今年福男の還暦頃の呟き

日本の時刻制度”橋本万平著(塙書房;昭和四十一年九月二十日発行)という古本を手にした時期も忘れ、ちょっとは役立った話の紹介をしたい。

知り合いの方が「お八つ」とはのお話が、「六つ」というと午前の六時ころか、十八時ころかが分からないので、午前は「明け六つ」で、午後は「暮れ六つ」と言った室町時代のころから日の出から日の入りを六等分する不定時法が定着した。ひるの「八つ」はだいたい十四時ころで、その頃間食をしたので「おやつ」というのだそうだ。<今風にいうと“おやつ”は大体午後三時頃に、腹が減って来た頃に口にする、お菓子みたいな食べ物のこと。>
私は横浜生まれで、その後神奈川県の中部、茅ケ崎で育った私の記憶では、友人の実家(大農家)ではおやつを“おこじゅ“と呼んでいた。それはネットなどがない昭和四十年前後の頃の話。今、ネットを紐解くと、”おこじゅー“は神奈川や多摩地域の”おやつ“のことの方言と説明されている。
 さて、知り合いの薀蓄では旧暦の時間の分割の仕方が西洋風とは異なり、日本では不定時方法によると、昼の八つは今の午後二時頃になるそうだが、今は定時の午後三時頃に口にするちょっとした食べ物が“おやつ”になってしまっている。さらに続けると、今我々は一日に三食食事を取っているが、その昔は日本も西洋も朝、夕の二食だったと聞いている。そんなことで、身体を使う仕事をしている人が殆んどだった昔はちょうど腹が減る頃に何かを食したいことになる。所謂、おやつ・間食で、恐らくそれが昼食(ランチ)となり、三食制へと変わっていたのではないかと推測出来るのである。現代人は、朝、昼、晩と三食も食らう人種となってしまっても、さらにおやつと称して午後三時頃何かお菓子・フルーツ・最近では見栄えのいいスウィーツみたいなものをしっかり食べるようになってしまっている。昼食を食べることが本来の“おやつ“とするとそれで十分なはずである。
武士の家計簿に、暦が太陽暦になったとき、江戸時代の人が大混乱を起こしているさまが書かれているそうだ。正月のいつに餅つきをするのかさえ分からなくなっている。特に武家には年中行事があって、それがいつになったかが分からなくなり「鮒の藻刈りに酔いたる体」。鮒が住処を失って息も絶え絶えになってしまったという感想を述べているそうだ。武士の家計簿に大混乱と記されていてそれだけ、一大社会変革でもあったようだ。太陽暦との一番の誤りは七夕だと思います。今の七月初めは梅雨で、彦星と織姫が澄み通った夜空で出会い事は稀で、旧暦の七月七日を新暦で言うとだいたい1カ月以上ずれて八月十五日位になる。そうすれば真夏で夜空も期待できる訳ですから。次に、新年の挨拶で新春をお喜び申し上げますなんて、何で寒い最中に言うのかという事も、旧暦の正月は、新暦の二月中旬前になるので、そろそろ季節代りを期待しての挨拶がぴったりになる。
現代人には、頭の中には概念として、旧暦(太陰暦)と今我々がお世話になっている新暦・太陽暦があることを知っている。しかし、人が年間の四季を通じて、肌身で感じる日常の生活では、十二ヵ月制の太陽暦と季節感や二十四節気との間に、実は乖離があることを感じている。地軸が傾いているので、地球上の何処に住んでいても、季節によって昼夜の長さが刻々と変わるという生活は避けられないので、便宜上不定時法が浸透したのだと思っている。今、我々は時間を計る仕組みやその機械装置のことを“とけい”と呼んでいるが、古くは水が滴る量をもとに時を見ていたので、それは漏刻(水時計)と呼ばれていた。手元の古本には陽とともに暮して来た人の習慣で、昼間の明るさ(猫時計;猫の目の瞳の細さを便宜的に利用)や棒を立てて、その蔭の長さから時を知る方法が浸透している事も説明されている。その棒は長さが二尺又は四尺あって、蔭の長さや方向で冬至の日まできちんと読みとっていて、“土圭”と呼ばれていたそうだ。それが今の時計という言葉に変化したようだ。
現代最新物理では、重力によって時の刻みも影響を受けてしまう事(アインシュタインの理論)や人知を遥かに超えた精度を持つ時間の計測方法が確立されてはいるが、<最近、一台が5億円もする>超精密な光格子時間計測器・時計も売り出されており、凄い世の中になってきたように思われるが、実際五億円もする時計はインターネットが高速になってきているという我々のニーズ要求がそうさせているのだ。所詮我々の生活は一息や一歩という尺度ですむ事が多く、農耕は太陽と季節、漁師は潮の流れ・満ち引きを正確に理解する事で、糧を失わぬよう叡智を凝らしてきた。所謂、腹時計の方が有用な時もあることを忘れてはいけないようだ。
2013 New Yearとして、2013年、平成二十五年巳年も恙なく、穏やかに新年を迎えることが出来ました。あまり、過ぎ去った昨年を振り返ることなく、新年の歩みを確実に進めて行きたいと思います。近在の八幡様へ初詣に行き、神社暦を頂いたところ、新暦・旧暦が合せて記載されておりました。旧暦の正月は新暦の二月十日です、という事は新暦の正月は旧暦でまだ十一月二十日と有ります。暦の定め具合によって正月を祝う気持ちは変わりませんが、世間の風習は旧暦起源で行われ、季節感を堪能出来ます。東アジア起源と思われる旧暦の行事は我々が農耕民族であったことの証である収穫を確実にする(生きて行く為に必要な糧を得る)季節毎に行うべき活動が集約されているものです。これらは伝統的なイノベーションであることに間違いありません。
平成二十五年の今年は私自身巳年の還暦となり、神社でお目にかかった近在の方も同じ干支との事、年齢的には二周り上の親の世代の方でした。そういえば、祖母も巳年、親の更に二周り上の世代でした。八十台で亡くなりましたが、存命であれば百八歳。先日、日本の百十五歳の男性の方が世界一の長寿だとニュースで報道されていましたが、人の運命によっては、まだまだ暦上で歩みを進め、干支も廻り続けておられます。IT社会になったと言えども、”社会的収穫”を確実にする”IT暦”や節目毎の行動を示唆する”IT風習”は未だ我々自身で提案出来ておらず、身に付いたとも言えない状況です。いつか近い将来、そんなITイノベーションがオープンに共有出来る時代が来るはずです。

2013年元旦初夢前に、夢を語る。

新春雑感2025

 事の起りは、令和7年元旦の早朝のことで、YouTubeで3代目桂三木助氏の芝浜という有名な落語を聞いて、少し庶民の気持ちを晴れやかにしてくれていて、間をおいて観始めたTV番組である。それはN放送の何とか徳島というタイトルで既に始まっていた。見始めると直ぐに、徳島県の四国お遍路第11番目の寺が紹介され始めていた。
  なぜかこんなことを思い出し、大学4年の卒業式を済ませ、大学院の入学式をまじかに控えた約50年前のサイクリング四国1周(約1000㎞)の初日に東京有明ターミナルの徳島行きのフェリーに夕刻にサイクリング車と乗船した。翌日昼間に小松島港に着き、走り始めて当時四国は未舗装の幹線路も多く、直ぐにタイヤがパンクして、修理をはじめていた。こんな小さな釘が刺さっていたのだ。これを凶と見るか吉と考える暇もなく、また自転車こぎ始めて、今晩泊るところは確か板野町のお遍路さんに組み込まれたお寺だと言う事でひたすらに、こいで初日の宿に到着した。
当時は輪行の友は縮尺5万分の一の地図で、それを自分が踏破するルートに沿って買い集めておくことと、宿は主にユースホステルだったので、その小冊子(電話番号が記載)の2つであった。
 そのTV番組では、時間に余裕のある方は四国霊場88カ所を徒歩でいくという、次ぎの霊場迄7時間も掛けて歩き、途中で難儀している高齢者に遭遇すれば手を差し伸べ、歩を緩め同行するという素晴らしい紹介をされて、さらに50年前の当時とは違い、綺麗でモダンな宿坊も紹介されていて、異国からも多くの参拝者が来られ、東京京都大阪と言ったシティ派とは違う日本文化を享受している方々を取り上げていた。
 私の50年前の様子は、お寺さんの宿坊3か所、「徳島、四万十川沿いの中村という町にあったお寺さん、そして室戸岬の崖の上にあるお寺さん」で、後はユ-スホステル3軒と港町の民宿(四国の最西端の佐田岬手前の三崎町)での1泊であった。私の輪行は7日間で約1000kmの距離で、1日で100㎞、長いと150㎞位迄、半日で80㎞程度の走行。道路の路面状態(未舗装で砂利道、上り下り、山道とか)や天候に大きく依存した。平地では雨降り、標高300mまで上がると雪にも、四国の松山で、4月早々で遭遇するという天候だった。
 N放送の番組でフォーカスしていたのは、確かに50年前もいらした各お寺さんで戴く御朱印帳め、急ぎの為タクシーを利用する方々ではなく、日本文化をゆっくりと体験してみようという趣きにあった。

私は、なぜ四国88カ所の霊場なのかと言う数字の8に惹かれた、88である理由、四国にはもっと沢山のお寺さんはあるのだが、、、 では、AI関係のネット調査を行うと、 即座に次の囲みに記した解説を教えてくれた。

四国八十八箇所のお遍路さんが88箇所である理由は、弘法大師(空海)に由来するとされています。空海は四国で修行し、多くの寺を開いたり、修行の場所として選定したりしたと言われています。彼が修行した場所を巡ることで、心の修行や成長を象徴する旅とされています。 (中略) 88は仏教の修行階梯を象徴する数字とされ、それに基づいて88箇所が選ばれたとされています。

 中国では⑧はいい数字で、吉だそうだ。北京オリンピックは暑い最中の2008年8月8日を開会式にリザーブするぐらいの国家行事としたぐらいであった。
 これは未だ公に紹介したことはないのだが、私が幼稚園児の歳に親以外で初めてもらったお年玉が昭和33-4年の頃で真新しい10円硬貨で80円だったこと、もし、くれた祖父祖母が、8が縁起の良い事を知っていて、お年玉としてくれたのかと大人になってから長年の疑問がくすぶっていた。数年が経ち小学校の低学年の時の祖父祖母からのお年玉は金ぴかの100円玉で2-300円だったと記憶しています。今、金が1gで1万数千円もするので、当時の稲穂が彫られている100円硬貨は銀貨と言われるくらいで銀の含有量が多く、余談ですが現在の価値は”300円”超えることが計算でわかります。
 そろそろ終わりにしたいのだが、落語で芝浜という有名な演題の事も疑問があって、魚屋の主が江戸の芝浜(現、品川から浜松町あたりの海岸)で皮の財布をひろって、中身の銭の総額が82両という大金であったことを思い出し、⑧にこだわっている私の気持ちが、なぜ芝浜で拾った銀の粒が82両分(小判82枚でないのだ)なのかということも、ネット検索したところ、落ちがありまして、噺家によって、財布の中身は50両や42両という具合に変わっているそうで、ちょっとした額を拾ったのではなく、江戸の当時の大金であること(1年以上も暮らせる)、番所にも届けず隠しもっていて、庶民がビクビクしながら、何かと周囲を気遣って暮らし通せる金額の範囲であれば良かったそうである。

野中郁次郎氏 ご逝去

野中郁次郎氏が89歳でご逝去されたことを新聞で知った。私は若き頃(今は2025年1月27日、約50年弱前)、半導体業界にいたが、研究分野では特許発明の申請を年に何回することが業務目標の一つに含まれてた。野中先生を知るようになったのは数年して、日本創造学会の集まりに出入りするころで、既に暗黙知を形式知に変換しようと各界・多くの研究者が取り組んでいられた。私自身、暗黙知なる言葉に初めて巡り合い、こういう表現も出来るんだという驚きであった。合掌

歴史・考古学が面白い②


  十月号に引き続き、「歴史・考古学が面白い」を深める為に、特にルーツについて自分の身をあるところに置いて独り言を呟く。十月号で人のルーツについては、どこかに自分に似た人がいる風に少し書き始めたが、今回三つのルーツについて、第一は自分のルーツから、第二は現代人のルーツ、そして第三は縄文人のルーツについて、解説風に呟いてみる。

1. 自分のルーツ・母方と父方
  弥生後期の人骨形態学による再現古代人の顔が母方の祖母(本家は埼玉県鴻巣)・叔父さん(埼玉県在)にそっくりで、これは初期の人骨顔再現法でもこんなにそっくりさんを再現出来るのだという、表現のしようがないくらい驚いた事とこんなに身近な係累で自分の出自が解ってしまう事は驚きを沈めさせてくれた。関東北部の群馬県の榛名山近くと記憶している遺跡からの遺骨を分析・再現した研究成果だという。
もうひとつ、父方についても次の検証があるのだ。2006年の秋、2008年の夏にオリンピック開催の決まっている北京を訪問し、その際で時間が前後するが、日本へ帰る日、知り合いの中国人のお母さんがホテルまで見送りに来て頂いた。背が高く、面長の顔、中国の北部に多い民族を代表するような目も細い。亡くなった叔母さん・父の姉にそっくりだった。父の姉は、四十台で死んだ祖母(本家は埼玉県の戸田)とそっくりだったそうだ。背丈は違うが、面長の顔はそっくり。叔母さんの娘・従兄妹・既に病死は、もっと似ていたような気がした。
北京で企業訪問の日、訪問で行き先が分からず、タクシーがやっと目的地に着いた。降りて若い人にお邪魔すべきビルをタクシーの運転手が聞いた。また、吃驚。その若い人の顔が私の従兄弟・父の弟の息子にそっくり。歳はいとこよりやや若いが、背丈、顔かたちがそっくりだった。北京へ来ているはずは無い。このいとこの顔は私と血の繋がりの無い、伯父さんの連れ合い・伯母さんの系の顔で漢民族とは違い福建・広東系の、私の体験では香港でよく見かけた少し年配のご婦人の顔が伯母のお母さんに非常にそっくりであった、
中国の人口は十三億人、それも単一民族ではなく、南方系、北方系だけでなく、もっと複雑な古来からの民族の集まりが中国をなしてきた。周辺の国々も、南はベトナム(漢字で越と書きます)、朝鮮半島の北・南、昔なんて国境もいい加減、人の往来は戦争や事件で逃げたり、避難したり、貧しさから逃れるために移動してきたはずで、人口1億の日本民族も単一でない。中国、朝鮮半島と似た図式であろう。その証拠に、ちょっと出かければ、人口が十倍だから、知っている人に似た方を見出せる確率が高いのであろうと納得した。
 
二.現代日本人のルーツ
  ここからはDNA研究者の解析結果である。
父系のDNAで表記すると概ね次の四種類、オホーツク人C2・縄文人D1a・長江弥生人O1b2・漢人O2で構成されていて、青森県・東京都・静岡県・徳島県・九州・沖縄県において、全ての県で縄文人が一番多く、その比率は60超から35%で異なる。弥生人と漢人を加えた3DNAの比率は95から80%で主要構成。、各県の特徴として沖縄が縄文人60%超のトップで、九州は弥生人と漢人の合計が60%でオホーツク人が混じる、徳島は九州に比べ弥生人と漢人の合計は50数%で少し小さい、静岡はこれら2つのDNAは60%を少し超え弥生人の%が大きく35%を示している。東日本の東京・青森では縄文人の比率が50%程度に増加して、オホーツク人と弥生人亜種O1b1と表記される長江越人が数%あることを特徴とし、東京と青森の差異は青森の方が縄文人が少し減った分オホーツク人と越人が増えている。東京の方が、縄文人の%が少し大きく、その分オホーツク人と越人が少なく、東日本では東京の縄文人が多いのである。私の個人的興味は、記紀等から東日本で大国であった日高見国の情報が消えている理由などが遺跡の人骨DNA解析で解明される事を期待したい。

三.縄文人のルーツ
DNAのゲノム解析で判明しているタイプはD1aである。
氷河期の三万八千年前に、アフリカを出発した現生ホモサピエンスは、アジア大陸へ、そして日本列島に到達、しかしスフール大陸・オーストラリアまで南下したGrが再度沿岸を北上したGrと途中でアジア大陸内で北上したGrが樺太経由南下して、列島に到達したと考える。これらの南方系Grと北方系Grが混血して縄文人として日本列島内外で活動したと思われる(D1aという男系縄文人DNAの呼称)。  *注 後年十二世紀ごろに北方より北海道に南下したアイヌのDNAはオホーツク人と縄文人固有のD1aの二種から成っており、縄文人の%は80%と非常に大きい。

研究参照 篠田謙一氏 佐賀医科大 *発掘された人骨の歯を中心に解析
           斎藤成也氏 国立遺伝学研究所 *ヤポネシアゲノム研究関連

余談ではあるが、時代的には日本の縄文後期にあたるアイスマンのDNAは詳細に調べられて、wikiに紹介されているが、背丈は160㎝で目は茶系だそうで、現代の我々が思い浮かべる白人系の背が高い人種ではなく、少し西域アジアに見られる人種の様であった。

十月号中の訂正 
アイスマンは五千年前 訂正 五千三百年前

                                      完                    

歴史・考古学が面白い①

 最近の歴史は面白い。文字がなかった先史時代の遺跡や有史時代の遺跡が発掘されて、それらは数多くの最近開発された分析手法とそれらに紐解かれた分析結果を従来になかった社会的見地で、大胆な仮定が昔の姿だったんだという事を、納得させてくれるからだ。私は好きが高じて、所謂2次情報のみで、今回の独り言を呟いている。
 素人歴史家・考古学好き人間なのかもしれない私は、受験で取り組む、特に世界史になるものが当時好きでなかった。ただ時間軸を古きから新しきものだけにした見方と単純に何年にどういう出来事があったとするだけの見方には、なじめず点数も及第点に届かず再試験もやった。
 学生時代と記憶しているが、米国の南部の黒人家庭(アフリカから奴隷として連れてこられた)のルーツを自ら調べようとした本が出版されたころに、種々の科学的手法を適用し、時空を超えて戻ったり進んだりして、暴いて行こうとする姿勢が大胆で面白しろそうだと思った。あとは、サラリーマン時代にアイスマンンという欧州のアルプスの峠越えのルートで5000年前と思われる氷漬けのミイラが見つかり大騒ぎとなった事件を書いた単行本を買ってしまった。普段は古本購入で済ませているのだが、私が新版の単行本を購入してしまう位、衝撃的だった。
先ず自分の数少ない実体験からスタートしたい。子どもの頃の印象や大人になってから地元の社会活動グループを通じての実体験である。縄文貝塚が少し標高のある海から離れたところにあった。都内で古い神社は標高20数メートルに鎮座し、その坂下から縄文時代の幾重にも堆積した牡蛎の貝塚遺跡が見られる。青森・函館の縄文遺跡見学し、結構今の海岸線から離れていると不思議だった。
土器の再現焼成で、古代文化との関わり、組成の化学分析で判明。 以降、考古学は最新の材料の微量分析技術、半導体の微細部解析により進む。
弥生後期の再現古代人の顔が母方の祖母・叔父さん(埼玉県在)にそっくり、関東北部群馬県の榛名山近くと記憶している遺跡の遺骨分析。次に、父方の従兄弟の顔・背丈が非常にそっくりで見知らない方が2007年・オリンピック前の北京に出張で訪れた時に、タクシーから降りた際に街角で見かけた。本当に久しぶりと挨拶をしようとしまう位、似ていたことを実体験した。

続々と進む縄文遺跡・弥生時代の遺跡発掘
  戦いに関する遺物がない縄文時代
  12x35cm単位(身体の特定部位の長さ)と規則性・数学の発達?
小さな子供を葬った甕の中に小石が1つ、2つと(三内丸山縄文遺跡)
入っていたそうで、資料ではその点についてのコメントはなく、
私は1歳で亡くなった子供・2歳まで生き存えた子供と直感した。

寒冷化による1万年以上続いた温暖な縄文時代の終焉と、
  急変する戦闘的弥生時代の環濠遺跡
  吉野ヶ里遺跡の再発掘・傷を負った多くの人骨が甕棺墓に

氷河期と暖気、間氷期の暖期 海面変動と人や大型動物の移動
  学説;太陽の活動(400年前から黒点の出現数を観測)、
11年の周期性の乱れと黒点数がゼロの年が続くと
気温が下がり*1、太陽の活動が活発な黒点数が多い
時期は気温が上がる。実は太陽が放射する光のエネルギーは、
ほぼ変化せず、磁場の乱れと関係し、弱くなった太陽系圏の
磁場を通り抜けた高エネルギーな宇宙線が悪さをする(
大気中に小さなエアロゾルを形成し、それが雲の核となり
雲が増えて日射量が下がる?)

氷河期と間氷期の長さ 地球の傾いている自転軸のコマ収差等
は宇宙的現象。次の両先生方の論文を参照。
  常田佐久教授・国立天文台
  冨田成夫准教授 筑波大
  *1:マウンダー極小期

最近のDNAゲノム分析手法
  ミトコンドリア(母親の系列のみ)以上に核のDNA(男系情報)のシーケンサーに
  よる詳細解析。
  仮説;縄文人のDNA(D1a)と現日本人のDNA,現生人類はいつ頃
日本列島にやって来たか?
  氷河期の38000年前に、アフリカを出発した現生ホモサピエンスは、
アジア大陸へ、そして日本列島に到達。しかしスフール大陸・
オーストラリアまで南下したGrが再度沿岸を北上したGrと
途中でアジア大陸内で北上したGrが樺太経由南下して、
列島に到達したと考える。これらの南方系Grと北方系Grが混血して
縄文人として日本列島内外で活動したと思われる(
D1aという男系縄文人DNAの呼称)。

篠田謙一氏 佐賀医科大 現国立科学博物館;発掘された人骨の歯を中心に解析
詳しい日本列島人のルーツは? に関する分析結果に関する多くのレポート。

氷層中のガス微量分析、環境変化(火山活動・7300年前に大噴火し地盤沈降したカルデラを有する、現代人の工業化活動)を取り込む南極の氷層をサンプル。

Lidar 地中RADAR :考古学 XCT MRIによる遺物のデジタルデータのAIによる解析
無人ドローンによる空中測量が暴く古墳や巨大遺跡
磨製石器と黒曜石の地理的関係と新石器時代を生き抜いた人類とは?
分布と旧新石器時代の人の交流
  九州の国東半島・姫島(学生時代)と信州和田峠(40代)の訪問

日本列島に見られる人為的痕跡のまとめ
ここではDNA分析結果で提唱されてるものを参照

127000年前 砂原遺跡
 38000年前 氷河期海面低下100m以上
 17000年前 長江河口に住む倭人
 13000年前 国産黒曜石の拡散
 10000年前 温暖化による海進と海面上昇
7300年前 南九州アカホヤ大噴火
  3000年前 稲作文化を持つ民族の日本列島へ流入
西暦3世紀 寒冷化で北方民族が南下 
 西暦4世紀 空白の4世紀 
 西暦6世紀 これ以降は記紀の文字情報による

次 に続く

卸しと問屋からユーザ主導のインテリジェント化

  こんな日本的商いのちょっと古めかしいキーワードにしても、物やサービスを提供したいというシーズ型ビジネスと特定な物やサ―ビスが欲しいというニーズ市場型ビジネスが想定される。
メーカ(生産者)とエンドユーザ(時には消費者)を物流的に結び付けるのが、この日本的卸しと問屋の単純な役割として考えていいのだろうか。時には、実際は多くのケースで生産者や消費者は非常に弱い立場にある。
  仲買人の言い値で生産者は安い値段で物を売り渡さざるを得ない時、消費者も問屋や小売店から言い値の高値で買わざるを得ない時もある。物流的には、卸しは規格商品をメーカから大量に仕入れて、それを小分けにして小売店、そして消費者(エンドユーザ)へ供給するという役目も果たしている。
  現代のe-commerce(EC :通販業者)も商材を仕入れて、ネットでユーザの目を止めさせ、注文を瞬時に受けて、商売成立という事になる。小規模のネット通販では商品の独自企画は出来ないので、所謂メーカ、生産者の企画製品を、ウェブの上手い宣伝文句で、いかにユーザの心を擽る(くすぐる)算段に時間と資金を費やしている(デジタルマーケティング)のが現実の姿と思う。大規模ネット通販業者は、旧来の卸し・問屋の力量を出し、メーカー側に独自企画の製品開発を委託出来るケースもある。上手くいけば独自企画商品という差別化で売上倍増も期待できる。
  昨今、ECや物流に関係なく、規模の大きい世界市場を想定し、品質や量産技術の工場で、物が大量に生産され、メーカー間の熾烈な生存競争の果てに、弱小企業が淘汰され、年間生産数が億を越えるような規模でも、メーカーが数社なんている業界もある。こういうケースはもはや卸しや問屋が入り込める世界でなく、メーカ主導型ビジネスとなる。
  最近ではファブレスと言って、生産設備を持たない“メーカー”がいる。普通はそのような企業をメーカと思っている。物作りでなく、物やシステムの独自設計力があり、生産だけを他社に委託しているのである。実際には世の中に、こういう製品が多い。
最近、日本国内の各地で台湾以外の地で超精密な(2nm技術)半導体工場の建設ラッシュが続いている台湾のTSMCは世界一である。米国内にも進出し、昨今の東西対立の中、積極投資を続けているファブレスではない「顧客のメーカー」がある。 “メーカー”といったが、実は力のある卸し・問屋なのかもしれない。自社の企画製品・半導体チップは絶対市場で売れる、ユーザのニーズを満たしていると自負している。
  こんな状況をひっくり返す最近の流れがある。卸しも問屋もいらない。エンドユーザが支配的なケースである。商売とは売買とイコールで有るのだろうか。否、中間の“メーカー”や問屋が介在しない世界である。ただし、一つ条件があって、エンドユーザは製品の消費規模(利用数量、台数)が極めて大きいことである。所謂大量購入、消費が出来る力量を備えたケースである。更に必要な製品の独自企画・設計力も備えているケースである。簡単に言うと、エンドユーザが自ら商品設計をして、大量に委託製造業者に発注して、自らがその商品を利用するのである。下記のサイトに、こんな事例があることを示す。
     サイト情報; datacenterknowledge.com 2012/05/08/ 号
  もう12年も前の事だが、今の地球上の人々の生活で、なくてはならないインターネットのジャイアント企業が建設し始めたDC(データセンター)のコアになる高性能のserver(スーパーコンに匹敵する能力、だが莫大な電力を必要とする)が一拠点に数万台も必要とする事に言及した。すなわち、オープン・コンピュートプロジェクトである。
  これでお仕舞いと思ったが、よく考えると、受注している製造委託会社は、実は所謂メーカとエンドユーザの中間にいた“メーカー”や問屋がそれなりの長い期間で育て上げたものではなかったのかと。即ち卸しと問屋がインテリジェント化した形態ではもはや対抗できない業態に進化したのだろうか。参考にしたサイトの英文資料でも、サプライチェーンを shake up しているとある。これを恐ろしく震え立たせると解釈するか、前向きな意味でも業界の reorganize と考えると面白い。実際、shake up に reorganization という意味もあるようだ。
  12年経った現在ではCHAT-GPT や人工知能AIというキーワードが多くの人達に知れ渡る状況にはなっているのだが、実はその中身の仕組みまで理解している方は極めて少数である。

卒FIT その後III;2年目

卒FIT その後 II;蓄電池導入
2023/07/27に卒FIT、区、国、都の助成金を頂いて、わが家の蓄電システムを導入し、わが家の最新ソーラー発電と電力消費動向について説明した。令和5年の導入直後の状況を以下に説明した。

令和5年5月2日は発電総量は31.4kwh (朝6時の0.1kwhから夕方17時の0.1kwhまで)、消費総量は22.2kwh (これはガス無しのオール電化です)。消費電力パターンは図の通り、早朝にやや高まっているのはヒートポンプ式のエコキュート温水貯蔵でドラム缶一杯ぐらいですかね、その前少しベースラインが増えているのは家人が夜更かしで風呂の沸かし直しや3台のTVを見たりしていた。朝の食事の用意はゆっくりとして、夕方からの食事の準備でピークに見えるのと明らかに違います。季節柄、エヤコンの使用がなく昼間はこんなに低レベルです。家の広さはかなり広く、大手住宅メーカの180平米(総2階)で熱遮断性については建築当初のままですが、リフォームで2か所窓を塞ぎました。

さて、その後蓄電池の導入を行い、5月下旬よりシステムが稼働しました。7月の下旬に至り都内でも連日35℃以上の猛暑になり、冷房機器を昼夜長時間使用せざるを得ない状況に陥り、日中天気も良く・日射量は高くソーラー発電量も大きく、蓄電システムの良さを実感した次第です。次の発電<昼間の青線>、買電<オレンジ色の棒グラフ>、売電<草色の棒グラフ>の3つのグラフは典型例です。先ず、真夜中の12時には、前日の晴天下で発電し蓄電池がフル充電され、それが放電され夜8時ごろまで利用され、空(蓄電池を完全に0%にしてしまうのはッシステム上危険で残20-30%で”ゼロ”設定とします)の状態になっています。我が家では夜も弱く冷房にしています。そして朝方3-4時の2時間で温水を沸かしますので、安い深夜電力を購入するシステムです。

朝7時頃から発電が始まり、蓄電用と自家消費用0.4KWがバランスし、下のように11時頃になると、11.5KWの蓄電がフルになると余剰の分4.3KWが買電に回ります。

上のvisualは本日の11時のもので、朝から晴天で11.5KWHの蓄電池の充電が済んで4.7-4.3=0.4kWの定常電力消費(照明、冷蔵庫、その他小消費出力の機器分)の余剰分4.3KWは売電です。          
上のチャートは晴天の日の代表例です。
オレンジ色の買電の無い時間帯で蓄電が
進み、11時頃にフルになります。
そして夕方から蓄電した電力を夜の11時までに
消費して、その後夜間の安い電力を買電すると
いうサイクルになります。

厳しいグローバルマーケティング (2)

十一年前の事だが2013年二月初め、仕事でサンフランシスコへ出かけた。フライトの都合で(安いチケットで帰国曜日が指定されている)、一日オープンの日が出来た。そこで久しぶりにソノマ・ナパバレーにあるワイナリーツアーに参加した。
集合場所へ行くと私が予約したグループは、所謂米国を加えインターナショナルなお上りさんグループ。もちろんツアーの説明はバリバリのAmerican Englishを喋るドライバー兼ガイドの比較的若手の部類のお兄さん。気が付いただけでも、カナダ、韓国、イタリア、フランスなどからの観光客、もちろん私が日本人で一人。仕事でのカンファレンス英語とは違い、久しぶりに生英語に浸り、感激した。
さて、ワイナリーは三箇所見学がセットされていた。二つはローカルで製造した美味しいワインで、輸出していないと言う。もう一つの大きなワイナリー(Sebastiani)は海外に手広く輸出していると言う。先にSebastianiの話をしてしまうと、今やアルコール類は重たく手土産に瓶を持って帰る事が無くなってしまった。まあ、都内の店で探せば入手できるだろうと思い、Sebastianiが買えそうな店を帰国後ネットで探すと、驚いた。仕事で頻繁に乗降する神田駅近くにYというワイン専門店があり、そこでSebastianiが置いてあると言う事が分った。フライトで十時間かけ、さらに車で二時間かかる彼の地の美味しいワインが神田駅から一分で行ける所で手に入るのだ。これもグローバリゼイションの恩恵だろう。
他の二カ所の小さなワイナリーは米国内でしか販売していないと言う。カナダからの客がカナダへも送ってもらえないのかと尋ねても、アルコール関係商品は色々とtaxなどの手続きがあって出来ないという。恐らく、輸出となると生産量の問題や品質管理の方も国際基準にのっとってやらなければならないのであろう。バリバリの英語をしゃべれる米国のワイナリーでもGlobalizationへの足かせがあるのだ。ただ物流や輸出手続きだけならば、専門商社や輸出業者へ依頼すれば出来そうだが、オーナーさんの気持ちをそこまで動かすことは出来ないのであろう。
味に繊細で、ワインと食べ合わせる料理にまで気持ちが行ってしまうと、ただ自分のワインを輸出する事では済まないのであろうと善きに解釈した。フランス、イタリア、スペインなどは別として、もともと輸出業を目指して大規模なワイナリーが最近ではチリ・アルゼンチン、豪州・NZ, 南アフリカで造られていて、品質管理も現代的手法で行われている。非英語圏のワインが輸出されているのに、ナパやソノマの米国産ワインが輸出出来ない所に、我々日本人が考えるべきグローバリゼーションへの課題があると思う。
さて、ワイナリーツアーの四か月後に、少し真剣にグローバルマーケティング について考えた。米国株式市場上場企業にはForm 10Kという企業経営状況を詳しく説明した資料の公開が求められている。所謂企業業績、財務状況の説明に加え、Risk Factorという項目がある。過去幾つかの企業のForm 10Kを査読した事があったが、最近(2013年当時)目を通した企業のRisk Factorの内容は定型的なものであるが、企業のGlobalizationを考える際に参考になる。
以下、ある企業の概要(一部省略)を意訳で示す。企業経営実績は海外売上があるが故に、常に変動要因が大きい。自社の売上で海外売上の比率が大きく、将来の成長に向けても海外売上の割合は増加すると予測している。従って海外売上に依存する利益はかなりの企業リスクであり、次のような要因がある。

  自然災害の他に
外貨変動
関税や他の貿易障害
政治的、経済的不安定性
通信分野や他の製品の政府許可(認定)を取得する難しさ
ある国では知的財産権の保護が不確かであることや保護レベルが低いこと
複雑な海外法規やそれらの処置に対応する事(コンプライアンス)が悩みの種

これらはバリバリの米系企業ですら身に沁みて体験、遭遇している課題であり、単なる語学(英語ではない)の問題でない事は明白である。異文化の中(衣食住、法規、金銭に対する意識、信用・クレジット、人をどのような経緯で信頼するとか)での実務業務を如何にマネージ出来るかが、グローバル経営で越えなければならないハードルである。
この十一年も前の経験を令和四年二月号で呟いたが、最近ではIT技術の進歩や社会の中でDX(デジタルトランスフォーメーション)への関心が極めて高い。というのは国内でのDXが遅々として、特に行政サービスでの遅れが指摘され、民間での導入スピードが速く、折角のマイナス金利解消や昨年以上の賃上げ実施が為されるという経済環境が好転しかかっているという中で日本企業もデジタルマーケティング等のプラットフォームを充実させてさらなる成長を目指したい。
リスク管理が前面に出ると、BCP(事業継続計画)を真剣に検討すべきで、今やネット社会の中で、拠点分散やクラウドネットワーク、データセンターの分散化等々、インフラ対策・投資も厳しくなっている。それらを見極めたグローバルマーケティングが必要であることになってくる。

あおいマスク

 今日は令和5年10月の上旬、予定されている行動をとらねばならない。それは毎月通院している主治医に急に呼び出された20日前に決まったとある理由にて、早朝より都内の大学病院にて頭部のMRI検査と造影剤を注射してX線による血流検査を行う事である。
 普通に、自宅の白いマスクをして、先ずMRI検査室へ赴くと、先生より院内専用のあおいマスクに替えて下さいと言われて、捨てはしなかったが白い自宅マスクを取り、少しきついあおいマスクを装着して、検査台へ上がり横たわった。そこでお決まりの頭部を固定され、防音用の耳栓を押し込んで検査に入った。閉所恐怖症の方には辛いが、私は平気。だが今回はちょっと違う、このあおいマスクを通して呼吸しなければならない。狭い筒状の中に頭部が固定された状態で、閉所恐怖症でありませんと言った手前、ゆっくりと鼻から息を吸い、口から吐き出すというカイロプラクティック整体の若先生に教わった方法で乗り切った。
  余裕が出て、MRIの磁場が印加される際に、耳を遮蔽しているのだが凄い音がする。その音を聴き澄ませていると音の低、中、高域の3つが使われていて、それらが各々、別々に数秒間のうちに音の強弱が正確に繰り返され、デジタルの8ビットのように聞こえたのである。その初めの規格化みたいなことが済むとついに本番の検査が開始され、時間は正確には分からないが数十秒間ずつ、ブーブー、がーがー、キーキー、時には短くドンと変な音楽みたいなセッションが続いて、20分の行程が終了した。
 次は別の検査室へ移動し、少し時間をおいて脳の血流検査のパートへ入った。こちらは、X線CTの部類だが、造影剤を注射針で腕の血管へ注入しながら画像を取る方法らしい。血液検査や献血では左利きの私は左手を差し出すが、今回は装置の移動方向と私の寝ている方向との関係で選択の余地はなく、はい、右手でということになった。
 私は初めての経験だ。同じような検査台へ仰向けになり<これが結構堪えるのだが>、普段背中が丸く前傾になっている姿勢をいきなり数十分間、固い台へ臥し、頭部はやはり固定されて静かにしていなければならない。ここの若い先生は時間が長くなるので、あおいマスクをずらして結構と言い、息がし易い状態でこちらは音もなく遮光用のアイマスクをお願いしますといわれ、ウトウトして知らないうちにこれで終了ですと声がかかった。こちらはそれで40分もの検査時間。
 こういった検査は70歳を超えた高齢者医療保険証を持たされている者にとっては特段特別な事ではないが、相当な検査費用だ。これまで45年間も払い続けている健康保険料、まだ若く病院の世話にはならないよという健常者の保険料、そして税金助成が原資だが、まだ仕事をしているお前は現役並みの実入りがあるからと言われ、逆らえずに3割の自己負担をしている。
 最近は大学病院もモダンで何とかというカフェもあり、ドリンク付きの簡単なランチサンドウィッチを食べ帰宅。もっと余裕を持った生活をすればいのだが、それが出来ずに、早々にノートPCでメールチェック、タブレットでニュース閲覧をして、それらを終えて、好きなYoutTubeでもと思い、アプリを立ち上げたところ、勝手に私の好きな朗読が紹介されており、何と菊池寛のマスク:小文の題目が、いつもの朗読者窪田等氏で紹介されていたのである。なんと偶然、今日のあおいマスクの記憶がタブレットの画面へ指を急がせたのである。
 そこには菊池寛の別世界があり、約100年前の大正8年のスペイン風邪の大流行の際に書かれた短編マスクであることを初めて知ったのである。今まさに我々が経験している新型コロナウィルスによる状況が、流行性感冒と呼ぶことしかできなかった時代と同じような経験が記されている。しかし、100年前の医学の状況はいいかばかりか、悲惨なことが書かれておらず、死者が国内で1日3000人を超えたとかあり、菊池寛の関心事は弱者である自分の不健康、弱い脈、心臓の弁の併合が悪い・手術が出来ない、脂肪心、駆けてはけない・脅かし、発熱・流行性感冒への恐れ、野菜食、伝染を恐れ妻も出来るだけ外出せぬよう家に籠った生活が記されいる。
 ところで、菊池寛はマスクについて、3月末でも気温も上がっているのにまだマスクをせねばならぬ、さらに、5月になって暑くともマスクが必要なのかと、文句まがいの気持ちを吐露。そこに、23-4才の黒い布製マスクをしている若者への嫉妬が加わるのだ。感染拡大に繋がる大勢の人がいるスポーツ観戦にこれから行くであろう若者がよっぽど強い男と見えたのであろう。
 令和の新型コロナの感染抑制対策に対してはノーベル賞を受賞したm-RNAワクチンに頼っているが、最近になって副作用による死者数が非常に多い事、直っても長期の後遺症で強そうな若者も含んで相当な数の人々がマスクを外そうが別の部類と思われる症状で普通の営みが送れずに臥している。私は終わりに記した現代医療でも予期せぬ二つの重大事に遭遇し、未結審の訴えの如く次の100年へ先延ばしにはしてくれるなという想いでいっぱいである。