自分だけの歴史

 異なった色の積み木を重ねるように自分だけのフェイクではないが、面白くもない本当の歴史を作ってみたいとお考えになったことがあるだろうか?フェイクとは偽りのという意味をいい、そうではないので事実・本当の事だ。もう少しこだわりがあるのだが、異なった色の積み木と始めに申し上げたが、絵の具が何かで木に色を浸み込ませたのではなくて、箱根の寄木細工のように、種々の木々を切ってよく見ると、木は肌だけでなく中身も特徴のある色合いを持っており、それで異なった色の組み合わせが可能となって、素晴らしい箱根寄木細工となるのだそうだ。実は私自身も畳一枚くらいの大きな無垢の木一枚で机を作りたかったのであるが、木工の工房のデザイナーに裏ワザを教わったことがあり、見せかけの大きな一枚の木を例えば小さな7-8枚で構成して造る時、木目・木肌・木地の似たものを用意して、上手く木目を合わせながら接着剤で割り合わせて、本物と間違いそうな張り合わせの“無垢の大きな木”を造って少しでもお安くするそうだ。そんな裏話を18年位前に聞き、それは良くないと思い、逆に7-8種類の色合いを持つ原木を探してもらい、それらを目立つように張り合わせて大きな一枚にして頂いて、それを今でも自分の机として使っている。
  歴史の構築と言えば、よくあることだが小説家が史実を綿密に調査して、“小説としての歴史”を、史実として後年になって発表し多くの人に知らしめし、関心をもたらすことが多い。江戸幕末から明治への変換期に多く、坂本龍馬が一番の例であろう。深くは立ち入らない。 
 以前、意外な自分自身の経験と題して2年前に、今年ちょうど百年になる関東大震災の実体験談として、私の実父と同じ歳の方の話が紹介されていた。ちょっとおかしい、実父は当時2歳で震災を体験したらしいが記憶がないと生前、話は聞いたことが無かった。よく調べると私の実父と同じ歳の方は年齢が少し上のお兄さんから後年聞いた話をもとにして実体験談として語ったそうで、これらは学習した横浜での関東大震災で、後で学んだことが加わって自分の体験として身についたもので、よく考えるとそれは今流のバーチャルで加飾された体験である。よくある事らしいが、親、年上の兄姉から伝え聞いた話で、公知の一般史実は意外と知られていないのかも知れない。
 最近、自分の心・魂をハッとさせた事があった。それは今年の令和五年に入ってからで、世間ではTV放送開始七十周年記念とかさわいでいるが、私も七十歳になって、小津安二郎監督が東京物語を執筆するために、定宿としていた茅ヶ崎館に滞在していたと知ったことである。さらに、小津安二郎のカメラマン<厚田雄春氏>に関して本アララギに寄稿し、素朴な50ミリのレンズと静寂・白黒の世界観に心を打たれ高揚している時に、小津監督が茅ヶ崎館に滞在し、東京物語を執筆した時期が私の生まれた昭和二十八年と知り、さらに執筆日記が残されていて、私が生まれた四月二十一日が自分にとっての歴史的出来事であることを知ったことが契機となった。

   表  勝手に積み重ねる自分の歴史
小津監督、東京物語構想 二月、執筆開始 四月八日
  昭和二十八年四月二十一日に、私は生を受ける。
小津監督、東京物語執筆脱稿 五月二十八日
  7才の時に横浜・鶴見区生麦の花月園近くから移り住んだ茅ヶ崎 昭和三十五年秋
小津監督、短い人生を閉じる。昭和三十八年
 地元の高校へ入学し、友人となった大船出身のW君の父親が大船の松竹撮影所の仕事をされていた。 昭和四十四年春
  当時は小津監督も知らず、W君に何も聞けなかった。
  
 たったこれだけの私の歩みは先ず、
東京物語の執筆期間は構想を含め昭和二十八年二月から五月末、当時の日記には四月二十と二十二日の記載はあるようだが間の二十一日は抜けているようだ。それが気になり、小津監督の東京物語執筆前後の日記を追ってみた。
 翌二十二日髭剃り、鼻の下長くなる、大阪の宿をやる<と書かれており、非常に日常的である>。詳しくは茅ヶ崎館で同宿し東京物語の仕事をしていた脚本家の野田氏の日記では、二十日;車券を買って少し当たる。気候は温かし海岸を散歩する、 二十一日;車券を買うが当たらず、暇をしていて、気候も温和 とあり、競輪の車券買いを度々依頼したとあり、近在の伊東・小田原・平塚、東へ向かうと花月園、川崎競輪場と懐かしい場所があり、それらは文豪の坂口安吾も競輪が好きで戦後の似た時代に娯楽として楽しんでいたようだ。私はその花月園競輪場の西側の関東ローム層の崖っぷちの下にあった父の勤めていた会社の社宅で気候も温かく平穏な下で生まれたようだ。皆さんの小さい頃の体験・経験を振り返ってみては如何ですか。

参照資料
野田高梧氏日記、小津安二郎氏日記・昭和28年4月分

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