今 NHK で 話題になっている 朝ドラはアンパンマンの主人公、やなせたかしさんの出生地は(現 東京都北区)東京府北豊島郡滝野川町と書かれていて、ときは関東大震災の数年前、たかしの父・清のキャリアーは講談社に勤めていたが東京朝日新聞社に引き抜かれて、滝野川界隈から都心に勤めていて、清自身も文学の文に自分も関わりたいと言う事を周囲に漏らしていた。大日本雄弁講談社の初代社主の野間清治は北区田端に別邸を構えており田端文士村のメンバーとして認知されていたが、たかしの父、清も講談社時代に雑誌雄弁の編集長として活躍していた事(1921年4月まで)が最近、関連の資料が講談社に保管されていた事がわかった。
次のキーワードは関東大震災と田端文士村の文士達、そして大災害時の人々の行動とコミュニケーションについて、気になったことを数多の出版物を参照してまとめてみたいという熱い気持ちが湧いてきた。更に今年2025年がラジオ放送開始100周年であることは、関東大震災が発生した1923年はラジオ放送も無かったのである。さて、1923年大正12年9月1日午前11時55分頃、の関東大震災に田端に在住の文士の中で何名かを選び、その吾人と知り合いの当時若者だった人たちを揚げると、
先ず芥川龍之介は田端の自宅にいた、
次いで室生犀星も自宅にいた。
菊池寛も田端近在の小石川区、本郷駒込神明町に居し、
1月 文藝春秋創刊、所在地は小石川区林町十九番地
7月 本郷駒込神明町三一七に転居
10月 震災のため東京市外田端五二三の室生犀星宅に転居してきた。
室生犀星は妻・子と共に田端を離れ一旦故郷の石川県に身を寄せた。
菊池寛は若者を纒める中核で、川端康成と芥川の仲を取り持った。
この震災当時は既に知り合いであった。
更に川端康成と横光利一の仲を取り持った。
川端康成は当時東京帝大の学生で<芥川の7歳下>、住まいは千駄木の下宿の2階で被災したが、古家の崩れる様をちょっと記している。横光利一も然り、神田神保町の古本屋街で罹災し、駆け足で小石川の下宿先に戻った。川端は横光利一の小石川の下宿を直ぐに見に行ったそうで、「思い出二三」で証言している。
萩原朔太郎は、震災時は田端には住んでおらず、震災後萩原自身は現田端3丁目・田端区民センター脇の小道を行ったあたりの借家住まいを始めて、馬込文士村に移るまでの数年間,田端人であった。背景は室生犀星と他の友人との詩誌 感情の創刊活動の履歴については次のようにある。
犀星は北原白秋を慕って、石川県から上京、
1915年、萩原朔太郎・山村暮鳥らと詩誌「感情」を創刊
さらに1917年(大正6年)室生犀星が当地で詩誌『感情』を創刊した。
この『感情』には室生犀星の盟友である萩原朔太郎も加わり、萩原自身も1925年(大正14年)に田端に一時居を構えていた[田端文士村HP]。
馬鹿げた芥川の吉原見学・同行の川端が詳細を記す。文士の心理的状況が震災と崩れていく様、文士たちの行動は書き残されており、芥川龍之介と川端康成は吉原を見に行ったという。 女性たちの「関東大震災」の哀れな、血生臭い光景、、、、。
私が思う、ラジオが無かった時代は人の心理と防災対策は江戸の大火事の様子と酷似、あまり進歩も見られなかった。
こういった大災害の時に冷静に物事の判断が著名作家といえども、冷静さを失わせて自分の個性、一番卑しい性質が出てもよさそうと種々の参考資料を読み漁ったが、誰一人として私の予想に合致出来てはいない。
1923年9月下旬、の菊池寛(今流のマイフェイバリット作家)は新聞にこんな言葉を寄せた。前に記したように同年1月に「文芸春秋」を創刊した菊池は、製本中の最新号が焼失し、社屋から焼け出されていた。傷心から発したのかもしれない「芸術無力論」は文壇に波紋を広げたが、私は 無力だが無用ではなく、逆に文学・芸術は必要であると信じたい。
関東大震災は東京に壊滅的な被害をもたらした。田端は地盤が比較的強固だったため、幸いにもさほど被害はなかったそうだ。[2011年3月11日に発生したM9を超える東日本大震災では発生時、私は地盤の良くないお玉が池<埋め立てられてしまっている>の先の小伝馬町の客先の9階建ての古いのっぽビルにいた。ここで人生初めて机の下に潜り込み揺れが収まるまでの間、待った。もし東京湾を大津波が侵入?というイメージが脳裏に現れたが、事なきを得た。]
しかし、この震災がきっかけで東京市内から多くの人が移住し、田端付近はベッドタウン化していったという。文士は動いて、主流は馬込文士村へ移った。
