太平洋3山


太平洋3山、令和7年秋ごろに、まとまった話として聞いたが、ぼーとしていたら書き始めがこんなようになってしまった。

先日、日本の強み、それはある種の絶対的ポジションであると思った。日本の国土は約37万平方キロメートルと小学校で習い、その小さな国土に1億人以上が住み、世界第2次大戦後、安くて戦勝国に買って貰えそうな商品から開発し、安かろう悪かろうという先入観を捨て、品質改善に徹して、工業製品等を輸出し、外貨を稼ぎ、1951年の戦後処理のサンフランシスコ条約に署名して、よちよち歩きの日本が世界に出始めたのある。

そこで、今日本寄りの風が吹き始め、EEZ 排他的経済区域が急速に増加しようとしているのだ。これは、島国や日本の様な地理的条件を満たすところには、絶好のチャンスであろう。

しかし、よく見ればまだ和平への道が見えていない 周囲が土地地面であるウクライナをはじめとする国々には直接的な関心が沸かないと思う。

太平洋3山って、何と聞かれれば若干なりとも、少し齧ったものとして、

プレートテクトニクスの話から始めないといけない。

19歳頃と記憶してるが、専攻が材料系学科であったので、

当時まだ珍しかったプレートテクトニクスの講義を取る

機会に恵まれ、大学内では講師側の人材が乏しく、

学外の専門家が当時、十分な資料もなかったので市販の

日経エレクトロニクスという雑誌に記事としてとりあげたものを

参考にしながらプレートテクトニクス理論の話をされた。

簡単にいうと、太平洋側の重たい地形が日本が浮かぶユーラシア大陸の下側に入り込んで、1年に7−8㎝の速度でもぐり込むという、地球上の表面を構成する大陸が複数枚あって パンゲアという1つのプレートというか1枚の大陸が数億年前に、分裂を開始し、現在に至っており、今後もこの動きは継続していくという。現在の地球儀で確認できる模様となります。

注:マントル対流はプルームテクトニクスと呼ばれ、マントルの湧き出しがあって、個々のプレートの動きに繋がる。

さて本題にもどすと、太平洋の山が3つという意味で太平洋3山という表現を選んだ。海面下に巨大な火山が存在していることはご存じとは思うが、どの位の火山かという実例は超有名なハワイ島で、海の上の姿で標高4000m以上もあり、海面下の部分も含めるとエベレスト8848m以上にもなる。そういったイメージをもちつつ、話を続けるが火山は非常に短期間でその姿の盛衰を変える。

いまでは、ここで取り上げる日本の3山は次の

3島/西之島新島/硫黄島/沖ノ鳥島をいい、話題の中心としたい、

1.西之島、1973年頃から火山噴火活動が徐々に活発化して、40年後の2013年、そして2023年、つい最近11月の晩秋の時節には気象庁がカルデラ湖が形成されていることを発表し、面積が60倍となり、領土領海、EEZの拡大。それだけに留まらず、自然科学にも、新たに形成された火山島にいかに生命が宿るか、火山島が環境問題に与える影響等の研究に貢献する。

2.硫黄島、イントロでわざわざ1951年のサンフランシスコ条約で日本の米国による統治が解かれ、はれて日本国土として認知された。その硫黄島の一部が、凄い速度(年数十㎝、戦後の80年という期間だけでも数十mも)で隆起しているそうだ。

3.沖ノ鳥島、この波間に消えてしまいそうな名は故石原都知事の頃、正直言って岩なのか、島なのかの議論があって、ちっぽけな岩の周囲に消波ブロックを積み上げた姿は、見たくなかったが、この辺も隆起しているそうで、はれてEEZの拡大に貢献という、肩の荷が解かれた様にほっとした次第です。

後記、丁度この呟きを止めようとした時に令和7年12月8日深夜にM7.5 震度6強の大きな地震が発生し、これは正に太平洋プレートが年7-8㎝の速度で動いていることの証である。

長島茂雄さん


長島さんが今年春旅立ってから約半年が過ぎ、 久し振りにあるTV番組で肉声をお聞きした。 それは、2004年、最初の病に伏せられてからの お声で比較的明瞭に話されていたので、 公の場に現れてからのものと思われる。
 それは2005年7月ごろ以降であろう。その時期は私が52歳でサラリーマンを早期退職して、約半年が過ぎ、屋号を税務署に届け、個人事業主として営業をし始めた頃で、長島さんがお元気になられ活動再開をともに期待する余裕もなかった。

実は私は本物の長島選手や長島監督を見たことがないはずである。見た記憶がないのである。
これは、長島選手の引退試合が1974年10月14日に行われ、それは私が大学3年生の時で、まだプロ野球のリアルタイムゲームを高価な入場券を購入して迄の余裕がなかった。
実際、私が生のプロ野球の試合を観戦し始めた時期は、大学院の研究室へ入室が許され、新しく赴任されてきた若手の助手さんの指導を受け始めた時期に一致している。
早くても1977-78年の頃であった。理由は簡単でその新しい助手さんが西日本のご出身で、あるチームを応援していたからで、まだドームの無い、後楽園球場の
ナイターに時々出かける様になった。

長島さんのwikiで確認したところ、
しかし本大会を約半年後に控えた2004年3月4日、脳梗塞で倒れ入院。
一命は取り留めたものの利き手を含む右半身に麻痺が残り、言語能力にも影響が出た。
長島や周囲はオリンピックでの復帰を考えていたが、短期間での病状回復は不可能と判断され、一茂が「(アテネには)行かせられない」と記者会見を行った。
と記され、

その後の悪化していく病状については、多くのメディアのいかに長島さんに永らえて生き続けて欲しいという書き方が悪いが、長島さん自身の意識した生きる望みを表現した類のもの見当たらず、メディアが今流のネット環境社会の商材として長島さんを利用し続けられればいいという思われる表現にしか私には読み取れなかった。

少しキーが高く、年齢より少し若く発せられる
お声で、 
私がこの様な姿になって、皆様の前に
出続けるのは、障碍者の方々も生身の現実
を隠さず、リハビリに取り組んでいる姿を
晒して<さらして>まで、皆様に見て欲しい、
何も失うこともないんだ。
という長島流明けっぴろげスタイルの強さであった。

私は、長島さんのそんな姿が印象的で好きだった。

後記、本当はジョンレノンと長島茂雄をだぶらせた私の呟きにしたかったのだが、それが叶えられなかった事をお許し頂きたい。

ラジオ放送もなかった関東大震災最中の田端文士村

今 NHK で 話題になっている 朝ドラはアンパンマンの主人公、やなせたかしさんの出生地は(現 東京都北区)東京府北豊島郡滝野川町と書かれていて、ときは関東大震災の数年前、たかしの父・清のキャリアーは講談社に勤めていたが東京朝日新聞社に引き抜かれて、滝野川界隈から都心に勤めていて、清自身も文学の文に自分も関わりたいと言う事を周囲に漏らしていた。大日本雄弁講談社の初代社主の野間清治は北区田端に別邸を構えており田端文士村のメンバーとして認知されていたが、たかしの父、清も講談社時代に雑誌雄弁の編集長として活躍していた事(1921年4月まで)が最近、関連の資料が講談社に保管されていた事がわかった。

次のキーワードは関東大震災と田端文士村の文士達、そして大災害時の人々の行動とコミュニケーションについて、気になったことを数多の出版物を参照してまとめてみたいという熱い気持ちが湧いてきた。更に今年2025年がラジオ放送開始100周年であることは、関東大震災が発生した1923年はラジオ放送も無かったのである。さて、1923年大正12年9月1日午前11時55分頃、の関東大震災に田端に在住の文士の中で何名かを選び、その吾人と知り合いの当時若者だった人たちを揚げると、
先ず芥川龍之介は田端の自宅にいた、
 次いで室生犀星も自宅にいた。
 菊池寛も田端近在の小石川区、本郷駒込神明町に居し、
1月 文藝春秋創刊、所在地は小石川区林町十九番地
7月 本郷駒込神明町三一七に転居
10月 震災のため東京市外田端五二三の室生犀星宅に転居してきた。
    室生犀星は妻・子と共に田端を離れ一旦故郷の石川県に身を寄せた。
菊池寛は若者を纒める中核で、川端康成と芥川の仲を取り持った。
 この震災当時は既に知り合いであった。
 更に川端康成と横光利一の仲を取り持った。

川端康成は当時東京帝大の学生で<芥川の7歳下>、住まいは千駄木の下宿の2階で被災したが、古家の崩れる様をちょっと記している。横光利一も然り、神田神保町の古本屋街で罹災し、駆け足で小石川の下宿先に戻った。川端は横光利一の小石川の下宿を直ぐに見に行ったそうで、「思い出二三」で証言している。

萩原朔太郎は、震災時は田端には住んでおらず、震災後萩原自身は現田端3丁目・田端区民センター脇の小道を行ったあたりの借家住まいを始めて、馬込文士村に移るまでの数年間,田端人であった。背景は室生犀星と他の友人との詩誌 感情の創刊活動の履歴については次のようにある。
犀星は北原白秋を慕って、石川県から上京、
1915年、萩原朔太郎・山村暮鳥らと詩誌「感情」を創刊
さらに1917年(大正6年)室生犀星が当地で詩誌『感情』を創刊した。
この『感情』には室生犀星の盟友である萩原朔太郎も加わり、萩原自身も1925年(大正14年)に田端に一時居を構えていた[田端文士村HP]。

馬鹿げた芥川の吉原見学・同行の川端が詳細を記す。文士の心理的状況が震災と崩れていく様、文士たちの行動は書き残されており、芥川龍之介と川端康成は吉原を見に行ったという。 女性たちの「関東大震災」の哀れな、血生臭い光景、、、、。
私が思う、ラジオが無かった時代は人の心理と防災対策は江戸の大火事の様子と酷似、あまり進歩も見られなかった。
こういった大災害の時に冷静に物事の判断が著名作家といえども、冷静さを失わせて自分の個性、一番卑しい性質が出てもよさそうと種々の参考資料を読み漁ったが、誰一人として私の予想に合致出来てはいない。
1923年9月下旬、の菊池寛(今流のマイフェイバリット作家)は新聞にこんな言葉を寄せた。前に記したように同年1月に「文芸春秋」を創刊した菊池は、製本中の最新号が焼失し、社屋から焼け出されていた。傷心から発したのかもしれない「芸術無力論」は文壇に波紋を広げたが、私は 無力だが無用ではなく、逆に文学・芸術は必要であると信じたい。

関東大震災は東京に壊滅的な被害をもたらした。田端は地盤が比較的強固だったため、幸いにもさほど被害はなかったそうだ。[2011年3月11日に発生したM9を超える東日本大震災では発生時、私は地盤の良くないお玉が池<埋め立てられてしまっている>の先の小伝馬町の客先の9階建ての古いのっぽビルにいた。ここで人生初めて机の下に潜り込み揺れが収まるまでの間、待った。もし東京湾を大津波が侵入?というイメージが脳裏に現れたが、事なきを得た。]
しかし、この震災がきっかけで東京市内から多くの人が移住し、田端付近はベッドタウン化していったという。文士は動いて、主流は馬込文士村へ移った。

暗黙知を超える?

注目

次の冬季オリンピックで金メダルを目指す女子1500mの高木美帆選手は、最近硬いブレードに交換して、なかなかしっくり来ないそうである。美帆選手は1000mでは世界一を成し遂げたが、1500mでは欧州・中国とライバル選手が多く、ちょっと先を行かれているが、ライバル選手は既に硬いブレードを使い続けて、成果を出しているという。

硬い氷に硬いブレードと素人考えでは未知の組み合わせでもないように思うが、美帆選手にとっては体幹的に何か言語化出来ないものがあるという、それは従来暗黙知と言われている分野を超えるもののようだ。普通、暗黙知は文字化・仕様書化できれば万々歳であるが、もとより高木選手は専門家であり、プロフェッショナル・その分野でトップを行く人であっても、自らが”言語化”出来ないのだと嘆いている。

夏の暑い最中に、かき氷を削って食べたいと思う心が野心的になれば、美帆選手ももっと気軽になって、挑戦して欲しいと思う。(途中です)

気まぐれに呟く


本来であれば、昨年の十一月頃に呟こうと思っていた。それがずるずると今日令和七年一月二十三日まで延びてしまった。

その理由は一月二十日に行われた米国大統領の意思表明であった本来であれば、昨年の十一月頃に呟こうと思っていた。それがずるずると今日令和七年一月二十三日まで延びてしまった。その理由は一月二十日に行われた米国大統領の意思表明であった。

もし私ごときのつまらない呟きが、多くの憶測に基いた不確かな情報とも言えない話で、近い将来こんなバラ色に包まれた様な事になるのではないかという、一抹の不安があったことや二
三の些細な優先させたいと事があって、今日になってしまったというのが本当である。

もうコンサルタントをしていると、嘘八百とは言わないが、結構推定・予測・統計データに基づいて作成したモデルとか将来像を自分の真念と業界の一般的にはという他人にすがるような常套手段でお茶を濁ス様な事も多い。

民主主義とは 
  立候補者の要件について、私なりに以前提案させて頂いていた。
  Democracy vs Republican という構図になった昨年の米国大統領選の結果で、私なりに勉強になったことは多数決とかの手法でない、米国の富裕層と労働者層の歴然とした対立の構造になっている事。

国内では、急遽行われた衆議院議員選挙の結果、選挙前の与党勢力が少数与党(I首相率いる)へ陥落。兵庫県知事選の結果、S知事が再選されて、SNSが候補者の公約や政策の浸透のという面で若者へのアピール効果が高いことを示し、このSNSの効果は昨年の夏前の都知事選で既に相当な力になることも分かっていた。これは民主主義の政策・広報と言う面で、所謂ニセ情報の発信をいかに防ぐかという課題(有権者の行動等の要件)を突き付けた。

ここでもう一度、民主主義とは、、、について纏めると立候補者の要件・選挙中の広報手段・有権者の要件の三点に十分に注意して議論しなければならないことが解る。

米国大統領選挙結果が判明した後、さらに関心の高まりにより、T大統領の宣言まで聴いて確かめた後になってしまった。米国の要求が米国の有権者のみならず、非常に明確で、世界の一般の人が分る言葉で表現されていたことであった。

国内でも、最終的に腑に落ちて、納得した事は有権者、全ての団体が暮らしを良くしたい、特に法人税や個人の所得税減税を望み、国内ではこれまで高齢者向けのインセンティブを優先的に諸策の検討をしていた流れを少子化対策へと変えて、予算のある、金のある地方自治体が、子供医療費、給食費、義務教育でない高等学校の授業料無償化、さらに大学授業料の無償化まで要求が拡大し、そのための予算枠を確保出来るのか否かの議論に落ちてしまっているように見える。

我々のような七十歳を超えた高齢者は振り返ると昭和二十八年生れが境であった。戦後のベビーブーム・昭和二十二年生より少し後の世代の話をしてみる。先ず、義務教育で必要な教科書は有償であった。それが、昭和二十九年生れの世代からは無償になった。私の世代は給食も小学校まで、東京のような大都市では給食は中学校まで、勿論給食費は必要だった。大学入学時に国立大学の授業料を3倍にする法案が通り、3倍になった。この大変化は当時の政局をストップさせ、予算が可決したのはズレ込み4月に入ってからで、3月下旬の国立大学の手つづきでは旧来の授業料や入学金を納めて終わった。が、もう一つ、大学入学時の授業料が従来だと4年後の卒業時まで続くのであるが、昭和四十七年の特例で、4月に入って可決した3倍もの授業料を後期から納めろということだった。

さて、国内も米国も有権者の要求は本当に自分の暮らし向きをただ良くしてくれそうな立候補者を選ぶことのみに集中し、本来は政治(祭りごと、国を治める)であって、国民主義・基本的人権の尊重・平和主義(国の安全/国防)というの憲法に規定された主意を維持するための、法律(簡単に言うと人として生きていくためのルール策定・周知・施行・ルールを犯した場合に対する処置)などを規定する三権分立の立法を、掌らなければならない。

自分の暮らし向きをよくしてくれる候補者を希望し、皆様もご理解頂けると思うが、一地方の議員さんが対処出来る課題でないことはT大統領が次々と署名していく米国大統領令の内容は日本一国でも対処できない、とても幅広いグローバルな連携と具体的な実施し得る行動的施策ばかりで、相当な経験、紙上だけの勉学ではない多国籍企業のマネージャのような実務経験や海外留学で培う人的コネクション(ふとしたことで、後になって役立つ異国の輩と知り合うこと)、さらにこの分野ならば任せてくれと言える秀でた専門性まで身に着けておきたい。

単に民主主義とはと言った事では済まされず、経済至上主義だけでもいけない、そこは焦らずに時間をかけてもいい、先ずは自分をスタート点として、皆様が全く同じ環境に居るわけでもないので、それぞれ考えて行けばいいのではないかと思った次第です。

人工知能AIというより子供の成長をみて

今や誰もが人工知能AI(artificial intelligence)と言って何も疑わない。

実は殆どの人がそのプロセス、如何にAIの示している事が導き出されるか知らないし、専門家に説明されても分からないと思っている。

数学的専門用語を使って申し訳けないが、私自身も若いころ(47年も前になってしまった)に、数値解析や汎用コンピュータしかない時代に独自にやっていた。非線形関数のテーラー展開、多変数解を得るために最小2乗法を適用し行列式で近似解を求める、その過程でデータから入れ替え行列、逆行列を生成、その初期値生成のために初期パラメータのランダム化にマルコフ法を適用したり、行列式をいっぺんに解かず(発散する場合がある)、のそりのそりと収束させた。

そういった行列式を解く過程がAIのpythonというプログラムの中に組み込まれているという。

machine learning deep learning neuromorphic process グーグルの猫の顔の話など、少しAI関連の事に触れた方はキーワードとして重要な事は分かるが詳しく知ろうとしても先に進まない。

さて、人の子供、赤ちゃんがこの世に生まれ少なくとも簡単な言葉が話せる2歳始めまでの事を詳しく観察できる機会を得て、所謂AIのプロセスを考察したい。

生まれたての赤ちゃんの視力は弱く、先ず音声が耳から入り、脳で受容認知され、記憶として形成されていくであろう。その際に優先して受容される音声は母親の呼びかける言葉を始め、家族であることは間違いない。

だんだん視力が良くなり目を動かし周囲を興味深く観察しだす。それと共に先に受容認知していた音声と何か初めて視野で認知された映像が次に記憶されるであろう。それらが音声というラベルで、記憶される映像が紐付きされるであろう。後にそれら音声単独の記憶の発達、単語レベルの数の増大と言葉としての構造化(あえて文法とは言わない)の習得が進むであろう。

赤ちゃんの言葉の受容、学びは周囲の真似から始まる。それも簡単に言いやすい発声しやすい言葉以前のあー、うー、ふーとかである。次に同じ母音を2つ繰り返すあーあー、うーうーである。更に異なる母音が組み合わさった発声の真似になる。このレベルで簡単な言葉だが結構な組合わせができる。その先は容易に類推できるが3音の組み合わさった言葉の真似である。

にこにこー猫のこと(飼っている猫の名前がにこ)

わんわんー犬のこと

おかさな(お魚のこと、一部かとさが入れ替わっている)

おとうさん、おかあさん(両親が所謂パパ、ママと言わせなかった)

次の段階で言葉の構造化、xx yy(またはyyy)の真似ができる。抽象化は未成熟なので、もの、名詞で表現出来る映像が伴うことが必須である。事例を二-三あげてみる、

わんわん おおきい (大きな犬)

(父親が家に居ない時)

おとうさん、しごと

おとうさん、かいもの

順次観察された言葉文章表現レベルまでのまとめ(2歳2-3ヵ月頃まで)と周囲の道具デバイス(あえておもちゃとは言わない)にどのくらい興味を持って使いたがるか、自分の意のままに使いこなすかについてまとめ(2歳2-3か月)をしたい。そのうちに子供TV番組の歌とダンスを覚えて、結構長い時間の歌詞やふりを真似している。これぞ、文盲の大人のレベル。下手に文字を覚えた大人はそれらの歌詞が空では覚えられない。

さらに、願望の表現と行動へ

親に身体を持ち上げて、高い高いをして欲しい

親がキッチンにしまってある網かごを探しに行き、見つけ網かごを帽子のように被りたがる

実はスマフォの操作(親の真似)が出来、YouTubeの見たい映像の再生、ストップの印を覚え

それらができる

4×3や5×4ピース程度の所謂ジグソーパズルで、好きな絵合わせをしたがる

カンカン、見に行きたい(近くの電車が通る踏切がカンカンと鳴るので)

こう見ると遥かにAIを超えていると言わざるを得ない。個体差・個人差(主に環境・親の接し方)はあるが、2歳を超えたこの2-3か月という短い時間に小さな脳の中で人らしく成長し、大人への第1歩を踏み出していると確信する。(続く)

寺田寅彦の子規追憶

先日、子規が眠る東京北区田端の大龍寺の前を通ると、子規の石碑に柿が供えられていた。調べると10月26日が柿の日だという。由縁は子規が有名な 柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺 を詠んだ日という。

以前にもお話したかもしれないが、結婚して偶然家内の実家に住むことになり、その家内の実家が田端の大龍寺の道を挟んで斜め前にあったので、大龍寺を通して、書籍の世界の子規、漱石、寺田寅彦氏などが私の実の世界に現れることになったのである。それは住み始めた昭和五十三年三月頃からである。それまでは神奈川県で普通の中学生高校生として、夏目漱石、芥川龍之介、萩原朔太郎、森鴎外、大学へ入ると小林英雄、江藤淳、寺田寅彦などを主に、度の強い近眼の眼鏡を通して接していた。

そして、田端が田端文士村と言われて著名な作家の方々が人伝に人が人を慕い、明治後期から昭和初期にかけて文化を育てた地と知った。しかし、文士村でなく初期は現東京藝術大学関係のアーチストが居を構え、陶芸の板谷波山が窯を焼き、そのアーチストを慕って作家の卵、北陸から室生犀星を始め、その後日本を背負って立つ名前を示した萩原朔太郎、芥川龍之介、若き小林秀雄など多くが移り住んだ。板谷波山を慕ってその後益子焼を有名にした濱田庄司も田端に移り住み、暫しの間、時を進めた。

さて、東京帝国大学の地震学者となった寺田寅彦は漱石が熊本の第五高の英語教師の時の教え子で、上京後漱石に子規を紹介されたりして俳諧にのめり込んだ。子規の早世について2編の追憶を記しているが、一つは死後約三十年に経って次のようにまとめている。

昭和三年九月『日本及日本人』 子規の追憶 寺田寅彦 「青空文庫より」抜粋  二 学芸の純粋な進展に対して社会的の拘束が与える障害について不満の意を洩らすのを聞かされた事も一度や二度ではなかったように記憶する。例えば美術や音楽の方面においていわゆる官学派の民間派に対する圧迫といったようなことについて、具体的の実例をあげていわゆる官僚的元老の横暴を語るのであったが、それがただ冷静な客観的の噂話でなくて、かなり興奮した主観的な憤懣ふんまんを流出させるのであった。どういう方面からそういう材料を得ていたかまたその材料がどれだけ真に近いものであったかは自分には全然分らない。しかし故人がそういう方面の内幕話に興味を有ち、またそういう材料の供給者を有っていた事はたしかである。  子規は世の中をうまく渡って行く芸術家や学者に対する反感を抱くと同時に、また自分に親しい芸術家や学者が世の中をうまく渡る事が出来なくて不遇に苦しんでいるのを歯痒はがゆく思っていたかのように私には感ぜられる。

最近それを読む機会があり、行を追っていくと、世間で騒いでいる日本学術会議の会員任命をあたかも批判しているような勢いだったのだ。

確かに任命権者は総理大臣だが、仕組みはよく知らないが、私も若い頃大学院生と引き続き民間企業の研究員をしていた頃、末端の組織でその会議の何かの委員を選出する有権者だった。普段は行政のプロセスで推薦者と任命者の調整がされ、わざわざ総理大臣が最終判断をすることなく、これで宜しいと押印するだけの事と思っていたが、実は令和二年十月に新総理大臣がある特定の候補者を除いて任命とした自ら口表したのが事の発端である。

寅彦が、子規の死後三十年も経って彼の追憶を彼の弁をして、かなり強く書き記した理由も定かでないが、自分の代弁とさせて、昭和初期三年(病死する六年前)ごろに 似たようなアカデミック界であったのかも知れない。

追、いつも年末になると寅彦を振り返ってしまう。寅彦は昭和九年の十二月に病死している。

居は田端の西方隣、駒込曙町である。最近、其方へは散歩をしていないが暖かい日を見つけて大龍寺から行ってみよう。

いずれも青空文庫で読むことが出来ます。

根岸庵を訪う記(明治32年9月)-初めての訪問

http://www.aozora.gr.jp/cards/000042/files/24406_15380.html

子規の追憶(昭和3年9月)-初めての訪問から30年後

http://www.aozora.gr.jp/cards/000042/files/24418_15372.html

意外な自分自身の経験

先日(2020年9月初旬)、CATVのローカル番組で2007年に放送された関東大震災の横浜での記録が再放送されていた。震源地は相模湾だったが大都市東京の悲惨さばかりが後年報道されて、震源に近い横浜の災害状況がどうだったのか報道されていることは極めて少なかった。
私は今67歳、横浜生まれ、父も大正10年の横浜生まれで、関東大震災の2年前だった。この番組を見て、父が生まれた中区長者町(伊勢佐木町の近く、私の出生本籍地も)が壊滅的な被害を受けたことを白黒の映像から知ってぞっとした。
都内でも火災で10万人以上の死者があり、横浜でも同様に火災で多くの死者が出て、2歳の父がその焦げた瓦礫の下になってしまったと想像すると、、、、<今の私の独り言は幽霊詞になってしまう>
父が生き延び、その小さな父を守ったくれた祖父も昭和20年に63歳で戦死ではなく病死したそうである。父が6年後に結婚し、昭和28年に私が横浜の生麦で生まれ、横浜出身として、世間に言いふらすようになった。

ここからが自分の経験とは何か、少し考えてみたい。
実際、私が横浜で暮らしたのは、7年と5か月と短い。小学校1年の途中で同じ神奈川県の小1時間かかる農家がまだ牛を農耕に使っていた他地域へ、普通の工場の勤め人だったオヤジが家を建てたので引っ越した。しかしこの短い横浜と言う経験が私を育ててくれたと思う。

経験は実体験と後で学んだ歴史的事実が加わった今でいうバーチャル経験であってもいい、想像すると人の経験はこの類である。。
それは関東大震災の番組の中で、ある老人(87歳、震災時父と同じ2歳)があたかも自分が被災した事、町の様子、例えば木造のxx橋が崩れる前に山の手側(今の元町の高台)に逃げ延びられたことを説明されていた。非常に生々しい内容だが、TVのテロップでは当時大きかったお兄様より後年お聞きになった話がベースとされたとあり、それらを自分の体験に転嫁されたようである。これがバーチャルであって、自分の小さい頃の横浜の経験も同じだと思ったのである。

本当に当時小さな私が意識し記憶している体験を列挙し、それらが後の学習によって正しいのであるが加飾された例(*印がある行の説明)を幾つか上げる。

鶴見区生麦に生まれた私は、家族で2両で繋がった電車(京浜急行)に乗って出かけた。
*生麦が、薩摩藩士が幕末、英国人を切りつけた歴史的場所などと当時知る由もない。歴史書

二年保育の幼稚園に通ったが、そこは家族経営の幼稚園で園長先生が二階に住んでおり、時々朝、園長先生を呼びに行かされた。
*その幼稚園は、後プロレスラーになった猪木選手の実家で、ブラジル移住後はお兄さんが残り経営した。当時猪木選手は中学生だったらしいが、小さな私は見かけたこともなかった。親の話

横浜の大桟橋でよく遊んだ。
*写真好きだった父が残してくれた桟橋で撮った兄との兄弟写真があり、それを見て桟橋によく行ったと記憶している。

よく覚えている叔母さん(父の姉)の家に行った時に頼んでくれて美味しかった店屋もののトロミのある中華そば。
*家は南京町(当時は中華街とは呼ばれていない)の近くにあり、中華麺は横浜で有名な生碼麺。「さんまーめん
という発音は記憶している。

その叔母さんの家に行くには電車で生麦から横浜駅へ、そこで乗り換えるのだが、路面電車(市電)とバスがあった。
*バスは野庭口行の市バスと上大岡を経て鎌倉街道をゆく大船行のオレンジ色の鎌倉急行があって、いつもバスに乗せられた。

父からよく聞いた話、父が山下公園で遊んだこと、海辺なので鮭の切り身を餌にカニを釣ったこと。
*山下公園は関東大震災の瓦礫で浅瀬を埋め立てて出来た公園(昭和五年)であることを後年知る。歴史書

これらの学習した横浜は後で学んだことが加わって自分の体験として身についた。よく考えるとそれはバーチャルで加飾された体験である。皆さんの小さい頃の体験・経験を振り返ってみては如何ですか。

リフォーム前の壁掛け作品

令和になって、5月の連休後に、築30年を向える我が家のリビングとキッチンスペースの大リフォーム工事が始まった。2月頃から業者と打ち合わせを開始し、これからは30歳をとうに過ぎた子供達が使うので、子供達の好み要望を沢山出してもらい、それに合わせて業者からの提案を受け、煮詰めて最終案となった。どちらかというと私の願望は抑えた。わざわざ大阪にいる二男は建築科出身ということもあって東京の打合わせに顔を出し、業者もメールで二男へ回答などもくれていた。二男は予算の金額には目もくれず、良いものや改造案をどんどん出していく性格だ。娘もキッチンのシステム化や対面式・オープン化でどしどし母親を押していく。長男夫婦は綺麗好きで、食洗機は勿論、配置でも物を出来るだけ置かないようにシンプル派だ。

個性と性格が出て当たり前、システムキッチンのショールーム見学へはお嫁さんや娘は勿論、二男は結構業者に食らいついたようだ。私も同行したが、皆が気に入る環境作りが出来れば善しとした。最後の詰めは家内と娘が行き、キッチンの色をもっと明るく白っぽくしてきて、少し予算額を下げた。

普通、新しく仕上がった壁紙の壁には写真の1枚や2枚、絵画の1枚や2枚位、別に骨董的価値に問わず、飾りたくなるものだが、今回のリフォームの約束は一切何も壁には掛けないと決めたのである。時を知る時計もない。

実はリフォーム前はご多分にもれず、どこの家庭でも見られる光景のように子供が小さい頃から撮った写真を大きくしてフレームに入れ、壁に吊るしておいたのだ。枚数は定かでないが、娘が3才頃初めて料理をしてサラダを作った、東京に大雪が降り雪を掻き集め“かまくら”をやっとのことで作り上げ、小さな子供が2人入れる小さな穴が鎮座、子供の剣道、体操姿、京都の修学旅行、一番成長したもので次男の高校の入学式でなぜだか止まった。それらの中で白黒の作品2つだけ違っていた。1枚は私が学生時代(1975年)に北海道(道東)野付半島近くの尾岱沼で冬撮影した白鳥と、もう一つは30年前の新築祝いで家内の知り合いから頂いた銅版版画(エッチング)である。

私の冬の凍った湖と数羽の白鳥よりも、頂いたエッチングの主(学校の美術系の先生と伺っていたが作家と呼んでおこう)が気になった。私は一度もお会いしたことのない作家さん(家内の知り合いの女性の旦那さん;年齢的に定年退職され、数年前都内よりご出身地の方へ戻られている)であるが、エッチング作品に残されているアルファベットの署名で調べると著名な方と分かった。xxx展覧会の審査員を務めていらっしゃる。人の顔をデフォルメした当時お祝いで頂いた作品(木霊Xと題されている)から進化転化され、写真と間違えそうな位、繊細で緻密な森の木々を描いた作品はインターネットで紹介されていた。ご出身の群馬の山奥か、私の記憶を辿ると上高地の沢沿いのまだ樹木が残って枝落ちし、それが朽ちかける経過のように凄い年数を思わせる作品だ。私には寂しげだが長い長い静かな生命を感じた。

なぜ、30年前の当時このような作品を頂いた由縁を考えると、ご両親のお仕事の関係で子供さん達を朝早く保育園に連れて行くことが出来ず、家内が代わって知り合い(地元の学校の同級生同士)のお子さん達を連れて行ってあげていたのだ。当時は待機児童という言葉もなく、近所で協力していたのだ。家内も仕事をしていたが朝、時間の余裕は少しあったようだ。インターネットで、作家さんご夫妻が昨年、〜木と水と土と〜 と題して二人展を開催されていたこと知り、お子様たちも親の手から離れたのだろうと安堵した気持ちになった。まさに森の木とせせらぎの水、土とは奥様の陶芸家としての粘土だと私の独り言となった。

令和元年7月2日記す

消費者としての我が身とエネルギー政策との接点


学生時代(1975年前後)漠然と日本のウラン核分裂による原子力発電が注目され、どんどん増えてくるなという環境をうすうす感じていた。専攻が材料、それもセラミックスを主なテーマとする学科で、原子力関係へは進まなかったが、極めて強い放射線環境下での炉材材料の劣化研究など含まれていた。大学院へ進むため所属した研究室ではゼミ勉強会として当時現場で活躍していた専門家の先生方の話を聴く機会も多かった。その中で原研の専門家で、溶融塩型高温増殖炉が理想的で、夢のエネルギーが得られるというバラ色の話があった。今になってそんなバラ色は消え失せた。

1978年に社会へ出て就職すると、私は半導体材料担当だったが、核融合のうち磁場によるプラズマ閉じ込めに続くレーザ光による次の核融合を目指す、高強度のレーザ光を発振させるガラスレーザ光システムの開発を就職した企業の他部門が進めていた。自分に近かったのは酸化物結晶によるレーザ光発振を開発している部門で、後に実際に使わせて頂き半導体薄膜(ミクロンレベル)の加熱処理を進めた。昨今では高強度パルスレーザ光による大型材料加工(厚膜鉄板の切断)の実用化、医療分野への応用がなされ、1980年ごろに開発取り組みをした欧米のチームが2018年のノーベル物理学賞を受賞した。それにしても40年弱の時間が経過している。

話を戻そう。就職した部門での他分野研究として、1980年当時、始められたばかりのシリコン薄膜太陽光発電セル(ソラーセル)の試作も行った。現在の再生可能エネルギー政策として風力発電とともに重要な位置づけをされている太陽光発電の黎明期であった。この時のシリコン薄膜は低温度で形成され、水素分子が多く含まれる所謂アモールファス状のものであった。その後ポリシリコンとともに液晶ディスレイを駆動させるトランジスタデバイスにも使われた。

それから齢を重ね、省エネ・脱二酸化炭素ガスを御旗として、ハイブリッド車とか家庭にもソーラーセルを導入という機運が国内外で作られてきた。初めてハイブリッド車を手にしたよと、友人の中でも物好きなやつが、わざわざメールで連絡してきた。また、吃驚したのが実家の兄が新築した実家の屋根にソーラーセルを載せたことだった。都市ガスの配管が来ていない神奈川県の在にある実家はプロパンガスを使っており、オール電化にして、ガス代節約を標榜し、多額の投資をした。そこにはちゃんと裏があり、国や地方自治体が助成金を出し、普及を図る仕組みに、兄が乗っかったのだ。

数年して、2011年3月11日の東日本大地震が発生し、日本のエネルギー政策が根底からひっくり返った。2018-2019年現在でもふらふらしている。実は原発が停止し、計画停電もされたが、運よく、東京山の手線内に住んでいたので、真っ暗な夜を過ごすことはなかったが、翌2012年の末、自宅へもソーラーセルの設置工事を行い、2013年初頭から太陽エネルギーの直接恩恵を受けることになった。弟の私も国や地方自治体の助成金システムを利用させて頂いた。現在も劣化もなく発電を続けているが、年間の推移をみていると天候に大きく左右されていることがわかる。発電量変動にして15-20%であり、これはお天道さんが良く照っているとか照っていないとか、飢饉を起こしてもいいくらいの変動である。気温や降水量もあるが光なくして光合成は進まず、即食糧難と関わってくるものだ。

2005年、27年間のサラリーマンを辞めて、自営のコンサルタントになったが、業界支援として活動しているときに、前にも書いた風力発電に世界的に巨額の投資がされ、直径50メートルを越える風車が国内でもあちこちで目に付き増加しており、その風車の羽根の歪を“ある光技術”でモニターするデバイスに関わった。海外の風力発電量は大きく、国内は小さい。本当に大風が吹くと羽根が壊れ、インフラ設備の風車自体も倒壊する事故も起きている。仰々しく国のエネルギー政策の議論はしないが、ワットの蒸気機関が発明され、化石燃料を大量に消費し始める産業革命以降、増え続ける大気中の炭酸ガスの上昇を抑えようとする大義が各国にあって、持続可能再生エネルギーの開発導入が原子力発電とバランスしながら、推進されてきた。

ところが2011年の東日本大地震による原発の被災を契機に、コストが安いといって石炭、天然ガスによる火力発電が代わって前面に出されてきた。化石燃料の需要増大で価格上昇がもたらされ、シェールガスの高い採掘コストの元がとれると理由で米国がシェールガス埋蔵量トップで米国はエネルギーの輸出国のポジションを得るとことになった。中東やベネズエラの石油産出国の取り巻く環境変化、エネルギー産出が低下してきたロシア、価格高騰の原油の大量輸入で貿易赤字増大の日本と、世界のパワーバランスの変革が進む現状を平成最後の日に独り呟いている。