今年福男の還暦頃の呟き

日本の時刻制度”橋本万平著(塙書房;昭和四十一年九月二十日発行)という古本を手にした時期も忘れ、ちょっとは役立った話の紹介をしたい。

知り合いの方が「お八つ」とはのお話が、「六つ」というと午前の六時ころか、十八時ころかが分からないので、午前は「明け六つ」で、午後は「暮れ六つ」と言った室町時代のころから日の出から日の入りを六等分する不定時法が定着した。ひるの「八つ」はだいたい十四時ころで、その頃間食をしたので「おやつ」というのだそうだ。<今風にいうと“おやつ”は大体午後三時頃に、腹が減って来た頃に口にする、お菓子みたいな食べ物のこと。>
私は横浜生まれで、その後神奈川県の中部、茅ケ崎で育った私の記憶では、友人の実家(大農家)ではおやつを“おこじゅ“と呼んでいた。それはネットなどがない昭和四十年前後の頃の話。今、ネットを紐解くと、”おこじゅー“は神奈川や多摩地域の”おやつ“のことの方言と説明されている。
 さて、知り合いの薀蓄では旧暦の時間の分割の仕方が西洋風とは異なり、日本では不定時方法によると、昼の八つは今の午後二時頃になるそうだが、今は定時の午後三時頃に口にするちょっとした食べ物が“おやつ”になってしまっている。さらに続けると、今我々は一日に三食食事を取っているが、その昔は日本も西洋も朝、夕の二食だったと聞いている。そんなことで、身体を使う仕事をしている人が殆んどだった昔はちょうど腹が減る頃に何かを食したいことになる。所謂、おやつ・間食で、恐らくそれが昼食(ランチ)となり、三食制へと変わっていたのではないかと推測出来るのである。現代人は、朝、昼、晩と三食も食らう人種となってしまっても、さらにおやつと称して午後三時頃何かお菓子・フルーツ・最近では見栄えのいいスウィーツみたいなものをしっかり食べるようになってしまっている。昼食を食べることが本来の“おやつ“とするとそれで十分なはずである。
武士の家計簿に、暦が太陽暦になったとき、江戸時代の人が大混乱を起こしているさまが書かれているそうだ。正月のいつに餅つきをするのかさえ分からなくなっている。特に武家には年中行事があって、それがいつになったかが分からなくなり「鮒の藻刈りに酔いたる体」。鮒が住処を失って息も絶え絶えになってしまったという感想を述べているそうだ。武士の家計簿に大混乱と記されていてそれだけ、一大社会変革でもあったようだ。太陽暦との一番の誤りは七夕だと思います。今の七月初めは梅雨で、彦星と織姫が澄み通った夜空で出会い事は稀で、旧暦の七月七日を新暦で言うとだいたい1カ月以上ずれて八月十五日位になる。そうすれば真夏で夜空も期待できる訳ですから。次に、新年の挨拶で新春をお喜び申し上げますなんて、何で寒い最中に言うのかという事も、旧暦の正月は、新暦の二月中旬前になるので、そろそろ季節代りを期待しての挨拶がぴったりになる。
現代人には、頭の中には概念として、旧暦(太陰暦)と今我々がお世話になっている新暦・太陽暦があることを知っている。しかし、人が年間の四季を通じて、肌身で感じる日常の生活では、十二ヵ月制の太陽暦と季節感や二十四節気との間に、実は乖離があることを感じている。地軸が傾いているので、地球上の何処に住んでいても、季節によって昼夜の長さが刻々と変わるという生活は避けられないので、便宜上不定時法が浸透したのだと思っている。今、我々は時間を計る仕組みやその機械装置のことを“とけい”と呼んでいるが、古くは水が滴る量をもとに時を見ていたので、それは漏刻(水時計)と呼ばれていた。手元の古本には陽とともに暮して来た人の習慣で、昼間の明るさ(猫時計;猫の目の瞳の細さを便宜的に利用)や棒を立てて、その蔭の長さから時を知る方法が浸透している事も説明されている。その棒は長さが二尺又は四尺あって、蔭の長さや方向で冬至の日まできちんと読みとっていて、“土圭”と呼ばれていたそうだ。それが今の時計という言葉に変化したようだ。
現代最新物理では、重力によって時の刻みも影響を受けてしまう事(アインシュタインの理論)や人知を遥かに超えた精度を持つ時間の計測方法が確立されてはいるが、<最近、一台が5億円もする>超精密な光格子時間計測器・時計も売り出されており、凄い世の中になってきたように思われるが、実際五億円もする時計はインターネットが高速になってきているという我々のニーズ要求がそうさせているのだ。所詮我々の生活は一息や一歩という尺度ですむ事が多く、農耕は太陽と季節、漁師は潮の流れ・満ち引きを正確に理解する事で、糧を失わぬよう叡智を凝らしてきた。所謂、腹時計の方が有用な時もあることを忘れてはいけないようだ。
2013 New Yearとして、2013年、平成二十五年巳年も恙なく、穏やかに新年を迎えることが出来ました。あまり、過ぎ去った昨年を振り返ることなく、新年の歩みを確実に進めて行きたいと思います。近在の八幡様へ初詣に行き、神社暦を頂いたところ、新暦・旧暦が合せて記載されておりました。旧暦の正月は新暦の二月十日です、という事は新暦の正月は旧暦でまだ十一月二十日と有ります。暦の定め具合によって正月を祝う気持ちは変わりませんが、世間の風習は旧暦起源で行われ、季節感を堪能出来ます。東アジア起源と思われる旧暦の行事は我々が農耕民族であったことの証である収穫を確実にする(生きて行く為に必要な糧を得る)季節毎に行うべき活動が集約されているものです。これらは伝統的なイノベーションであることに間違いありません。
平成二十五年の今年は私自身巳年の還暦となり、神社でお目にかかった近在の方も同じ干支との事、年齢的には二周り上の親の世代の方でした。そういえば、祖母も巳年、親の更に二周り上の世代でした。八十台で亡くなりましたが、存命であれば百八歳。先日、日本の百十五歳の男性の方が世界一の長寿だとニュースで報道されていましたが、人の運命によっては、まだまだ暦上で歩みを進め、干支も廻り続けておられます。IT社会になったと言えども、”社会的収穫”を確実にする”IT暦”や節目毎の行動を示唆する”IT風習”は未だ我々自身で提案出来ておらず、身に付いたとも言えない状況です。いつか近い将来、そんなITイノベーションがオープンに共有出来る時代が来るはずです。

2013年元旦初夢前に、夢を語る。

暗黙知を超える?

注目

次の冬季オリンピックで金メダルを目指す女子1500mの高木美帆選手は、最近硬いブレードに交換して、なかなかしっくり来ないそうである。美帆選手は1000mでは世界一を成し遂げたが、1500mでは欧州・中国とライバル選手が多く、ちょっと先を行かれているが、ライバル選手は既に硬いブレードを使い続けて、成果を出しているという。

硬い氷に硬いブレードと素人考えでは未知の組み合わせでもないように思うが、美帆選手にとっては体幹的に何か言語化出来ないものがあるという、それは従来暗黙知と言われている分野を超えるもののようだ。普通、暗黙知は文字化・仕様書化できれば万々歳であるが、もとより高木選手は専門家であり、プロフェッショナル・その分野でトップを行く人であっても、自らが”言語化”出来ないのだと嘆いている。

夏の暑い最中に、かき氷を削って食べたいと思う心が野心的になれば、美帆選手ももっと気軽になって、挑戦して欲しいと思う。(途中です)

気まぐれに呟く


本来であれば、昨年の十一月頃に呟こうと思っていた。それがずるずると今日令和七年一月二十三日まで延びてしまった。

その理由は一月二十日に行われた米国大統領の意思表明であった本来であれば、昨年の十一月頃に呟こうと思っていた。それがずるずると今日令和七年一月二十三日まで延びてしまった。その理由は一月二十日に行われた米国大統領の意思表明であった。

もし私ごときのつまらない呟きが、多くの憶測に基いた不確かな情報とも言えない話で、近い将来こんなバラ色に包まれた様な事になるのではないかという、一抹の不安があったことや二
三の些細な優先させたいと事があって、今日になってしまったというのが本当である。

もうコンサルタントをしていると、嘘八百とは言わないが、結構推定・予測・統計データに基づいて作成したモデルとか将来像を自分の真念と業界の一般的にはという他人にすがるような常套手段でお茶を濁ス様な事も多い。

民主主義とは 
  立候補者の要件について、私なりに以前提案させて頂いていた。
  Democracy vs Republican という構図になった昨年の米国大統領選の結果で、私なりに勉強になったことは多数決とかの手法でない、米国の富裕層と労働者層の歴然とした対立の構造になっている事。

国内では、急遽行われた衆議院議員選挙の結果、選挙前の与党勢力が少数与党(I首相率いる)へ陥落。兵庫県知事選の結果、S知事が再選されて、SNSが候補者の公約や政策の浸透のという面で若者へのアピール効果が高いことを示し、このSNSの効果は昨年の夏前の都知事選で既に相当な力になることも分かっていた。これは民主主義の政策・広報と言う面で、所謂ニセ情報の発信をいかに防ぐかという課題(有権者の行動等の要件)を突き付けた。

ここでもう一度、民主主義とは、、、について纏めると立候補者の要件・選挙中の広報手段・有権者の要件の三点に十分に注意して議論しなければならないことが解る。

米国大統領選挙結果が判明した後、さらに関心の高まりにより、T大統領の宣言まで聴いて確かめた後になってしまった。米国の要求が米国の有権者のみならず、非常に明確で、世界の一般の人が分る言葉で表現されていたことであった。

国内でも、最終的に腑に落ちて、納得した事は有権者、全ての団体が暮らしを良くしたい、特に法人税や個人の所得税減税を望み、国内ではこれまで高齢者向けのインセンティブを優先的に諸策の検討をしていた流れを少子化対策へと変えて、予算のある、金のある地方自治体が、子供医療費、給食費、義務教育でない高等学校の授業料無償化、さらに大学授業料の無償化まで要求が拡大し、そのための予算枠を確保出来るのか否かの議論に落ちてしまっているように見える。

我々のような七十歳を超えた高齢者は振り返ると昭和二十八年生れが境であった。戦後のベビーブーム・昭和二十二年生より少し後の世代の話をしてみる。先ず、義務教育で必要な教科書は有償であった。それが、昭和二十九年生れの世代からは無償になった。私の世代は給食も小学校まで、東京のような大都市では給食は中学校まで、勿論給食費は必要だった。大学入学時に国立大学の授業料を3倍にする法案が通り、3倍になった。この大変化は当時の政局をストップさせ、予算が可決したのはズレ込み4月に入ってからで、3月下旬の国立大学の手つづきでは旧来の授業料や入学金を納めて終わった。が、もう一つ、大学入学時の授業料が従来だと4年後の卒業時まで続くのであるが、昭和四十七年の特例で、4月に入って可決した3倍もの授業料を後期から納めろということだった。

さて、国内も米国も有権者の要求は本当に自分の暮らし向きをただ良くしてくれそうな立候補者を選ぶことのみに集中し、本来は政治(祭りごと、国を治める)であって、国民主義・基本的人権の尊重・平和主義(国の安全/国防)というの憲法に規定された主意を維持するための、法律(簡単に言うと人として生きていくためのルール策定・周知・施行・ルールを犯した場合に対する処置)などを規定する三権分立の立法を、掌らなければならない。

自分の暮らし向きをよくしてくれる候補者を希望し、皆様もご理解頂けると思うが、一地方の議員さんが対処出来る課題でないことはT大統領が次々と署名していく米国大統領令の内容は日本一国でも対処できない、とても幅広いグローバルな連携と具体的な実施し得る行動的施策ばかりで、相当な経験、紙上だけの勉学ではない多国籍企業のマネージャのような実務経験や海外留学で培う人的コネクション(ふとしたことで、後になって役立つ異国の輩と知り合うこと)、さらにこの分野ならば任せてくれと言える秀でた専門性まで身に着けておきたい。

単に民主主義とはと言った事では済まされず、経済至上主義だけでもいけない、そこは焦らずに時間をかけてもいい、先ずは自分をスタート点として、皆様が全く同じ環境に居るわけでもないので、それぞれ考えて行けばいいのではないかと思った次第です。

新春雑感2025

 事の起りは、令和7年元旦の早朝のことで、YouTubeで3代目桂三木助氏の芝浜という有名な落語を聞いて、少し庶民の気持ちを晴れやかにしてくれていて、間をおいて観始めたTV番組である。それはN放送の何とか徳島というタイトルで既に始まっていた。見始めると直ぐに、徳島県の四国お遍路第11番目の寺が紹介され始めていた。
  なぜかこんなことを思い出し、大学4年の卒業式を済ませ、大学院の入学式をまじかに控えた約50年前のサイクリング四国1周(約1000㎞)の初日に東京有明ターミナルの徳島行きのフェリーに夕刻にサイクリング車と乗船した。翌日昼間に小松島港に着き、走り始めて当時四国は未舗装の幹線路も多く、直ぐにタイヤがパンクして、修理をはじめていた。こんな小さな釘が刺さっていたのだ。これを凶と見るか吉と考える暇もなく、また自転車こぎ始めて、今晩泊るところは確か板野町のお遍路さんに組み込まれたお寺だと言う事でひたすらに、こいで初日の宿に到着した。
当時は輪行の友は縮尺5万分の一の地図で、それを自分が踏破するルートに沿って買い集めておくことと、宿は主にユースホステルだったので、その小冊子(電話番号が記載)の2つであった。
 そのTV番組では、時間に余裕のある方は四国霊場88カ所を徒歩でいくという、次ぎの霊場迄7時間も掛けて歩き、途中で難儀している高齢者に遭遇すれば手を差し伸べ、歩を緩め同行するという素晴らしい紹介をされて、さらに50年前の当時とは違い、綺麗でモダンな宿坊も紹介されていて、異国からも多くの参拝者が来られ、東京京都大阪と言ったシティ派とは違う日本文化を享受している方々を取り上げていた。
 私の50年前の様子は、お寺さんの宿坊3か所、「徳島、四万十川沿いの中村という町にあったお寺さん、そして室戸岬の崖の上にあるお寺さん」で、後はユ-スホステル3軒と港町の民宿(四国の最西端の佐田岬手前の三崎町)での1泊であった。私の輪行は7日間で約1000kmの距離で、1日で100㎞、長いと150㎞位迄、半日で80㎞程度の走行。道路の路面状態(未舗装で砂利道、上り下り、山道とか)や天候に大きく依存した。平地では雨降り、標高300mまで上がると雪にも、四国の松山で、4月早々で遭遇するという天候だった。
 N放送の番組でフォーカスしていたのは、確かに50年前もいらした各お寺さんで戴く御朱印帳め、急ぎの為タクシーを利用する方々ではなく、日本文化をゆっくりと体験してみようという趣きにあった。

私は、なぜ四国88カ所の霊場なのかと言う数字の8に惹かれた、88である理由、四国にはもっと沢山のお寺さんはあるのだが、、、 では、AI関係のネット調査を行うと、 即座に次の囲みに記した解説を教えてくれた。

四国八十八箇所のお遍路さんが88箇所である理由は、弘法大師(空海)に由来するとされています。空海は四国で修行し、多くの寺を開いたり、修行の場所として選定したりしたと言われています。彼が修行した場所を巡ることで、心の修行や成長を象徴する旅とされています。 (中略) 88は仏教の修行階梯を象徴する数字とされ、それに基づいて88箇所が選ばれたとされています。

 中国では⑧はいい数字で、吉だそうだ。北京オリンピックは暑い最中の2008年8月8日を開会式にリザーブするぐらいの国家行事としたぐらいであった。
 これは未だ公に紹介したことはないのだが、私が幼稚園児の歳に親以外で初めてもらったお年玉が昭和33-4年の頃で真新しい10円硬貨で80円だったこと、もし、くれた祖父祖母が、8が縁起の良い事を知っていて、お年玉としてくれたのかと大人になってから長年の疑問がくすぶっていた。数年が経ち小学校の低学年の時の祖父祖母からのお年玉は金ぴかの100円玉で2-300円だったと記憶しています。今、金が1gで1万数千円もするので、当時の稲穂が彫られている100円硬貨は銀貨と言われるくらいで銀の含有量が多く、余談ですが現在の価値は”300円”超えることが計算でわかります。
 そろそろ終わりにしたいのだが、落語で芝浜という有名な演題の事も疑問があって、魚屋の主が江戸の芝浜(現、品川から浜松町あたりの海岸)で皮の財布をひろって、中身の銭の総額が82両という大金であったことを思い出し、⑧にこだわっている私の気持ちが、なぜ芝浜で拾った銀の粒が82両分(小判82枚でないのだ)なのかということも、ネット検索したところ、落ちがありまして、噺家によって、財布の中身は50両や42両という具合に変わっているそうで、ちょっとした額を拾ったのではなく、江戸の当時の大金であること(1年以上も暮らせる)、番所にも届けず隠しもっていて、庶民がビクビクしながら、何かと周囲を気遣って暮らし通せる金額の範囲であれば良かったそうである。

野中郁次郎氏 ご逝去

野中郁次郎氏が89歳でご逝去されたことを新聞で知った。私は若き頃(今は2025年1月27日、約50年弱前)、半導体業界にいたが、研究分野では特許発明の申請を年に何回することが業務目標の一つに含まれてた。野中先生を知るようになったのは数年して、日本創造学会の集まりに出入りするころで、既に暗黙知を形式知に変換しようと各界・多くの研究者が取り組んでいられた。私自身、暗黙知なる言葉に初めて巡り合い、こういう表現も出来るんだという驚きであった。合掌

歴史・考古学が面白い②


  十月号に引き続き、「歴史・考古学が面白い」を深める為に、特にルーツについて自分の身をあるところに置いて独り言を呟く。十月号で人のルーツについては、どこかに自分に似た人がいる風に少し書き始めたが、今回三つのルーツについて、第一は自分のルーツから、第二は現代人のルーツ、そして第三は縄文人のルーツについて、解説風に呟いてみる。

1. 自分のルーツ・母方と父方
  弥生後期の人骨形態学による再現古代人の顔が母方の祖母(本家は埼玉県鴻巣)・叔父さん(埼玉県在)にそっくりで、これは初期の人骨顔再現法でもこんなにそっくりさんを再現出来るのだという、表現のしようがないくらい驚いた事とこんなに身近な係累で自分の出自が解ってしまう事は驚きを沈めさせてくれた。関東北部の群馬県の榛名山近くと記憶している遺跡からの遺骨を分析・再現した研究成果だという。
もうひとつ、父方についても次の検証があるのだ。2006年の秋、2008年の夏にオリンピック開催の決まっている北京を訪問し、その際で時間が前後するが、日本へ帰る日、知り合いの中国人のお母さんがホテルまで見送りに来て頂いた。背が高く、面長の顔、中国の北部に多い民族を代表するような目も細い。亡くなった叔母さん・父の姉にそっくりだった。父の姉は、四十台で死んだ祖母(本家は埼玉県の戸田)とそっくりだったそうだ。背丈は違うが、面長の顔はそっくり。叔母さんの娘・従兄妹・既に病死は、もっと似ていたような気がした。
北京で企業訪問の日、訪問で行き先が分からず、タクシーがやっと目的地に着いた。降りて若い人にお邪魔すべきビルをタクシーの運転手が聞いた。また、吃驚。その若い人の顔が私の従兄弟・父の弟の息子にそっくり。歳はいとこよりやや若いが、背丈、顔かたちがそっくりだった。北京へ来ているはずは無い。このいとこの顔は私と血の繋がりの無い、伯父さんの連れ合い・伯母さんの系の顔で漢民族とは違い福建・広東系の、私の体験では香港でよく見かけた少し年配のご婦人の顔が伯母のお母さんに非常にそっくりであった、
中国の人口は十三億人、それも単一民族ではなく、南方系、北方系だけでなく、もっと複雑な古来からの民族の集まりが中国をなしてきた。周辺の国々も、南はベトナム(漢字で越と書きます)、朝鮮半島の北・南、昔なんて国境もいい加減、人の往来は戦争や事件で逃げたり、避難したり、貧しさから逃れるために移動してきたはずで、人口1億の日本民族も単一でない。中国、朝鮮半島と似た図式であろう。その証拠に、ちょっと出かければ、人口が十倍だから、知っている人に似た方を見出せる確率が高いのであろうと納得した。
 
二.現代日本人のルーツ
  ここからはDNA研究者の解析結果である。
父系のDNAで表記すると概ね次の四種類、オホーツク人C2・縄文人D1a・長江弥生人O1b2・漢人O2で構成されていて、青森県・東京都・静岡県・徳島県・九州・沖縄県において、全ての県で縄文人が一番多く、その比率は60超から35%で異なる。弥生人と漢人を加えた3DNAの比率は95から80%で主要構成。、各県の特徴として沖縄が縄文人60%超のトップで、九州は弥生人と漢人の合計が60%でオホーツク人が混じる、徳島は九州に比べ弥生人と漢人の合計は50数%で少し小さい、静岡はこれら2つのDNAは60%を少し超え弥生人の%が大きく35%を示している。東日本の東京・青森では縄文人の比率が50%程度に増加して、オホーツク人と弥生人亜種O1b1と表記される長江越人が数%あることを特徴とし、東京と青森の差異は青森の方が縄文人が少し減った分オホーツク人と越人が増えている。東京の方が、縄文人の%が少し大きく、その分オホーツク人と越人が少なく、東日本では東京の縄文人が多いのである。私の個人的興味は、記紀等から東日本で大国であった日高見国の情報が消えている理由などが遺跡の人骨DNA解析で解明される事を期待したい。

三.縄文人のルーツ
DNAのゲノム解析で判明しているタイプはD1aである。
氷河期の三万八千年前に、アフリカを出発した現生ホモサピエンスは、アジア大陸へ、そして日本列島に到達、しかしスフール大陸・オーストラリアまで南下したGrが再度沿岸を北上したGrと途中でアジア大陸内で北上したGrが樺太経由南下して、列島に到達したと考える。これらの南方系Grと北方系Grが混血して縄文人として日本列島内外で活動したと思われる(D1aという男系縄文人DNAの呼称)。  *注 後年十二世紀ごろに北方より北海道に南下したアイヌのDNAはオホーツク人と縄文人固有のD1aの二種から成っており、縄文人の%は80%と非常に大きい。

研究参照 篠田謙一氏 佐賀医科大 *発掘された人骨の歯を中心に解析
           斎藤成也氏 国立遺伝学研究所 *ヤポネシアゲノム研究関連

余談ではあるが、時代的には日本の縄文後期にあたるアイスマンのDNAは詳細に調べられて、wikiに紹介されているが、背丈は160㎝で目は茶系だそうで、現代の我々が思い浮かべる白人系の背が高い人種ではなく、少し西域アジアに見られる人種の様であった。

十月号中の訂正 
アイスマンは五千年前 訂正 五千三百年前

                                      完                    

歴史・考古学が面白い①

 最近の歴史は面白い。文字がなかった先史時代の遺跡や有史時代の遺跡が発掘されて、それらは数多くの最近開発された分析手法とそれらに紐解かれた分析結果を従来になかった社会的見地で、大胆な仮定が昔の姿だったんだという事を、納得させてくれるからだ。私は好きが高じて、所謂2次情報のみで、今回の独り言を呟いている。
 素人歴史家・考古学好き人間なのかもしれない私は、受験で取り組む、特に世界史になるものが当時好きでなかった。ただ時間軸を古きから新しきものだけにした見方と単純に何年にどういう出来事があったとするだけの見方には、なじめず点数も及第点に届かず再試験もやった。
 学生時代と記憶しているが、米国の南部の黒人家庭(アフリカから奴隷として連れてこられた)のルーツを自ら調べようとした本が出版されたころに、種々の科学的手法を適用し、時空を超えて戻ったり進んだりして、暴いて行こうとする姿勢が大胆で面白しろそうだと思った。あとは、サラリーマン時代にアイスマンンという欧州のアルプスの峠越えのルートで5000年前と思われる氷漬けのミイラが見つかり大騒ぎとなった事件を書いた単行本を買ってしまった。普段は古本購入で済ませているのだが、私が新版の単行本を購入してしまう位、衝撃的だった。
先ず自分の数少ない実体験からスタートしたい。子どもの頃の印象や大人になってから地元の社会活動グループを通じての実体験である。縄文貝塚が少し標高のある海から離れたところにあった。都内で古い神社は標高20数メートルに鎮座し、その坂下から縄文時代の幾重にも堆積した牡蛎の貝塚遺跡が見られる。青森・函館の縄文遺跡見学し、結構今の海岸線から離れていると不思議だった。
土器の再現焼成で、古代文化との関わり、組成の化学分析で判明。 以降、考古学は最新の材料の微量分析技術、半導体の微細部解析により進む。
弥生後期の再現古代人の顔が母方の祖母・叔父さん(埼玉県在)にそっくり、関東北部群馬県の榛名山近くと記憶している遺跡の遺骨分析。次に、父方の従兄弟の顔・背丈が非常にそっくりで見知らない方が2007年・オリンピック前の北京に出張で訪れた時に、タクシーから降りた際に街角で見かけた。本当に久しぶりと挨拶をしようとしまう位、似ていたことを実体験した。

続々と進む縄文遺跡・弥生時代の遺跡発掘
  戦いに関する遺物がない縄文時代
  12x35cm単位(身体の特定部位の長さ)と規則性・数学の発達?
小さな子供を葬った甕の中に小石が1つ、2つと(三内丸山縄文遺跡)
入っていたそうで、資料ではその点についてのコメントはなく、
私は1歳で亡くなった子供・2歳まで生き存えた子供と直感した。

寒冷化による1万年以上続いた温暖な縄文時代の終焉と、
  急変する戦闘的弥生時代の環濠遺跡
  吉野ヶ里遺跡の再発掘・傷を負った多くの人骨が甕棺墓に

氷河期と暖気、間氷期の暖期 海面変動と人や大型動物の移動
  学説;太陽の活動(400年前から黒点の出現数を観測)、
11年の周期性の乱れと黒点数がゼロの年が続くと
気温が下がり*1、太陽の活動が活発な黒点数が多い
時期は気温が上がる。実は太陽が放射する光のエネルギーは、
ほぼ変化せず、磁場の乱れと関係し、弱くなった太陽系圏の
磁場を通り抜けた高エネルギーな宇宙線が悪さをする(
大気中に小さなエアロゾルを形成し、それが雲の核となり
雲が増えて日射量が下がる?)

氷河期と間氷期の長さ 地球の傾いている自転軸のコマ収差等
は宇宙的現象。次の両先生方の論文を参照。
  常田佐久教授・国立天文台
  冨田成夫准教授 筑波大
  *1:マウンダー極小期

最近のDNAゲノム分析手法
  ミトコンドリア(母親の系列のみ)以上に核のDNA(男系情報)のシーケンサーに
  よる詳細解析。
  仮説;縄文人のDNA(D1a)と現日本人のDNA,現生人類はいつ頃
日本列島にやって来たか?
  氷河期の38000年前に、アフリカを出発した現生ホモサピエンスは、
アジア大陸へ、そして日本列島に到達。しかしスフール大陸・
オーストラリアまで南下したGrが再度沿岸を北上したGrと
途中でアジア大陸内で北上したGrが樺太経由南下して、
列島に到達したと考える。これらの南方系Grと北方系Grが混血して
縄文人として日本列島内外で活動したと思われる(
D1aという男系縄文人DNAの呼称)。

篠田謙一氏 佐賀医科大 現国立科学博物館;発掘された人骨の歯を中心に解析
詳しい日本列島人のルーツは? に関する分析結果に関する多くのレポート。

氷層中のガス微量分析、環境変化(火山活動・7300年前に大噴火し地盤沈降したカルデラを有する、現代人の工業化活動)を取り込む南極の氷層をサンプル。

Lidar 地中RADAR :考古学 XCT MRIによる遺物のデジタルデータのAIによる解析
無人ドローンによる空中測量が暴く古墳や巨大遺跡
磨製石器と黒曜石の地理的関係と新石器時代を生き抜いた人類とは?
分布と旧新石器時代の人の交流
  九州の国東半島・姫島(学生時代)と信州和田峠(40代)の訪問

日本列島に見られる人為的痕跡のまとめ
ここではDNA分析結果で提唱されてるものを参照

127000年前 砂原遺跡
 38000年前 氷河期海面低下100m以上
 17000年前 長江河口に住む倭人
 13000年前 国産黒曜石の拡散
 10000年前 温暖化による海進と海面上昇
7300年前 南九州アカホヤ大噴火
  3000年前 稲作文化を持つ民族の日本列島へ流入
西暦3世紀 寒冷化で北方民族が南下 
 西暦4世紀 空白の4世紀 
 西暦6世紀 これ以降は記紀の文字情報による

次 に続く

卸しと問屋からユーザ主導のインテリジェント化

  こんな日本的商いのちょっと古めかしいキーワードにしても、物やサービスを提供したいというシーズ型ビジネスと特定な物やサ―ビスが欲しいというニーズ市場型ビジネスが想定される。
メーカ(生産者)とエンドユーザ(時には消費者)を物流的に結び付けるのが、この日本的卸しと問屋の単純な役割として考えていいのだろうか。時には、実際は多くのケースで生産者や消費者は非常に弱い立場にある。
  仲買人の言い値で生産者は安い値段で物を売り渡さざるを得ない時、消費者も問屋や小売店から言い値の高値で買わざるを得ない時もある。物流的には、卸しは規格商品をメーカから大量に仕入れて、それを小分けにして小売店、そして消費者(エンドユーザ)へ供給するという役目も果たしている。
  現代のe-commerce(EC :通販業者)も商材を仕入れて、ネットでユーザの目を止めさせ、注文を瞬時に受けて、商売成立という事になる。小規模のネット通販では商品の独自企画は出来ないので、所謂メーカ、生産者の企画製品を、ウェブの上手い宣伝文句で、いかにユーザの心を擽る(くすぐる)算段に時間と資金を費やしている(デジタルマーケティング)のが現実の姿と思う。大規模ネット通販業者は、旧来の卸し・問屋の力量を出し、メーカー側に独自企画の製品開発を委託出来るケースもある。上手くいけば独自企画商品という差別化で売上倍増も期待できる。
  昨今、ECや物流に関係なく、規模の大きい世界市場を想定し、品質や量産技術の工場で、物が大量に生産され、メーカー間の熾烈な生存競争の果てに、弱小企業が淘汰され、年間生産数が億を越えるような規模でも、メーカーが数社なんている業界もある。こういうケースはもはや卸しや問屋が入り込める世界でなく、メーカ主導型ビジネスとなる。
  最近ではファブレスと言って、生産設備を持たない“メーカー”がいる。普通はそのような企業をメーカと思っている。物作りでなく、物やシステムの独自設計力があり、生産だけを他社に委託しているのである。実際には世の中に、こういう製品が多い。
最近、日本国内の各地で台湾以外の地で超精密な(2nm技術)半導体工場の建設ラッシュが続いている台湾のTSMCは世界一である。米国内にも進出し、昨今の東西対立の中、積極投資を続けているファブレスではない「顧客のメーカー」がある。 “メーカー”といったが、実は力のある卸し・問屋なのかもしれない。自社の企画製品・半導体チップは絶対市場で売れる、ユーザのニーズを満たしていると自負している。
  こんな状況をひっくり返す最近の流れがある。卸しも問屋もいらない。エンドユーザが支配的なケースである。商売とは売買とイコールで有るのだろうか。否、中間の“メーカー”や問屋が介在しない世界である。ただし、一つ条件があって、エンドユーザは製品の消費規模(利用数量、台数)が極めて大きいことである。所謂大量購入、消費が出来る力量を備えたケースである。更に必要な製品の独自企画・設計力も備えているケースである。簡単に言うと、エンドユーザが自ら商品設計をして、大量に委託製造業者に発注して、自らがその商品を利用するのである。下記のサイトに、こんな事例があることを示す。
     サイト情報; datacenterknowledge.com 2012/05/08/ 号
  もう12年も前の事だが、今の地球上の人々の生活で、なくてはならないインターネットのジャイアント企業が建設し始めたDC(データセンター)のコアになる高性能のserver(スーパーコンに匹敵する能力、だが莫大な電力を必要とする)が一拠点に数万台も必要とする事に言及した。すなわち、オープン・コンピュートプロジェクトである。
  これでお仕舞いと思ったが、よく考えると、受注している製造委託会社は、実は所謂メーカとエンドユーザの中間にいた“メーカー”や問屋がそれなりの長い期間で育て上げたものではなかったのかと。即ち卸しと問屋がインテリジェント化した形態ではもはや対抗できない業態に進化したのだろうか。参考にしたサイトの英文資料でも、サプライチェーンを shake up しているとある。これを恐ろしく震え立たせると解釈するか、前向きな意味でも業界の reorganize と考えると面白い。実際、shake up に reorganization という意味もあるようだ。
  12年経った現在ではCHAT-GPT や人工知能AIというキーワードが多くの人達に知れ渡る状況にはなっているのだが、実はその中身の仕組みまで理解している方は極めて少数である。

オーラルフレイルOF

 これは典型的な外来語の発音をそのまま表記した我々にはとんでもなく悪い言葉だ。口の機能の衰えを意味し、70を超えたシニアにとっては多様な老齢化疾病の直接・間接的症状の現れで、死にも繋がる。詳しくは、今はやりのAIサポートやウィキペディア(wiki)を参考にされたい。
 今日は私の独断、変わった見方でOFついて呟きたい。高度に発達したホモサピエンスは言語を習得し、文字を発明し、今や宇宙開発にピリピリし始めている。逆に失ってしまったもの、正に失いつつあるものに注視してみる。30-40万年前に樹上で暮らしていたグループが地上へ移行し、2足歩行の能力を得て、高度な言語能力を身に着けて行ったと研究者は述べていた。その時期に呼応して人類は失いつつあるものも複数あったという。
 よく例に私は上げるのであるが、4足動物で走るのが速いチータやヒョウがこれも走るのが早い草食動物を追いかけて捕え、その日の空腹を満たせるのが第一番の関心ごとだ。チータやヒョウでもそう簡単には、跳んではねる獲物は捕えられない。走る向きをパット変え 後ろから追っているチータも瞬時に走る方向を変え、こんなことを何度か繰り返して、やっと獲物を抑え、直ぐに空腹を満たしたところであるが、未だせねばならないことある。
 今度はハイエナや鷲のような餌を横取りする動物に対して、力がとんでもなく強い顎で獲物を噛んで、 木の上に引き上げるか茂みに引き込む。それでやれやれと獲物を食するという普通のストーリがTVなどで観られる。

これらのチータの口の機能について、独断してみる。              
もはや、高速で逃げ回る獲物を追って瞬時に身体の向きを変えられる能力は大脳で処理した結果をフィードバックして、次の行動を起こすという遅いプロセスではなく、小脳・脳幹で無意識の瞬時のうちに反応出来る能力であろう。
  それに対して、人類は言語能力を高めた結果、大脳でのゆっくりとした処理に呼応した口腔の構造が高音から低音までの発声に合うように細長くなり、顎も細長く変化してきたそうである。もはや、樹上で暮らしていた世代の人類が持っていた噛む力も弱くなっていったのであろう。
 さらに、人類は視覚の精細さと聴覚の高度化も進んで行ったと推察している。 その傍証として目の見えない視覚障碍者は耳が良いそうだ。ある視覚障碍者は、今はやりのネットビデオサービスのYouTubeで、若者が出来るだけ短い時間で多くの情報を入手したい、理解したいという世界的なニーズがあり、YouTube には再生速度が次の等倍速以上で、1.25 1.5 1.75 2.0倍速以上ので動画の音声を聴き分けられるという。

それ、ちゃう ちゃう と 大阪のおばちゃん
 これは チャウチャウ犬 のことではないと 東の関東地区の男性
 それは違う、違うのです。と大阪のおばちゃん言葉を関東風に翻訳。
 助詞の(は)が省略され、sore ha chigau no desu がSORE CHAU CHAU に。

言語的に省略と短縮がおこなわれ、話言葉がどんどん早くなり、俗っぽく変化する。
早口に対して、速読能力もよく注目される。普通の人は本を読む時、一文字づつ追って読むのだが、速読力のある方は文字を追って行くのではなく、複数の文字列を一塊として、平面的図形として捉え、自分のケースでは縦書き・横書きでも、1行17文字位が一番ピッタリ感がある。原稿用紙の20文字はちょっと長すぎて、読売新聞は縦書き1行12文字で書かれているが、12だと短すぎて、ピッタリ感がない。文字列の一塊は5-6行の総文字数で17x(5~6)、すなわち一目、一見で85~102文字がざっと見渡して私が理解できる図形範囲である。これを1秒間で視覚情報を処理可能な大脳の能力とも言えないか?
  もはや1秒で100文字分は人の音読限界を超えている。これら高度に特化した二つの能力は大脳をもっと発達進化の道へと開いた。しかし、失ったものも有ることを忘れてはいけない。

次のことは一般的なシニアの事象で、耳が悪くなりましね、聴こえ難くなりましたねと会話が進むようだが、、、。実は音の強弱に加えて、シニアの方は音の高低(すなわち、周波数)の高音域が聴こえなくなる。

すなわち、日本語は母音が主な言語でこれに撥音が組み合わさって構成されているある例だが、難聴で90歳を超えた老女と5-6歳の幼稚園児が、じゃんけんをしていた。
子供;じゃんけんぽい、じゃんけんぽい と大きな声で繰り返すのだが
老女;何 じゃん じゃん というだけ? 怪訝な表情
これは老女が け と ぽ が聞き取れていないこと・撥音も言い辛いことが判明したOFの分かりやすい例である。