あるTV番組でIT機器装置を使ってALS病(筋ジストロフィー症とは異なる)患者が目線でしか示すことが出来ない、自分は生きているという意志表示が出来るんだという一面と、それに対する意志表示;欧州では安楽死を選択できるんだという患者とが取り上げられて、生か死かみたいな二者択一の話かなと私は思った。しかし、はたと困った視聴者がほとんどではないかと私は察した。生死の選択が自ら出来るんだ? 本当に、単純な二者択一というプロセスで生死をみる事が出来て良いのだろか、ALS患者さんも症状が軽微な時期に、もっと考えてみることは出来ないのだろうか?
病気と患者さん、周囲のご家族などの関係者、患者さんを受け入れている医療関係者だけの単純な世界の話に留めず、もう少し文学的な面で生きるもの、生きるべきもの、生きたいと願うとか、今はやりの多様性という視点でもいいかも知れない、等々の議論がもっと必要だろうという提案もその番組であったように記憶している。現在の「文学」は私個人的にはエンターテインメントが主流になりつつある、サスペンスとか、xx殺人事件で犯人捜し、そのプロセスで細かなトリック作戦(列車の時刻表や乗換方法など)が話題に取り上げられるというもはや文学という言葉とは違う表記が必要と思うのだが。
右か左か、yes か no か という二者択一といってもそう簡単ではなく、ある道を右に曲がって更に進むと今度は三叉路があるかもしれない、左に曲がると道は一本であるのだが、うねったり、上り坂や下り坂がいろいろ続き、多様である。 人は問いに対して、yes/noで聞かれると思考が単純になり、それにたいする反応は、はい、そうですとか、いいえ、違いますという無味乾燥になってしまう。そこで工夫を考え、問う際に具体的に数値やwhat how的にやると今の所コミュニケーションは上手くいっているとプロ野球のあるチームの新監督が語っていた。その新監督は若いので自分なりの考えで、いかにして勝負の現場で選手のモチベーションを上げる方法として、取りあえずトライして行こうと思ったのだろう。
以前高校野球の地方チームの監督が考え出した若い高校生の育成、モチベーションの上げ方はチームという複数のプレーヤと一試合で何人まで、何回出たり引っ込んだり出来るかを前提とした新しい選手管理法で全国優勝を成し遂げたという成功例を紹介したが、翌年そのチームは、都会の若い選手だが、普段の生活から野球の練習方法まで、出来るだけ(管理はするのだが) 自主性を重んじる學校に敗れた。まだまだこのように若い成長途上の人・組織には画一な答えはないことが分かる。
左と言う言葉がなかったら、右と<右でない方>、
下という言葉がなかったら、上と<上でない方> のように
反対語とか対照語が、文化圏や固有言語を有する民族、
国によって違っているのが当たり前でしょう。
この5月の連休の終わりに、夜のラジオ番組がテレビ番組になって再放送されていた。映像がないラジオのトークと映像それもカラフルでふんだんにあるテレビ番組でのトークは如何に異なっているのが当たり前と察したが、その番組はあくまでも元のラジオ番組に寄り添ったものであった。ラジオトークの内容は引きこもりの方(以後彼らという)が、私には元気にしているんだなと単純に思い受け入れたのだが、葉書で投稿(今の時代ネットのSNSもあるのだが、あえてゆっくりとした昭和の文通みたいな急ぐ理由もないコミュニケーション)して、自分はいじめに合っていたとか、いじめた側の人の、何であの時そんな傷つけることをしてしまったのかという自分を苛める声もあり、久しぶりに考え込んでしまった。結構似た事に同じように彼らは反応しているんだと感じた。
それは、普通に考えると、暖かくなって、<春は心地よい、気持ちが良く、好きだ>としてしまうが、多感な彼らは<春は、、、、嫌いだ>そうだ。何故春は嫌いなんだという背景を議論したり、彼らがそう感じるのかについてもっと聞きたい・教えて欲しい。もう一つ、紹介するが ありがとう に対する言葉が、申しわけない とか ごめんなさい であるという。 春が好き、嫌い、という二者択一。ありがとう と (申しわけない、ごめんなさい) の組み合わせは二者択一なのか、ありがとうならば、 thank you に対してno thank you と私は短絡的に考えてしまって、「結構です」と軽く言ってしまう。 番組中で、投稿されたご意見で、過集中(over concentration? 一つの事に過度に専念する?)という私も普段聞きなれない言葉が参照されていたが、彼らが多感であり、物事を多様な感性で問い、深く考えることが出来る能力を持っている事の証であることに気づいた。引きこもりとは、決して狭い空間に留まっているのではなく、周囲の人から話しかけられたり、自ら知らない人に話掛けようとしないでいるだけなんだ。二者択一は実は多くの選択肢から一つを選び抜くという非常に難しいプロセスと同等であることに気付いたのである。