文化の継承する強さと弱さ

手もとにあった冊子のページ(注1)をめくると、松尾芭蕉が江戸をたち、東北地方を目指して奥の細道の第一歩となった日は、遡ること西行法師の没後五百年忌であったという事が記されていた。それは偶然でなく、芭蕉がその日(西暦1689年の元禄二年三月二十七日陰暦)と決めていたのである。それは西行法師が陸奥に旅立ち、歌を詠んだことに起因し、芭蕉が自らも西行法師の辿られた跡をなぞることで、歌の技量を高めたいとか西行が実体験したであろう事を自らも同様な実体験できる(五百年という時空を隔てても)のではという強い願望があったと推察される。さらに、芭蕉を慕い、芭蕉の没後五百年になって(西暦1694年十月十二日陰暦が芭蕉の没年)西暦2194年になるが、自らも芭蕉の奥の細道を巡った江戸と言う時代の経験を実体験したいという方が現れるであろうかは分からないが、現状の東北各県の人口減少を鑑み、果たして没後五百年(西暦2194年)に徒で巡るんだという強い意志をお持ちの方がおられるかも知れない。西行法師、松尾芭蕉、〇〇■■という名の方が現れ、五百年、千年間の文化の継承を個人の強い意志で成し遂げた。というようなニュースが未来人は果たして聞けるかどうか?

現代で自分の回りでそのような事(類似の事)を実際に実行した人、又は今計画中の知合いはいらっしゃるのだろうか。

新型コロナウィルス感染により世界中で行動が制限されて、特に陸続きの国境間を挟む二国では国境封鎖までして・・・・我が日本では大海に囲まれているがそれでも完全隔離は出来なかった。船舶・飛行機など手段によって人の移動が特別なケースで許されるので、2022年に2021東京オリンピックを開催したぐらいなので、段々と新型コロナに慣れっこになってしまった。

そんなこんなで、地元の町会・自治会などの行事を皆で合意の上で、暫く中断してしまった。そして、毎年行っていた地元の餅つき大会や節分の豆撒きが昨年四年ぶりに行われ、今年の夏には、二年おきに行う神社の本祭が六年ぶりに行われようとしている。この四‐六年という短そうな期間でも実際に準備に関わっていると大変なのである。残念ですがその僅か六年の間で二名の自治会長が亡くなられ新会長に替わっている。神社の宮神輿渡御という氏子地域を神輿が巡行するという全国各地で行われている普通の夏祭り・秋祭りではあるが、この六年間で神社総代役員代表も三名も替わり、自治会の役員よりも高齢者で構成されている神社総代役員で物故者になられた方はちょっと指を折っても両手が必要な十名位もおられ、一番大事な鳶の棟梁も昨秋亡くなってしまった。

ごく最近のネット配信新聞によると、

千二百年続けている裸祭(愛知県稲沢市の国府宮神社)は女人禁制であったが、今年から女性が参加したという事例もあり、文化の新たな継承も生まれる。但し、男女混合ではなく時間帯を分け、法被を纏う方法で女性からのたっての要望により実現にこぎつけたという。

また、こちらも千二百年間続けられた黒石寺の(裸祭り)蘇民祭は最後の行事を人がいないという理由で閉じた。

三十年毎に行われる源義家で有名な平塚神社(北区西ヶ原、筆者の近く)の本祭は平成十四年に行われ、ちょうど三十回目の九百年であったという。私は実際に宮神輿巡行や女性神主さんの大パレードの写真を撮った事を鮮明に覚えている。

伝承形態
  ことば    
   口頭伝承    
   文章
  道具や模型
  唄・踊りなどの実体験

文化の伝承は易しくないが、自分の時代にリソースがないという理由でいとも簡単に絶えさせてしまう事は非常な決断である。よくあるケースは神社仏閣の行事だが、日本・韓国では女人禁制の風習が多い文化でも、少しずつ変化がみられるようだ。

洋風の着物・簡単着物を身に付け、足元は皮のブーツもしくはカラフルな所謂有名ブランドのスニーカーにして、闊歩したいというシニアの女子が現れ、このような新しい意識と新しい行動は文化の創造の一つと思えるのだが?

日本では、古代日本(西暦九百年まで)、中世日本(千三百五十年)、近代日本(千八百六十年)、現代日本(二千二十年代まで)と大まかに区分すると区切りの期間では海を隔てたよその輩、異種文化の影響を受入れ、日本流の導入検閲がなされて異種文化が己のものに姿を変えて、いつしか和風、日本流、xx道みたいにしてしまう。これは日本文化の強みと言えます。

二十年毎に伊勢神宮では遷宮が行われ、斎宮が白木をもって建て替えられる。二千十三年が六十二回目だったそうです。ありとあらゆるものが新調され供される。これは日本文化継承の一番の強みでしょう。

注1;本誌 三河アララギ 平成三十一年1月号 芭蕉、、、中屋氏

注2;ふんどし姿の男たちが厄を落とそうと激しくぶつかり合う奇祭「国府宮(こうのみや)はだか祭」で令和6年2月22日、愛知県稲沢市の国府宮神社で開かれた。1200年前から続く伝統行事で、もみ合いに先立つ神事に初めて女性が参加。法被に身を包み「わっしょい」と声を上げてササを奉納した。

注3:蘇民祭 黒石寺蘇民祭(こくせきじそみんさい)令和6年は、2月17日(土)に妙見山(みょうけんざん)黒石寺で最後の開催

あおいマスク

 今日は令和5年10月の上旬、予定されている行動をとらねばならない。それは毎月通院している主治医に急に呼び出された20日前に決まったとある理由にて、早朝より都内の大学病院にて頭部のMRI検査と造影剤を注射してX線による血流検査を行う事である。
 普通に、自宅の白いマスクをして、先ずMRI検査室へ赴くと、先生より院内専用のあおいマスクに替えて下さいと言われて、捨てはしなかったが白い自宅マスクを取り、少しきついあおいマスクを装着して、検査台へ上がり横たわった。そこでお決まりの頭部を固定され、防音用の耳栓を押し込んで検査に入った。閉所恐怖症の方には辛いが、私は平気。だが今回はちょっと違う、このあおいマスクを通して呼吸しなければならない。狭い筒状の中に頭部が固定された状態で、閉所恐怖症でありませんと言った手前、ゆっくりと鼻から息を吸い、口から吐き出すというカイロプラクティック整体の若先生に教わった方法で乗り切った。
  余裕が出て、MRIの磁場が印加される際に、耳を遮蔽しているのだが凄い音がする。その音を聴き澄ませていると音の低、中、高域の3つが使われていて、それらが各々、別々に数秒間のうちに音の強弱が正確に繰り返され、デジタルの8ビットのように聞こえたのである。その初めの規格化みたいなことが済むとついに本番の検査が開始され、時間は正確には分からないが数十秒間ずつ、ブーブー、がーがー、キーキー、時には短くドンと変な音楽みたいなセッションが続いて、20分の行程が終了した。
 次は別の検査室へ移動し、少し時間をおいて脳の血流検査のパートへ入った。こちらは、X線CTの部類だが、造影剤を注射針で腕の血管へ注入しながら画像を取る方法らしい。血液検査や献血では左利きの私は左手を差し出すが、今回は装置の移動方向と私の寝ている方向との関係で選択の余地はなく、はい、右手でということになった。
 私は初めての経験だ。同じような検査台へ仰向けになり<これが結構堪えるのだが>、普段背中が丸く前傾になっている姿勢をいきなり数十分間、固い台へ臥し、頭部はやはり固定されて静かにしていなければならない。ここの若い先生は時間が長くなるので、あおいマスクをずらして結構と言い、息がし易い状態でこちらは音もなく遮光用のアイマスクをお願いしますといわれ、ウトウトして知らないうちにこれで終了ですと声がかかった。こちらはそれで40分もの検査時間。
 こういった検査は70歳を超えた高齢者医療保険証を持たされている者にとっては特段特別な事ではないが、相当な検査費用だ。これまで45年間も払い続けている健康保険料、まだ若く病院の世話にはならないよという健常者の保険料、そして税金助成が原資だが、まだ仕事をしているお前は現役並みの実入りがあるからと言われ、逆らえずに3割の自己負担をしている。
 最近は大学病院もモダンで何とかというカフェもあり、ドリンク付きの簡単なランチサンドウィッチを食べ帰宅。もっと余裕を持った生活をすればいのだが、それが出来ずに、早々にノートPCでメールチェック、タブレットでニュース閲覧をして、それらを終えて、好きなYoutTubeでもと思い、アプリを立ち上げたところ、勝手に私の好きな朗読が紹介されており、何と菊池寛のマスク:小文の題目が、いつもの朗読者窪田等氏で紹介されていたのである。なんと偶然、今日のあおいマスクの記憶がタブレットの画面へ指を急がせたのである。
 そこには菊池寛の別世界があり、約100年前の大正8年のスペイン風邪の大流行の際に書かれた短編マスクであることを初めて知ったのである。今まさに我々が経験している新型コロナウィルスによる状況が、流行性感冒と呼ぶことしかできなかった時代と同じような経験が記されている。しかし、100年前の医学の状況はいいかばかりか、悲惨なことが書かれておらず、死者が国内で1日3000人を超えたとかあり、菊池寛の関心事は弱者である自分の不健康、弱い脈、心臓の弁の併合が悪い・手術が出来ない、脂肪心、駆けてはけない・脅かし、発熱・流行性感冒への恐れ、野菜食、伝染を恐れ妻も出来るだけ外出せぬよう家に籠った生活が記されいる。
 ところで、菊池寛はマスクについて、3月末でも気温も上がっているのにまだマスクをせねばならぬ、さらに、5月になって暑くともマスクが必要なのかと、文句まがいの気持ちを吐露。そこに、23-4才の黒い布製マスクをしている若者への嫉妬が加わるのだ。感染拡大に繋がる大勢の人がいるスポーツ観戦にこれから行くであろう若者がよっぽど強い男と見えたのであろう。
 令和の新型コロナの感染抑制対策に対してはノーベル賞を受賞したm-RNAワクチンに頼っているが、最近になって副作用による死者数が非常に多い事、直っても長期の後遺症で強そうな若者も含んで相当な数の人々がマスクを外そうが別の部類と思われる症状で普通の営みが送れずに臥している。私は終わりに記した現代医療でも予期せぬ二つの重大事に遭遇し、未結審の訴えの如く次の100年へ先延ばしにはしてくれるなという想いでいっぱいである。

クローン羊誕生とその後

 ChatGPT・生成AIよりもっと気になる事が、湧いてきた。
 1996年クローンドリーの開発者、イアン・ウィルムット氏(英国)が79歳で亡くなられたというニュース記事が今日9月12日報じられていた。偶々なのであるが、最近アミノ酸の円偏光に興味があって、特定のアミノ酸類の組み合わせからなるDNAについて素人勉強をしていた。細胞の中には遺伝子情報が詰まっているDNAや遺伝情報を転写、アミノ酸の収集とタンパク質の合成をつかさどるRNAなどが含まれ生命体を維持している。
まず、アミノ酸の円偏光であるが、アミノ酸レベルの高分子になると全く同じ分子組成で鏡像関係にある2つの立体構造(右・左タイプ)が存在し、全く同じ化学的性質を有するが、物理的特性で光を当てると右回りの偏光特性を示すものと左回りの偏光特性を示すものとに分かれるのが知られている。
 ここで少し宇宙的現象についてお話する。
太陽の様な水素H2からなるガス球で核融合反応が進むと元素の周期律表の鉄Feまでは創られるそうだ。理科でよく聞くクラーク数、人の身体に含まれ生命維持に大切な微量金属元素はFeよりも重たく、そのような金属はどのような現象で宇宙的に創られるのだろうか。
 そうです、聞いたことがあると思いますが超新星爆発で重い金属まで核融合が進んでその残骸が吹き飛ばされたのです。そういった宇宙的プロセスで形成された微量金属が我々人の生命維持に重要な役割をしているのです。
 クローンは全く同じ遺伝子DNAを有する生物個体。自然発生的には一卵性双生児がそうである。人のDNAは複数の異なったアミノ酸の組み合わせから出来ていて、世界で初めて黒っぽい色をした小惑星のサンプルを持ち帰った日本のはやぶさ2のサンプルを詳しく調べたら、色々なアミノ酸、それも左右タイプのものが見いだされたという。これは確率的に宇宙空間のある化学的反応が促進できた環境であったということでしょう。
 

  哺乳動物のクローン、非常に難しいが1%以下の0.〷% で成功するらしい。
  食肉用家畜牛のクローン、表示義務なし、出回っているらしい。
  中国が猿のクローン誕生成功、ある国の研究者は私はやらないと断言。

 その裏にある研究、幹細胞、ES細胞、iPS細胞の組織培養・臓器分化可能性があるうちに、自分の細胞をもとにクローンである培養組織を使う治療、しかし、易しくはない、免疫抑制、癌化抑制、コスト削減のために特定個人の組織細胞を共通化して万人に適用化する研究も開始されているが、課題も多い。
 数年前には、臓器が動物の体内位置で、複数の特定臓器同士の立体的配置を備えた培養サンプルを国内の著名大学の若手研究者が開発していることも知った。 受精卵・分化可能性、高等生物は進行するにつれて分化可能性は失われる。人工授精に対しても現在では何も批判は言われなくなった。一卵性双生児は自然なクローン。究極でSF的な、脳の無い臓器移植の為だけにクローン人の医療的開発応用を良しとする? 私は断固として否と言いたい。
 一方地球上の植物生物は非常に多様で、生きるということからすれば食物連鎖の初めに当たる、動物への必須アミノ酸を供している。
ソメイヨシノ(桜)はそもそも植物のクローン。 江戸時代に作られ、以降接ぎ木で世代を継承、同じDNAであることが確認されている。接ぎ木は平安時代から知られていた。クローンの傾向、開花時期が早くなるという。単に温暖化ではない。
 挿し木もある。小枝を土に差し込む。植物の細胞が分化全能性を有する。最近の情報では茄子のように2段接ぎ木でないと上手くいかないものもあり、病気予防の為に、台木、中間台木も使う。渋柿に甘柿を接ぎ木する、60年前の私が10歳前頃に母方の祖父がやってくれたことを覚えている。 今夏8月下旬にNHK BS放送で、樹齢1300年のやくし桜の小枝を30年前から接ぎ木し育て、それから何百ッ本もの苗木とし、全国各地へ配布して親木と同じくさらに1000年も花を咲かせ続けたいとする仕事をする90歳の古老の話は気持ちが晴れ晴れとする。
 丁度脱稿しようとしていた10月2日にノーベル医学生理学賞が、新型コロナが蔓延し、その緊急対応策としてm-RNAワクチンを開発した2名の欧米学者に授与されるとうニュースが飛び込んできた。これは高等動物、究極の人間であるが、誰しもが病になると、生きたい、人のお世話になっても、つまり他人の臓器移植まで望み、長い道のりであるが本独り言で呟いたクローン人間の臓器、その臓器の組織細胞を欲する研究、ES細胞、iPS細胞、体幹細胞まで行きつくと、植物の接ぎ木の晴れ晴れとした気持にはなれないのである。

自分だけの歴史

 異なった色の積み木を重ねるように自分だけのフェイクではないが、面白くもない本当の歴史を作ってみたいとお考えになったことがあるだろうか?フェイクとは偽りのという意味をいい、そうではないので事実・本当の事だ。もう少しこだわりがあるのだが、異なった色の積み木と始めに申し上げたが、絵の具が何かで木に色を浸み込ませたのではなくて、箱根の寄木細工のように、種々の木々を切ってよく見ると、木は肌だけでなく中身も特徴のある色合いを持っており、それで異なった色の組み合わせが可能となって、素晴らしい箱根寄木細工となるのだそうだ。実は私自身も畳一枚くらいの大きな無垢の木一枚で机を作りたかったのであるが、木工の工房のデザイナーに裏ワザを教わったことがあり、見せかけの大きな一枚の木を例えば小さな7-8枚で構成して造る時、木目・木肌・木地の似たものを用意して、上手く木目を合わせながら接着剤で割り合わせて、本物と間違いそうな張り合わせの“無垢の大きな木”を造って少しでもお安くするそうだ。そんな裏話を18年位前に聞き、それは良くないと思い、逆に7-8種類の色合いを持つ原木を探してもらい、それらを目立つように張り合わせて大きな一枚にして頂いて、それを今でも自分の机として使っている。
  歴史の構築と言えば、よくあることだが小説家が史実を綿密に調査して、“小説としての歴史”を、史実として後年になって発表し多くの人に知らしめし、関心をもたらすことが多い。江戸幕末から明治への変換期に多く、坂本龍馬が一番の例であろう。深くは立ち入らない。 
 以前、意外な自分自身の経験と題して2年前に、今年ちょうど百年になる関東大震災の実体験談として、私の実父と同じ歳の方の話が紹介されていた。ちょっとおかしい、実父は当時2歳で震災を体験したらしいが記憶がないと生前、話は聞いたことが無かった。よく調べると私の実父と同じ歳の方は年齢が少し上のお兄さんから後年聞いた話をもとにして実体験談として語ったそうで、これらは学習した横浜での関東大震災で、後で学んだことが加わって自分の体験として身についたもので、よく考えるとそれは今流のバーチャルで加飾された体験である。よくある事らしいが、親、年上の兄姉から伝え聞いた話で、公知の一般史実は意外と知られていないのかも知れない。
 最近、自分の心・魂をハッとさせた事があった。それは今年の令和五年に入ってからで、世間ではTV放送開始七十周年記念とかさわいでいるが、私も七十歳になって、小津安二郎監督が東京物語を執筆するために、定宿としていた茅ヶ崎館に滞在していたと知ったことである。さらに、小津安二郎のカメラマン<厚田雄春氏>に関して本アララギに寄稿し、素朴な50ミリのレンズと静寂・白黒の世界観に心を打たれ高揚している時に、小津監督が茅ヶ崎館に滞在し、東京物語を執筆した時期が私の生まれた昭和二十八年と知り、さらに執筆日記が残されていて、私が生まれた四月二十一日が自分にとっての歴史的出来事であることを知ったことが契機となった。

   表  勝手に積み重ねる自分の歴史
小津監督、東京物語構想 二月、執筆開始 四月八日
  昭和二十八年四月二十一日に、私は生を受ける。
小津監督、東京物語執筆脱稿 五月二十八日
  7才の時に横浜・鶴見区生麦の花月園近くから移り住んだ茅ヶ崎 昭和三十五年秋
小津監督、短い人生を閉じる。昭和三十八年
 地元の高校へ入学し、友人となった大船出身のW君の父親が大船の松竹撮影所の仕事をされていた。 昭和四十四年春
  当時は小津監督も知らず、W君に何も聞けなかった。
  
 たったこれだけの私の歩みは先ず、
東京物語の執筆期間は構想を含め昭和二十八年二月から五月末、当時の日記には四月二十と二十二日の記載はあるようだが間の二十一日は抜けているようだ。それが気になり、小津監督の東京物語執筆前後の日記を追ってみた。
 翌二十二日髭剃り、鼻の下長くなる、大阪の宿をやる<と書かれており、非常に日常的である>。詳しくは茅ヶ崎館で同宿し東京物語の仕事をしていた脚本家の野田氏の日記では、二十日;車券を買って少し当たる。気候は温かし海岸を散歩する、 二十一日;車券を買うが当たらず、暇をしていて、気候も温和 とあり、競輪の車券買いを度々依頼したとあり、近在の伊東・小田原・平塚、東へ向かうと花月園、川崎競輪場と懐かしい場所があり、それらは文豪の坂口安吾も競輪が好きで戦後の似た時代に娯楽として楽しんでいたようだ。私はその花月園競輪場の西側の関東ローム層の崖っぷちの下にあった父の勤めていた会社の社宅で気候も温かく平穏な下で生まれたようだ。皆さんの小さい頃の体験・経験を振り返ってみては如何ですか。

参照資料
野田高梧氏日記、小津安二郎氏日記・昭和28年4月分

任されたカメラマン

令和五年六月中旬、何気なく目線を落としていたTV番組

なにやら主役は50ミリのレンズだと聞こえてきた。
50ミリのレンズは周辺の歪みが少ない 広角レンズは嫌い ロケも嫌い・映らないやじ馬が場を壊す ともさらに聞こえてきた。
映画か、何か撮影の話だなと思って、変えた自分の視線はそのTV画面に これから暫くの間、くぎ付けになって行く。

補正光学、映像の歪み補正を行うデジタルソフト技術などとんでもない 足の短い三脚が似合う低い目線の撮影用カメラ、普通の監督目線は上から目線で、下を見下ろす角度となり不自然であるという厳しい主張をお持ちのようだ。

画面は変って、
小津監督の白黒の時代もの、登場した男優さんは若い笠智衆。
ある映画のシーン、固定された画郭で動くものが三体、
立ち上る香取線香の煙、男優の喉ぼとけ(喋らずとも空唾を飲んで、動く)、
背景をゆっくり左から右へゆく船。
たったそれだけという感じではあるが、ロケも嫌い、それも普通は取り囲んでくれるファンを大事にと思うが、そうではない親分と想っている監督の意図する映像をとらえた50㎜のレンズをじっと操っているカメラマンがいることを忘れてはいけない。

ゆったりとした世界だが時の歩みは感じる、決して日本人が静寂で物静かだという事を表現したいとかではないであろう。文明開化で明治時代になると諸外国、特にイギリス、仏、独、米から日本国が西洋文化を急いで学ぶために人を招致したり、人伝に日本の魅力を聴いて訪れた人達の一人に、イザベラバード女氏がいて、残した旅行記をみると、日本の地方の山村を巡り歩いて旅をして残した日記にはまだまだ江戸の臭いが残る山村の夜の民衆の生活が描かれているが、意外と日本人のざわついた表現が各所に記されている。

この時代では昨今のアナログ、デジタルという堅苦しい説明などが不要な白黒の銀塩フィルムをとことん追求したもので、映像が生のまま(現代のデジタル技術であるような歪処理も出来ない)。ただフィルムの前のレンズを気に入るように使いこなすことで、監督の出来がきまるようだ。

白黒映画の小津安二郎監督のカメラ助手を十五年、カメラマンとして十五年以上、それ以降は任されたカメラマンとして監督が亡くなるまで尽くしたそうで、それが出来て涙を流している。

任されたカメラマンとは
任すよと自信をもって託す側の監督との間に古めかしい表現だが阿吽の関係がある。一般論として上司、リーダ、経営上級者とは互いに信頼と自信があるはずで、後になってこんなはずではなかったと変な涙を流されても困惑するだけだ。任されたカメラマンはすすり泣きするような、こみ上げるてくる涙を流すまいと堪えていた。

今時、嗚咽をこらえる程までに親分と子分、上司と部下、先生と教え子、マイスターと弟子といった関係が築かれるのか、任されたカメラマンの持つ自信は決して、独立して親分から離れず(自分が新監督としてはならない)あくまで影武者カメラマンに徹していたことであった。

家から富士山が見えても富士から自分っちは分からぬ

 都内には富士見橋とか富士見坂という地名は多い。何故かと、聞く必要もないであろう。其処へ行くと西の方向に富士山が見えるのである。私も結婚して45年、東京に来て51年も経ってしまい、あちこちにスカイスクレーパーが、始めは徐々に、段々と加速して行き、にょきにょきと雨後の筍のようにあちこちの猫の額を埋めつくす。と、ある時、今年が最後のダイアモンド富士山となりますと、突然身近の富士見坂の際にポスターや看板が並ぶのである。大概は最後のダイアモンド富士山の占有する遠くののっぽビルにこれから住むであろう主の素性や懐具合に文句は言わない。
 なぜか、ダイアモンド富士を撮っていた昔カメラ小僧と言われ、今や高級なデジカメセットを携える親爺さんは、その富士見坂付近の住人でないと予想される。ひょっとして、今後ダイアモンド富士を独り占めするスカイスクレーパーの新住人かも知れないのである。ごちゃごちゃ、最後のダイアモンド富士を捉えようとするマニアと素人さんからなる群衆は互いに気にせず、いい場所取りをして、喧嘩沙汰にもならず、最後のショットを満足げに納め帰路に向かう。
 実は、最近同窓会のお知らせを頂いて、コロナ禍で3年前に亡くなられた若かりし頃ご指導頂いた担任の先生の墓参をするので集合されたしという主旨であった。
学校の先生が担任としてクラスを持った生徒たちの数、専門教科として受講した生徒たちの数を40年位の間先生と呼ばれ、運良くば、A先生はこの専門教科では当時素晴らしかったと言われるような伝説が残っておれば、相当な人数になるであろう。ここで、えいやっと40年x250人/年=10,000人とする。約1万人の教え子のひとりが私である。
 同窓会は3-5年に1回ぐらいのペースで開催していたが、最近、具体的にお話すると2011年(3月に東日本大震災があり、東日本地区で被災した大企業に勤めていたクラスメートも多く)、その頃の同窓会も延び延びになって、私も電子メールアドレスの変更届が上手くいかずに連絡が途絶えた。更に2019年頃からの新型コロナ騒ぎで、同窓会は面と向かっての開催が出来なく、本当に今回の連絡が久々となった。
 40代、50代、そして60代へ突入し、今年で皆70代となった。ここで定かでないのであるが、恐らく50代の同窓会の時、担任の先生にある思い出を詳細にお話した。最終学年(18歳)の授業の時、受験勉強の範囲外の数学のテーラー展開式(詳しくは高木貞治著・解析概論を参照)の説明をされて、黒板の左から右へ一杯に式をチョークで書き記したのである。ここまでであったら、こんな先取りの授業の話で終わって、家から富士山が見えてもで終わってしまうのであるが、私はさらに話を続けたのである。
 xx先生、大学に入学して更に所属した研究室(材料科学の修士コース、21-24歳)での研究内容の話を続け、非線形関数を無理やりにテーラー展開で近似線形関数を作成し、それをもとに当時誰も挑戦していなかった観測した実験値とテーラー展開による近似線形関数を最少2乗法で収斂させて式に含まれる材料の構造パラメータを求めることが可能になりましたと。
 xx先生はそうかい、そんなテーラー展開の説明をされたことをお忘れになっており、少々拍子抜けし吃驚したが、そんなものかなと思いをはせた。
 多くの教え子がたった一人の先生を囲むようにして存在し、その教え子と先生との距離感やどのような付き合い・興味といった方向感がそれぞれあることがわかるのである、インフルエンサーという言葉が知られているが、確かに私は数学の担任の先生の影響を受けたが、現代版インフルエンサー講演に集まる特定のインフルエンサーの影響を受けたいとか、俺は私はインフルエンサーだと言う穿った気持ちを持ちたいのではなく、無意識の中で互いに伝播し合えばいいのではないかと思う。
 私の記憶では、関東地域ではなぜか、富士を夕日の西に臨むのが普通で、富士見坂でなくとも平らで広々とした関東平野ではどこでも富士を眺むことができ、日光から浅草への帰り道、まだ富士が小さく低く望める東武線沿線、茅ケ崎の実家の西向きの玄関から大山丹沢連峰と毎日見える富士、茅ケ崎の海岸から西に顔を振り向ければスカイスクレーパーに切り取られることなく、自分の富士を箱根山の外輪山と好きに鎮座させ、楽しむことができるのである。

寺田寅彦の“知と疑い”大正4年

コンサルティングの仕事をしていると、発明とか発見とか知的活動を促進させ、世の中にどんどん新しいものを提供していくことが一見世の中を良くするもんだと信じ込んでいるが、実は特許のような知的財産権を得ようとすることは経済事業活動であり、争い事も多い。昨日2020年06月04日の新聞にノーベル賞学者が実施権を許諾した特許を用い事業化をしている企業を訴えたという。企業がリスクがあるのも承知して、莫大な投資をして製品が良く売れたので、後になって分け前をもっとよこせといったような類にも聞こえる。最初の発明者と発明者の所属している大学と企業との契約内容は知らないが、ある薬品メーカのオプジーボである。
以前、ノーベル賞を受賞した湯川秀樹の創造性に関する書籍を読んで、はっとすることがあった。時代的にパソコンはまだ無かったが、第2次大戦後暫くして、計算機が出始めた頃に湯川博士は最近の若い研究者は計算に頼りすぎ、アナログ的な直感をもっと磨いた方が宜しいと指摘されていた。
今回、大正4年(西暦1915年)に寺田寅彦が書いた“知と疑い”という小文を2004年頃青空文庫からテキストに落としておいたファイルがパソコンに眠っていたものを読み返した。直感的にはよくも105年も前に普通に人には分かりづらい表現・語句を引用し寅彦先生も書いたもんだなと思った。しかし、読み直すと小文の内容は非常に重要な発明、発見、創造、そして関連して知恵とかイノベーションを網羅しているものであるが、私か今使った語句は一切使われていないのである。それらは寅彦独特の言葉を用い表現されている。
その前に、なぜ難解な“知と疑い”になったのか、その時代背景を私なりに説明を加えたい。西暦1915年頃はアインシュタインが一般相対性理論を発表した直後で、そこから遡ること7-8年前、Minkowski <ミンコフスキ>空間(寅彦はWeltという独語を使用)が発表され、数学的に時間軸を加えた4次元空間で示すことができると公表された頃であった。数学的にはn次元のベクトルと新たなベクトルの外積をとり、これをn+1次元のベクトルと定義するようなことである。
寅彦は実際どのような語彙を使って表現していたのだろうか。もちろん現代版カタカナ外来語、イノベーションなどといったものはない。(注:イノベーションとはneue kombinationen , 既存の要素で新しい組み合わせを生み出す事、後出―1番目の疑う人) 2004年に保存しファイルには注意事項として太書きした部分(寅彦の文)があって次に紹介する。

しかして暗は無限大であって明は有限である。
雨が降って天気のよい日のある事を知る人の少ない。
疑う人におよそ二種ある。

最初の文など一般人にはチンプンカンプンであろう。無限と有限を寅彦は微分で表現し、おそらく無限とは微分が無限でこれを暗とし、明はすなわち微分が有限な様態を示している。
注目したいのは3番目の文、疑う人は2種類あるという指摘である。
私なりの言葉でいうと、過去の先達が積み上げた知識体系を会得し、研究して新たに発見を加える事(人)と全ての知識体系が完成しもう終わりだと普通は言ってしまうが、そこでさらに何もやることはないとは、おかしいと疑う事(人)の2つがあって、寅彦は同時にこれら2つの能力を発揮する人は極めて稀であると言っている。寅彦は、寅彦の言葉で 一人にしてその二を兼ぬる人ははなはだまれである。これを具備した人にして始めて碩学(せきがく)の名を冠するに足らんか。 と、この小文を閉じている。
知は疑う事から始まる。リンゴがリンゴの木から落ちたり、錘を付けた振り子がただ振れていると疑わずに放置したり、天王星の動きが少しおかしいけど、これがデータのバラツキだと判断して疑わず外周の新惑星の発見に至らないとか、古典力学で十分だとか電子運動の実験的解明(疑いを持つ)が無かったら相対性原理の発見に至らない105年前の平凡な暮らし向きを我々は続けていたかも知れないのである。

卒FIT その後 II;蓄電池導入

そこでわが家の最新ソーラー発電と電力消費動向について説明します。令和5年5月2日は発電総量は31.4kwh (朝6時の0.1kwhから夕方17時の0.1kwhまで)、消費総量は22.2kwh (これはガス無しのオール電化です)。消費電力パターンは図の通り、早朝にやや高まっているのはヒートポンプ式のエコキュート温水貯蔵でドラム缶一杯ぐらいですかね、その前少しベースラインが増えているのは家人が夜更かしで風呂の沸かし直しや3台のTVを見たりしていた。朝の食事の用意はゆっくりとして、夕方からの食事の準備でピークに見えるのと明らかに違います。季節柄、エヤコンの使用がなく昼間はこんなに低レベルです。家の広さはかなり広く、大手住宅メーカの180平米(総2階)で熱遮断性については建築当初のままですが、リフォームで2か所窓を塞ぎました。

さて、その後蓄電池の導入を行い、5月下旬よりシステムが稼働しました。7月の下旬に至り都内でも連日35℃以上の猛暑になり、冷房機器を昼夜長時間使用せざるを得ない状況に陥り、日中天気も良く・日射量は高くソーラー発電量も大きく、蓄電システムの良さを実感した次第です。次の発電<昼間の青線>、買電<オレンジ色の棒グラフ>、売電<草色の棒グラフ>の3つのグラフは典型例です。先ず、真夜中の12時には、前日の晴天下で発電し蓄電池がフル充電され、それが放電され夜8時ごろまで利用され、空(蓄電池を完全に0%にしてしまうのはッシステム上危険で残20-30%で”ゼロ”設定とします)の状態になっています。我が家では夜も弱く冷房にしています。そして朝方3-4時の2時間で温水を沸かしますので、安い深夜電力を購入するシステムです。朝7時頃から発電が始まり、蓄電用と自家消費

下の運転中の状態を示す

夢のある話

日本でも月を目指す宇宙飛行士の人選の結果が話題になっている。
本当に夢のあるわくわくする話である。人生100年と言われる現代でも、よく考えるとそうたびたびある夢のある話ではない。それも、応募された志高き人、夢をかなえようと幼き頃に心に決めた多くの中で、再チャレンジの一番高齢(といっても40半ば)の男性と20歳代の女性の2名が夢を叶えようとする一番札を抑えた。

米国が約53年もの前に月面に初めてブーツの足跡を付けたのだ。
技術をかじった事のある人間にとって50余年も前の未熟な技術で、今考えると能く月に行こうと、恐ろしい程の夢を持ったものだ。しかし誰しも数十年先の技術向上は決して否定はしないがそれがどれ程の高度化を達成出来ているのかも未知であって、数十年待って安心して夢を叶える行動を取っても意味がないのは明白で、今挑戦することに意味があるのである。

しかし、今年70歳になる自分が学生の頃、ちょうど大学院を目指して研究室に所属した時期に、日本では放射光リング(今は筑波研究学園都市に加えスプリング8という関西にある放射光リングの呼称が有名になり)が夢でその実現に向かって、装置開発グループや私のいた研究室は放射光と言ってもX線レベルの電磁波で、ある種の高強度のX線が得られたとしてどのような実験が出来るかというテーマを研究し始めていた。後年になって夢はかなえられてしまったのだが、真空の導管中を電子ビームを光の速度の近くまで加速させ、その電子ビームを磁場で少し曲げると、接線方向に放射光が発散し、それを応用しようとするものである。

大学院を卒業して、そんな放射光をも忘れて、現在のインターネットのベースとなっている光通信事業の開拓に夢中になっていた時、ある種のデータのわずかな差異に、、、それはかっこ良く言えば、品質問題、quality management, quality control of product performance specification問題に遭遇し、その現象は6シグマ運動や高度な統計数学が関わるものであった。
こう言った「がちがち」の数学が関わるものは時代によらず必要なのだが、感覚的には昭和から平成への時代感覚で、話を戻すと公開された月を目指す宇宙飛行士の選考過程で見られた内容は平成から令和の時代に必要なグループで人が仕事を成し遂げようとする際に要求されるコミュニケーション・リーダーシップに焦点が当てられていたようだ。さらに、科学者・エンジニアのような高度な専門職的作業は出来て当たり前、その先の火星探査への片道切符とか死に直面するような宇宙飛行士の人としての振る舞い、他人との関係性の取り方、ただリーダとして強引に他人を引っ張るだけではない姿、人物像を評価して見たいという意向が感じられた。

話を昭和から平成の時代にもどすと、私が関わった高度な統計数学が関わる光通信ネットワークの事例の話をして見たい。当時の日本と米国を結ぶような世界で一番長距離の大陸間海底光伝送では予め光が伝搬する光ファイバーのコアの部分の光屈折率を例えば9000㎞の長さ方向に渡って調整しておかなければならないのである。それは、単に標準的な製品仕様値(平均値+/-δ)を満足しているだけでは不十分で、9000㎞長の経路毎に例えば始めの50㎞は1.4650で次の50kmは1.4654というように長手方向の変動に関する値を管理制御すること、実際には光信号が伝搬する際の遅延時間を表記する光屈折率の波長分散という性能に関わる仕様のお化けみたいなものがある。

当時、米国の大手計測機器メーカーのものを使って計測するのが業界的標準になっており、私はもの作りのメーカ側の立場で製品検査を、お客様も値の張る米国製の計測器を購入し、受入検査をされていた。私が勤務していた米国メーカと顧客企業とで取り交わした仕様値を満足しており、受け入れ合格なのであるが、当時、私は技術責任者としてその膨大な品質データを検証していた。
何かがある? という疑問であった。

光ファイバーは石英ガラスから作られているが、その屈折率は空気中と真空中とでは値が0.03%にも満たない程度であるが、差異があるのである。起因は光の伝搬速度を真空中の値を1とすると空気中では0.03%程度遅いことにある。僅か1000分の0.3、ppm表示だと300ppm。そうなんです、検査時の基準を真空中の値、空気中の値とするかが両者で異なっていたことに起因して、データの分布図をメーカの出荷時と顧客の受け入れ時の値とを比較すると、一つのピークを持ったガウス曲線というよりも2つのずれたピークを持つガウス曲線としてみた方がいいのではないかという私が何かがある?と言った疑問が解けたのである。

こんな僅かな事も私にとっては当時夢のような話で、本社の製造部門だけでなく、開発・品質管理や顧客技術支援部門、その他多くの人達を巻き込み、課題・対策の情報共有が出来たというあたり前と言ってしまえばそうであるが、あたり前の簡単なことが認識出来ずに、月さらに火星探査へと連なる「かぐや姫の夢」を壊したくないのです。

人工知能AIの急速な発展と疑い

人工知能に関する取り組み、開発研究の歴史はかなり長い。
AI; artificial intelligence の進捗は主に計算機、コンピュータの発展開発に依存。
コンピュータシステムの高速化はデバイス部品の小型化による。
デバイスは半導体チップのみならず、周辺のパッシブ部品を含み,単体半導体チップ間、複数の半導体チップを含む特定機能を有するボード間通信も高速化されている。
AI開発のソフトウェア面でも歴史的にいき詰まりも何度かあった。

ここ数年間(2020年以降)で、AIの一般利用という面で驚異的な事があった。
巨大IT企業や異種業種企業による巨額投資で進んだ。
画像認識や言語認識による翻訳サービスも格段の改善。

これらの新しい進行は学習・learningプロセスに大きく依存。
キーワードはmachine learning (ML), deep learning (DL) である。

AIを組み込んだロボットを含み、AIアプリが従来の雇用を奪い取るという懸念。
 単純作業はどんどんなくなっている?
 本当にそうなのか?
 歴史的にみると何もAIのない時代にも、消滅した雇用と新たに生まれた雇用がある、
 
GPT-3, GPT-4, ChatGPT という自動文章生成AI
 Chatとは所謂短い言葉で相手とやり取りするチャットのことである。
 GPTとはgenerative pre-trained transformer のことで、
  文章を生成する事前学習された変換装置を意味する。
 GPTに続く数字はGPTのバージョン番号で3世代と4世代では
  MLで参照させているデータベースの規模が格段と増大している。
 GPT-4ではデータがビジュアルであると説明されていて、テキストデータではなく、写真だったり、手書きのメモ(これから文字を自動的に読み取り、文として認識するとか)、写真の一部に写っている物を指定すると自動的に猫の顔だとか電気自動車とか認識する機能が備わっているという。

データマイニングと何が違う。テキストマイニグと何処が異なる。
 という疑問も沸くがマイニングは分析的で、
 GPTは前の文に続く後の文を予測生成する。

ネットでよくみられる、チャット式質問があるが、これは場合分けしてツリー状にしたものでAIといって少々だまし気味な所もあるが、プログラム化されてはいるが本当のAIではない。

2023年3月18日に閲覧したYouTube(YT)は刺激的。
 言語生成、文書作成ができるChatGPT4の解説であった。
 質問者が質問した疑問に対して、AIが回答した文章が長かった。
 それに対て、質問者がもっとリズミックな感じにしてと要求した。
 すると、AIは見た目英語だが、短いフレーズで箇条書き様に構成された文章で答え直したのである。

そうだ、日本語で大切な和歌・俳句は究極の57577という、短いフレーズとリズム感を兼ね備えた表現で、我々が、人の生き様という和風文化の経験を積み重ねたものである。日本語の特有さとデータベースが英語と比べて非常に小さいのでChatGPTの日本語による回答はまだまだ未熟だそうだ。

以上、全て私の作成した言葉・文章であることをお断りしておきたい。

注:気になるのだが、欧米のある国レベルで、ChatGPTの利用禁止がメディアで報じられている。理由は個人情報保護上の問題らしい。4月1日のエイプリルフールかと思ったが、まだ日付けは3月内。

令和5年4月1日記す