文化の継承する強さと弱さ

手もとにあった冊子のページ(注1)をめくると、松尾芭蕉が江戸をたち、東北地方を目指して奥の細道の第一歩となった日は、遡ること西行法師の没後五百年忌であったという事が記されていた。それは偶然でなく、芭蕉がその日(西暦1689年の元禄二年三月二十七日陰暦)と決めていたのである。それは西行法師が陸奥に旅立ち、歌を詠んだことに起因し、芭蕉が自らも西行法師の辿られた跡をなぞることで、歌の技量を高めたいとか西行が実体験したであろう事を自らも同様な実体験できる(五百年という時空を隔てても)のではという強い願望があったと推察される。さらに、芭蕉を慕い、芭蕉の没後五百年になって(西暦1694年十月十二日陰暦が芭蕉の没年)西暦2194年になるが、自らも芭蕉の奥の細道を巡った江戸と言う時代の経験を実体験したいという方が現れるであろうかは分からないが、現状の東北各県の人口減少を鑑み、果たして没後五百年(西暦2194年)に徒で巡るんだという強い意志をお持ちの方がおられるかも知れない。西行法師、松尾芭蕉、〇〇■■という名の方が現れ、五百年、千年間の文化の継承を個人の強い意志で成し遂げた。というようなニュースが未来人は果たして聞けるかどうか?

現代で自分の回りでそのような事(類似の事)を実際に実行した人、又は今計画中の知合いはいらっしゃるのだろうか。

新型コロナウィルス感染により世界中で行動が制限されて、特に陸続きの国境間を挟む二国では国境封鎖までして・・・・我が日本では大海に囲まれているがそれでも完全隔離は出来なかった。船舶・飛行機など手段によって人の移動が特別なケースで許されるので、2022年に2021東京オリンピックを開催したぐらいなので、段々と新型コロナに慣れっこになってしまった。

そんなこんなで、地元の町会・自治会などの行事を皆で合意の上で、暫く中断してしまった。そして、毎年行っていた地元の餅つき大会や節分の豆撒きが昨年四年ぶりに行われ、今年の夏には、二年おきに行う神社の本祭が六年ぶりに行われようとしている。この四‐六年という短そうな期間でも実際に準備に関わっていると大変なのである。残念ですがその僅か六年の間で二名の自治会長が亡くなられ新会長に替わっている。神社の宮神輿渡御という氏子地域を神輿が巡行するという全国各地で行われている普通の夏祭り・秋祭りではあるが、この六年間で神社総代役員代表も三名も替わり、自治会の役員よりも高齢者で構成されている神社総代役員で物故者になられた方はちょっと指を折っても両手が必要な十名位もおられ、一番大事な鳶の棟梁も昨秋亡くなってしまった。

ごく最近のネット配信新聞によると、

千二百年続けている裸祭(愛知県稲沢市の国府宮神社)は女人禁制であったが、今年から女性が参加したという事例もあり、文化の新たな継承も生まれる。但し、男女混合ではなく時間帯を分け、法被を纏う方法で女性からのたっての要望により実現にこぎつけたという。

また、こちらも千二百年間続けられた黒石寺の(裸祭り)蘇民祭は最後の行事を人がいないという理由で閉じた。

三十年毎に行われる源義家で有名な平塚神社(北区西ヶ原、筆者の近く)の本祭は平成十四年に行われ、ちょうど三十回目の九百年であったという。私は実際に宮神輿巡行や女性神主さんの大パレードの写真を撮った事を鮮明に覚えている。

伝承形態
  ことば    
   口頭伝承    
   文章
  道具や模型
  唄・踊りなどの実体験

文化の伝承は易しくないが、自分の時代にリソースがないという理由でいとも簡単に絶えさせてしまう事は非常な決断である。よくあるケースは神社仏閣の行事だが、日本・韓国では女人禁制の風習が多い文化でも、少しずつ変化がみられるようだ。

洋風の着物・簡単着物を身に付け、足元は皮のブーツもしくはカラフルな所謂有名ブランドのスニーカーにして、闊歩したいというシニアの女子が現れ、このような新しい意識と新しい行動は文化の創造の一つと思えるのだが?

日本では、古代日本(西暦九百年まで)、中世日本(千三百五十年)、近代日本(千八百六十年)、現代日本(二千二十年代まで)と大まかに区分すると区切りの期間では海を隔てたよその輩、異種文化の影響を受入れ、日本流の導入検閲がなされて異種文化が己のものに姿を変えて、いつしか和風、日本流、xx道みたいにしてしまう。これは日本文化の強みと言えます。

二十年毎に伊勢神宮では遷宮が行われ、斎宮が白木をもって建て替えられる。二千十三年が六十二回目だったそうです。ありとあらゆるものが新調され供される。これは日本文化継承の一番の強みでしょう。

注1;本誌 三河アララギ 平成三十一年1月号 芭蕉、、、中屋氏

注2;ふんどし姿の男たちが厄を落とそうと激しくぶつかり合う奇祭「国府宮(こうのみや)はだか祭」で令和6年2月22日、愛知県稲沢市の国府宮神社で開かれた。1200年前から続く伝統行事で、もみ合いに先立つ神事に初めて女性が参加。法被に身を包み「わっしょい」と声を上げてササを奉納した。

注3:蘇民祭 黒石寺蘇民祭(こくせきじそみんさい)令和6年は、2月17日(土)に妙見山(みょうけんざん)黒石寺で最後の開催

あおいマスク

 今日は令和5年10月の上旬、予定されている行動をとらねばならない。それは毎月通院している主治医に急に呼び出された20日前に決まったとある理由にて、早朝より都内の大学病院にて頭部のMRI検査と造影剤を注射してX線による血流検査を行う事である。
 普通に、自宅の白いマスクをして、先ずMRI検査室へ赴くと、先生より院内専用のあおいマスクに替えて下さいと言われて、捨てはしなかったが白い自宅マスクを取り、少しきついあおいマスクを装着して、検査台へ上がり横たわった。そこでお決まりの頭部を固定され、防音用の耳栓を押し込んで検査に入った。閉所恐怖症の方には辛いが、私は平気。だが今回はちょっと違う、このあおいマスクを通して呼吸しなければならない。狭い筒状の中に頭部が固定された状態で、閉所恐怖症でありませんと言った手前、ゆっくりと鼻から息を吸い、口から吐き出すというカイロプラクティック整体の若先生に教わった方法で乗り切った。
  余裕が出て、MRIの磁場が印加される際に、耳を遮蔽しているのだが凄い音がする。その音を聴き澄ませていると音の低、中、高域の3つが使われていて、それらが各々、別々に数秒間のうちに音の強弱が正確に繰り返され、デジタルの8ビットのように聞こえたのである。その初めの規格化みたいなことが済むとついに本番の検査が開始され、時間は正確には分からないが数十秒間ずつ、ブーブー、がーがー、キーキー、時には短くドンと変な音楽みたいなセッションが続いて、20分の行程が終了した。
 次は別の検査室へ移動し、少し時間をおいて脳の血流検査のパートへ入った。こちらは、X線CTの部類だが、造影剤を注射針で腕の血管へ注入しながら画像を取る方法らしい。血液検査や献血では左利きの私は左手を差し出すが、今回は装置の移動方向と私の寝ている方向との関係で選択の余地はなく、はい、右手でということになった。
 私は初めての経験だ。同じような検査台へ仰向けになり<これが結構堪えるのだが>、普段背中が丸く前傾になっている姿勢をいきなり数十分間、固い台へ臥し、頭部はやはり固定されて静かにしていなければならない。ここの若い先生は時間が長くなるので、あおいマスクをずらして結構と言い、息がし易い状態でこちらは音もなく遮光用のアイマスクをお願いしますといわれ、ウトウトして知らないうちにこれで終了ですと声がかかった。こちらはそれで40分もの検査時間。
 こういった検査は70歳を超えた高齢者医療保険証を持たされている者にとっては特段特別な事ではないが、相当な検査費用だ。これまで45年間も払い続けている健康保険料、まだ若く病院の世話にはならないよという健常者の保険料、そして税金助成が原資だが、まだ仕事をしているお前は現役並みの実入りがあるからと言われ、逆らえずに3割の自己負担をしている。
 最近は大学病院もモダンで何とかというカフェもあり、ドリンク付きの簡単なランチサンドウィッチを食べ帰宅。もっと余裕を持った生活をすればいのだが、それが出来ずに、早々にノートPCでメールチェック、タブレットでニュース閲覧をして、それらを終えて、好きなYoutTubeでもと思い、アプリを立ち上げたところ、勝手に私の好きな朗読が紹介されており、何と菊池寛のマスク:小文の題目が、いつもの朗読者窪田等氏で紹介されていたのである。なんと偶然、今日のあおいマスクの記憶がタブレットの画面へ指を急がせたのである。
 そこには菊池寛の別世界があり、約100年前の大正8年のスペイン風邪の大流行の際に書かれた短編マスクであることを初めて知ったのである。今まさに我々が経験している新型コロナウィルスによる状況が、流行性感冒と呼ぶことしかできなかった時代と同じような経験が記されている。しかし、100年前の医学の状況はいいかばかりか、悲惨なことが書かれておらず、死者が国内で1日3000人を超えたとかあり、菊池寛の関心事は弱者である自分の不健康、弱い脈、心臓の弁の併合が悪い・手術が出来ない、脂肪心、駆けてはけない・脅かし、発熱・流行性感冒への恐れ、野菜食、伝染を恐れ妻も出来るだけ外出せぬよう家に籠った生活が記されいる。
 ところで、菊池寛はマスクについて、3月末でも気温も上がっているのにまだマスクをせねばならぬ、さらに、5月になって暑くともマスクが必要なのかと、文句まがいの気持ちを吐露。そこに、23-4才の黒い布製マスクをしている若者への嫉妬が加わるのだ。感染拡大に繋がる大勢の人がいるスポーツ観戦にこれから行くであろう若者がよっぽど強い男と見えたのであろう。
 令和の新型コロナの感染抑制対策に対してはノーベル賞を受賞したm-RNAワクチンに頼っているが、最近になって副作用による死者数が非常に多い事、直っても長期の後遺症で強そうな若者も含んで相当な数の人々がマスクを外そうが別の部類と思われる症状で普通の営みが送れずに臥している。私は終わりに記した現代医療でも予期せぬ二つの重大事に遭遇し、未結審の訴えの如く次の100年へ先延ばしにはしてくれるなという想いでいっぱいである。

家から富士山が見えても富士から自分っちは分からぬ

 都内には富士見橋とか富士見坂という地名は多い。何故かと、聞く必要もないであろう。其処へ行くと西の方向に富士山が見えるのである。私も結婚して45年、東京に来て51年も経ってしまい、あちこちにスカイスクレーパーが、始めは徐々に、段々と加速して行き、にょきにょきと雨後の筍のようにあちこちの猫の額を埋めつくす。と、ある時、今年が最後のダイアモンド富士山となりますと、突然身近の富士見坂の際にポスターや看板が並ぶのである。大概は最後のダイアモンド富士山の占有する遠くののっぽビルにこれから住むであろう主の素性や懐具合に文句は言わない。
 なぜか、ダイアモンド富士を撮っていた昔カメラ小僧と言われ、今や高級なデジカメセットを携える親爺さんは、その富士見坂付近の住人でないと予想される。ひょっとして、今後ダイアモンド富士を独り占めするスカイスクレーパーの新住人かも知れないのである。ごちゃごちゃ、最後のダイアモンド富士を捉えようとするマニアと素人さんからなる群衆は互いに気にせず、いい場所取りをして、喧嘩沙汰にもならず、最後のショットを満足げに納め帰路に向かう。
 実は、最近同窓会のお知らせを頂いて、コロナ禍で3年前に亡くなられた若かりし頃ご指導頂いた担任の先生の墓参をするので集合されたしという主旨であった。
学校の先生が担任としてクラスを持った生徒たちの数、専門教科として受講した生徒たちの数を40年位の間先生と呼ばれ、運良くば、A先生はこの専門教科では当時素晴らしかったと言われるような伝説が残っておれば、相当な人数になるであろう。ここで、えいやっと40年x250人/年=10,000人とする。約1万人の教え子のひとりが私である。
 同窓会は3-5年に1回ぐらいのペースで開催していたが、最近、具体的にお話すると2011年(3月に東日本大震災があり、東日本地区で被災した大企業に勤めていたクラスメートも多く)、その頃の同窓会も延び延びになって、私も電子メールアドレスの変更届が上手くいかずに連絡が途絶えた。更に2019年頃からの新型コロナ騒ぎで、同窓会は面と向かっての開催が出来なく、本当に今回の連絡が久々となった。
 40代、50代、そして60代へ突入し、今年で皆70代となった。ここで定かでないのであるが、恐らく50代の同窓会の時、担任の先生にある思い出を詳細にお話した。最終学年(18歳)の授業の時、受験勉強の範囲外の数学のテーラー展開式(詳しくは高木貞治著・解析概論を参照)の説明をされて、黒板の左から右へ一杯に式をチョークで書き記したのである。ここまでであったら、こんな先取りの授業の話で終わって、家から富士山が見えてもで終わってしまうのであるが、私はさらに話を続けたのである。
 xx先生、大学に入学して更に所属した研究室(材料科学の修士コース、21-24歳)での研究内容の話を続け、非線形関数を無理やりにテーラー展開で近似線形関数を作成し、それをもとに当時誰も挑戦していなかった観測した実験値とテーラー展開による近似線形関数を最少2乗法で収斂させて式に含まれる材料の構造パラメータを求めることが可能になりましたと。
 xx先生はそうかい、そんなテーラー展開の説明をされたことをお忘れになっており、少々拍子抜けし吃驚したが、そんなものかなと思いをはせた。
 多くの教え子がたった一人の先生を囲むようにして存在し、その教え子と先生との距離感やどのような付き合い・興味といった方向感がそれぞれあることがわかるのである、インフルエンサーという言葉が知られているが、確かに私は数学の担任の先生の影響を受けたが、現代版インフルエンサー講演に集まる特定のインフルエンサーの影響を受けたいとか、俺は私はインフルエンサーだと言う穿った気持ちを持ちたいのではなく、無意識の中で互いに伝播し合えばいいのではないかと思う。
 私の記憶では、関東地域ではなぜか、富士を夕日の西に臨むのが普通で、富士見坂でなくとも平らで広々とした関東平野ではどこでも富士を眺むことができ、日光から浅草への帰り道、まだ富士が小さく低く望める東武線沿線、茅ケ崎の実家の西向きの玄関から大山丹沢連峰と毎日見える富士、茅ケ崎の海岸から西に顔を振り向ければスカイスクレーパーに切り取られることなく、自分の富士を箱根山の外輪山と好きに鎮座させ、楽しむことができるのである。

寺田寅彦の“知と疑い”大正4年

コンサルティングの仕事をしていると、発明とか発見とか知的活動を促進させ、世の中にどんどん新しいものを提供していくことが一見世の中を良くするもんだと信じ込んでいるが、実は特許のような知的財産権を得ようとすることは経済事業活動であり、争い事も多い。昨日2020年06月04日の新聞にノーベル賞学者が実施権を許諾した特許を用い事業化をしている企業を訴えたという。企業がリスクがあるのも承知して、莫大な投資をして製品が良く売れたので、後になって分け前をもっとよこせといったような類にも聞こえる。最初の発明者と発明者の所属している大学と企業との契約内容は知らないが、ある薬品メーカのオプジーボである。
以前、ノーベル賞を受賞した湯川秀樹の創造性に関する書籍を読んで、はっとすることがあった。時代的にパソコンはまだ無かったが、第2次大戦後暫くして、計算機が出始めた頃に湯川博士は最近の若い研究者は計算に頼りすぎ、アナログ的な直感をもっと磨いた方が宜しいと指摘されていた。
今回、大正4年(西暦1915年)に寺田寅彦が書いた“知と疑い”という小文を2004年頃青空文庫からテキストに落としておいたファイルがパソコンに眠っていたものを読み返した。直感的にはよくも105年も前に普通に人には分かりづらい表現・語句を引用し寅彦先生も書いたもんだなと思った。しかし、読み直すと小文の内容は非常に重要な発明、発見、創造、そして関連して知恵とかイノベーションを網羅しているものであるが、私か今使った語句は一切使われていないのである。それらは寅彦独特の言葉を用い表現されている。
その前に、なぜ難解な“知と疑い”になったのか、その時代背景を私なりに説明を加えたい。西暦1915年頃はアインシュタインが一般相対性理論を発表した直後で、そこから遡ること7-8年前、Minkowski <ミンコフスキ>空間(寅彦はWeltという独語を使用)が発表され、数学的に時間軸を加えた4次元空間で示すことができると公表された頃であった。数学的にはn次元のベクトルと新たなベクトルの外積をとり、これをn+1次元のベクトルと定義するようなことである。
寅彦は実際どのような語彙を使って表現していたのだろうか。もちろん現代版カタカナ外来語、イノベーションなどといったものはない。(注:イノベーションとはneue kombinationen , 既存の要素で新しい組み合わせを生み出す事、後出―1番目の疑う人) 2004年に保存しファイルには注意事項として太書きした部分(寅彦の文)があって次に紹介する。

しかして暗は無限大であって明は有限である。
雨が降って天気のよい日のある事を知る人の少ない。
疑う人におよそ二種ある。

最初の文など一般人にはチンプンカンプンであろう。無限と有限を寅彦は微分で表現し、おそらく無限とは微分が無限でこれを暗とし、明はすなわち微分が有限な様態を示している。
注目したいのは3番目の文、疑う人は2種類あるという指摘である。
私なりの言葉でいうと、過去の先達が積み上げた知識体系を会得し、研究して新たに発見を加える事(人)と全ての知識体系が完成しもう終わりだと普通は言ってしまうが、そこでさらに何もやることはないとは、おかしいと疑う事(人)の2つがあって、寅彦は同時にこれら2つの能力を発揮する人は極めて稀であると言っている。寅彦は、寅彦の言葉で 一人にしてその二を兼ぬる人ははなはだまれである。これを具備した人にして始めて碩学(せきがく)の名を冠するに足らんか。 と、この小文を閉じている。
知は疑う事から始まる。リンゴがリンゴの木から落ちたり、錘を付けた振り子がただ振れていると疑わずに放置したり、天王星の動きが少しおかしいけど、これがデータのバラツキだと判断して疑わず外周の新惑星の発見に至らないとか、古典力学で十分だとか電子運動の実験的解明(疑いを持つ)が無かったら相対性原理の発見に至らない105年前の平凡な暮らし向きを我々は続けていたかも知れないのである。

夢のある話

日本でも月を目指す宇宙飛行士の人選の結果が話題になっている。
本当に夢のあるわくわくする話である。人生100年と言われる現代でも、よく考えるとそうたびたびある夢のある話ではない。それも、応募された志高き人、夢をかなえようと幼き頃に心に決めた多くの中で、再チャレンジの一番高齢(といっても40半ば)の男性と20歳代の女性の2名が夢を叶えようとする一番札を抑えた。

米国が約53年もの前に月面に初めてブーツの足跡を付けたのだ。
技術をかじった事のある人間にとって50余年も前の未熟な技術で、今考えると能く月に行こうと、恐ろしい程の夢を持ったものだ。しかし誰しも数十年先の技術向上は決して否定はしないがそれがどれ程の高度化を達成出来ているのかも未知であって、数十年待って安心して夢を叶える行動を取っても意味がないのは明白で、今挑戦することに意味があるのである。

しかし、今年70歳になる自分が学生の頃、ちょうど大学院を目指して研究室に所属した時期に、日本では放射光リング(今は筑波研究学園都市に加えスプリング8という関西にある放射光リングの呼称が有名になり)が夢でその実現に向かって、装置開発グループや私のいた研究室は放射光と言ってもX線レベルの電磁波で、ある種の高強度のX線が得られたとしてどのような実験が出来るかというテーマを研究し始めていた。後年になって夢はかなえられてしまったのだが、真空の導管中を電子ビームを光の速度の近くまで加速させ、その電子ビームを磁場で少し曲げると、接線方向に放射光が発散し、それを応用しようとするものである。

大学院を卒業して、そんな放射光をも忘れて、現在のインターネットのベースとなっている光通信事業の開拓に夢中になっていた時、ある種のデータのわずかな差異に、、、それはかっこ良く言えば、品質問題、quality management, quality control of product performance specification問題に遭遇し、その現象は6シグマ運動や高度な統計数学が関わるものであった。
こう言った「がちがち」の数学が関わるものは時代によらず必要なのだが、感覚的には昭和から平成への時代感覚で、話を戻すと公開された月を目指す宇宙飛行士の選考過程で見られた内容は平成から令和の時代に必要なグループで人が仕事を成し遂げようとする際に要求されるコミュニケーション・リーダーシップに焦点が当てられていたようだ。さらに、科学者・エンジニアのような高度な専門職的作業は出来て当たり前、その先の火星探査への片道切符とか死に直面するような宇宙飛行士の人としての振る舞い、他人との関係性の取り方、ただリーダとして強引に他人を引っ張るだけではない姿、人物像を評価して見たいという意向が感じられた。

話を昭和から平成の時代にもどすと、私が関わった高度な統計数学が関わる光通信ネットワークの事例の話をして見たい。当時の日本と米国を結ぶような世界で一番長距離の大陸間海底光伝送では予め光が伝搬する光ファイバーのコアの部分の光屈折率を例えば9000㎞の長さ方向に渡って調整しておかなければならないのである。それは、単に標準的な製品仕様値(平均値+/-δ)を満足しているだけでは不十分で、9000㎞長の経路毎に例えば始めの50㎞は1.4650で次の50kmは1.4654というように長手方向の変動に関する値を管理制御すること、実際には光信号が伝搬する際の遅延時間を表記する光屈折率の波長分散という性能に関わる仕様のお化けみたいなものがある。

当時、米国の大手計測機器メーカーのものを使って計測するのが業界的標準になっており、私はもの作りのメーカ側の立場で製品検査を、お客様も値の張る米国製の計測器を購入し、受入検査をされていた。私が勤務していた米国メーカと顧客企業とで取り交わした仕様値を満足しており、受け入れ合格なのであるが、当時、私は技術責任者としてその膨大な品質データを検証していた。
何かがある? という疑問であった。

光ファイバーは石英ガラスから作られているが、その屈折率は空気中と真空中とでは値が0.03%にも満たない程度であるが、差異があるのである。起因は光の伝搬速度を真空中の値を1とすると空気中では0.03%程度遅いことにある。僅か1000分の0.3、ppm表示だと300ppm。そうなんです、検査時の基準を真空中の値、空気中の値とするかが両者で異なっていたことに起因して、データの分布図をメーカの出荷時と顧客の受け入れ時の値とを比較すると、一つのピークを持ったガウス曲線というよりも2つのずれたピークを持つガウス曲線としてみた方がいいのではないかという私が何かがある?と言った疑問が解けたのである。

こんな僅かな事も私にとっては当時夢のような話で、本社の製造部門だけでなく、開発・品質管理や顧客技術支援部門、その他多くの人達を巻き込み、課題・対策の情報共有が出来たというあたり前と言ってしまえばそうであるが、あたり前の簡単なことが認識出来ずに、月さらに火星探査へと連なる「かぐや姫の夢」を壊したくないのです。

人工知能AIの急速な発展と疑い

人工知能に関する取り組み、開発研究の歴史はかなり長い。
AI; artificial intelligence の進捗は主に計算機、コンピュータの発展開発に依存。
コンピュータシステムの高速化はデバイス部品の小型化による。
デバイスは半導体チップのみならず、周辺のパッシブ部品を含み,単体半導体チップ間、複数の半導体チップを含む特定機能を有するボード間通信も高速化されている。
AI開発のソフトウェア面でも歴史的にいき詰まりも何度かあった。

ここ数年間(2020年以降)で、AIの一般利用という面で驚異的な事があった。
巨大IT企業や異種業種企業による巨額投資で進んだ。
画像認識や言語認識による翻訳サービスも格段の改善。

これらの新しい進行は学習・learningプロセスに大きく依存。
キーワードはmachine learning (ML), deep learning (DL) である。

AIを組み込んだロボットを含み、AIアプリが従来の雇用を奪い取るという懸念。
 単純作業はどんどんなくなっている?
 本当にそうなのか?
 歴史的にみると何もAIのない時代にも、消滅した雇用と新たに生まれた雇用がある、
 
GPT-3, GPT-4, ChatGPT という自動文章生成AI
 Chatとは所謂短い言葉で相手とやり取りするチャットのことである。
 GPTとはgenerative pre-trained transformer のことで、
  文章を生成する事前学習された変換装置を意味する。
 GPTに続く数字はGPTのバージョン番号で3世代と4世代では
  MLで参照させているデータベースの規模が格段と増大している。
 GPT-4ではデータがビジュアルであると説明されていて、テキストデータではなく、写真だったり、手書きのメモ(これから文字を自動的に読み取り、文として認識するとか)、写真の一部に写っている物を指定すると自動的に猫の顔だとか電気自動車とか認識する機能が備わっているという。

データマイニングと何が違う。テキストマイニグと何処が異なる。
 という疑問も沸くがマイニングは分析的で、
 GPTは前の文に続く後の文を予測生成する。

ネットでよくみられる、チャット式質問があるが、これは場合分けしてツリー状にしたものでAIといって少々だまし気味な所もあるが、プログラム化されてはいるが本当のAIではない。

2023年3月18日に閲覧したYouTube(YT)は刺激的。
 言語生成、文書作成ができるChatGPT4の解説であった。
 質問者が質問した疑問に対して、AIが回答した文章が長かった。
 それに対て、質問者がもっとリズミックな感じにしてと要求した。
 すると、AIは見た目英語だが、短いフレーズで箇条書き様に構成された文章で答え直したのである。

そうだ、日本語で大切な和歌・俳句は究極の57577という、短いフレーズとリズム感を兼ね備えた表現で、我々が、人の生き様という和風文化の経験を積み重ねたものである。日本語の特有さとデータベースが英語と比べて非常に小さいのでChatGPTの日本語による回答はまだまだ未熟だそうだ。

以上、全て私の作成した言葉・文章であることをお断りしておきたい。

注:気になるのだが、欧米のある国レベルで、ChatGPTの利用禁止がメディアで報じられている。理由は個人情報保護上の問題らしい。4月1日のエイプリルフールかと思ったが、まだ日付けは3月内。

令和5年4月1日記す

とけい(土圭)2

現代人には、頭の中には概念として、旧暦(太陰暦)と今我々がお世話になっている新暦・太陽暦があることを知っている。しかし、人が年間の四季を通じて、肌身で感じる日常の生活では、12か月制の太陽暦と季節感や二十四節気との間に、実は乖離があることを感じている。

先日知り合いが、twitterで日の出から日の入りまでの時間帯を6等分する不定時法について呟かれていて、昼の八つ時に間食をしたのが“おやつ”の語源だと教えてくれた。 ちょっと横道に逸れた8年近く前の“おやつ“のお話。

マイブログ 投稿日: 2012/10/20 題目;お八つ   平成24年10月16日の知り合いのSさんのtweet。 「六つ」というと午前の6時ころか、18時ころかが分からないので、午前は「明け六つ」で、午後は「暮れ六つ」と言った。室町ころから日の出から日の入りを6等分する不定時法が定着した。ひるの「八つ」はだいたい14時ころで、その頃間食をしたので「おやつ」というのだそうだ。 今風にいうと“おやつ”は大体午後3時ごろに、腹が減って来た頃に口にする、お菓子みたいな食べ物のこと。 横浜生まれで、その後神奈川県の中部、茅ケ崎で育った私の記憶では、友人の実家(大農家)ではおやつを“おこじゅ“と呼んでいた。それはネットなどがない昭和40年前後の頃の話。今、ネットを紐解くと、”おこじゅー“は神奈川や多摩地域の”おやつ“のことの方言と説明されている。 さて、知り合いのtweetでは旧暦の時間の分割の仕方が西洋風とは異なり、日本では不定時方法によると、昼の八つは今の午後2時ごろになるそうだが、今は定時の午後3時ごろに口にするちょっとした食べ物が“おやつ”になってしまっている。 さらに続けると、今我々は1日に三食食事を取っているが、その昔は日本も西洋も朝、夕の二食だったと聞いている。そんなことで、身体を使う仕事をしている人が殆んどだった昔はちょうど腹が減る頃に何かを食したいことになる。所謂、おやつ・間食で、恐らくそれが昼食(ランチ)となり、三食制へと変わっていたのではないかと推測出来るのである。 現代人は、朝、昼、晩と三食も食らう人種となってしまっても、さらにおやつと称して午後3時ごろ何かお菓子みたいなものをしっかり食べるようになってしまっている。昼食を食べることが本来の“おやつ“とするとそれで十分なはずである。

そんなきっかけで、毎度の通り部屋の隅に積み上げてある古本の中に、確か古い時刻制度のことを書いたものがあるはずだと探し出した。それは、“日本の時刻制度”橋本万平著(塙書房;昭和41年9月20日発行)である。

地軸が傾いているので、地球上の何処に住んでいても、季節によって昼夜の長さが刻々と変わるという生活は避けられないので、便宜上不定時法が浸透したのだと思っている。今、我々は時間を計る仕組みやその機械装置のことを“とけい”と呼んでいるが、古くは水が滴る量をもとに時を見ていたので、それは漏刻(水時計)と呼ばれていた。手元の古本には陽とともに暮して来た人の習慣で、昼間の明るさ(猫時計;猫の目の瞳の細さを便宜的に利用)や棒を立てて、その蔭の長さから時を知る方法が浸透している事も説明されている。その棒は長さが2尺又は4尺あって、蔭の長さや方向で冬至の日まできちんと読みとっていて、“土圭”と呼ばれていたそうだ。それが今の時計という言葉に変化したようだ。

現代最新物理では、重力によって時の刻みも影響を受けてしまう事(アインシュタインの理論)や人知を遥かに超えた精度を持つ時間の計測方法が確立されてはいるが、所詮我々の生活は一息や一歩という尺度ですむ事が多く、農耕は太陽と季節、漁師は潮の流れ・満ち引きを正確に理解する事で、糧を失わぬよう叡智を凝らしてきた。腹時計の方が有用な時もあることを忘れてはいけないようだ。

偶々、同じような時に、twitterで2013年の新年が“新暦”の1月23日に始まる13カ月制の旧暦をベースにした手帳なども販売されていること(ルナワークス)も学んだ。有難い仕組みである。旧暦手帳を買いに行こうと思う。

2012/10/27  記す

民主主義って

我々日本人は少なくとも戦後生まれの世代で、義務教育、学校教育で本当の民主主義について学んだであろうか。恐らく、色々場面で選挙という行為があるが、多数決で第1位で選ばれた者を単に当選としていなかったであろうか。それが本当の民主主義で正しいのであろうか。それは無いであろうと思い筆を執った。

教科書的資料、専門的資料などは不要で、今日本人が使っている日本語の民主主義から出発したい。もともと、日本には民主主義という文化はなく、漢語のそれもdemocracy(wikiの引用)を中国語に訳した「民主主義;民ノ主ノ、民ガ主ノ、といった相反する意味状況で混乱していた」ものを日本語として使っているのだ。日本では democracy および republic に対しては当初はシンプルで区別なく対処しており、1862年に堀達之助が作成した英和対訳袖珍辞書では いずれにも「共和政治」の邦訳を充てていた。繰り返すが万国公法(中国、1863年)の渡来とその強力な受容により「民主」なる語の併用と混用の時代を迎えることとなる。

要は、民主主義という理念はよく探求もされずに、間接的に有権者・民意を代理する議員を曖昧な多数決によって選び、委託している状況を民主主義と思っているように見えるのだ。

当然公平な条件という事は前提であるが、公平とは該当のそのある団体組織を運営するための前提に沿って考えた場合、種々の異なった公平があることに気づくであろう。

とりあえず今日本の国政選挙、衆議院議員の投票は小選挙区制で例えば5人立候補して、1位41%、2位39%、3位10%、4位8%、5位2% という得票率の場合、1位41%の方が当選となってしまうのである。米国だと多数決・過半数の原則で1位と2位で再選挙を行わなければならない。逆転の余地がある。5人立候補しても始めから1位の方が50.1%以上の過半数をこえておればそのまま当選という事になる、

古めかしい言葉だが、xxxに資するという表現があるが、令和4年から18歳以上の成人に投票権が与えられるが、また25歳上になったら国政へ立候補することもできるが、自らを振り返ってみて本当に投票権、立候補に資するものを備えているかと。

身近の地域の自治会の役員選挙などを考えても、町会費を収めている正会員が立候補できる、または選考委員会で予め指名された候補者が総会で町会費を収めている正会員の表決承認を受けなければならない。 今時の業界団体でも同様で資本金に準じた会費を納めた正会員が理事役員へ立候補又は理事会から推挙され、総会で議決権を有する正会員の承認を得なければならない。

消費税

少し立ち入って考えると、国政での有権者は、何か正会員として納めるべき会費とは何なのであろう。ここでは数値の議論は別として、所得税、住民税でもなく、私は最低限生きるために購入している物の消費税だと思っている。資するべきものは義務教育の学校教育で受けるべき、民主主義とは社会の中で生きていくために必要な経済の仕組み、法律などの仕組みを実践的に学ぶことと思う。

最後の課題は国政立候補者の資するべきことであることに気づく。

現時点では、公民権停止者でなければ誰でもよいのである。皆さん、本当にそれでいいのかと疑問を持っているのではないか。 物価、貿易収支、企業の法人税率の優遇が国によって大きく異なるが、国民の経済課題に関する要求は厳しく、経済に疎い人が立候補者でいいのだろうか、更に、外交・国際問題、国防や戦略的インテリジェンス活動を要求される状況等々、立候補者として資するべき事柄は非常に多いのが実状で、今我々有権者が投票し選出されている議員さんはどのような立候補条件を所属する政党なり、個人なりで考えているのだろうか。

ここからが、私の自由な独り言を呟く事を許して欲しい。

国政に立候補したい方は、少なくとも事前に2か年間位の期間は、国の機関、もしくは国が委託した団体が設計した「国政立候補プログラム」に参加すべきと考える。履修し、あるレベルの設定された要件を満足しなければならないとしたい。その2か年間は社会人として働きながら履修可能な仕組みであること。例として相応しいかどうかわからないが、防衛大学校、気象大学校、税務大学校のように、行政機関の専門人材育成を目的としたシステムのように国政議員に立候補したい成人は履修すべきと思っている。如何であろうか?

しかし、世界の現実はもっと厳しく、間接選挙で投票した代理人である立候補者の当落を決定する多数決の運用管理でなく、社会を動かす・経済活動を通した変革が起きていることを解説している次の資料を紹介させて頂く。

大都市エリートが民主主義を滅ぼしてしまう理由/ 新自由主義的への反省と民主的多元主義の再生、 施 光恒 - 2022年11月30日 東洋経済オンライン

資料によると『新しい階級闘争:大都市エリートから民主主義を守る』は、Michael Lind, The New Class War: Saving Democracy from the Metropolitan Elite(London: Atlantic Books, 2020)の邦訳で、この『新しい階級闘争』は、戦後実現した「民主的多元主義」の安定した政治が、1970年代に始まった新自由主義に基づく「上からの革命」の影響を受け、機能不全に陥った結果、今日のアメリカでは国民統合が揺らぎ、分断が深刻化していることを指摘し、また、その分断の解消をどのように図っていくべきかについて論じられ、Lindリンド氏の第1の関心はアメリカ社会であるが、本書の議論は日本社会の現状を考えるうえでも大きな示唆を与えるという。

見えないスポットライトを浴びる

令和4年9月22日深夜番組を見ていたら、夏の甲子園・高校野球、仙台育英高校が初めて優勝旗を勿来の関を越えさせた努力はいかにというような、注目を得ようとする流れであった。

これまで、東北地方や北海道の高校が野球の甲子園で活躍して、それなりの結果を残すと、それは所謂都市部にある中学の野球経験を積んだ生徒が親元を離れ高校留学をして、地方の地元出身の生徒が極めて少ないチームが編成されたことが大きな要因だと評判となる。しかし、地方の余裕のある学校が増えると、そういった学校同士の競争となり、そうそう特定な地方の高校も甲子園では優勝するのも辛い状況となる。野球以外のスポーツ種目でも、個人競技種目でも高校留学はあたりまえのこととなっているのが実情である。そこで、スポーツという世界、同じルール条件で競争するには、いい選手・いい指導者(監督・コーチ・支援スタッフ)が必要という話となる。時には指導者達の行き過ぎた熱血指導が問題となることも多々世間を賑わす。

今年、令和四年夏の甲子園を制した宮城県の高校では、優勝監督のデータに基づく選手の管理育成 組織論とマネージメントというコンサル事業のキーワードや私が見た他のスポーツとの類似性に少し触れたい。

そのTV番組のコメンテータは過去のトップ選手ばかりで宮城の高校の優勝監督は野球経験ありだが、補欠にもなれない、18名のベンチ入りも出来ない3流と言っていたが、スポットライトも当たらない選手の心を理解し、どう工夫すれば自己改革ができるかを理解し、それを実現して行こう、く若い子供を現代風DXとデータの見える化を行い初の優勝へ導いたストーリー>と言えるタイトルがぴったりな内容であった。元高校球児、プロの有名投手を経て監督などを務めたA氏は所謂、スポットライトを浴びた側の人間、野球界では限られた一人のスタープレヤーからなる選手投手から構成された古い型のチーム構成でマネージメントをして来た方ではあるが、新しい時代に即した新しいマネージメント手法に共感していた。陸上競技のトップランナーでオリンピック、世界選手権にも出場し、小さい時から常にトップの位置を占め、野球とは異なった一匹野郎的な個人T氏であったが、T氏自身、スポットライトを浴びていたので、当時はそこまで理解しようとも思わなかったようだが、この仙台育英の監督の新しい選手育成能力引き出し法ともいえる手法に共感していた。

私は呟いた、見えないスポットライトというのもあるのかも知れない。最近のグループを主にする歌謡ショーでは踊り振付が優先し、歌唱力は二の次、暗闇のステージにかなりの人数の煌びやかな衣装をまとった若い人たちがパッと浴びるスポットライトはもう一筋でなく、何筋もあり、その筋はどんどん速い動きに合わせて行ってしまい、過去の直立不動の演歌歌手が本当の明るいスポットライトを浴びている様とは全然変わってしまっている。

新しい組織論、マネージメント手法、分担型能力育成、人材の満足度を高めるリーダの存在とお互いの信頼というキーワードを思いついた。例えば、エース級の投手を3人育成し、予選決勝トーナメントを戦う中で単に疲労分散だけでなく、選手の性格、当然ポジションとして要求される機能面も少しずつ異なった面を持ち合わせるように育成することであろう。野球よりチーム人数が多いサッカー、ラグビー、そしてアメフト(American Football) のルールを読み直して、試合当日ベンチ入りできる人数、交代要員、再出場の可否について調べた。数字を上げる前に当然分かることだがこれらはそれぞれのポジションの選手(組織論で言えば異なった階層的役割を持つ人材の育成は違う)の育成練習方法と結果を出した自己の評価も違う事になる。


種目  試合出場人数 ベンチ入り人数   交代可能人数   再出場の可否

野球    9        18        自由        No

サッカー  11        18       (3)        No

ラグビー   15       22        (7)        No

アメフト    11       45      自由     可能 何人でも

アマチュアの選手以上にプロ選手の世界では、このような大勢の選手からなるチームの場合の個々の選手の評価が難しい。野球の場合、攻めと守りで大きく違う選手の評価、野手は攻めの打ちで評価され、投手は守り(私は投手の攻めと思う)の投げで評価されるので、一種の団体戦のように思われるが、個人の打点(打率やホーム数)や勝ち数(奪三振数や自責点)で評価されてしまう。

最後にアメフトのルールは究極で、ベンチに大勢が待ち受け、頻繁に交代があり、再プレーも出来て、スポーツ以上の組織運営論へ話が飛びそうになる。アリの大きな集団では働きアリの2割は何もしていないのだそうだ。始めから休憩してスポットライトが当たっていないのではなく、見えないスポトライトが当たっており、それで指図を受けているような如くに振舞っているのではないかと思うのである。

白; 知らないことの新鮮さ

最近、読み聞かせ、それも文字を習う前の小さな子を対象としない、大人の読み聞かせを体験する機会があった。大人を対象にするので、朗読やちょっとした江戸時代の小話を聴く、みじかい落語の感じがした。このような体験の延長で声優さんのいろいろな作品を朗読しているYoutubeを検索・視聴し、そんなことを暇に任せてお盆休み前にしていたら、芥川龍之介の作品は短編が多いので、結構、朗読対象になっていたことを知った。これまで、長編作品のたけくらべなど難解な樋口一葉の作品に挑戦し、そのままになっていた。今年のお盆前には芥川の羅生門の朗読を始めとして、蜘蛛の糸を繰り返し繰り返し、聴き惚れてしまった。

そして、六九歳になって初めて知ることになる「白」という短編作品がYoutubeのトップページを飾っており、それは淡いグレーと濃いグレーの単調2段階でデザインされて、特徴の無い犬が淡いグレーで描かれており、ははーん、これで<しろ>という犬の話になるのだなと思ってしまった。以降、私はその朗読を聴いた「白」の感想を呟くつもりはなく、詳しくは文字で全貌が紹介されている青空文庫などを参照して頂きたい。

さて、子供の絵本の読み聞かせ会などがあるが、文字をまだ知らない小さな子は絵本で与えられているカラフルな絵柄という作家特有な映像と耳から得た聞きことば情報を的確に覚え、自分の頭に刻み込んでいるのだ。諳んじている自分の知っている絵本の内容を早くお披露目したく、我が家では子供がまだ小さい時、家内が絵本を読み始めると長男がまだそこまで進んでいないストーリーを弟・妹にばらしてしまい、よく小さな喧嘩の始まりとなった。

大人の読み聞かせには例として初めて聞く作品の朗読が一番だと思う。初めて聴く新鮮な言葉を受け入れ、それを瞬時に同期させ、こんな情景なんだろなとか、思い浮かべる自らが創造する色合いの情景は私には楽しい。個人個人によって情景の配置や色合いは異なって当たり前であろう。しかし、著名な作品が映画化、TVドラマ化され、さらにヒットしてしまうと自分で想像するという前に監督だのドラマ演出家の意図が前面に出て、作品の著者が意図していない方向へどんどん行ってしまう事もあろうが、そういう時は小さな諦めも必要だ。

私は初めての「白」から1週間ほどして、2度目の<しろ>を探した。というのは、芥川は結婚9年目で自殺してしまったが、その4年前の結婚5年目にして自殺を暗示させる作品を残そうとしていたのかと背筋が本当にゾッとした。隣のくろと呼ばれる黒い犬が犬殺しに捕まり、自分は咄嗟に逃げ、自分だけ生き残った事を苛み、「白」の中で1度だけ自殺したいということばが出てきた。実は<しろ>は外観が黒い犬「芥川は鍋底よりも黒いと表現している」に変わってしまい、田端の駅付近から流浪の旅に出るのだが、出来れば死にたい死にたいと、あちこちで、蛇や狼と戦い、火や鉄道に飛び込み子供を助け、アルプスの山では遭難しかけた一高生を助け、死にきれずに自宅に戻るのある。その流浪の旅は決してカラフルでなく、ほとんど白黒の世界に近かった。

数年前、私は芥川が世間で言われている神経衰弱で病み、藤沢の鵠沼の海岸近くで療養し、自殺する前に東京田端の自宅との間を行き来した時期について調べた。新婚生活を始めた鎌倉にも近い鵠沼、その後田端の自宅に戻っても二階に籠り文章を練る作業に没頭し、神経衰弱の源は自分の作品なのか、それとも別なものなのかと、さらに健康もすぐれずにいたという。鎌倉や鵠沼と聞くと自然豊かな、新緑の緑を表現する場合や碧い海と連なる同じくあおい空を表現する場合には、組み合わせや、グラデーションまで考えると数え切れないわくわくする空間を想像し、そんな色合いが豊富な世界・暮らし向きを勝手に考えてしまうが、実はそうでなかった芥川の白黒の濃淡の世界が支配していたのだろうと想った。

朗読を拝聴し、自らは書かれた文字を目線で追う作業の代りに(といより軽減し)、余裕を持って色とは別の次元の世界の探索、つまり書き手の気持ち、意図、精神状況、心理状態等々を想像・推測出来ると信じている。<しろ>は人の話していることは分かっている。しかし、人は<しろ>の言葉は分かっていないという。「白」では精々茶色い世界までしか覗けず、それでも裕福だと思い詰めている。<しろ>が何とか自分の家に戻って来るが外観が黒く汚れているので、坊ちゃん・お嬢ちゃんには分かってもらえず、手荒く・ぞんざいに扱われてしまう状況に落ち込んでしまった。

よく、漱石の話で出てくる I love you を月が綺麗ですねと訳せる心持と、どうしても引用させて頂きたいのだが、芥川と結婚が決まっていた文はお相手のお名前は聞かれても言い出せずに、そっと羅生門の冊子を差し上げたという逸話を最近知ることになって、芥川も文さん位のある種の心持の余裕があればもっと長い結婚生活をおくれたのではないかと思った次第です。