は岡本かの子の実家大貫家があった)と似ている。

太郎の言葉は以下のように吐かれていた。

色即是空、空即是色、強烈な世界観だ。 しかしこれをただ頭で考え、言葉で受けとめるだけでは、大した意味はない。生活の中に生かさなければ。大城立裕は自らの戦争体験を重ねあわせ、これを噛みくだく。 私はかつて沖縄に行き、島々の清らかな気韻、透明感、その凄みに打たれて「沖縄文化論」を書いた。沖縄には無の豊かさ、存在の原点で生きている充実感がある。だから沖縄の人、大城君がこの般若心経にぶつかって感動したのは自然である。 現代人は無のなかでナマ身で生きる、無即有の生命の自在さを失ってしまっている。豊饒な空の世界にこそ目をひらいてほしい。

出張先のカフェでこんな形で、13年後の再会になろうとは微塵にも思わなかった。13年前の本意は生田にある美術館にまた訪れたいという軽い気持ちだった。また、“無”に関する呟きにも少し腑に落ちたのであった。無と空とは完全には一致しないが、般若心経の色即是空は物の因果関係性から説いたもので、物が無いのではなく、例えば食物連鎖を考えると、最初の植物性プランクトン→動物性プランクトンがいないと、連鎖の最上位にいる人は生きていけない、存在できない。このような因縁・因果の関係性が世の中には沢山あり、人の営みを支えてくれていることを教えてくれている。岡本太郎の豊饒な空の世界はなんと素晴らしい。人は手にとって確認可能な物質的な言葉と、人が考えたり、想像したり、抽象的概念を示す言葉とを創造しそれらの因果関係を、自らを豊かにしていると思わせてくれた。

平成30年4月25日(水)、仕事で出かけた横浜からの帰り道で東横線を久々に利用し田園調布の“太陽の塔”を再確認しようと決めた。何しろ数十年前の古い事なので、私の勝手な思い込みで、その塔が有るのか無いのか、建造物自体が残っているのか心配したが、正に残っており、“鎮座”していた。通り過ぎる電車の中から観察すると、それは屋根の千木みたいな位置にある大きな丸い飾り物のように見えた。後で調べると、それは世界真光文明教団の建物と分かった。遠目に“太陽の塔”と信じ見えたものは、その宗教団体の星をモチーフにしたシンボルであった。

大阪に行く機会は無いわけではないので、川崎・生田の山でなく大阪万博跡のリニューアルされた太郎と本当の再会をしてみたいとも想っている。5月1日この原稿に終止符を打とうとしている時、大城氏が1967年沖縄初の芥川賞を受賞されていたことを知り、なんと私の無知を曝け出すことか。

岡本太郎 1

知の空間は人の目指す未来だ。今までに人類が経験したことのない世界、事象、芸術、感動で満たすべき空間だ。日々の人類の営み、活動、生活でこの雄大な知の空間を満たすことが出来るだろうか。その大きさ、広さ、繋がりは想像出来ない。物理的な尺度、単位、基準は3次元的な実空間を計かる手立てで、今目の前にある知の空間の軸は創造者の造るべき新しい軸で組み上げなければならないと考えている。新しい感動で、その空間を満たしたと得意げに思っても、本当は知の空間の広さは全ての新しい事象、芸術、感動を常に受け入れてくれる寛容な広さを持っており、満たすことが出来ない。常に挑戦し続けることが一番の道だ。相手の知の空間も成長し、受け入れてくれる隙間、空間を挑戦した人だけに広げてくれる。

岡本太郎は有名で、名前を知らない人は若い人か子供たちの一部であろう。私も“あるとき”までは、一介の傍観者で岡本太郎は有名な芸術家だと認知していただけだ。そのある時を境に私は岡本太郎に吸い込まれてしまった。思い出すと、学生時代一時、川崎高津区二子に住んでいた。その時は近くに“岡本かの子”という作家の碑があったことを記憶していただけで、そこは二子神社だった。その後もテレビで映し出される岡本太郎を見ていただけであった。もちろん1970年の大阪万博へは行っていない。シンボルの太陽の塔が岡本太郎制作だということぐらいが私の知識であった。時折、東急東横線で田園調布から多摩川遊園へ向かった途中の左手の高台の上にある高級住宅辺りに太陽の塔に似たオブジェがあったことを記憶している。それが岡本太郎と何か関係があるのは定かでない。岡本太郎が亡くなったころ、岡本かの子が岡本太郎のお母さんであること知った。人は死して影響を残す事が多いが、私も岡本太郎が死して、影響された1人である。そうすると、私と岡本太郎の最初のつながりは二子から始まっていたようだ。

二子から30年くらい経った最近、岡本太郎に吸い込まれてしまった状況になった。娘のいる秋田を平成17年の暑い夏も終わりかけた時期に訪れ、男鹿半島一周めぐりをした。真新しいイルカや白熊がいる水族館、入道崎、民芸館、寒風山と、年に1度あるかないかという快晴の日にめくり遭えて久しぶりの旅行を楽しんだ。子供たちの修学旅行でないが、ちょっとした自然に対する感動と、大きく私のこれからの道が影響されようとする場面に出っくわしたのだ。なまはげ民芸館で、地元の普通のおばさん説明員が、“この秋田の赤色や青色の面をしたなまはげがあの岡本太郎さんの太陽の塔の題材になったようです。“みたいなことを言った。このなまはげから、あの太陽の塔まで想像するとは、普通の人じゃないなとそのとき思った。

ちょうどその時期、私は“閃きだけに終わらせたくない知的創造”という題で資料をまとめていた。詳しい知的創造のプロセスや閃きを科学する話は飛ばして、人が何かに影響されて、次の新しい事象を創造する、考え付く、見出すという過程は、まさに人間の知的創造の原点であると再認識した。岡本太郎も然りである。しかし、なまはげと太陽の塔がなぜ連関するのだろうかと、深い沈黙に入り込んでしまった。10中8,9、大方の人があるものから別なものを連想、想像することは普通であって、10人いて誰も考え付かない、 1000人いてやっと1人くらい尋常でないことを思いつく。そんな確率で新しいものは生まれていくのだろうか。発明や革新がいかに難しいことは理解されている。従来、閃いて大発明が生まれたという話を聞くが、私はそれを閃きに終わらせておきたくなかった。何か、刺激、感動が作用して新たな創造を確実にもたらすような知的プロセスがあるはずだと考えている。

岡本太郎にすると、花道や茶道は芸の道といって、伝統的な美を伝承、継承するものに分類されるそうだ。芸術は爆発だと言ったように、芸術は常に新しいことを、今自分がいるその時代にあったものを創造することと定義するそうだ。同じ美しい、感動を与えるものでも、芸の道と芸術は違うのだ。岡本太郎を知ると、太郎は縄文土器、沖縄、伝統的な東北の様子に影響されたようだ。ご多分にもれず、彼もフランス・パリで美術をかじったようだ。フランス語も堪能だ。当時の作品、油絵も美術館に残っている。私にすると普通の、お世辞にも、他の作家よりすぐれているとは言いがたい絵であった。ところが、1950年代に入って、縄文、沖縄、東北にめぐり合ってからの彼の作品は違う。本物を見てみれば誰でもがわかる。原色を使いこなす、力強い太い刷毛の流れ、スピードもある、太い線で空間を創る、一筆書きのように、このころ岡本太郎の魂が定められたようである。私は探した。太郎がいつごろ秋田に足を踏み入れたのか、写真家の一面も持ち合わせていて、白黒の当時の写真がなまはげを描き出していた。1957年ごろのことであった。大阪の万博の制作依頼が来たのは1967年ごろだそうで、岡本太郎にしても、苦難の上やっと、10年を経て新しい創造を産み出せたと言ってもいい。先日早朝、岡本太郎特集をやっていたテレビ番組で ”僕は普通の人がやらないことをやる。“ と太郎が宣言していたのがやけに印象的であった。

私の薄っぺらな理解を深めるために、秋も深まる先日、川崎生田緑地にある岡本太郎美術館に行った。作られた公園だが自然が残っており、少し坂を上って、一番奥の急斜面に太郎の作品が高い空を見据え、薄暗くところどころに陽が差し込む洞窟の空間に並べられていた。その時、岡本家と魯山人展が特別開催されていた。知らなかったが、魯山人が岡本太郎の祖父の書生をしていた時期があり、お父さんの岡本一平(漫画家)と同世代であり、影響を受けたそうである。そこで魯山人の焼物を生で観たが、私の好きな益子焼に比べて素人が作った焼物の域を出ていないと暗い美術館の中でひとり思った。岡本太郎も遊び心で楽しんだ茶の湯のために焼物に挑戦したようだが、やはり素人の器であった。芸術家は本来の自らが本当に挑戦している土俵で戦いをした方がいい。それは芸術家だけでなく、応援している周りの者にとってもいい。常に感動のある創造物を楽しみたいものだ。次に何かあるか、何が来るかと想像する楽しみだ。亡き岡本太郎は新たな作品を生まないが、まだまだ十分に感動は我々に与え続けてくれる。初めての生田への訪れは時間が足りなかった。また、しばらく時間をおいて岡本太郎に会いに行ってみよう。

平成17年11月20日記す

消費者としての我が身とエネルギー政策との接点


学生時代(1975年前後)漠然と日本のウラン核分裂による原子力発電が注目され、どんどん増えてくるなという環境をうすうす感じていた。専攻が材料、それもセラミックスを主なテーマとする学科で、原子力関係へは進まなかったが、極めて強い放射線環境下での炉材材料の劣化研究など含まれていた。大学院へ進むため所属した研究室ではゼミ勉強会として当時現場で活躍していた専門家の先生方の話を聴く機会も多かった。その中で原研の専門家で、溶融塩型高温増殖炉が理想的で、夢のエネルギーが得られるというバラ色の話があった。今になってそんなバラ色は消え失せた。

1978年に社会へ出て就職すると、私は半導体材料担当だったが、核融合のうち磁場によるプラズマ閉じ込めに続くレーザ光による次の核融合を目指す、高強度のレーザ光を発振させるガラスレーザ光システムの開発を就職した企業の他部門が進めていた。自分に近かったのは酸化物結晶によるレーザ光発振を開発している部門で、後に実際に使わせて頂き半導体薄膜(ミクロンレベル)の加熱処理を進めた。昨今では高強度パルスレーザ光による大型材料加工(厚膜鉄板の切断)の実用化、医療分野への応用がなされ、1980年ごろに開発取り組みをした欧米のチームが2018年のノーベル物理学賞を受賞した。それにしても40年弱の時間が経過している。

話を戻そう。就職した部門での他分野研究として、1980年当時、始められたばかりのシリコン薄膜太陽光発電セル(ソラーセル)の試作も行った。現在の再生可能エネルギー政策として風力発電とともに重要な位置づけをされている太陽光発電の黎明期であった。この時のシリコン薄膜は低温度で形成され、水素分子が多く含まれる所謂アモールファス状のものであった。その後ポリシリコンとともに液晶ディスレイを駆動させるトランジスタデバイスにも使われた。

それから齢を重ね、省エネ・脱二酸化炭素ガスを御旗として、ハイブリッド車とか家庭にもソーラーセルを導入という機運が国内外で作られてきた。初めてハイブリッド車を手にしたよと、友人の中でも物好きなやつが、わざわざメールで連絡してきた。また、吃驚したのが実家の兄が新築した実家の屋根にソーラーセルを載せたことだった。都市ガスの配管が来ていない神奈川県の在にある実家はプロパンガスを使っており、オール電化にして、ガス代節約を標榜し、多額の投資をした。そこにはちゃんと裏があり、国や地方自治体が助成金を出し、普及を図る仕組みに、兄が乗っかったのだ。

数年して、2011年3月11日の東日本大地震が発生し、日本のエネルギー政策が根底からひっくり返った。2018-2019年現在でもふらふらしている。実は原発が停止し、計画停電もされたが、運よく、東京山の手線内に住んでいたので、真っ暗な夜を過ごすことはなかったが、翌2012年の末、自宅へもソーラーセルの設置工事を行い、2013年初頭から太陽エネルギーの直接恩恵を受けることになった。弟の私も国や地方自治体の助成金システムを利用させて頂いた。現在も劣化もなく発電を続けているが、年間の推移をみていると天候に大きく左右されていることがわかる。発電量変動にして15-20%であり、これはお天道さんが良く照っているとか照っていないとか、飢饉を起こしてもいいくらいの変動である。気温や降水量もあるが光なくして光合成は進まず、即食糧難と関わってくるものだ。

2005年、27年間のサラリーマンを辞めて、自営のコンサルタントになったが、業界支援として活動しているときに、前にも書いた風力発電に世界的に巨額の投資がされ、直径50メートルを越える風車が国内でもあちこちで目に付き増加しており、その風車の羽根の歪を“ある光技術”でモニターするデバイスに関わった。海外の風力発電量は大きく、国内は小さい。本当に大風が吹くと羽根が壊れ、インフラ設備の風車自体も倒壊する事故も起きている。仰々しく国のエネルギー政策の議論はしないが、ワットの蒸気機関が発明され、化石燃料を大量に消費し始める産業革命以降、増え続ける大気中の炭酸ガスの上昇を抑えようとする大義が各国にあって、持続可能再生エネルギーの開発導入が原子力発電とバランスしながら、推進されてきた。

ところが2011年の東日本大地震による原発の被災を契機に、コストが安いといって石炭、天然ガスによる火力発電が代わって前面に出されてきた。化石燃料の需要増大で価格上昇がもたらされ、シェールガスの高い採掘コストの元がとれると理由で米国がシェールガス埋蔵量トップで米国はエネルギーの輸出国のポジションを得るとことになった。中東やベネズエラの石油産出国の取り巻く環境変化、エネルギー産出が低下してきたロシア、価格高騰の原油の大量輸入で貿易赤字増大の日本と、世界のパワーバランスの変革が進む現状を平成最後の日に独り呟いている。