寺田寅彦の子規追憶

先日、子規が眠る東京北区田端の大龍寺の前を通ると、子規の石碑に柿が供えられていた。調べると10月26日が柿の日だという。由縁は子規が有名な 柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺 を詠んだ日という。

以前にもお話したかもしれないが、結婚して偶然家内の実家に住むことになり、その家内の実家が田端の大龍寺の道を挟んで斜め前にあったので、大龍寺を通して、書籍の世界の子規、漱石、寺田寅彦氏などが私の実の世界に現れることになったのである。それは住み始めた昭和五十三年三月頃からである。それまでは神奈川県で普通の中学生高校生として、夏目漱石、芥川龍之介、萩原朔太郎、森鴎外、大学へ入ると小林英雄、江藤淳、寺田寅彦などを主に、度の強い近眼の眼鏡を通して接していた。

そして、田端が田端文士村と言われて著名な作家の方々が人伝に人が人を慕い、明治後期から昭和初期にかけて文化を育てた地と知った。しかし、文士村でなく初期は現東京藝術大学関係のアーチストが居を構え、陶芸の板谷波山が窯を焼き、そのアーチストを慕って作家の卵、北陸から室生犀星を始め、その後日本を背負って立つ名前を示した萩原朔太郎、芥川龍之介、若き小林秀雄など多くが移り住んだ。板谷波山を慕ってその後益子焼を有名にした濱田庄司も田端に移り住み、暫しの間、時を進めた。

さて、東京帝国大学の地震学者となった寺田寅彦は漱石が熊本の第五高の英語教師の時の教え子で、上京後漱石に子規を紹介されたりして俳諧にのめり込んだ。子規の早世について2編の追憶を記しているが、一つは死後約三十年に経って次のようにまとめている。

昭和三年九月『日本及日本人』 子規の追憶 寺田寅彦 「青空文庫より」抜粋  二 学芸の純粋な進展に対して社会的の拘束が与える障害について不満の意を洩らすのを聞かされた事も一度や二度ではなかったように記憶する。例えば美術や音楽の方面においていわゆる官学派の民間派に対する圧迫といったようなことについて、具体的の実例をあげていわゆる官僚的元老の横暴を語るのであったが、それがただ冷静な客観的の噂話でなくて、かなり興奮した主観的な憤懣ふんまんを流出させるのであった。どういう方面からそういう材料を得ていたかまたその材料がどれだけ真に近いものであったかは自分には全然分らない。しかし故人がそういう方面の内幕話に興味を有ち、またそういう材料の供給者を有っていた事はたしかである。  子規は世の中をうまく渡って行く芸術家や学者に対する反感を抱くと同時に、また自分に親しい芸術家や学者が世の中をうまく渡る事が出来なくて不遇に苦しんでいるのを歯痒はがゆく思っていたかのように私には感ぜられる。

最近それを読む機会があり、行を追っていくと、世間で騒いでいる日本学術会議の会員任命をあたかも批判しているような勢いだったのだ。

確かに任命権者は総理大臣だが、仕組みはよく知らないが、私も若い頃大学院生と引き続き民間企業の研究員をしていた頃、末端の組織でその会議の何かの委員を選出する有権者だった。普段は行政のプロセスで推薦者と任命者の調整がされ、わざわざ総理大臣が最終判断をすることなく、これで宜しいと押印するだけの事と思っていたが、実は令和二年十月に新総理大臣がある特定の候補者を除いて任命とした自ら口表したのが事の発端である。

寅彦が、子規の死後三十年も経って彼の追憶を彼の弁をして、かなり強く書き記した理由も定かでないが、自分の代弁とさせて、昭和初期三年(病死する六年前)ごろに 似たようなアカデミック界であったのかも知れない。

追、いつも年末になると寅彦を振り返ってしまう。寅彦は昭和九年の十二月に病死している。

居は田端の西方隣、駒込曙町である。最近、其方へは散歩をしていないが暖かい日を見つけて大龍寺から行ってみよう。

いずれも青空文庫で読むことが出来ます。

根岸庵を訪う記(明治32年9月)-初めての訪問

http://www.aozora.gr.jp/cards/000042/files/24406_15380.html

子規の追憶(昭和3年9月)-初めての訪問から30年後

http://www.aozora.gr.jp/cards/000042/files/24418_15372.html

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