世の中には表にはなにも見えず、内というか中では全然、私が想像だに していなかったことが進められていて、もう何年も経っていたというか、 過ぎ去っていたとも表現できる人生で本当に何回も遭遇し得ない<驚き>を 今、体験中である。
それは、わたしが 独断していたテキストだけの青空文庫に 朗読が加えられていたことである。最近と言っても確か 自分のリハビリ療養から自宅に戻り、留守中に和室を洋間に する改装工事が終わって、色々と数日間人生の最大の断捨離を
するが如く、多くは捨てられ、しかし物量でなく、私が小さい頃の 記録が何故だか、綺麗に年毎に並べられた私の想い出が束ねられて 現れたりもした。私自身はそんな作業もしたことはなく、それは 実家に残されていたであろう5-15歳の幼稚園、小学校、中学校時代の 私の10/73年に過ぎないもので、高校を卒業後、都内で生活しはじめてからは 実家に残っているはずだと忘れていた。そんな渦中、リハビリの先生から 青空朗読もあるそうだと教えて頂いた。
6月に入ってから、青空文庫と青空朗読という異なった二つのHPサイトを 覗いてみた。ここでわざわざ異なった二つのHPサイトと記したのは、私にとっての 新発見であり、事情をHP上から青空朗読は朗読を生業としたプロ集団であり、 一般社団法人の登記を済ませた団体で、悲しいかな何人いらっしゃるのかは 分からないが、ちょとしたバイト代程度の実入りしかならないような生活環境を おくっておられる朗読者が多い、、、らしい。
聴かせて頂いて非常に分かり易く所謂美声である朗読者もしくは声優さんと
いわれる位に業界で上り詰めた方々にとっても頭の痛いことであろう。
同様に古くから青空文庫として、それなりの年齢を重ねた方々にとって、馴染みのある青空文庫の組織は単に個人ボランティア団体で NPO法人登記や青空朗読のような一般社団法人のような法人登記もされていない集まりで、最近その代表者という方が病死されて、 今後の運営をいかにすべきかの議論/検討を進めているという 状況が公開されている。
青空朗読はテキストを利用させてもらっているので青空文庫を リスペクトしていることは間違いがない。まだデータベースとした場合、 公開されいる青空朗読は小規模であるが、始めに作品がタイトル別に纏められている。
私が住み始めて50年になる北区の田端には、田端文士村と言われ、 明治後期から大正を経て、昭和の初期には終焉を迎えてしまう地域があり、 来年2027年の中頃に、かの芥川龍之介の100回忌に合わせて記念館が 自宅跡地にオープンの予定である。最近関連のイベント なども企画されて、 (来月7月;孫が語る文士村)いる。
当時の文士村の若手代表の芥川の作品;蜘蛛の糸 を朗読の1歩とした。 次に,嬉しいことに寺田寅彦の作品も沢山語れており、「コヒー哲学序説」は
明治40年頃に欧州留学中のもので、それが後年の昭和8年にまとめられた 作品である。今まで、寺田寅彦全集第15巻(書簡集)ばかり読み通していたので、作品集の方は重箱の隅を突いて・・・如くまで出来ずに初見の作品も多い。
発見事例
小津安二郎の短編3編が朗読リストにその2編に芥川龍之介の作品を引用しつつ、語られているところがあるのには,びっくり。
かの小津監督が芥川を引用する理由が分からないのであるが。
寺田寅彦の随筆より、科学者とあたま という作品があり、孔子を引用し 科学は孔子のいわゆる「格物」の学であって「致知」の 一部に過ぎないという。むずかしい引用でjp.wikiに格物致知で、説明はされているのだが。
桂三木助作、麺くい (朗読時間3分余)本当に短い作品のようだが、 作者が何代目かが抜けており、朗読も若い男性の声。
桂三木助さんは今5代目、お蕎麦好きの話で、ゆっくり喋れば ショート落語にでも出来そうな内容。暫く聞き流していると、分かった。大阪の先代の三木助さんにご挨拶へ行くとあり(大正15年)、これは現5代目のお爺さんにあたる故人3代目三木助さんの作で あることが判明した。そうならば、もう少し年を重ねた方の朗読でも 良いかもしれない。しかし、3代目の三木助さんの若いころの作であれば、私は知らぬ若き頃の3代目のお声が拝聴出来たとも言えるのだが。
寺田寅彦の作品、「コヒー哲学序説」について。先に記したように、 私が偶然買い求めた岩波書店発行昭和12年10月初版本、寺田寅彦全集 第15巻(書簡集)を見ると寅彦は明治42年に船で欧州留学(独・ベルリンを 中心に)に出掛け、その期間で長文の手紙が多くの人と交わされているので、 わざわざ明治42年分が書簡集でかなりののページ割いて収められている。 実際に、纏められたのは昭和8年2月頃で、経緯が分かるかもしれないと思い、 書簡集の昭和8年の2月辺りを探した。397ページから、2月x日からの書簡が 記されているのを確認できた。
ここでふと、見開きの右側の396頁を見て私には大発見の類になるのだが、寅彦も漱石先生と同じく現 東京科学大学が東京工業大学と呼ばれていた ずっと前の昭和初期(東京高等工業学校)の浅草文庫から、しつこく小文を 寄稿する依頼にやっと果たしたら、麻で編んだ真四角のハンカチみたいな お礼を頂いたと記されていたのが印象的であった。
というのは、夏目漱石は、同じ蔵前にあった東京高等工業学校の学生の 文芸部の浅草文庫から寄稿ではなく講演を依頼されて、漱石曰く、 忙しさを理由に講演の約束を(私が思うに、半分は意図的に) 果たしておらず、後日やっとのことで無題という題目で講演会を 果たしたら、今度は工業大学の学生が質問を寄こし、漱石の回答と 合わせて、それがどうだったのかと点に 関しては、漱石の「無題」に 記されているので、参照されたい。
ごちゃごちゃした件(くだり)については、今となっては古い出来事 だったが、当時の学生が後年、生存されていて、述懐された文章が 東工大百年記念館の資料集に残されていたのを 目にした事があったのだ。
1916年〈大正5年〉12月9日に病死した2年前に、今から112年以上前の 1914年1月17日、「坊ちゃん」や「吾輩は猫である」の著者として 有名な夏目漱石が、東工大の前身である東京高等工業学校で講演を行った。
https://www.titech.ac.jp/public-relations/about/stories/soseki-natsume
粗筋は次のとおり;夏目漱石が、東京高等工業学校の校友会で講演した 時の記録です。演題は「無題」で、内容は建築家を目指した過去から 文学者になった経緯、そして文学と技術の違いについて語られています。 漱石は、文学は「人間」を扱うもので、技術は「腕」を扱うものだと 主張し、文学における「個性」の重要性を力説します。講演は、 文学と技術、そして人間の生き方の本質について、独自の視点で語られた 興味深いものです。
ここで、コーヒー哲学序説に話を戻すと、8−9歳頃から毎日牛乳を 飲めということになった幼少の頃の話になって、とてもまずくて 飲めないので、医者は小さな布製の小袋に粉にしたコーヒーを一つまみ 収めて熱くした牛乳に漢方薬を煎じて服用するがごとくと指示し、 寅彦坊は述懐して薬用品みたいなものだった。本題は、留学中の ベルリンにてカフェで飲むコーヒーの方に話題が移って、欧州で飲む 珈琲の発音はロシア語が日本のコーヒーと言っているに一番似てたという。
多くはcafe、カフェらしい。そんなこんなで、コーヒーを覚えた寅彦は 帰国後も風月堂のの珈琲を味わうために 銀ぶら をしたそうだ。
幸田露伴の朗読に移った。しかし、青空朗読に露伴の作品はまだ データベースが公開していなかった。そこで、青空文庫に戻って、 露伴の作品を目を通し始めた。私は以前つぶやいた澁澤榮一の伝記を まとめたものの著者は誰だったのかについて寄稿したが、それは まさに幸田露伴であった。
