田端文士村の講談社初代社主野間清治と社員柳瀬清


私は結婚後、家内の実家がある北区田端に住み始めた。私の年代・世代(昭和28年の巳年)では大学受験前は所謂大学封鎖や安田講堂封鎖等々の学生運動が血気盛んな状況で、そんな中でも、誰も文学青年ではないのだが、私も理系を目指していた一高校生ではあったが、坂口安吾、井伏鱒二、太宰治、織田作之助や教科書に出てくる作家の森鴎外・夏目漱石・正岡子規・寺田寅彦・芥川龍之介などの名を上げられる程度のちっぽけなものであった。大学入学後、江藤淳に少しはまったが、それは文士というより、当時古墳や遺跡発掘が漸く始まって、古代史や萬葉集の方に私の興味は向きかけたのは20代前半の事であった。

さて、これから田端<芸術村>文士村に関連する私から見た小さな発見や意外なことについて、飛び飛びになってしまう時系列的な出来事について呟きたい。

田端文士村なんてあったのか、を世に知らしめたのはJR田端駅前に田端文士村記念館が再開発プロジェクト事業の一つとして建設されてからの事、1993年11月(平成5年)。私が田端に移り住んでから15年が過ぎていた。当時は私の長男が通い始めた地元の中学校の校歌が文士村の一員室生犀星によって書かれたものであることだけはよく知っていた。また文化勲章の栄誉に称えられた、陶芸家の板谷波山や 柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺 の句を詠んだ正岡子規のお墓がある大龍寺は自宅前の道を挟んだ至近距離にあったのだ。

芸術関係の方々は上野にある今の東京芸大の関係者がひとりふたりと芸大までの地の利が良いという理由で移り住むようになって、芥川龍之介の3歳年上で1889年生の室生犀星は北原白秋を慕い、石川県の同郷の高等小学校で一緒だった芸術家吉田三郎<板谷波山の弟子>を頼って1917年(大正6年)に田端の借家に、大学入学前という年齢は若いのだが芥川龍之介は家族とともに1914年(大正3年)下町から山の手の地に移り住んで来た。また芥川は板谷波山の友人で鋳金家の香取秀真と関わり、初期の頃は陶芸家の板谷波山が中心であったことが分かった。

注;田端文士村のHPには芸術家・文士が誰の勧めで田端に移り住むことになった背景説明まで記されていて、貴重な情報となっている。例として板谷波山の勧めで、益子焼の名を世に広く知らしめた濱田庄司(民藝運動を推進)も 昭和3年から暫く田端495番地にいた。

田端文士村記念館のHP情報も年とともに充実してきているようで、最近勉強させられたことは、昭和9年に上京し田端608番地にいた五味保義は島木赤彦・土屋文明に師事し、その後戦後のアララギ誌の発行責任者となった歌人。

ここからが8月号の独り事の本題です。前述の通り、充実してきた文士村HPによると、初代講談社の社主・野間氏の名が文士村文士のメンバーとして、野間氏の略歴が記され、田端に別邸を構えていたとあり、当時の社名は大日本会講談社、その中核として雑誌雄辯の編集長として抜擢されたのが・やなせ清さん・やなせたかし(アンパンマンで有名な漫画家)の父であった。最近講談社で柳瀬清さんに関する資料が見つかり、講談社の資料センターの公表物を参照させて頂いている。清さんは1921年4月まで、雑誌雄辯の編集長として在籍し、その後清は東京朝日新聞社に引き抜かれて転職し、比較的直ぐに中国へ記者として、家族と共に赴任したとされている。

確かに初代社主の野間氏は田端に別邸を構えていたので田端文士村の一員で、雑誌雄辯の凄腕編集長として活躍した柳瀬清の一家は東京府北豊島郡滝野川町の借家住まいと言う事迄判明した。その滝野川町には大字が複数あって<滝野川、西ヶ原、中里、上中里等々>、その一つが田端、残念かな、その借家の正確な大字は不明で田端でなかったようだ。清も文で立ち文を極めたいという志はあったようだが、それが実を結ぶ前に赴任先で、病で急逝してしまった。33歳であったそうだ。

ジョンレノンとなぜか長嶋茂雄


 令和7年6月3日の朝、速報で長嶋茂雄選手のご逝去が報じられた。それから本当に僅かな数日間に走馬灯のように長嶋選手の生い立ちや選手引退後の様子がこれでもかこれでもかという位に報じられたのである。私は長嶋茂雄にとって、初体験となった監督業の苦しさと楽しさ喜び嬉しさ・現役時代と比べても勝る生き様のはつらつさ、生き生きさ、それらの表現の仕方で、語彙というか言葉の選択に私自身が悩む羽目になりそうなくらいの89年間という長嶋茂雄の人生は誰もが否定はしない、否定出来ない、正に彼そのものだった。
 丁度、日本が長嶋茂雄の喪に服すという言葉が似合わない、速報、号外新聞、各種大手メディアの特番が流れる中、はたと私が引き込まれたのは、ジョンレノンとオノヨウコがフィーチャーされていた番組である。ジョンレノンはかのビ-トルズのメンバーの一人で音楽活動を休止し、米国のNYCで暮していて息子さんを授かる時期前後辺りから番組を見始めた。それが日本がというよりも世界中が長嶋さんのご逝去を偲ぶというより、なぜか、私には世界中が長嶋さんありがとうと声援してように感じて、ジョンレノンが登場した。番組ではイマジンの曲が流れていた。
 ジョンレノンは40歳で熱狂者の銃弾によって自宅近くで最期を遂げた。その時、日本人の妻オノヨーコとの間で授かった息子さんは未だ5歳。息子、シェーンさんはア―チストの両親からの暖かい想いとゆったりとした愛情で一杯の時間の中で育てられようとしたが、僅か5年という短い時間で終わってしまった。そこで間を置かず長嶋選手が千葉の田舎高校で晴れ舞台の甲子園出場の機会もなく、練習に励み将来大物になるかもしれないという評判が立ち、ある試合を父親が隠れるように見に来てくれて、後によかったとみたいな言葉をかけてくれたそうである。その時の美談が暫くの間私の頭の中を浮遊していた。というのは、昨今はプロにまで登りつめた野球選手で少年野球の時から素人お父さんの熱血指導を受けて、我が息子・ここにありみたいな「美談」が増えており、長嶋選手のお父さんのような美談は聞いたことがない。もうひとつ、これも長嶋選手が自ら説明されていたことだが、大学入学後、環境と周囲からの期待要請があったようで、4年生3年生の先輩を新入生長嶋の指導コーチ役につかせてくれたことに対して大変感謝していた。甲子園未経験の長嶋選手の将来性、もちろん大学後のプロ野球界での活躍を夢見てのことである。
 さて、ジョンレノンが亡くなったのは1980年のこと、今2025年で存命であれば85歳と長嶋に比べて4つだけ若いにすぎない。野球とミュージシャンの世界での共通点を探そうと微塵にも考えてもいない。それどころか、特にクラシック音楽と野球の世界は天才的後継者の育成という点で非常に異なっている。詳しいことは省略。しかし、両世界で、普通の方がミュージシャンを目指したい、野球少年が甲子園出場を果したいと言う事は多い。世の中にはビートルズの様になりたい、長嶋選手の様になりたいとか、と言い出すことも出来ない位に、皆が認めた高い手の届かないレベルにまでなってしまった。ーは自らの夢を自らがあきらめ境地で、狭めてしまう判断を下す。そうすることで、自らはそれらの世界で、応援するサイドに席を移す。即ちプロの世界、本物のコンサートや試合を見に行き、浸ることである。
 書き残した長嶋選手のプロの世界、実は長嶋選手はプロではじめて打席に立った時、連続4回の空振りの三振を喰らった。最近知った事だが、翌対戦の第一打席でも三振を喰らい、つごう連続5回の三振をしても、今どきだったら2軍落ちを宣言されて半年又は1年位華やかな1軍での試合に出られない事もなく、何かを持っていた。この空振り三振についても長嶋翁がちょっと説明をしていて、こんな大振りをしてもヘルメットも落下しない<と周囲の人が不思議がる>、実はヘルメットは大き目のをかぶるといいんですよ。その大振りのシーンを観たが頭首胴体が回転軸となり、真直ぐになっていて、その回転軸に腕の先の手にしっかりと握られた木製のバットが直角方向、則ち、水平方向にくっると勢い余って2回程回る感じで、長嶋選手の腰もしかっりしており、のけ反ったりして体勢を崩さずに平然そのもの。この説明と残っている映像には長嶋選手があたかも演技している空振りのようだった。
 もう一つ、長嶋監督の闇の中での指導、対松井秀喜選手の話である。野球では素振りが基本で毎日何回やったと自慢気に話す子供、お父さんが自分の子供に課した夕食後の美談は多いが、結果としてどうだったのかの話には普通のお子さんならば、ならない。長嶋監督の自宅の地下室や後楽園ドームの控室での松井選手の経験、全て部屋の電灯は消して行われたそうである。< 闇の中の 素振り 空を切る音 いや違う また素振り そういいね > と私は表現してみた。松井選手は始めた頃は何がなんだか分からずにやていたそうであるが、察するところ時を重ね、監督がそういいねと語った素振りの本質を、自らが試み、それを体幹で覚え、再現することで、米大リーグで誰もがそうだと賛同してくれた松井選手の成功への道。
何せ長嶋選手監督には数字でもって説明できずに、感性というか体感でのみでしか分らない言葉を数少なに使われることが多いので有名な監督であった。
 続く。

今年福男の還暦頃の呟き

日本の時刻制度”橋本万平著(塙書房;昭和四十一年九月二十日発行)という古本を手にした時期も忘れ、ちょっとは役立った話の紹介をしたい。

知り合いの方が「お八つ」とはのお話が、「六つ」というと午前の六時ころか、十八時ころかが分からないので、午前は「明け六つ」で、午後は「暮れ六つ」と言った室町時代のころから日の出から日の入りを六等分する不定時法が定着した。ひるの「八つ」はだいたい十四時ころで、その頃間食をしたので「おやつ」というのだそうだ。<今風にいうと“おやつ”は大体午後三時頃に、腹が減って来た頃に口にする、お菓子みたいな食べ物のこと。>
私は横浜生まれで、その後神奈川県の中部、茅ケ崎で育った私の記憶では、友人の実家(大農家)ではおやつを“おこじゅ“と呼んでいた。それはネットなどがない昭和四十年前後の頃の話。今、ネットを紐解くと、”おこじゅー“は神奈川や多摩地域の”おやつ“のことの方言と説明されている。
 さて、知り合いの薀蓄では旧暦の時間の分割の仕方が西洋風とは異なり、日本では不定時方法によると、昼の八つは今の午後二時頃になるそうだが、今は定時の午後三時頃に口にするちょっとした食べ物が“おやつ”になってしまっている。さらに続けると、今我々は一日に三食食事を取っているが、その昔は日本も西洋も朝、夕の二食だったと聞いている。そんなことで、身体を使う仕事をしている人が殆んどだった昔はちょうど腹が減る頃に何かを食したいことになる。所謂、おやつ・間食で、恐らくそれが昼食(ランチ)となり、三食制へと変わっていたのではないかと推測出来るのである。現代人は、朝、昼、晩と三食も食らう人種となってしまっても、さらにおやつと称して午後三時頃何かお菓子・フルーツ・最近では見栄えのいいスウィーツみたいなものをしっかり食べるようになってしまっている。昼食を食べることが本来の“おやつ“とするとそれで十分なはずである。
武士の家計簿に、暦が太陽暦になったとき、江戸時代の人が大混乱を起こしているさまが書かれているそうだ。正月のいつに餅つきをするのかさえ分からなくなっている。特に武家には年中行事があって、それがいつになったかが分からなくなり「鮒の藻刈りに酔いたる体」。鮒が住処を失って息も絶え絶えになってしまったという感想を述べているそうだ。武士の家計簿に大混乱と記されていてそれだけ、一大社会変革でもあったようだ。太陽暦との一番の誤りは七夕だと思います。今の七月初めは梅雨で、彦星と織姫が澄み通った夜空で出会い事は稀で、旧暦の七月七日を新暦で言うとだいたい1カ月以上ずれて八月十五日位になる。そうすれば真夏で夜空も期待できる訳ですから。次に、新年の挨拶で新春をお喜び申し上げますなんて、何で寒い最中に言うのかという事も、旧暦の正月は、新暦の二月中旬前になるので、そろそろ季節代りを期待しての挨拶がぴったりになる。
現代人には、頭の中には概念として、旧暦(太陰暦)と今我々がお世話になっている新暦・太陽暦があることを知っている。しかし、人が年間の四季を通じて、肌身で感じる日常の生活では、十二ヵ月制の太陽暦と季節感や二十四節気との間に、実は乖離があることを感じている。地軸が傾いているので、地球上の何処に住んでいても、季節によって昼夜の長さが刻々と変わるという生活は避けられないので、便宜上不定時法が浸透したのだと思っている。今、我々は時間を計る仕組みやその機械装置のことを“とけい”と呼んでいるが、古くは水が滴る量をもとに時を見ていたので、それは漏刻(水時計)と呼ばれていた。手元の古本には陽とともに暮して来た人の習慣で、昼間の明るさ(猫時計;猫の目の瞳の細さを便宜的に利用)や棒を立てて、その蔭の長さから時を知る方法が浸透している事も説明されている。その棒は長さが二尺又は四尺あって、蔭の長さや方向で冬至の日まできちんと読みとっていて、“土圭”と呼ばれていたそうだ。それが今の時計という言葉に変化したようだ。
現代最新物理では、重力によって時の刻みも影響を受けてしまう事(アインシュタインの理論)や人知を遥かに超えた精度を持つ時間の計測方法が確立されてはいるが、<最近、一台が5億円もする>超精密な光格子時間計測器・時計も売り出されており、凄い世の中になってきたように思われるが、実際五億円もする時計はインターネットが高速になってきているという我々のニーズ要求がそうさせているのだ。所詮我々の生活は一息や一歩という尺度ですむ事が多く、農耕は太陽と季節、漁師は潮の流れ・満ち引きを正確に理解する事で、糧を失わぬよう叡智を凝らしてきた。所謂、腹時計の方が有用な時もあることを忘れてはいけないようだ。
2013 New Yearとして、2013年、平成二十五年巳年も恙なく、穏やかに新年を迎えることが出来ました。あまり、過ぎ去った昨年を振り返ることなく、新年の歩みを確実に進めて行きたいと思います。近在の八幡様へ初詣に行き、神社暦を頂いたところ、新暦・旧暦が合せて記載されておりました。旧暦の正月は新暦の二月十日です、という事は新暦の正月は旧暦でまだ十一月二十日と有ります。暦の定め具合によって正月を祝う気持ちは変わりませんが、世間の風習は旧暦起源で行われ、季節感を堪能出来ます。東アジア起源と思われる旧暦の行事は我々が農耕民族であったことの証である収穫を確実にする(生きて行く為に必要な糧を得る)季節毎に行うべき活動が集約されているものです。これらは伝統的なイノベーションであることに間違いありません。
平成二十五年の今年は私自身巳年の還暦となり、神社でお目にかかった近在の方も同じ干支との事、年齢的には二周り上の親の世代の方でした。そういえば、祖母も巳年、親の更に二周り上の世代でした。八十台で亡くなりましたが、存命であれば百八歳。先日、日本の百十五歳の男性の方が世界一の長寿だとニュースで報道されていましたが、人の運命によっては、まだまだ暦上で歩みを進め、干支も廻り続けておられます。IT社会になったと言えども、”社会的収穫”を確実にする”IT暦”や節目毎の行動を示唆する”IT風習”は未だ我々自身で提案出来ておらず、身に付いたとも言えない状況です。いつか近い将来、そんなITイノベーションがオープンに共有出来る時代が来るはずです。

2013年元旦初夢前に、夢を語る。

気まぐれに呟く


本来であれば、昨年の十一月頃に呟こうと思っていた。それがずるずると今日令和七年一月二十三日まで延びてしまった。

その理由は一月二十日に行われた米国大統領の意思表明であった本来であれば、昨年の十一月頃に呟こうと思っていた。それがずるずると今日令和七年一月二十三日まで延びてしまった。その理由は一月二十日に行われた米国大統領の意思表明であった。

もし私ごときのつまらない呟きが、多くの憶測に基いた不確かな情報とも言えない話で、近い将来こんなバラ色に包まれた様な事になるのではないかという、一抹の不安があったことや二
三の些細な優先させたいと事があって、今日になってしまったというのが本当である。

もうコンサルタントをしていると、嘘八百とは言わないが、結構推定・予測・統計データに基づいて作成したモデルとか将来像を自分の真念と業界の一般的にはという他人にすがるような常套手段でお茶を濁ス様な事も多い。

民主主義とは 
  立候補者の要件について、私なりに以前提案させて頂いていた。
  Democracy vs Republican という構図になった昨年の米国大統領選の結果で、私なりに勉強になったことは多数決とかの手法でない、米国の富裕層と労働者層の歴然とした対立の構造になっている事。

国内では、急遽行われた衆議院議員選挙の結果、選挙前の与党勢力が少数与党(I首相率いる)へ陥落。兵庫県知事選の結果、S知事が再選されて、SNSが候補者の公約や政策の浸透のという面で若者へのアピール効果が高いことを示し、このSNSの効果は昨年の夏前の都知事選で既に相当な力になることも分かっていた。これは民主主義の政策・広報と言う面で、所謂ニセ情報の発信をいかに防ぐかという課題(有権者の行動等の要件)を突き付けた。

ここでもう一度、民主主義とは、、、について纏めると立候補者の要件・選挙中の広報手段・有権者の要件の三点に十分に注意して議論しなければならないことが解る。

米国大統領選挙結果が判明した後、さらに関心の高まりにより、T大統領の宣言まで聴いて確かめた後になってしまった。米国の要求が米国の有権者のみならず、非常に明確で、世界の一般の人が分る言葉で表現されていたことであった。

国内でも、最終的に腑に落ちて、納得した事は有権者、全ての団体が暮らしを良くしたい、特に法人税や個人の所得税減税を望み、国内ではこれまで高齢者向けのインセンティブを優先的に諸策の検討をしていた流れを少子化対策へと変えて、予算のある、金のある地方自治体が、子供医療費、給食費、義務教育でない高等学校の授業料無償化、さらに大学授業料の無償化まで要求が拡大し、そのための予算枠を確保出来るのか否かの議論に落ちてしまっているように見える。

我々のような七十歳を超えた高齢者は振り返ると昭和二十八年生れが境であった。戦後のベビーブーム・昭和二十二年生より少し後の世代の話をしてみる。先ず、義務教育で必要な教科書は有償であった。それが、昭和二十九年生れの世代からは無償になった。私の世代は給食も小学校まで、東京のような大都市では給食は中学校まで、勿論給食費は必要だった。大学入学時に国立大学の授業料を3倍にする法案が通り、3倍になった。この大変化は当時の政局をストップさせ、予算が可決したのはズレ込み4月に入ってからで、3月下旬の国立大学の手つづきでは旧来の授業料や入学金を納めて終わった。が、もう一つ、大学入学時の授業料が従来だと4年後の卒業時まで続くのであるが、昭和四十七年の特例で、4月に入って可決した3倍もの授業料を後期から納めろということだった。

さて、国内も米国も有権者の要求は本当に自分の暮らし向きをただ良くしてくれそうな立候補者を選ぶことのみに集中し、本来は政治(祭りごと、国を治める)であって、国民主義・基本的人権の尊重・平和主義(国の安全/国防)というの憲法に規定された主意を維持するための、法律(簡単に言うと人として生きていくためのルール策定・周知・施行・ルールを犯した場合に対する処置)などを規定する三権分立の立法を、掌らなければならない。

自分の暮らし向きをよくしてくれる候補者を希望し、皆様もご理解頂けると思うが、一地方の議員さんが対処出来る課題でないことはT大統領が次々と署名していく米国大統領令の内容は日本一国でも対処できない、とても幅広いグローバルな連携と具体的な実施し得る行動的施策ばかりで、相当な経験、紙上だけの勉学ではない多国籍企業のマネージャのような実務経験や海外留学で培う人的コネクション(ふとしたことで、後になって役立つ異国の輩と知り合うこと)、さらにこの分野ならば任せてくれと言える秀でた専門性まで身に着けておきたい。

単に民主主義とはと言った事では済まされず、経済至上主義だけでもいけない、そこは焦らずに時間をかけてもいい、先ずは自分をスタート点として、皆様が全く同じ環境に居るわけでもないので、それぞれ考えて行けばいいのではないかと思った次第です。

野中郁次郎氏 ご逝去

野中郁次郎氏が89歳でご逝去されたことを新聞で知った。私は若き頃(今は2025年1月27日、約50年弱前)、半導体業界にいたが、研究分野では特許発明の申請を年に何回することが業務目標の一つに含まれてた。野中先生を知るようになったのは数年して、日本創造学会の集まりに出入りするころで、既に暗黙知を形式知に変換しようと各界・多くの研究者が取り組んでいられた。私自身、暗黙知なる言葉に初めて巡り合い、こういう表現も出来るんだという驚きであった。合掌

歴史・考古学が面白い①

 最近の歴史は面白い。文字がなかった先史時代の遺跡や有史時代の遺跡が発掘されて、それらは数多くの最近開発された分析手法とそれらに紐解かれた分析結果を従来になかった社会的見地で、大胆な仮定が昔の姿だったんだという事を、納得させてくれるからだ。私は好きが高じて、所謂2次情報のみで、今回の独り言を呟いている。
 素人歴史家・考古学好き人間なのかもしれない私は、受験で取り組む、特に世界史になるものが当時好きでなかった。ただ時間軸を古きから新しきものだけにした見方と単純に何年にどういう出来事があったとするだけの見方には、なじめず点数も及第点に届かず再試験もやった。
 学生時代と記憶しているが、米国の南部の黒人家庭(アフリカから奴隷として連れてこられた)のルーツを自ら調べようとした本が出版されたころに、種々の科学的手法を適用し、時空を超えて戻ったり進んだりして、暴いて行こうとする姿勢が大胆で面白しろそうだと思った。あとは、サラリーマン時代にアイスマンンという欧州のアルプスの峠越えのルートで5000年前と思われる氷漬けのミイラが見つかり大騒ぎとなった事件を書いた単行本を買ってしまった。普段は古本購入で済ませているのだが、私が新版の単行本を購入してしまう位、衝撃的だった。
先ず自分の数少ない実体験からスタートしたい。子どもの頃の印象や大人になってから地元の社会活動グループを通じての実体験である。縄文貝塚が少し標高のある海から離れたところにあった。都内で古い神社は標高20数メートルに鎮座し、その坂下から縄文時代の幾重にも堆積した牡蛎の貝塚遺跡が見られる。青森・函館の縄文遺跡見学し、結構今の海岸線から離れていると不思議だった。
土器の再現焼成で、古代文化との関わり、組成の化学分析で判明。 以降、考古学は最新の材料の微量分析技術、半導体の微細部解析により進む。
弥生後期の再現古代人の顔が母方の祖母・叔父さん(埼玉県在)にそっくり、関東北部群馬県の榛名山近くと記憶している遺跡の遺骨分析。次に、父方の従兄弟の顔・背丈が非常にそっくりで見知らない方が2007年・オリンピック前の北京に出張で訪れた時に、タクシーから降りた際に街角で見かけた。本当に久しぶりと挨拶をしようとしまう位、似ていたことを実体験した。

続々と進む縄文遺跡・弥生時代の遺跡発掘
  戦いに関する遺物がない縄文時代
  12x35cm単位(身体の特定部位の長さ)と規則性・数学の発達?
小さな子供を葬った甕の中に小石が1つ、2つと(三内丸山縄文遺跡)
入っていたそうで、資料ではその点についてのコメントはなく、
私は1歳で亡くなった子供・2歳まで生き存えた子供と直感した。

寒冷化による1万年以上続いた温暖な縄文時代の終焉と、
  急変する戦闘的弥生時代の環濠遺跡
  吉野ヶ里遺跡の再発掘・傷を負った多くの人骨が甕棺墓に

氷河期と暖気、間氷期の暖期 海面変動と人や大型動物の移動
  学説;太陽の活動(400年前から黒点の出現数を観測)、
11年の周期性の乱れと黒点数がゼロの年が続くと
気温が下がり*1、太陽の活動が活発な黒点数が多い
時期は気温が上がる。実は太陽が放射する光のエネルギーは、
ほぼ変化せず、磁場の乱れと関係し、弱くなった太陽系圏の
磁場を通り抜けた高エネルギーな宇宙線が悪さをする(
大気中に小さなエアロゾルを形成し、それが雲の核となり
雲が増えて日射量が下がる?)

氷河期と間氷期の長さ 地球の傾いている自転軸のコマ収差等
は宇宙的現象。次の両先生方の論文を参照。
  常田佐久教授・国立天文台
  冨田成夫准教授 筑波大
  *1:マウンダー極小期

最近のDNAゲノム分析手法
  ミトコンドリア(母親の系列のみ)以上に核のDNA(男系情報)のシーケンサーに
  よる詳細解析。
  仮説;縄文人のDNA(D1a)と現日本人のDNA,現生人類はいつ頃
日本列島にやって来たか?
  氷河期の38000年前に、アフリカを出発した現生ホモサピエンスは、
アジア大陸へ、そして日本列島に到達。しかしスフール大陸・
オーストラリアまで南下したGrが再度沿岸を北上したGrと
途中でアジア大陸内で北上したGrが樺太経由南下して、
列島に到達したと考える。これらの南方系Grと北方系Grが混血して
縄文人として日本列島内外で活動したと思われる(
D1aという男系縄文人DNAの呼称)。

篠田謙一氏 佐賀医科大 現国立科学博物館;発掘された人骨の歯を中心に解析
詳しい日本列島人のルーツは? に関する分析結果に関する多くのレポート。

氷層中のガス微量分析、環境変化(火山活動・7300年前に大噴火し地盤沈降したカルデラを有する、現代人の工業化活動)を取り込む南極の氷層をサンプル。

Lidar 地中RADAR :考古学 XCT MRIによる遺物のデジタルデータのAIによる解析
無人ドローンによる空中測量が暴く古墳や巨大遺跡
磨製石器と黒曜石の地理的関係と新石器時代を生き抜いた人類とは?
分布と旧新石器時代の人の交流
  九州の国東半島・姫島(学生時代)と信州和田峠(40代)の訪問

日本列島に見られる人為的痕跡のまとめ
ここではDNA分析結果で提唱されてるものを参照

127000年前 砂原遺跡
 38000年前 氷河期海面低下100m以上
 17000年前 長江河口に住む倭人
 13000年前 国産黒曜石の拡散
 10000年前 温暖化による海進と海面上昇
7300年前 南九州アカホヤ大噴火
  3000年前 稲作文化を持つ民族の日本列島へ流入
西暦3世紀 寒冷化で北方民族が南下 
 西暦4世紀 空白の4世紀 
 西暦6世紀 これ以降は記紀の文字情報による

次 に続く

卸しと問屋からユーザ主導のインテリジェント化

  こんな日本的商いのちょっと古めかしいキーワードにしても、物やサービスを提供したいというシーズ型ビジネスと特定な物やサ―ビスが欲しいというニーズ市場型ビジネスが想定される。
メーカ(生産者)とエンドユーザ(時には消費者)を物流的に結び付けるのが、この日本的卸しと問屋の単純な役割として考えていいのだろうか。時には、実際は多くのケースで生産者や消費者は非常に弱い立場にある。
  仲買人の言い値で生産者は安い値段で物を売り渡さざるを得ない時、消費者も問屋や小売店から言い値の高値で買わざるを得ない時もある。物流的には、卸しは規格商品をメーカから大量に仕入れて、それを小分けにして小売店、そして消費者(エンドユーザ)へ供給するという役目も果たしている。
  現代のe-commerce(EC :通販業者)も商材を仕入れて、ネットでユーザの目を止めさせ、注文を瞬時に受けて、商売成立という事になる。小規模のネット通販では商品の独自企画は出来ないので、所謂メーカ、生産者の企画製品を、ウェブの上手い宣伝文句で、いかにユーザの心を擽る(くすぐる)算段に時間と資金を費やしている(デジタルマーケティング)のが現実の姿と思う。大規模ネット通販業者は、旧来の卸し・問屋の力量を出し、メーカー側に独自企画の製品開発を委託出来るケースもある。上手くいけば独自企画商品という差別化で売上倍増も期待できる。
  昨今、ECや物流に関係なく、規模の大きい世界市場を想定し、品質や量産技術の工場で、物が大量に生産され、メーカー間の熾烈な生存競争の果てに、弱小企業が淘汰され、年間生産数が億を越えるような規模でも、メーカーが数社なんている業界もある。こういうケースはもはや卸しや問屋が入り込める世界でなく、メーカ主導型ビジネスとなる。
  最近ではファブレスと言って、生産設備を持たない“メーカー”がいる。普通はそのような企業をメーカと思っている。物作りでなく、物やシステムの独自設計力があり、生産だけを他社に委託しているのである。実際には世の中に、こういう製品が多い。
最近、日本国内の各地で台湾以外の地で超精密な(2nm技術)半導体工場の建設ラッシュが続いている台湾のTSMCは世界一である。米国内にも進出し、昨今の東西対立の中、積極投資を続けているファブレスではない「顧客のメーカー」がある。 “メーカー”といったが、実は力のある卸し・問屋なのかもしれない。自社の企画製品・半導体チップは絶対市場で売れる、ユーザのニーズを満たしていると自負している。
  こんな状況をひっくり返す最近の流れがある。卸しも問屋もいらない。エンドユーザが支配的なケースである。商売とは売買とイコールで有るのだろうか。否、中間の“メーカー”や問屋が介在しない世界である。ただし、一つ条件があって、エンドユーザは製品の消費規模(利用数量、台数)が極めて大きいことである。所謂大量購入、消費が出来る力量を備えたケースである。更に必要な製品の独自企画・設計力も備えているケースである。簡単に言うと、エンドユーザが自ら商品設計をして、大量に委託製造業者に発注して、自らがその商品を利用するのである。下記のサイトに、こんな事例があることを示す。
     サイト情報; datacenterknowledge.com 2012/05/08/ 号
  もう12年も前の事だが、今の地球上の人々の生活で、なくてはならないインターネットのジャイアント企業が建設し始めたDC(データセンター)のコアになる高性能のserver(スーパーコンに匹敵する能力、だが莫大な電力を必要とする)が一拠点に数万台も必要とする事に言及した。すなわち、オープン・コンピュートプロジェクトである。
  これでお仕舞いと思ったが、よく考えると、受注している製造委託会社は、実は所謂メーカとエンドユーザの中間にいた“メーカー”や問屋がそれなりの長い期間で育て上げたものではなかったのかと。即ち卸しと問屋がインテリジェント化した形態ではもはや対抗できない業態に進化したのだろうか。参考にしたサイトの英文資料でも、サプライチェーンを shake up しているとある。これを恐ろしく震え立たせると解釈するか、前向きな意味でも業界の reorganize と考えると面白い。実際、shake up に reorganization という意味もあるようだ。
  12年経った現在ではCHAT-GPT や人工知能AIというキーワードが多くの人達に知れ渡る状況にはなっているのだが、実はその中身の仕組みまで理解している方は極めて少数である。

オーラルフレイルOF

 これは典型的な外来語の発音をそのまま表記した我々にはとんでもなく悪い言葉だ。口の機能の衰えを意味し、70を超えたシニアにとっては多様な老齢化疾病の直接・間接的症状の現れで、死にも繋がる。詳しくは、今はやりのAIサポートやウィキペディア(wiki)を参考にされたい。
 今日は私の独断、変わった見方でOFついて呟きたい。高度に発達したホモサピエンスは言語を習得し、文字を発明し、今や宇宙開発にピリピリし始めている。逆に失ってしまったもの、正に失いつつあるものに注視してみる。30-40万年前に樹上で暮らしていたグループが地上へ移行し、2足歩行の能力を得て、高度な言語能力を身に着けて行ったと研究者は述べていた。その時期に呼応して人類は失いつつあるものも複数あったという。
 よく例に私は上げるのであるが、4足動物で走るのが速いチータやヒョウがこれも走るのが早い草食動物を追いかけて捕え、その日の空腹を満たせるのが第一番の関心ごとだ。チータやヒョウでもそう簡単には、跳んではねる獲物は捕えられない。走る向きをパット変え 後ろから追っているチータも瞬時に走る方向を変え、こんなことを何度か繰り返して、やっと獲物を抑え、直ぐに空腹を満たしたところであるが、未だせねばならないことある。
 今度はハイエナや鷲のような餌を横取りする動物に対して、力がとんでもなく強い顎で獲物を噛んで、 木の上に引き上げるか茂みに引き込む。それでやれやれと獲物を食するという普通のストーリがTVなどで観られる。

これらのチータの口の機能について、独断してみる。              
もはや、高速で逃げ回る獲物を追って瞬時に身体の向きを変えられる能力は大脳で処理した結果をフィードバックして、次の行動を起こすという遅いプロセスではなく、小脳・脳幹で無意識の瞬時のうちに反応出来る能力であろう。
  それに対して、人類は言語能力を高めた結果、大脳でのゆっくりとした処理に呼応した口腔の構造が高音から低音までの発声に合うように細長くなり、顎も細長く変化してきたそうである。もはや、樹上で暮らしていた世代の人類が持っていた噛む力も弱くなっていったのであろう。
 さらに、人類は視覚の精細さと聴覚の高度化も進んで行ったと推察している。 その傍証として目の見えない視覚障碍者は耳が良いそうだ。ある視覚障碍者は、今はやりのネットビデオサービスのYouTubeで、若者が出来るだけ短い時間で多くの情報を入手したい、理解したいという世界的なニーズがあり、YouTube には再生速度が次の等倍速以上で、1.25 1.5 1.75 2.0倍速以上ので動画の音声を聴き分けられるという。

それ、ちゃう ちゃう と 大阪のおばちゃん
 これは チャウチャウ犬 のことではないと 東の関東地区の男性
 それは違う、違うのです。と大阪のおばちゃん言葉を関東風に翻訳。
 助詞の(は)が省略され、sore ha chigau no desu がSORE CHAU CHAU に。

言語的に省略と短縮がおこなわれ、話言葉がどんどん早くなり、俗っぽく変化する。
早口に対して、速読能力もよく注目される。普通の人は本を読む時、一文字づつ追って読むのだが、速読力のある方は文字を追って行くのではなく、複数の文字列を一塊として、平面的図形として捉え、自分のケースでは縦書き・横書きでも、1行17文字位が一番ピッタリ感がある。原稿用紙の20文字はちょっと長すぎて、読売新聞は縦書き1行12文字で書かれているが、12だと短すぎて、ピッタリ感がない。文字列の一塊は5-6行の総文字数で17x(5~6)、すなわち一目、一見で85~102文字がざっと見渡して私が理解できる図形範囲である。これを1秒間で視覚情報を処理可能な大脳の能力とも言えないか?
  もはや1秒で100文字分は人の音読限界を超えている。これら高度に特化した二つの能力は大脳をもっと発達進化の道へと開いた。しかし、失ったものも有ることを忘れてはいけない。

次のことは一般的なシニアの事象で、耳が悪くなりましね、聴こえ難くなりましたねと会話が進むようだが、、、。実は音の強弱に加えて、シニアの方は音の高低(すなわち、周波数)の高音域が聴こえなくなる。

すなわち、日本語は母音が主な言語でこれに撥音が組み合わさって構成されているある例だが、難聴で90歳を超えた老女と5-6歳の幼稚園児が、じゃんけんをしていた。
子供;じゃんけんぽい、じゃんけんぽい と大きな声で繰り返すのだが
老女;何 じゃん じゃん というだけ? 怪訝な表情
これは老女が け と ぽ が聞き取れていないこと・撥音も言い辛いことが判明したOFの分かりやすい例である。

二者択一とは

 あるTV番組でIT機器装置を使ってALS病(筋ジストロフィー症とは異なる)患者が目線でしか示すことが出来ない、自分は生きているという意志表示が出来るんだという一面と、それに対する意志表示;欧州では安楽死を選択できるんだという患者とが取り上げられて、生か死かみたいな二者択一の話かなと私は思った。しかし、はたと困った視聴者がほとんどではないかと私は察した。生死の選択が自ら出来るんだ? 本当に、単純な二者択一というプロセスで生死をみる事が出来て良いのだろか、ALS患者さんも症状が軽微な時期に、もっと考えてみることは出来ないのだろうか?

 病気と患者さん、周囲のご家族などの関係者、患者さんを受け入れている医療関係者だけの単純な世界の話に留めず、もう少し文学的な面で生きるもの、生きるべきもの、生きたいと願うとか、今はやりの多様性という視点でもいいかも知れない、等々の議論がもっと必要だろうという提案もその番組であったように記憶している。現在の「文学」は私個人的にはエンターテインメントが主流になりつつある、サスペンスとか、xx殺人事件で犯人捜し、そのプロセスで細かなトリック作戦(列車の時刻表や乗換方法など)が話題に取り上げられるというもはや文学という言葉とは違う表記が必要と思うのだが。

 右か左か、yes か no か という二者択一といってもそう簡単ではなく、ある道を右に曲がって更に進むと今度は三叉路があるかもしれない、左に曲がると道は一本であるのだが、うねったり、上り坂や下り坂がいろいろ続き、多様である。 人は問いに対して、yes/noで聞かれると思考が単純になり、それにたいする反応は、はい、そうですとか、いいえ、違いますという無味乾燥になってしまう。そこで工夫を考え、問う際に具体的に数値やwhat how的にやると今の所コミュニケーションは上手くいっているとプロ野球のあるチームの新監督が語っていた。その新監督は若いので自分なりの考えで、いかにして勝負の現場で選手のモチベーションを上げる方法として、取りあえずトライして行こうと思ったのだろう。
以前高校野球の地方チームの監督が考え出した若い高校生の育成、モチベーションの上げ方はチームという複数のプレーヤと一試合で何人まで、何回出たり引っ込んだり出来るかを前提とした新しい選手管理法で全国優勝を成し遂げたという成功例を紹介したが、翌年そのチームは、都会の若い選手だが、普段の生活から野球の練習方法まで、出来るだけ(管理はするのだが) 自主性を重んじる學校に敗れた。まだまだこのように若い成長途上の人・組織には画一な答えはないことが分かる。

左と言う言葉がなかったら、右と<右でない方>、
下という言葉がなかったら、上と<上でない方> のように
反対語とか対照語が、文化圏や固有言語を有する民族、
国によって違っているのが当たり前でしょう。

 この5月の連休の終わりに、夜のラジオ番組がテレビ番組になって再放送されていた。映像がないラジオのトークと映像それもカラフルでふんだんにあるテレビ番組でのトークは如何に異なっているのが当たり前と察したが、その番組はあくまでも元のラジオ番組に寄り添ったものであった。ラジオトークの内容は引きこもりの方(以後彼らという)が、私には元気にしているんだなと単純に思い受け入れたのだが、葉書で投稿(今の時代ネットのSNSもあるのだが、あえてゆっくりとした昭和の文通みたいな急ぐ理由もないコミュニケーション)して、自分はいじめに合っていたとか、いじめた側の人の、何であの時そんな傷つけることをしてしまったのかという自分を苛める声もあり、久しぶりに考え込んでしまった。結構似た事に同じように彼らは反応しているんだと感じた。

 それは、普通に考えると、暖かくなって、<春は心地よい、気持ちが良く、好きだ>としてしまうが、多感な彼らは<春は、、、、嫌いだ>そうだ。何故春は嫌いなんだという背景を議論したり、彼らがそう感じるのかについてもっと聞きたい・教えて欲しい。もう一つ、紹介するが ありがとう に対する言葉が、申しわけない とか ごめんなさい であるという。 春が好き、嫌い、という二者択一。ありがとう と (申しわけない、ごめんなさい) の組み合わせは二者択一なのか、ありがとうならば、 thank you に対してno thank you と私は短絡的に考えてしまって、「結構です」と軽く言ってしまう。 番組中で、投稿されたご意見で、過集中(over concentration? 一つの事に過度に専念する?)という私も普段聞きなれない言葉が参照されていたが、彼らが多感であり、物事を多様な感性で問い、深く考えることが出来る能力を持っている事の証であることに気づいた。引きこもりとは、決して狭い空間に留まっているのではなく、周囲の人から話しかけられたり、自ら知らない人に話掛けようとしないでいるだけなんだ。二者択一は実は多くの選択肢から一つを選び抜くという非常に難しいプロセスと同等であることに気付いたのである。