長島さんが今年春旅立ってから約半年が過ぎ、 久し振りにあるTV番組で肉声をお聞きした。 それは、2004年、最初の病に伏せられてからの お声で比較的明瞭に話されていたので、 公の場に現れてからのものと思われる。
それは2005年7月ごろ以降であろう。その時期は私が52歳でサラリーマンを早期退職して、約半年が過ぎ、屋号を税務署に届け、個人事業主として営業をし始めた頃で、長島さんがお元気になられ活動再開をともに期待する余裕もなかった。
実は私は本物の長島選手や長島監督を見たことがないはずである。見た記憶がないのである。
これは、長島選手の引退試合が1974年10月14日に行われ、それは私が大学3年生の時で、まだプロ野球のリアルタイムゲームを高価な入場券を購入して迄の余裕がなかった。
実際、私が生のプロ野球の試合を観戦し始めた時期は、大学院の研究室へ入室が許され、新しく赴任されてきた若手の助手さんの指導を受け始めた時期に一致している。
早くても1977-78年の頃であった。理由は簡単でその新しい助手さんが西日本のご出身で、あるチームを応援していたからで、まだドームの無い、後楽園球場の
ナイターに時々出かける様になった。
長島さんのwikiで確認したところ、
しかし本大会を約半年後に控えた2004年3月4日、脳梗塞で倒れ入院。
一命は取り留めたものの利き手を含む右半身に麻痺が残り、言語能力にも影響が出た。
長島や周囲はオリンピックでの復帰を考えていたが、短期間での病状回復は不可能と判断され、一茂が「(アテネには)行かせられない」と記者会見を行った。
と記され、
その後の悪化していく病状については、多くのメディアのいかに長島さんに永らえて生き続けて欲しいという書き方が悪いが、長島さん自身の意識した生きる望みを表現した類のもの見当たらず、メディアが今流のネット環境社会の商材として長島さんを利用し続けられればいいという思われる表現にしか私には読み取れなかった。
少しキーが高く、年齢より少し若く発せられる
お声で、
私がこの様な姿になって、皆様の前に
出続けるのは、障碍者の方々も生身の現実
を隠さず、リハビリに取り組んでいる姿を
晒して<さらして>まで、皆様に見て欲しい、
何も失うこともないんだ。
という長島流明けっぴろげスタイルの強さであった。
私は、長島さんのそんな姿が印象的で好きだった。
後記、本当はジョンレノンと長島茂雄をだぶらせた私の呟きにしたかったのだが、それが叶えられなかった事をお許し頂きたい。