任されたカメラマン

令和五年六月中旬、何気なく目線を落としていたTV番組

なにやら主役は50ミリのレンズだと聞こえてきた。
50ミリのレンズは周辺の歪みが少ない 広角レンズは嫌い ロケも嫌い・映らないやじ馬が場を壊す ともさらに聞こえてきた。
映画か、何か撮影の話だなと思って、変えた自分の視線はそのTV画面に これから暫くの間、くぎ付けになって行く。

補正光学、映像の歪み補正を行うデジタルソフト技術などとんでもない 足の短い三脚が似合う低い目線の撮影用カメラ、普通の監督目線は上から目線で、下を見下ろす角度となり不自然であるという厳しい主張をお持ちのようだ。

画面は変って、
小津監督の白黒の時代もの、登場した男優さんは若い笠智衆。
ある映画のシーン、固定された画郭で動くものが三体、
立ち上る香取線香の煙、男優の喉ぼとけ(喋らずとも空唾を飲んで、動く)、
背景をゆっくり左から右へゆく船。
たったそれだけという感じではあるが、ロケも嫌い、それも普通は取り囲んでくれるファンを大事にと思うが、そうではない親分と想っている監督の意図する映像をとらえた50㎜のレンズをじっと操っているカメラマンがいることを忘れてはいけない。

ゆったりとした世界だが時の歩みは感じる、決して日本人が静寂で物静かだという事を表現したいとかではないであろう。文明開化で明治時代になると諸外国、特にイギリス、仏、独、米から日本国が西洋文化を急いで学ぶために人を招致したり、人伝に日本の魅力を聴いて訪れた人達の一人に、イザベラバード女氏がいて、残した旅行記をみると、日本の地方の山村を巡り歩いて旅をして残した日記にはまだまだ江戸の臭いが残る山村の夜の民衆の生活が描かれているが、意外と日本人のざわついた表現が各所に記されている。

この時代では昨今のアナログ、デジタルという堅苦しい説明などが不要な白黒の銀塩フィルムをとことん追求したもので、映像が生のまま(現代のデジタル技術であるような歪処理も出来ない)。ただフィルムの前のレンズを気に入るように使いこなすことで、監督の出来がきまるようだ。

白黒映画の小津安二郎監督のカメラ助手を十五年、カメラマンとして十五年以上、それ以降は任されたカメラマンとして監督が亡くなるまで尽くしたそうで、それが出来て涙を流している。

任されたカメラマンとは
任すよと自信をもって託す側の監督との間に古めかしい表現だが阿吽の関係がある。一般論として上司、リーダ、経営上級者とは互いに信頼と自信があるはずで、後になってこんなはずではなかったと変な涙を流されても困惑するだけだ。任されたカメラマンはすすり泣きするような、こみ上げるてくる涙を流すまいと堪えていた。

今時、嗚咽をこらえる程までに親分と子分、上司と部下、先生と教え子、マイスターと弟子といった関係が築かれるのか、任されたカメラマンの持つ自信は決して、独立して親分から離れず(自分が新監督としてはならない)あくまで影武者カメラマンに徹していたことであった。

強みの定量化

バックアップ用の古いフォルダーの中に13年前に作成した資料を見つけた。当時某省庁の私的勉強会向けに作成したものだった。簡単にいうと日本経済の強み、企業の強み、団体の強み、ひいては個人個人の強みを一気に定量化できないか、定量化しようという気持ちだった。

先ず、強みの要素を3つ取り上げ、これらを軸として定量化し様とする流れで資料を作った(当時)。(創る)ビジョンの数、行動の早さ、それから継続性の3つの要素を3軸として、可視化できるようなものだった。

今では、innovation, speed, sustainability という英語表記の方が受け入れやすそうだ。注意点としては結果として強くなった状況と”強み”は異なったもので分ける必要があることだ。また、強みとなりそうな背景、環境等のお国性、民族性、文化は2次的要因として考え、これらの環境要因は常に変動し固定的なものではないことを指摘していた。

本意は当時、日本の諸問題・課題を解決するための科学技術政策を考えて行こうとするものであった。現在でも課題は変わらないが、2次的要因(財政状況、少子高齢化、所得が成長していないなど)は大きく変動していることに留意しなければいけない。そのような資料の中で、自分では忘れていたが米国半導体大手企業の経営者が以下のようなコメントをされていたのを引用していた。

“I am constantly challenged to match with the best of Japanese competitors and the best of customers.” by Intel Executive Manager. (2013 July 30、NHK 3ch)

”日本で、最良のお客様と最良の競争相手に恵まれて、常に期待に応えられるよう挑戦して来た。”という意味合いだが、これはベンチマーキングや顧客の大切さを示している。

今後も改訂版強みの定量化に取り組んでいきたい。

 

Globalization 0425 待ちのモード

何か行動する時、心にやりたいという気持ちがあっても、自分から進めない。そんな姿が日本を支配していると昨日感じた。

本当は何か成し遂げたいと気持ちがあれば、自分から進むべき方向やとりあえずどんな行動を取るかを真っ先に考える。この判断と行動の差が、日本のglobalizationを遅々としたものにしていると感じたのである。

昨日業界の展示会が始まって、国際学会も併設されているので海外の訪問者がちらちらと見かけられた。彼らはブースに立ち寄って必ず話しかける。こちらも、welcome to our booth 程度の挨拶をする。彼らの積極性を感じる場面である。

日本の訪問者は知らないうちにテーブルに置いてある資料を持って行ってくれるが、同じ日本語でコミュニケーションが取れるのに、いそいそしい感じがある。もちろん、立ち話になる方々も多いのだが、待ちのモードというか、声をかけられたら応対する姿勢が強い様だ。

昨日は業界のNPO組織で支援する立場であったが、こちらでも、最近知り合ったばかりの海外の方が素晴らしいレポートを提供してくれて、レポートをブースで配布してくれという依頼をして来たのだ。その資料が展示会の会期に間にあって、ホットしていた矢先、併設の国際学会に出席されている方がブースに立ち寄られ、その資料の提供者を知っているとか、更に知り合いだという方も来られ、吃驚した。世界は狭い。

声をかけられるのを待っているモードだとglobalizationから取り残されてしまう。知らなければ、声もかけてもらえない。まず、声をかけてもらうだけの発信を自らしなければならない。英語や専門知識以前に、待ちのモードは自分をglobalizationの潮流から遠ざけてしまっている。

Globalization 1230

ベトナムは国内総生産が年率7-8%と大きく、さらに急速に人口が増加しているという。

それで、海外の企業がベトナムへ急速に進出していることもあり、高度教育を受けた人材の要求が増えているという。10年以上前からオーストラリアの大学がベトナムへ進出し、高度教育人材育成に支援して来たそうだ。実際、ベトナムの若者で大学進学を希望している人数のうち限られた割合の意欲的な若者しか大学へ進学出来ないそうだ。

そこで、国でなく大企業が人材育成の為に大学を設立し、その大学教育システムを従来からベトナムへ進出していたオーストラリアの大学が支援するという。(2011年12月30日早朝CNN番組より)

こういった教育人材育成モデルは、ベトナムに限定されず、あちこちで普及して欲しいと考える。人材が必要なのは企業であり、国もしかり。その企業は産業活動を上手く行える環境を自ら形成し、所得の拡大、租税負担をする。凄い貢献と思う。それを、一私立大学や、独立法人格の国に任せっぱなしにしないで、自らも大学経営をして人材を育成する企業活動をしているモデルは面白そうだ。

これこそ、自国内の市場に留まらず、世界市場への挑戦をして行くGlobalizationの流れだろう。その人材育成は画一的なものでなく、それぞれ役割の異なる環境で、異なったglobal人材育成が行われて当然であろう。

大学は基本である教育、研究システムで世界に通用するcore competenceを持たなければ生き延びることは難しそうだ。単に自国の人材を自国の為に育成するだけのモデルは限界に来ており、このオーストラリアの大学のように海外へ出て、その海外の国の人材育成支援を進めて人材育成のネットワークを創る。そういった先進的な教育経営がGlobalizationを進める際のカギになる事は間違いないと思う。

永禄年間小田原北條氏康時代江戸之圖

年末で重い腰でも上げた訳ではないが、ジャンク部屋の机の周りの書類、資料を整理していたら忘れていた1枚の地図が出て来た。この古地図は私が気に入っているもので、徳川氏が江戸へ移って来た以前の古地図で標題のように名付けられている。

これは記憶が定かでないが、ある古本を購入した時にページに挟んであったものである。江戸時代以前の永禄年間の江戸周辺のもので、居城は徳川氏でなく、大田氏とある。ただ古いものという訳で私が気に入っているのではなく、徳川氏以前の江戸の地は土木工事がされておらず、浅瀬、湿地が相当奥まで入り込んでいる様子が窺えるので、気に入っているのである。さらに海の入り江が奥まで入り込んでいるということは、人馬の移動可能な、鎌倉街道、古代の道の面影を残していると思われる街道が小さな村々を結んだ線で、かなり山の手側にこの永禄の地図に示されているのである。

それは、ざっと言うと今の明治通り周辺を、南品川、北品川、三田村、大根ムラ、上渋谷、千駄谷、山中ムラ、冨塚ムラ、落合、僧司谷村、板バシ、王子ムラ、瀧川ムラ、原塚、石濱、須田ムラ、木下川と連ねられている。

綺麗にサイトにまとめた方がいる。その方の地名は現在名称で表記されている。

http://www.mars.dti.ne.jp/~opaku/hakken/02/xmps_choroku.html

河川についてみると、江戸時代の運河、人工河川建設工事以前の目黒川、渋谷川、神田川、石神井川がはっきりと示されていて、市谷ムラ、小日向ムラ辺りまで入り江が入り込み、現地名でも、市谷船河原町、小日向手前の伝通院前の安藤坂(網干坂、漁の網を干した)など、水、海に関わる名称が見受けられる。

そこまで入り江が入り込んでいるということは、洪水や津波を避ける為に、古代から人が安全と住処を構えたであろう土地は、当然標高の高い処(神社仏閣は20メートル以上に多い)にあるはずである。2011年の311の東日本大震災、大津波の教訓からも、昔からの言い伝えは意味のあったことで、裏を返せば、今まで使えなかった土地を無理して開墾し、自然に反旗を翻していた事を、我々は忘れてしまっていたのである。

師走

本当に師が走る季節なのでしょうか。歳が終わる時節と見れば、歳末。毎月の晦日の締めとみれば大晦日。

昨日、近在(東京都北区田端界隈)では、多くの団体が年末の餅つき大会を行っていたようです。あまりにも”年の瀬”になってしまって忙しいと、餅つき大会などしていられないようで、12月11日、第2日曜日に行われるようになってきたようです。

一言に餅つきといっても、各家家が出来る環境にありませんが、地域活動でやって頂き、少しでも時節の雰囲気を堪能出来れば幸いかもしれません。多くの人が集まって餅つきを行う場所を確保する事もそう簡単ではないでしょう。

幸い昨日の餅つきは、近くの神社の境内で毎年行われている行事で、朝から風も無く穏やかな天候に恵まれ、空は青空、朝陽を横から受けた色付いた銀杏の木が立ち並ぶ、立派な境内です。本当に季節を感じて生きる事に感謝でもしなければいけない日だったようです。ちょっと携帯端末で撮った銀杏を堪能下さい。

東京都北区田端、上田端八幡神社境内1

上田端八幡神社境内2

貞観地震 国家崩壊の序章

2011年5月18日、読売新聞朝刊に-貞観地震 国家崩壊の序章-という記事が掲載されていた。 平安朝9世紀の国内、30-40年くらいの期間で起こった自然災害で国家が衰退したようだ。当時の自然災害が下記のように年代順に表にされている。

9世紀後半の主な天災 (2011年5月18日、読売新聞朝刊掲載-貞観地震 国家崩壊の序章)

①850年 出羽(山形)地震 最上川を逆流した津波が国府に迫る。 1992  
②863年 越中・越後(宮山・新潟)地震圧死者多数、海の小島が壊滅。 2005  
③864―66年 富士山が噴火。溶岩流で青木ケ原樹海できる。 2006-2008  
④864年 阿蘇山(熊本県)が噴火、3年後にも噴火。 2006  
⑥868年 播磨(兵庫)地震 官舎や寺がことごとく倒壊。 2010  
⑥869年 貞観地震 2011 東日本大震災、 原発汚染
⑦871年 鳥海山(秋田・山形県)が噴火。 2013  
⑧874年 開聞岳(鹿児島県)が噴火。 2016  
⑨878年 関東地震 相模、武蔵で大被害。平安京でも揺れを感知。 2020  
⑩880年 出雲(島根)地震 神社や仏閣が倒壊。 2022  
⑪881年 平安京(京都)地震 翌年まで余震続く。 2023  
⑫887年 西日本地震 平安京ほか各地で大被害、大阪湾に津波襲来。南海・東南海連動地震の可能性。 2029  
⑬888年 八ヶ岳(長野・山梨県)が噴火。 2030  
       

それで日本人が神仏に縋る強い理由が出来たのかもしれませんし、当時の国家支配層の天皇崇拝が衰退し国難へ向かって行ったかは分りませんが、平家、源氏と武士層が興隆して来たのだと思います。所謂、支配層の大きな変革と社会の仕組みが大きく変わって来たことは間違いないと思われます。

この年表に最近の日本の自然災害を今回の東日本大震災を西暦869年の貞観地震と符合させ10年くらい前から当てはめると面白いかもしれません。阪神淡路大震災、三宅島噴火、北海道有珠山噴火、島原普賢岳噴火など思い出すと色々と出てきます。貞観地震の約10年後で関東大震災なんか見えてきますね。いきなり東海・南海地震で浜岡原発はないと思いますが。

1983 日本海中部地震

1986  伊豆大島噴火(前後に伊豆半島地震)

1990  島原普賢岳噴火

1993 奥尻島地震

1995 阪神淡路震災

2000 三宅島噴火

2000  北海道有珠山噴火

2004 中越地震

2007 中越沖地震

2008 岩手宮城内陸地震

2011 霧島(新然岳)噴火

2011  東日本大震災

2011年からさかのぼって、噴火、地震を書き出すとかなりあることが分りました。日本にとって普通の出来事なのかもしれませんが、1000年に1度の30-40年期間と見れば、やはり非常時です。最近の調査ではもう1000年前の弥生時代にも東日本で大きな災害があったことが示され、記録が無いにしても時代を変えた可能性は否定できません。

さて、このような傾向で、今後将来に起こりうる事象全てを正確に予測することは出来ないにしても貞観地震を基準にして、同じような時間スケールで災害が起き続けるとすると、現代でも2030年くらいまでのスパンを見ないといけないようです。

それで、日本が本当に衰退するかどうかは、当時と異なって人為的構築物が関与し、被害レベルを増大させる可能が大きく、防災対策が急務であることは明らかです。また、諸外国との連携も中世とは違って、衰退した国をやすやすと強国が支配するという行動は取れないと思います。

こんな歴史的感覚と中世では想像だに出来ない人為的事故の可能性も考慮した新しい社会インフラとデシジョンの仕組みを創り出さなければならない事は衆知の処です。しかし、具体的なプランはまだ議論されず、なんとなく時が流れて落ち着くという安易な気持ちと態度を取ってはならないことも明らかです。

私的個人の感覚では、分散デシジョン(行政区などのレイヤーも極力少なくする)とそれを支える予算権限の分散が必要であることは、一極集中ではこれまでの社会が立ち行かなくなっていうことで、明白と思います。

荒崎にて

志賀直哉の城崎にてではなく、三浦の荒崎にて。

以前長井か、荒崎の船宿から沖合に釣り船を貸し切って光ものなどを狙って楽しんでいたが、実は荒崎の港や岩場をゆっくりと見て回ったことはななかった。幸運なことに、2月20日に知り合いに誘われて、荒崎を再度訪れ散策をすることが出来た。

荒崎の由来、謂れなど多くの処に説明されているので、ここでまた素人の私が触れることは避けておく。ただ、曇天のなか、自然の草木を撮るはずだった目的から反れて、やはり堅いものを中心にデジカメのシャッターを切ってしまった。数千万年前から堆積した地層がほぼ90度まで傾いてしまった光景があちこちで見られた。

これは先ずバスを降りてすぐ目の前の小さな磯の港に、わかめ漁から戻って来た小舟からわかめを下している光景である。こんな素朴な労働の姿は何とも言えない。向こうには吊るして干してあるわかめが見える。

山間を上って下って、また海岸の岩場に出る。それほどの距離ではないが、視界が開けると世界が変わる。白い層と黒い地層がくっきりと帯になって荒々しい磯を少しは宥めるように織なしてくれる感じがする。

その先を行くと、洞穴、洞窟がある。以前は歩いて通れたそうであるが、今は崩れる危険があるので立ち入りは禁止されており海側に造られた遊歩道を行くように指図されている。海岸段丘があって約1.5mくらいであろうが、大正12年の関東大地震で隆起したそうである。

この日は散策する人も少なく、シーズンオフで港の海産物売り場の建物も改装中で、美味いひものなどを期待していたがゲット出来なかった。それより、餌が豊富な港の周りで、ピーヒョロ、ピーヒョロと鳶(とんび)が都会のカラスのごとく群れをなして空中に浮かんでいた。風が強いと鳶自身は羽ばたかなくても浮いて飛んでいられる。時折漁船の落し物の餌を狙って急降下。鳶同士が、人のように争いをしている。

時には自然に触れ、磯の風に当り、磯の香りに漬かり、ランチでは地元のお店で海産物づくしを頂き、海の幸に感謝した。

*交通は京急三崎口より、長井・荒崎行きバスが1時間に2本程度ある。逗子駅からも長井行きバスがある。

某政治家の人物論講演

11月7日午後、某大学の講演会へ参加した。演者は某政治家、今日はあまり時事論についてコメントするより、人、人物論に的を当てた話をするようにとお膳立てはあった。

しかし、時の政治家が一番ホットな時事論に言及しないとは、聴講者に失礼になる。実際、時事論、政治論と深く関わる人の生き方のプリンシプル、信念へと話題は流れた。

某政治家は政治に強さと優しさを持ち、人の心の痛みが分る政治家になることを目指してきたという。これは言葉を変えると、自分と言う人物の生き方、プリンシプルを主張していると私は受け止めた。

1年前日本は、政権交代はしたが、社会を仕切っている仕組み(ルール)自身までは変わっておらず、手がつけられていないという。したがって、与野党交代があっても、国民は何が変わったのか実感出来ないでいる。

もうひとつ、この政治家さんは、現場第一主義、すなわち自分で、現場で何が起きているのかを確認することを信念としているという。最近の円高、領土問題でも、日本の国民はおとなしすぎるという。政治家もそうだが、そういう事態を目の当たりにして、国民は怒りや強い意志を示すこともしない。例えば、現在の円高状況でも、ポジティブに考えれば、日本が有する資産を海外投資すれば、円高のメリットを享受できる。

さて、大学でこのような話をしても、学生さんは就活が気になるという。最近では大学入学したばかりでも、色々な個人情報データベースが業界では作られ、学生の選別に拍車をかけるようなことがされているという。大学3年生になると勉学に勤しむどころか、就活に多くの時間を割かなければならない。

そこで、某政治家の主張は、大学は知識を身につけるところ、社会に出て独り立ち出来る生活の術を身につけることだという。したがって、それが出来るのであれば、他の選択肢として大学に行く必要もなく、専門学校で資格を取った方がいいと。大学では実のある卒業試験を課し、通った学生だけを卒業とし、ダメだったものは在籍しただけとすることも一案と言う意見を述べられていた。

何も、就活を支援する大学や当人の学生だけでなく、受け入れる企業自体も変革すべきで、適材適所で人材育成もし、処遇する経営理念なども必要ではないかと感じた。学業の学生時代と社会に組み込まれ仕事を始める間にモラトリアム(時間)を設けたら良いかもしれないと話されていた。インターンシップなどを複数経験して自分で適職を見つけることだろう。私なども前から、3月まではしっかりと学業を達成し卒業し、秋の9月ごろから就職し、その間の半年は、某政治家の言及されたモラトリアムの期間としたら、社会の仕組みも余裕が出てくるのではないかと考えていた。

その政治家さんは3人の子供を育て上げ、成人となり、独り立ち出来る資格だけは身に付けたそうである。これは政治家でなく、親としての信念であろう。最後に、某政治家さんは学生に対して、以下の2点を学生時代にやって欲しいと講演会を閉じた。

  • 視野を広げること。五感を駆使し、イマジネーションを高める。
  • 学生としての勉学、知識を身につけること。(社会に出て知恵へと変化する)

川越祭り

実は昨年平成21年10月17日に知人と川越祭りに出かけ、山車、氷川神社からの古式豊かな祭り行列を楽しんだ。

しかし、撮影していたデジカメの調子が悪く、収めていたシーンが幾つか失われ、メモリーチップに残されていた僅かな枚数だけで、失望していた。

昨日、この10月9-11日の連休中に家内が旅行に出かけ撮って来たデジカメの写真を整理していたら、ちょうど1年前の川越祭りのダメだったと思っていた写真が生き残っていたことを発見した。普通今のデジカメは沢山の枚数を撮影するのでメモリーチップを差し込んで使うのだが、それをパソコンへ移動させファイルで整理する。メモリーチップを差し込まなくとも、枚数は限定されるがデジカメ本体の内部メモリーに撮影した写真が記録される仕組みになっていて、メモリーチップが差し込まれている時は、そのチップが優先され記録される。

昨年の出来ごと、事件は、そのメモリーチップの接触が悪く、記録されなかったと勘違いしていた写真が内部メモリーに保存されていたのである。やれやれと思った。今日は10月14日、約1年前のものが30分前に発見となった訳です。

後は写真集的説明です。

色鮮やかな行列です

赤い面のテングさんも列に、でも1枚刃の下駄でないですね

白馬も牽かれています

立派な山車が厳かに進んでいます