歴史・考古学が面白い②


  十月号に引き続き、「歴史・考古学が面白い」を深める為に、特にルーツについて自分の身をあるところに置いて独り言を呟く。十月号で人のルーツについては、どこかに自分に似た人がいる風に少し書き始めたが、今回三つのルーツについて、第一は自分のルーツから、第二は現代人のルーツ、そして第三は縄文人のルーツについて、解説風に呟いてみる。

1. 自分のルーツ・母方と父方
  弥生後期の人骨形態学による再現古代人の顔が母方の祖母(本家は埼玉県鴻巣)・叔父さん(埼玉県在)にそっくりで、これは初期の人骨顔再現法でもこんなにそっくりさんを再現出来るのだという、表現のしようがないくらい驚いた事とこんなに身近な係累で自分の出自が解ってしまう事は驚きを沈めさせてくれた。関東北部の群馬県の榛名山近くと記憶している遺跡からの遺骨を分析・再現した研究成果だという。
もうひとつ、父方についても次の検証があるのだ。2006年の秋、2008年の夏にオリンピック開催の決まっている北京を訪問し、その際で時間が前後するが、日本へ帰る日、知り合いの中国人のお母さんがホテルまで見送りに来て頂いた。背が高く、面長の顔、中国の北部に多い民族を代表するような目も細い。亡くなった叔母さん・父の姉にそっくりだった。父の姉は、四十台で死んだ祖母(本家は埼玉県の戸田)とそっくりだったそうだ。背丈は違うが、面長の顔はそっくり。叔母さんの娘・従兄妹・既に病死は、もっと似ていたような気がした。
北京で企業訪問の日、訪問で行き先が分からず、タクシーがやっと目的地に着いた。降りて若い人にお邪魔すべきビルをタクシーの運転手が聞いた。また、吃驚。その若い人の顔が私の従兄弟・父の弟の息子にそっくり。歳はいとこよりやや若いが、背丈、顔かたちがそっくりだった。北京へ来ているはずは無い。このいとこの顔は私と血の繋がりの無い、伯父さんの連れ合い・伯母さんの系の顔で漢民族とは違い福建・広東系の、私の体験では香港でよく見かけた少し年配のご婦人の顔が伯母のお母さんに非常にそっくりであった、
中国の人口は十三億人、それも単一民族ではなく、南方系、北方系だけでなく、もっと複雑な古来からの民族の集まりが中国をなしてきた。周辺の国々も、南はベトナム(漢字で越と書きます)、朝鮮半島の北・南、昔なんて国境もいい加減、人の往来は戦争や事件で逃げたり、避難したり、貧しさから逃れるために移動してきたはずで、人口1億の日本民族も単一でない。中国、朝鮮半島と似た図式であろう。その証拠に、ちょっと出かければ、人口が十倍だから、知っている人に似た方を見出せる確率が高いのであろうと納得した。
 
二.現代日本人のルーツ
  ここからはDNA研究者の解析結果である。
父系のDNAで表記すると概ね次の四種類、オホーツク人C2・縄文人D1a・長江弥生人O1b2・漢人O2で構成されていて、青森県・東京都・静岡県・徳島県・九州・沖縄県において、全ての県で縄文人が一番多く、その比率は60超から35%で異なる。弥生人と漢人を加えた3DNAの比率は95から80%で主要構成。、各県の特徴として沖縄が縄文人60%超のトップで、九州は弥生人と漢人の合計が60%でオホーツク人が混じる、徳島は九州に比べ弥生人と漢人の合計は50数%で少し小さい、静岡はこれら2つのDNAは60%を少し超え弥生人の%が大きく35%を示している。東日本の東京・青森では縄文人の比率が50%程度に増加して、オホーツク人と弥生人亜種O1b1と表記される長江越人が数%あることを特徴とし、東京と青森の差異は青森の方が縄文人が少し減った分オホーツク人と越人が増えている。東京の方が、縄文人の%が少し大きく、その分オホーツク人と越人が少なく、東日本では東京の縄文人が多いのである。私の個人的興味は、記紀等から東日本で大国であった日高見国の情報が消えている理由などが遺跡の人骨DNA解析で解明される事を期待したい。

三.縄文人のルーツ
DNAのゲノム解析で判明しているタイプはD1aである。
氷河期の三万八千年前に、アフリカを出発した現生ホモサピエンスは、アジア大陸へ、そして日本列島に到達、しかしスフール大陸・オーストラリアまで南下したGrが再度沿岸を北上したGrと途中でアジア大陸内で北上したGrが樺太経由南下して、列島に到達したと考える。これらの南方系Grと北方系Grが混血して縄文人として日本列島内外で活動したと思われる(D1aという男系縄文人DNAの呼称)。  *注 後年十二世紀ごろに北方より北海道に南下したアイヌのDNAはオホーツク人と縄文人固有のD1aの二種から成っており、縄文人の%は80%と非常に大きい。

研究参照 篠田謙一氏 佐賀医科大 *発掘された人骨の歯を中心に解析
           斎藤成也氏 国立遺伝学研究所 *ヤポネシアゲノム研究関連

余談ではあるが、時代的には日本の縄文後期にあたるアイスマンのDNAは詳細に調べられて、wikiに紹介されているが、背丈は160㎝で目は茶系だそうで、現代の我々が思い浮かべる白人系の背が高い人種ではなく、少し西域アジアに見られる人種の様であった。

十月号中の訂正 
アイスマンは五千年前 訂正 五千三百年前

                                      完                    

歴史・考古学が面白い①

 最近の歴史は面白い。文字がなかった先史時代の遺跡や有史時代の遺跡が発掘されて、それらは数多くの最近開発された分析手法とそれらに紐解かれた分析結果を従来になかった社会的見地で、大胆な仮定が昔の姿だったんだという事を、納得させてくれるからだ。私は好きが高じて、所謂2次情報のみで、今回の独り言を呟いている。
 素人歴史家・考古学好き人間なのかもしれない私は、受験で取り組む、特に世界史になるものが当時好きでなかった。ただ時間軸を古きから新しきものだけにした見方と単純に何年にどういう出来事があったとするだけの見方には、なじめず点数も及第点に届かず再試験もやった。
 学生時代と記憶しているが、米国の南部の黒人家庭(アフリカから奴隷として連れてこられた)のルーツを自ら調べようとした本が出版されたころに、種々の科学的手法を適用し、時空を超えて戻ったり進んだりして、暴いて行こうとする姿勢が大胆で面白しろそうだと思った。あとは、サラリーマン時代にアイスマンンという欧州のアルプスの峠越えのルートで5000年前と思われる氷漬けのミイラが見つかり大騒ぎとなった事件を書いた単行本を買ってしまった。普段は古本購入で済ませているのだが、私が新版の単行本を購入してしまう位、衝撃的だった。
先ず自分の数少ない実体験からスタートしたい。子どもの頃の印象や大人になってから地元の社会活動グループを通じての実体験である。縄文貝塚が少し標高のある海から離れたところにあった。都内で古い神社は標高20数メートルに鎮座し、その坂下から縄文時代の幾重にも堆積した牡蛎の貝塚遺跡が見られる。青森・函館の縄文遺跡見学し、結構今の海岸線から離れていると不思議だった。
土器の再現焼成で、古代文化との関わり、組成の化学分析で判明。 以降、考古学は最新の材料の微量分析技術、半導体の微細部解析により進む。
弥生後期の再現古代人の顔が母方の祖母・叔父さん(埼玉県在)にそっくり、関東北部群馬県の榛名山近くと記憶している遺跡の遺骨分析。次に、父方の従兄弟の顔・背丈が非常にそっくりで見知らない方が2007年・オリンピック前の北京に出張で訪れた時に、タクシーから降りた際に街角で見かけた。本当に久しぶりと挨拶をしようとしまう位、似ていたことを実体験した。

続々と進む縄文遺跡・弥生時代の遺跡発掘
  戦いに関する遺物がない縄文時代
  12x35cm単位(身体の特定部位の長さ)と規則性・数学の発達?
小さな子供を葬った甕の中に小石が1つ、2つと(三内丸山縄文遺跡)
入っていたそうで、資料ではその点についてのコメントはなく、
私は1歳で亡くなった子供・2歳まで生き存えた子供と直感した。

寒冷化による1万年以上続いた温暖な縄文時代の終焉と、
  急変する戦闘的弥生時代の環濠遺跡
  吉野ヶ里遺跡の再発掘・傷を負った多くの人骨が甕棺墓に

氷河期と暖気、間氷期の暖期 海面変動と人や大型動物の移動
  学説;太陽の活動(400年前から黒点の出現数を観測)、
11年の周期性の乱れと黒点数がゼロの年が続くと
気温が下がり*1、太陽の活動が活発な黒点数が多い
時期は気温が上がる。実は太陽が放射する光のエネルギーは、
ほぼ変化せず、磁場の乱れと関係し、弱くなった太陽系圏の
磁場を通り抜けた高エネルギーな宇宙線が悪さをする(
大気中に小さなエアロゾルを形成し、それが雲の核となり
雲が増えて日射量が下がる?)

氷河期と間氷期の長さ 地球の傾いている自転軸のコマ収差等
は宇宙的現象。次の両先生方の論文を参照。
  常田佐久教授・国立天文台
  冨田成夫准教授 筑波大
  *1:マウンダー極小期

最近のDNAゲノム分析手法
  ミトコンドリア(母親の系列のみ)以上に核のDNA(男系情報)のシーケンサーに
  よる詳細解析。
  仮説;縄文人のDNA(D1a)と現日本人のDNA,現生人類はいつ頃
日本列島にやって来たか?
  氷河期の38000年前に、アフリカを出発した現生ホモサピエンスは、
アジア大陸へ、そして日本列島に到達。しかしスフール大陸・
オーストラリアまで南下したGrが再度沿岸を北上したGrと
途中でアジア大陸内で北上したGrが樺太経由南下して、
列島に到達したと考える。これらの南方系Grと北方系Grが混血して
縄文人として日本列島内外で活動したと思われる(
D1aという男系縄文人DNAの呼称)。

篠田謙一氏 佐賀医科大 現国立科学博物館;発掘された人骨の歯を中心に解析
詳しい日本列島人のルーツは? に関する分析結果に関する多くのレポート。

氷層中のガス微量分析、環境変化(火山活動・7300年前に大噴火し地盤沈降したカルデラを有する、現代人の工業化活動)を取り込む南極の氷層をサンプル。

Lidar 地中RADAR :考古学 XCT MRIによる遺物のデジタルデータのAIによる解析
無人ドローンによる空中測量が暴く古墳や巨大遺跡
磨製石器と黒曜石の地理的関係と新石器時代を生き抜いた人類とは?
分布と旧新石器時代の人の交流
  九州の国東半島・姫島(学生時代)と信州和田峠(40代)の訪問

日本列島に見られる人為的痕跡のまとめ
ここではDNA分析結果で提唱されてるものを参照

127000年前 砂原遺跡
 38000年前 氷河期海面低下100m以上
 17000年前 長江河口に住む倭人
 13000年前 国産黒曜石の拡散
 10000年前 温暖化による海進と海面上昇
7300年前 南九州アカホヤ大噴火
  3000年前 稲作文化を持つ民族の日本列島へ流入
西暦3世紀 寒冷化で北方民族が南下 
 西暦4世紀 空白の4世紀 
 西暦6世紀 これ以降は記紀の文字情報による

次 に続く

卸しと問屋からユーザ主導のインテリジェント化

  こんな日本的商いのちょっと古めかしいキーワードにしても、物やサービスを提供したいというシーズ型ビジネスと特定な物やサ―ビスが欲しいというニーズ市場型ビジネスが想定される。
メーカ(生産者)とエンドユーザ(時には消費者)を物流的に結び付けるのが、この日本的卸しと問屋の単純な役割として考えていいのだろうか。時には、実際は多くのケースで生産者や消費者は非常に弱い立場にある。
  仲買人の言い値で生産者は安い値段で物を売り渡さざるを得ない時、消費者も問屋や小売店から言い値の高値で買わざるを得ない時もある。物流的には、卸しは規格商品をメーカから大量に仕入れて、それを小分けにして小売店、そして消費者(エンドユーザ)へ供給するという役目も果たしている。
  現代のe-commerce(EC :通販業者)も商材を仕入れて、ネットでユーザの目を止めさせ、注文を瞬時に受けて、商売成立という事になる。小規模のネット通販では商品の独自企画は出来ないので、所謂メーカ、生産者の企画製品を、ウェブの上手い宣伝文句で、いかにユーザの心を擽る(くすぐる)算段に時間と資金を費やしている(デジタルマーケティング)のが現実の姿と思う。大規模ネット通販業者は、旧来の卸し・問屋の力量を出し、メーカー側に独自企画の製品開発を委託出来るケースもある。上手くいけば独自企画商品という差別化で売上倍増も期待できる。
  昨今、ECや物流に関係なく、規模の大きい世界市場を想定し、品質や量産技術の工場で、物が大量に生産され、メーカー間の熾烈な生存競争の果てに、弱小企業が淘汰され、年間生産数が億を越えるような規模でも、メーカーが数社なんている業界もある。こういうケースはもはや卸しや問屋が入り込める世界でなく、メーカ主導型ビジネスとなる。
  最近ではファブレスと言って、生産設備を持たない“メーカー”がいる。普通はそのような企業をメーカと思っている。物作りでなく、物やシステムの独自設計力があり、生産だけを他社に委託しているのである。実際には世の中に、こういう製品が多い。
最近、日本国内の各地で台湾以外の地で超精密な(2nm技術)半導体工場の建設ラッシュが続いている台湾のTSMCは世界一である。米国内にも進出し、昨今の東西対立の中、積極投資を続けているファブレスではない「顧客のメーカー」がある。 “メーカー”といったが、実は力のある卸し・問屋なのかもしれない。自社の企画製品・半導体チップは絶対市場で売れる、ユーザのニーズを満たしていると自負している。
  こんな状況をひっくり返す最近の流れがある。卸しも問屋もいらない。エンドユーザが支配的なケースである。商売とは売買とイコールで有るのだろうか。否、中間の“メーカー”や問屋が介在しない世界である。ただし、一つ条件があって、エンドユーザは製品の消費規模(利用数量、台数)が極めて大きいことである。所謂大量購入、消費が出来る力量を備えたケースである。更に必要な製品の独自企画・設計力も備えているケースである。簡単に言うと、エンドユーザが自ら商品設計をして、大量に委託製造業者に発注して、自らがその商品を利用するのである。下記のサイトに、こんな事例があることを示す。
     サイト情報; datacenterknowledge.com 2012/05/08/ 号
  もう12年も前の事だが、今の地球上の人々の生活で、なくてはならないインターネットのジャイアント企業が建設し始めたDC(データセンター)のコアになる高性能のserver(スーパーコンに匹敵する能力、だが莫大な電力を必要とする)が一拠点に数万台も必要とする事に言及した。すなわち、オープン・コンピュートプロジェクトである。
  これでお仕舞いと思ったが、よく考えると、受注している製造委託会社は、実は所謂メーカとエンドユーザの中間にいた“メーカー”や問屋がそれなりの長い期間で育て上げたものではなかったのかと。即ち卸しと問屋がインテリジェント化した形態ではもはや対抗できない業態に進化したのだろうか。参考にしたサイトの英文資料でも、サプライチェーンを shake up しているとある。これを恐ろしく震え立たせると解釈するか、前向きな意味でも業界の reorganize と考えると面白い。実際、shake up に reorganization という意味もあるようだ。
  12年経った現在ではCHAT-GPT や人工知能AIというキーワードが多くの人達に知れ渡る状況にはなっているのだが、実はその中身の仕組みまで理解している方は極めて少数である。

オーラルフレイルOF

 これは典型的な外来語の発音をそのまま表記した我々にはとんでもなく悪い言葉だ。口の機能の衰えを意味し、70を超えたシニアにとっては多様な老齢化疾病の直接・間接的症状の現れで、死にも繋がる。詳しくは、今はやりのAIサポートやウィキペディア(wiki)を参考にされたい。
 今日は私の独断、変わった見方でOFついて呟きたい。高度に発達したホモサピエンスは言語を習得し、文字を発明し、今や宇宙開発にピリピリし始めている。逆に失ってしまったもの、正に失いつつあるものに注視してみる。30-40万年前に樹上で暮らしていたグループが地上へ移行し、2足歩行の能力を得て、高度な言語能力を身に着けて行ったと研究者は述べていた。その時期に呼応して人類は失いつつあるものも複数あったという。
 よく例に私は上げるのであるが、4足動物で走るのが速いチータやヒョウがこれも走るのが早い草食動物を追いかけて捕え、その日の空腹を満たせるのが第一番の関心ごとだ。チータやヒョウでもそう簡単には、跳んではねる獲物は捕えられない。走る向きをパット変え 後ろから追っているチータも瞬時に走る方向を変え、こんなことを何度か繰り返して、やっと獲物を抑え、直ぐに空腹を満たしたところであるが、未だせねばならないことある。
 今度はハイエナや鷲のような餌を横取りする動物に対して、力がとんでもなく強い顎で獲物を噛んで、 木の上に引き上げるか茂みに引き込む。それでやれやれと獲物を食するという普通のストーリがTVなどで観られる。

これらのチータの口の機能について、独断してみる。              
もはや、高速で逃げ回る獲物を追って瞬時に身体の向きを変えられる能力は大脳で処理した結果をフィードバックして、次の行動を起こすという遅いプロセスではなく、小脳・脳幹で無意識の瞬時のうちに反応出来る能力であろう。
  それに対して、人類は言語能力を高めた結果、大脳でのゆっくりとした処理に呼応した口腔の構造が高音から低音までの発声に合うように細長くなり、顎も細長く変化してきたそうである。もはや、樹上で暮らしていた世代の人類が持っていた噛む力も弱くなっていったのであろう。
 さらに、人類は視覚の精細さと聴覚の高度化も進んで行ったと推察している。 その傍証として目の見えない視覚障碍者は耳が良いそうだ。ある視覚障碍者は、今はやりのネットビデオサービスのYouTubeで、若者が出来るだけ短い時間で多くの情報を入手したい、理解したいという世界的なニーズがあり、YouTube には再生速度が次の等倍速以上で、1.25 1.5 1.75 2.0倍速以上ので動画の音声を聴き分けられるという。

それ、ちゃう ちゃう と 大阪のおばちゃん
 これは チャウチャウ犬 のことではないと 東の関東地区の男性
 それは違う、違うのです。と大阪のおばちゃん言葉を関東風に翻訳。
 助詞の(は)が省略され、sore ha chigau no desu がSORE CHAU CHAU に。

言語的に省略と短縮がおこなわれ、話言葉がどんどん早くなり、俗っぽく変化する。
早口に対して、速読能力もよく注目される。普通の人は本を読む時、一文字づつ追って読むのだが、速読力のある方は文字を追って行くのではなく、複数の文字列を一塊として、平面的図形として捉え、自分のケースでは縦書き・横書きでも、1行17文字位が一番ピッタリ感がある。原稿用紙の20文字はちょっと長すぎて、読売新聞は縦書き1行12文字で書かれているが、12だと短すぎて、ピッタリ感がない。文字列の一塊は5-6行の総文字数で17x(5~6)、すなわち一目、一見で85~102文字がざっと見渡して私が理解できる図形範囲である。これを1秒間で視覚情報を処理可能な大脳の能力とも言えないか?
  もはや1秒で100文字分は人の音読限界を超えている。これら高度に特化した二つの能力は大脳をもっと発達進化の道へと開いた。しかし、失ったものも有ることを忘れてはいけない。

次のことは一般的なシニアの事象で、耳が悪くなりましね、聴こえ難くなりましたねと会話が進むようだが、、、。実は音の強弱に加えて、シニアの方は音の高低(すなわち、周波数)の高音域が聴こえなくなる。

すなわち、日本語は母音が主な言語でこれに撥音が組み合わさって構成されているある例だが、難聴で90歳を超えた老女と5-6歳の幼稚園児が、じゃんけんをしていた。
子供;じゃんけんぽい、じゃんけんぽい と大きな声で繰り返すのだが
老女;何 じゃん じゃん というだけ? 怪訝な表情
これは老女が け と ぽ が聞き取れていないこと・撥音も言い辛いことが判明したOFの分かりやすい例である。

私の百五十年

 一昨年、令和四年は鉄道開業150周年記念だそうである。現桜木町と汐留新橋間を所謂蒸気機関車が初めて営業開始をした。当時は横浜と呼ばれて、小さな漁村だった所が日本の開国とともに近代化へ突っ走った拠点となり、色々な出来事の一つとして、メモリーである。現在の横浜は神奈川と呼ばれていた線路が左折する前の地域へ移り、旧横浜の漁村は大桟橋を始め、レインボーブリッジなど巨大な港のインフラ整備がされ、隣接した大企業の跡地が再開発されてみなとみらい地区と変貌してしまった。<私は令和六年から約七十年遡って、七十/百五十年を断片的には観てきた事を示してみる。>

 私は横浜生まれで、母方は埼玉、父方の家系は新潟出の祖父を持ち、両親は横浜の出であり、親類も南京町、伊勢佐木町、蒔田町界隈に多かった。私はてっちゃんでもなく撮り鉄でもないが、初の鉄道乗りの記憶は鶴見から大宮まで(母方の実家が埼玉県北足立郡にあり、大宮でバスに乗り換えた)の汚れた小豆色をした省線くずれの京浜東北線であった。約百五十年前は、歴史的には江戸時代の終焉から明治維新への日本にとって、大変革のスタートから暫く時が過ぎている。自分の生きてきた世界で、江戸時代の人を実体験的に聞いたのは家内の母(九十六歳)が小さい時、義母の祖父が一緒に暮らしていたそうで、爺やんは江戸時代生れだと以前、口にしていたのが、唯一私の江戸時代である。自分の家系では男親系は短命で、精々私の二人の祖父までの話で、遡って明治中期、百三十年前位で止まってしまう。私の旧姓の祖父は新潟県(明治初期の人口は日本で一番であった)の出で三男、親元を離れ、当時どのルートを歩いたのかは定かでないが、日本では正確で立派な戸籍が残っており、旧中仙道筋を通って東京を目指し、途中の埼玉の戸田の在の女性を伴侶とし(現在戸田の美女木にの寺に墓がある)、大正時代の始めに東京巣鴨で叔母さんが生まれたことが記録に残っている。現在の大塚の近くであり、更に東京を越えて横浜、桜木町近くの伊勢佐木町・長者町辺りに住み始めたようだ。そこで実父がうまれ、私の本籍も生を受けた時はそこであった。

  私は鶴見区の生麦で生れ、近くに生麦駅(京急線)があり、並行して国鉄の踏切があり、そこを初の特急こだまが通過したのを見た記憶がある。当時私は学校に入学前の幼稚園生だったが、なぜだか家に小さな時刻表があり、よく時刻表で遊んだ記憶と書かれた地名の漢字を読んで入学前に結構漢字を理解していた。その後の出来事、生麦の家は社宅で茅ヶ崎に小さな一戸建てを父が建てる計画を進めており、横浜から茅ヶ崎まで東海道線で行く必要があり、ポケット時刻表があったわけであった。鉄道開通百五十周年といわれても、、、インターネットなど無かった時代の時刻表の利便性、楽しさに触れなければならない。それは遊びであり、どこか出かけたつもで(今でいうバーチャルみたいな世界)時刻表の鉄道(私の学生時代までは電車と蒸気機関車が混在していた)と拠点の駅で乗り換えが出来る民間バスの時刻表も豊富であった事を覚えている。さて、どういったバーチャル体験が出来るかを説明すると、特急・急行・準急列車が豊富で、更に新幹線など無い時代には夜行列車も豊富で、学生時代にはお世話になったが、幼少期の頃でもレ点(列車の通過駅)が気に入り、レ点がずっと続いていると、それは特急だと嬉しさが顔に出る。普通列車・急行が停車する駅、例えば、2330/2347    2342/2345 と普通が2330に着いて、続いて急行が2342に到着し、3分後の2345に出発したのち、更に2分後の2347に普通列車が出ていくという二つの列車が停車する駅だという事が分かる。夜行急行でも時間調整で400/430  と早朝に30分も止まるケースもあり、面白さが小さな少年に醸し出てくるのだ。

 小1の秋に茅ヶ崎へ引っ越して、小・中学校の生活が始まったが、当時は余り長距離の鉄道を乗る機会など無かった。両親、その先の祖父母の出自を紹介したが、皆近くにいて、西日本、東北・北海道なども縁が無かった。父方の祖母が当時昭和の初め42-3才で病死して、祖母の実家に近くの寺に墓を設け、浦和の在で茅葺の農家の家が残っており、小さい時の記憶では横浜の町中から、場違いの東北のどこぞの村へお邪魔したような雰囲気が残る田園で、今では埼京線と東北新幹線が並行し、スピードアップして走る荒川の川向こうの埼玉県戸田の美女木辺りの事である。精々、中学の修学旅行で京都方面へ日の出号で往復した事だけで、新幹線は利用できなかった。高校へ入学しても、長距離鉄道チャンスを逃した。ひと学年で四百名以上もいたので、確か山陰・山陽、四国と分散の修学旅行プランだったが、ある事情で学年で数名行けなくなった。ある事情とはクラブ活動で県大会まで勝ち残ったというか、辛うじて生き残ったので、修学旅行の方を諦めたのである。

 1972年に大学に入って、漸く私の第二の鉄道利用期となる。個人的な旅行と運動クラブの合宿旅行、そして研究室へ入ってからの地方の学会参加の三つのカテゴリー。神奈川県から都内の大学へ進学し、国鉄と私鉄を乗り換えて通学は可能であったが、クラブとアルバイトで忙しく、アパートに一人住まいとなった。入学して半年ぐらい経ってからである。今考えるとこれが私が実家との縁切りになった時期である。 

 その後二十歳から、一挙に四十六~七年間の鉄道や航空機の経験は割愛し、最近のイベントと鉄道開業時の努力につぃて触れる。山手線に新駅誕生という事で名称募集があり、私は高輪シーサイドで応募したが、高輪ゲートウェイで決定。暫くして新駅を見学し、なんとこの新駅脇で、横浜―新橋開業時の盛土遺跡(鉄道を通す場所が無く、やむなく当時海側に盛土をして、そこに走らせた)が発見されたそうで、其処も見学できた。そこの少し陸側がちょうど今の国道一号線で、正月の三日の昼頃で箱根駅伝の常勝校A学院を追って、K大学が差をつめていた日であった。

二者択一とは

 あるTV番組でIT機器装置を使ってALS病(筋ジストロフィー症とは異なる)患者が目線でしか示すことが出来ない、自分は生きているという意志表示が出来るんだという一面と、それに対する意志表示;欧州では安楽死を選択できるんだという患者とが取り上げられて、生か死かみたいな二者択一の話かなと私は思った。しかし、はたと困った視聴者がほとんどではないかと私は察した。生死の選択が自ら出来るんだ? 本当に、単純な二者択一というプロセスで生死をみる事が出来て良いのだろか、ALS患者さんも症状が軽微な時期に、もっと考えてみることは出来ないのだろうか?

 病気と患者さん、周囲のご家族などの関係者、患者さんを受け入れている医療関係者だけの単純な世界の話に留めず、もう少し文学的な面で生きるもの、生きるべきもの、生きたいと願うとか、今はやりの多様性という視点でもいいかも知れない、等々の議論がもっと必要だろうという提案もその番組であったように記憶している。現在の「文学」は私個人的にはエンターテインメントが主流になりつつある、サスペンスとか、xx殺人事件で犯人捜し、そのプロセスで細かなトリック作戦(列車の時刻表や乗換方法など)が話題に取り上げられるというもはや文学という言葉とは違う表記が必要と思うのだが。

 右か左か、yes か no か という二者択一といってもそう簡単ではなく、ある道を右に曲がって更に進むと今度は三叉路があるかもしれない、左に曲がると道は一本であるのだが、うねったり、上り坂や下り坂がいろいろ続き、多様である。 人は問いに対して、yes/noで聞かれると思考が単純になり、それにたいする反応は、はい、そうですとか、いいえ、違いますという無味乾燥になってしまう。そこで工夫を考え、問う際に具体的に数値やwhat how的にやると今の所コミュニケーションは上手くいっているとプロ野球のあるチームの新監督が語っていた。その新監督は若いので自分なりの考えで、いかにして勝負の現場で選手のモチベーションを上げる方法として、取りあえずトライして行こうと思ったのだろう。
以前高校野球の地方チームの監督が考え出した若い高校生の育成、モチベーションの上げ方はチームという複数のプレーヤと一試合で何人まで、何回出たり引っ込んだり出来るかを前提とした新しい選手管理法で全国優勝を成し遂げたという成功例を紹介したが、翌年そのチームは、都会の若い選手だが、普段の生活から野球の練習方法まで、出来るだけ(管理はするのだが) 自主性を重んじる學校に敗れた。まだまだこのように若い成長途上の人・組織には画一な答えはないことが分かる。

左と言う言葉がなかったら、右と<右でない方>、
下という言葉がなかったら、上と<上でない方> のように
反対語とか対照語が、文化圏や固有言語を有する民族、
国によって違っているのが当たり前でしょう。

 この5月の連休の終わりに、夜のラジオ番組がテレビ番組になって再放送されていた。映像がないラジオのトークと映像それもカラフルでふんだんにあるテレビ番組でのトークは如何に異なっているのが当たり前と察したが、その番組はあくまでも元のラジオ番組に寄り添ったものであった。ラジオトークの内容は引きこもりの方(以後彼らという)が、私には元気にしているんだなと単純に思い受け入れたのだが、葉書で投稿(今の時代ネットのSNSもあるのだが、あえてゆっくりとした昭和の文通みたいな急ぐ理由もないコミュニケーション)して、自分はいじめに合っていたとか、いじめた側の人の、何であの時そんな傷つけることをしてしまったのかという自分を苛める声もあり、久しぶりに考え込んでしまった。結構似た事に同じように彼らは反応しているんだと感じた。

 それは、普通に考えると、暖かくなって、<春は心地よい、気持ちが良く、好きだ>としてしまうが、多感な彼らは<春は、、、、嫌いだ>そうだ。何故春は嫌いなんだという背景を議論したり、彼らがそう感じるのかについてもっと聞きたい・教えて欲しい。もう一つ、紹介するが ありがとう に対する言葉が、申しわけない とか ごめんなさい であるという。 春が好き、嫌い、という二者択一。ありがとう と (申しわけない、ごめんなさい) の組み合わせは二者択一なのか、ありがとうならば、 thank you に対してno thank you と私は短絡的に考えてしまって、「結構です」と軽く言ってしまう。 番組中で、投稿されたご意見で、過集中(over concentration? 一つの事に過度に専念する?)という私も普段聞きなれない言葉が参照されていたが、彼らが多感であり、物事を多様な感性で問い、深く考えることが出来る能力を持っている事の証であることに気づいた。引きこもりとは、決して狭い空間に留まっているのではなく、周囲の人から話しかけられたり、自ら知らない人に話掛けようとしないでいるだけなんだ。二者択一は実は多くの選択肢から一つを選び抜くという非常に難しいプロセスと同等であることに気付いたのである。

卒FIT その後III;2年目

卒FIT その後 II;蓄電池導入
2023/07/27に卒FIT、区、国、都の助成金を頂いて、わが家の蓄電システムを導入し、わが家の最新ソーラー発電と電力消費動向について説明した。令和5年の導入直後の状況を以下に説明した。

令和5年5月2日は発電総量は31.4kwh (朝6時の0.1kwhから夕方17時の0.1kwhまで)、消費総量は22.2kwh (これはガス無しのオール電化です)。消費電力パターンは図の通り、早朝にやや高まっているのはヒートポンプ式のエコキュート温水貯蔵でドラム缶一杯ぐらいですかね、その前少しベースラインが増えているのは家人が夜更かしで風呂の沸かし直しや3台のTVを見たりしていた。朝の食事の用意はゆっくりとして、夕方からの食事の準備でピークに見えるのと明らかに違います。季節柄、エヤコンの使用がなく昼間はこんなに低レベルです。家の広さはかなり広く、大手住宅メーカの180平米(総2階)で熱遮断性については建築当初のままですが、リフォームで2か所窓を塞ぎました。

さて、その後蓄電池の導入を行い、5月下旬よりシステムが稼働しました。7月の下旬に至り都内でも連日35℃以上の猛暑になり、冷房機器を昼夜長時間使用せざるを得ない状況に陥り、日中天気も良く・日射量は高くソーラー発電量も大きく、蓄電システムの良さを実感した次第です。次の発電<昼間の青線>、買電<オレンジ色の棒グラフ>、売電<草色の棒グラフ>の3つのグラフは典型例です。先ず、真夜中の12時には、前日の晴天下で発電し蓄電池がフル充電され、それが放電され夜8時ごろまで利用され、空(蓄電池を完全に0%にしてしまうのはッシステム上危険で残20-30%で”ゼロ”設定とします)の状態になっています。我が家では夜も弱く冷房にしています。そして朝方3-4時の2時間で温水を沸かしますので、安い深夜電力を購入するシステムです。

朝7時頃から発電が始まり、蓄電用と自家消費用0.4KWがバランスし、下のように11時頃になると、11.5KWの蓄電がフルになると余剰の分4.3KWが買電に回ります。

上のvisualは本日の11時のもので、朝から晴天で11.5KWHの蓄電池の充電が済んで4.7-4.3=0.4kWの定常電力消費(照明、冷蔵庫、その他小消費出力の機器分)の余剰分4.3KWは売電です。          
上のチャートは晴天の日の代表例です。
オレンジ色の買電の無い時間帯で蓄電が
進み、11時頃にフルになります。
そして夕方から蓄電した電力を夜の11時までに
消費して、その後夜間の安い電力を買電すると
いうサイクルになります。

厳しいグローバルマーケティング (2)

十一年前の事だが2013年二月初め、仕事でサンフランシスコへ出かけた。フライトの都合で(安いチケットで帰国曜日が指定されている)、一日オープンの日が出来た。そこで久しぶりにソノマ・ナパバレーにあるワイナリーツアーに参加した。
集合場所へ行くと私が予約したグループは、所謂米国を加えインターナショナルなお上りさんグループ。もちろんツアーの説明はバリバリのAmerican Englishを喋るドライバー兼ガイドの比較的若手の部類のお兄さん。気が付いただけでも、カナダ、韓国、イタリア、フランスなどからの観光客、もちろん私が日本人で一人。仕事でのカンファレンス英語とは違い、久しぶりに生英語に浸り、感激した。
さて、ワイナリーは三箇所見学がセットされていた。二つはローカルで製造した美味しいワインで、輸出していないと言う。もう一つの大きなワイナリー(Sebastiani)は海外に手広く輸出していると言う。先にSebastianiの話をしてしまうと、今やアルコール類は重たく手土産に瓶を持って帰る事が無くなってしまった。まあ、都内の店で探せば入手できるだろうと思い、Sebastianiが買えそうな店を帰国後ネットで探すと、驚いた。仕事で頻繁に乗降する神田駅近くにYというワイン専門店があり、そこでSebastianiが置いてあると言う事が分った。フライトで十時間かけ、さらに車で二時間かかる彼の地の美味しいワインが神田駅から一分で行ける所で手に入るのだ。これもグローバリゼイションの恩恵だろう。
他の二カ所の小さなワイナリーは米国内でしか販売していないと言う。カナダからの客がカナダへも送ってもらえないのかと尋ねても、アルコール関係商品は色々とtaxなどの手続きがあって出来ないという。恐らく、輸出となると生産量の問題や品質管理の方も国際基準にのっとってやらなければならないのであろう。バリバリの英語をしゃべれる米国のワイナリーでもGlobalizationへの足かせがあるのだ。ただ物流や輸出手続きだけならば、専門商社や輸出業者へ依頼すれば出来そうだが、オーナーさんの気持ちをそこまで動かすことは出来ないのであろう。
味に繊細で、ワインと食べ合わせる料理にまで気持ちが行ってしまうと、ただ自分のワインを輸出する事では済まないのであろうと善きに解釈した。フランス、イタリア、スペインなどは別として、もともと輸出業を目指して大規模なワイナリーが最近ではチリ・アルゼンチン、豪州・NZ, 南アフリカで造られていて、品質管理も現代的手法で行われている。非英語圏のワインが輸出されているのに、ナパやソノマの米国産ワインが輸出出来ない所に、我々日本人が考えるべきグローバリゼーションへの課題があると思う。
さて、ワイナリーツアーの四か月後に、少し真剣にグローバルマーケティング について考えた。米国株式市場上場企業にはForm 10Kという企業経営状況を詳しく説明した資料の公開が求められている。所謂企業業績、財務状況の説明に加え、Risk Factorという項目がある。過去幾つかの企業のForm 10Kを査読した事があったが、最近(2013年当時)目を通した企業のRisk Factorの内容は定型的なものであるが、企業のGlobalizationを考える際に参考になる。
以下、ある企業の概要(一部省略)を意訳で示す。企業経営実績は海外売上があるが故に、常に変動要因が大きい。自社の売上で海外売上の比率が大きく、将来の成長に向けても海外売上の割合は増加すると予測している。従って海外売上に依存する利益はかなりの企業リスクであり、次のような要因がある。

  自然災害の他に
外貨変動
関税や他の貿易障害
政治的、経済的不安定性
通信分野や他の製品の政府許可(認定)を取得する難しさ
ある国では知的財産権の保護が不確かであることや保護レベルが低いこと
複雑な海外法規やそれらの処置に対応する事(コンプライアンス)が悩みの種

これらはバリバリの米系企業ですら身に沁みて体験、遭遇している課題であり、単なる語学(英語ではない)の問題でない事は明白である。異文化の中(衣食住、法規、金銭に対する意識、信用・クレジット、人をどのような経緯で信頼するとか)での実務業務を如何にマネージ出来るかが、グローバル経営で越えなければならないハードルである。
この十一年も前の経験を令和四年二月号で呟いたが、最近ではIT技術の進歩や社会の中でDX(デジタルトランスフォーメーション)への関心が極めて高い。というのは国内でのDXが遅々として、特に行政サービスでの遅れが指摘され、民間での導入スピードが速く、折角のマイナス金利解消や昨年以上の賃上げ実施が為されるという経済環境が好転しかかっているという中で日本企業もデジタルマーケティング等のプラットフォームを充実させてさらなる成長を目指したい。
リスク管理が前面に出ると、BCP(事業継続計画)を真剣に検討すべきで、今やネット社会の中で、拠点分散やクラウドネットワーク、データセンターの分散化等々、インフラ対策・投資も厳しくなっている。それらを見極めたグローバルマーケティングが必要であることになってくる。

文化の継承する強さと弱さ

手もとにあった冊子のページ(注1)をめくると、松尾芭蕉が江戸をたち、東北地方を目指して奥の細道の第一歩となった日は、遡ること西行法師の没後五百年忌であったという事が記されていた。それは偶然でなく、芭蕉がその日(西暦1689年の元禄二年三月二十七日陰暦)と決めていたのである。それは西行法師が陸奥に旅立ち、歌を詠んだことに起因し、芭蕉が自らも西行法師の辿られた跡をなぞることで、歌の技量を高めたいとか西行が実体験したであろう事を自らも同様な実体験できる(五百年という時空を隔てても)のではという強い願望があったと推察される。さらに、芭蕉を慕い、芭蕉の没後五百年になって(西暦1694年十月十二日陰暦が芭蕉の没年)西暦2194年になるが、自らも芭蕉の奥の細道を巡った江戸と言う時代の経験を実体験したいという方が現れるであろうかは分からないが、現状の東北各県の人口減少を鑑み、果たして没後五百年(西暦2194年)に徒で巡るんだという強い意志をお持ちの方がおられるかも知れない。西行法師、松尾芭蕉、〇〇■■という名の方が現れ、五百年、千年間の文化の継承を個人の強い意志で成し遂げた。というようなニュースが未来人は果たして聞けるかどうか?

現代で自分の回りでそのような事(類似の事)を実際に実行した人、又は今計画中の知合いはいらっしゃるのだろうか。

新型コロナウィルス感染により世界中で行動が制限されて、特に陸続きの国境間を挟む二国では国境封鎖までして・・・・我が日本では大海に囲まれているがそれでも完全隔離は出来なかった。船舶・飛行機など手段によって人の移動が特別なケースで許されるので、2022年に2021東京オリンピックを開催したぐらいなので、段々と新型コロナに慣れっこになってしまった。

そんなこんなで、地元の町会・自治会などの行事を皆で合意の上で、暫く中断してしまった。そして、毎年行っていた地元の餅つき大会や節分の豆撒きが昨年四年ぶりに行われ、今年の夏には、二年おきに行う神社の本祭が六年ぶりに行われようとしている。この四‐六年という短そうな期間でも実際に準備に関わっていると大変なのである。残念ですがその僅か六年の間で二名の自治会長が亡くなられ新会長に替わっている。神社の宮神輿渡御という氏子地域を神輿が巡行するという全国各地で行われている普通の夏祭り・秋祭りではあるが、この六年間で神社総代役員代表も三名も替わり、自治会の役員よりも高齢者で構成されている神社総代役員で物故者になられた方はちょっと指を折っても両手が必要な十名位もおられ、一番大事な鳶の棟梁も昨秋亡くなってしまった。

ごく最近のネット配信新聞によると、

千二百年続けている裸祭(愛知県稲沢市の国府宮神社)は女人禁制であったが、今年から女性が参加したという事例もあり、文化の新たな継承も生まれる。但し、男女混合ではなく時間帯を分け、法被を纏う方法で女性からのたっての要望により実現にこぎつけたという。

また、こちらも千二百年間続けられた黒石寺の(裸祭り)蘇民祭は最後の行事を人がいないという理由で閉じた。

三十年毎に行われる源義家で有名な平塚神社(北区西ヶ原、筆者の近く)の本祭は平成十四年に行われ、ちょうど三十回目の九百年であったという。私は実際に宮神輿巡行や女性神主さんの大パレードの写真を撮った事を鮮明に覚えている。

伝承形態
  ことば    
   口頭伝承    
   文章
  道具や模型
  唄・踊りなどの実体験

文化の伝承は易しくないが、自分の時代にリソースがないという理由でいとも簡単に絶えさせてしまう事は非常な決断である。よくあるケースは神社仏閣の行事だが、日本・韓国では女人禁制の風習が多い文化でも、少しずつ変化がみられるようだ。

洋風の着物・簡単着物を身に付け、足元は皮のブーツもしくはカラフルな所謂有名ブランドのスニーカーにして、闊歩したいというシニアの女子が現れ、このような新しい意識と新しい行動は文化の創造の一つと思えるのだが?

日本では、古代日本(西暦九百年まで)、中世日本(千三百五十年)、近代日本(千八百六十年)、現代日本(二千二十年代まで)と大まかに区分すると区切りの期間では海を隔てたよその輩、異種文化の影響を受入れ、日本流の導入検閲がなされて異種文化が己のものに姿を変えて、いつしか和風、日本流、xx道みたいにしてしまう。これは日本文化の強みと言えます。

二十年毎に伊勢神宮では遷宮が行われ、斎宮が白木をもって建て替えられる。二千十三年が六十二回目だったそうです。ありとあらゆるものが新調され供される。これは日本文化継承の一番の強みでしょう。

注1;本誌 三河アララギ 平成三十一年1月号 芭蕉、、、中屋氏

注2;ふんどし姿の男たちが厄を落とそうと激しくぶつかり合う奇祭「国府宮(こうのみや)はだか祭」で令和6年2月22日、愛知県稲沢市の国府宮神社で開かれた。1200年前から続く伝統行事で、もみ合いに先立つ神事に初めて女性が参加。法被に身を包み「わっしょい」と声を上げてササを奉納した。

注3:蘇民祭 黒石寺蘇民祭(こくせきじそみんさい)令和6年は、2月17日(土)に妙見山(みょうけんざん)黒石寺で最後の開催

あおいマスク

 今日は令和5年10月の上旬、予定されている行動をとらねばならない。それは毎月通院している主治医に急に呼び出された20日前に決まったとある理由にて、早朝より都内の大学病院にて頭部のMRI検査と造影剤を注射してX線による血流検査を行う事である。
 普通に、自宅の白いマスクをして、先ずMRI検査室へ赴くと、先生より院内専用のあおいマスクに替えて下さいと言われて、捨てはしなかったが白い自宅マスクを取り、少しきついあおいマスクを装着して、検査台へ上がり横たわった。そこでお決まりの頭部を固定され、防音用の耳栓を押し込んで検査に入った。閉所恐怖症の方には辛いが、私は平気。だが今回はちょっと違う、このあおいマスクを通して呼吸しなければならない。狭い筒状の中に頭部が固定された状態で、閉所恐怖症でありませんと言った手前、ゆっくりと鼻から息を吸い、口から吐き出すというカイロプラクティック整体の若先生に教わった方法で乗り切った。
  余裕が出て、MRIの磁場が印加される際に、耳を遮蔽しているのだが凄い音がする。その音を聴き澄ませていると音の低、中、高域の3つが使われていて、それらが各々、別々に数秒間のうちに音の強弱が正確に繰り返され、デジタルの8ビットのように聞こえたのである。その初めの規格化みたいなことが済むとついに本番の検査が開始され、時間は正確には分からないが数十秒間ずつ、ブーブー、がーがー、キーキー、時には短くドンと変な音楽みたいなセッションが続いて、20分の行程が終了した。
 次は別の検査室へ移動し、少し時間をおいて脳の血流検査のパートへ入った。こちらは、X線CTの部類だが、造影剤を注射針で腕の血管へ注入しながら画像を取る方法らしい。血液検査や献血では左利きの私は左手を差し出すが、今回は装置の移動方向と私の寝ている方向との関係で選択の余地はなく、はい、右手でということになった。
 私は初めての経験だ。同じような検査台へ仰向けになり<これが結構堪えるのだが>、普段背中が丸く前傾になっている姿勢をいきなり数十分間、固い台へ臥し、頭部はやはり固定されて静かにしていなければならない。ここの若い先生は時間が長くなるので、あおいマスクをずらして結構と言い、息がし易い状態でこちらは音もなく遮光用のアイマスクをお願いしますといわれ、ウトウトして知らないうちにこれで終了ですと声がかかった。こちらはそれで40分もの検査時間。
 こういった検査は70歳を超えた高齢者医療保険証を持たされている者にとっては特段特別な事ではないが、相当な検査費用だ。これまで45年間も払い続けている健康保険料、まだ若く病院の世話にはならないよという健常者の保険料、そして税金助成が原資だが、まだ仕事をしているお前は現役並みの実入りがあるからと言われ、逆らえずに3割の自己負担をしている。
 最近は大学病院もモダンで何とかというカフェもあり、ドリンク付きの簡単なランチサンドウィッチを食べ帰宅。もっと余裕を持った生活をすればいのだが、それが出来ずに、早々にノートPCでメールチェック、タブレットでニュース閲覧をして、それらを終えて、好きなYoutTubeでもと思い、アプリを立ち上げたところ、勝手に私の好きな朗読が紹介されており、何と菊池寛のマスク:小文の題目が、いつもの朗読者窪田等氏で紹介されていたのである。なんと偶然、今日のあおいマスクの記憶がタブレットの画面へ指を急がせたのである。
 そこには菊池寛の別世界があり、約100年前の大正8年のスペイン風邪の大流行の際に書かれた短編マスクであることを初めて知ったのである。今まさに我々が経験している新型コロナウィルスによる状況が、流行性感冒と呼ぶことしかできなかった時代と同じような経験が記されている。しかし、100年前の医学の状況はいいかばかりか、悲惨なことが書かれておらず、死者が国内で1日3000人を超えたとかあり、菊池寛の関心事は弱者である自分の不健康、弱い脈、心臓の弁の併合が悪い・手術が出来ない、脂肪心、駆けてはけない・脅かし、発熱・流行性感冒への恐れ、野菜食、伝染を恐れ妻も出来るだけ外出せぬよう家に籠った生活が記されいる。
 ところで、菊池寛はマスクについて、3月末でも気温も上がっているのにまだマスクをせねばならぬ、さらに、5月になって暑くともマスクが必要なのかと、文句まがいの気持ちを吐露。そこに、23-4才の黒い布製マスクをしている若者への嫉妬が加わるのだ。感染拡大に繋がる大勢の人がいるスポーツ観戦にこれから行くであろう若者がよっぽど強い男と見えたのであろう。
 令和の新型コロナの感染抑制対策に対してはノーベル賞を受賞したm-RNAワクチンに頼っているが、最近になって副作用による死者数が非常に多い事、直っても長期の後遺症で強そうな若者も含んで相当な数の人々がマスクを外そうが別の部類と思われる症状で普通の営みが送れずに臥している。私は終わりに記した現代医療でも予期せぬ二つの重大事に遭遇し、未結審の訴えの如く次の100年へ先延ばしにはしてくれるなという想いでいっぱいである。