事の起りは、令和7年元旦の早朝のことで、YouTubeで3代目桂三木助氏の芝浜という有名な落語を聞いて、少し庶民の気持ちを晴れやかにしてくれていて、間をおいて観始めたTV番組である。それはN放送の何とか徳島というタイトルで既に始まっていた。見始めると直ぐに、徳島県の四国お遍路第11番目の寺が紹介され始めていた。
なぜかこんなことを思い出し、大学4年の卒業式を済ませ、大学院の入学式をまじかに控えた約50年前のサイクリング四国1周(約1000㎞)の初日に東京有明ターミナルの徳島行きのフェリーに夕刻にサイクリング車と乗船した。翌日昼間に小松島港に着き、走り始めて当時四国は未舗装の幹線路も多く、直ぐにタイヤがパンクして、修理をはじめていた。こんな小さな釘が刺さっていたのだ。これを凶と見るか吉と考える暇もなく、また自転車こぎ始めて、今晩泊るところは確か板野町のお遍路さんに組み込まれたお寺だと言う事でひたすらに、こいで初日の宿に到着した。
当時は輪行の友は縮尺5万分の一の地図で、それを自分が踏破するルートに沿って買い集めておくことと、宿は主にユースホステルだったので、その小冊子(電話番号が記載)の2つであった。
そのTV番組では、時間に余裕のある方は四国霊場88カ所を徒歩でいくという、次ぎの霊場迄7時間も掛けて歩き、途中で難儀している高齢者に遭遇すれば手を差し伸べ、歩を緩め同行するという素晴らしい紹介をされて、さらに50年前の当時とは違い、綺麗でモダンな宿坊も紹介されていて、異国からも多くの参拝者が来られ、東京京都大阪と言ったシティ派とは違う日本文化を享受している方々を取り上げていた。
私の50年前の様子は、お寺さんの宿坊3か所、「徳島、四万十川沿いの中村という町にあったお寺さん、そして室戸岬の崖の上にあるお寺さん」で、後はユ-スホステル3軒と港町の民宿(四国の最西端の佐田岬手前の三崎町)での1泊であった。私の輪行は7日間で約1000kmの距離で、1日で100㎞、長いと150㎞位迄、半日で80㎞程度の走行。道路の路面状態(未舗装で砂利道、上り下り、山道とか)や天候に大きく依存した。平地では雨降り、標高300mまで上がると雪にも、四国の松山で、4月早々で遭遇するという天候だった。
N放送の番組でフォーカスしていたのは、確かに50年前もいらした各お寺さんで戴く御朱印帳め、急ぎの為タクシーを利用する方々ではなく、日本文化をゆっくりと体験してみようという趣きにあった。
私は、なぜ四国88カ所の霊場なのかと言う数字の8に惹かれた、88である理由、四国にはもっと沢山のお寺さんはあるのだが、、、 では、AI関係のネット調査を行うと、 即座に次の囲みに記した解説を教えてくれた。
四国八十八箇所のお遍路さんが88箇所である理由は、弘法大師(空海)に由来するとされています。空海は四国で修行し、多くの寺を開いたり、修行の場所として選定したりしたと言われています。彼が修行した場所を巡ることで、心の修行や成長を象徴する旅とされています。 (中略) 88は仏教の修行階梯を象徴する数字とされ、それに基づいて88箇所が選ばれたとされています。
中国では⑧はいい数字で、吉だそうだ。北京オリンピックは暑い最中の2008年8月8日を開会式にリザーブするぐらいの国家行事としたぐらいであった。
これは未だ公に紹介したことはないのだが、私が幼稚園児の歳に親以外で初めてもらったお年玉が昭和33-4年の頃で真新しい10円硬貨で80円だったこと、もし、くれた祖父祖母が、8が縁起の良い事を知っていて、お年玉としてくれたのかと大人になってから長年の疑問がくすぶっていた。数年が経ち小学校の低学年の時の祖父祖母からのお年玉は金ぴかの100円玉で2-300円だったと記憶しています。今、金が1gで1万数千円もするので、当時の稲穂が彫られている100円硬貨は銀貨と言われるくらいで銀の含有量が多く、余談ですが現在の価値は”300円”超えることが計算でわかります。
そろそろ終わりにしたいのだが、落語で芝浜という有名な演題の事も疑問があって、魚屋の主が江戸の芝浜(現、品川から浜松町あたりの海岸)で皮の財布をひろって、中身の銭の総額が82両という大金であったことを思い出し、⑧にこだわっている私の気持ちが、なぜ芝浜で拾った銀の粒が82両分(小判82枚でないのだ)なのかということも、ネット検索したところ、落ちがありまして、噺家によって、財布の中身は50両や42両という具合に変わっているそうで、ちょっとした額を拾ったのではなく、江戸の当時の大金であること(1年以上も暮らせる)、番所にも届けず隠しもっていて、庶民がビクビクしながら、何かと周囲を気遣って暮らし通せる金額の範囲であれば良かったそうである。