岡本太郎 2

平成30年4月9日、自宅で仕事部屋兼ジャンクルームの断舎利をしていたらこの独り言をプリントアウトした紙片(前月号の独り言)が出て来た。読み返すと平成17年記すとあり、文末で、しばらくして岡本太郎に会いに行ってみようと呟いていた。その呟きから約13年も知らずに過ぎてしまった。

最近、旧大阪万博跡にある太陽の塔がリニューアルされて、再び多くの訪問者の眼を楽しませているというニュースを聞いたが、しばらくすると来場者数は期待していたほどではないという、追いかけのニュースを聞くと現代人には太郎の想いの念力も効かなくなっている時代に変わっているのかとも、少し寂しい。

また、別なことも頭に沸いてきた。岡本太郎と知の関係を呟くのに関係なさそうであるが、ある出版社の記者との逸話をまだ口外していなかったのか定かでないが、お話ししよう。私が昭和の時代53-60年頃、電気会社に勤めていた若い頃(24-32才)に、ある先輩がいて、両親が文筆家とお聞きしていていた。先輩が米国へ転職し、私もその後転職し、消息を聞くこともなく十数年が過ぎて、その先輩が帰国され再会できた。先輩との雑談の中で、“俺の父が若いとき岡本太郎の原稿取りをしていて”、よく自宅(おそらく青山にあった頃)押しかけたそうで、酒が好きな岡本太郎を新橋界隈からご自宅までお供したような関係だったそうである。こんな話では太郎の知的挑戦に係わる呟きに繋がらないが、私にとって、偶然再会した先輩のお父様を介して岡本太郎の人となりを知って非常に身近になったことは、知識・情報が積み重なりある種の構造化した成果と言える。

さらに、記憶をたどると、東京都庁が高層化し西新宿へ移転する前(1985-90年頃)に、今の有楽町国際フォーラム辺りに旧都庁舎があり、取り壊す前に一般の都民が立ち入れる建物のある処に太郎の作品がオブジェとしてあり、そこを見学したことを思い出した。

さらに、続く時は続くもので、平成30年4月の中旬(正確にいうと、紙片を見いだした9日から1週間後の16日)、出けた先のあるカフェ風のお店でお客用に本棚があり、古本が置いてあった。般若心経・・・という見出しに引かれ、直ぐさまその古本を手に取った。著者は大城立裕氏、発行は1981年、正確な著名は般若心経入門である。

なぜ、般若心経のタイトルに惹かれたかという理由も述べなければならないが、最近インド仏教の経典の梵語・サンスクリット語を古代中国が漢字化した時代の経緯を知り、音写と意訳の2通りで訳された語彙が、後年日本へも輸入され、多くのところにサンスクリット語をベースにした語彙が、それとは知らずに我々は日本語として使ってしまっていることを知ったのであった。例えば知に関するもので、知恵があるが、本来は智慧という仏教用語をベースにしているという。

さらに表紙をめくると、おっと、なんと岡本太郎の推薦文がお出ましになったのである。沖縄の大城氏と岡本太郎には交流があり、初めは大城氏も太郎の母、岡本かの子氏との接点があり、太郎と知り合うようになったと本文に紹介されていた。私の最初の川崎・二子での出会い(現高津区二子は岡本かの子の実家大貫家があった)と似ている。

太郎の言葉は以下のように吐かれていた。

色即是空、空即是色、強烈な世界観だ。 しかしこれをただ頭で考え、言葉で受けとめるだけでは、大した意味はない。生活の中に生かさなければ。大城立裕は自らの戦争体験を重ねあわせ、これを噛みくだく。 私はかつて沖縄に行き、島々の清らかな気韻、透明感、その凄みに打たれて「沖縄文化論」を書いた。沖縄には無の豊かさ、存在の原点で生きている充実感がある。だから沖縄の人、大城君がこの般若心経にぶつかって感動したのは自然である。 現代人は無のなかでナマ身で生きる、無即有の生命の自在さを失ってしまっている。豊饒な空の世界にこそ目をひらいてほしい。

出張先のカフェでこんな形で、13年後の再会になろうとは微塵にも思わなかった。13年前の本意は生田にある美術館にまた訪れたいという軽い気持ちだった。また、“無”に関する呟きにも少し腑に落ちたのであった。無と空とは完全には一致しないが、般若心経の色即是空は物の因果関係性から説いたもので、物が無いのではなく、例えば食物連鎖を考えると、最初の植物性プランクトン→動物性プランクトンがいないと、連鎖の最上位にいる人は生きていけない、存在できない。このような因縁・因果の関係性が世の中には沢山あり、人の営みを支えてくれていることを教えてくれている。岡本太郎の豊饒な空の世界はなんと素晴らしい。人は手にとって確認可能な物質的な言葉と、人が考えたり、想像したり、抽象的概念を示す言葉とを創造しそれらの因果関係を、自らを豊かにしていると思わせてくれた。

平成30年4月25日(水)、仕事で出かけた横浜からの帰り道で東横線を久々に利用し田園調布の“太陽の塔”を再確認しようと決めた。何しろ数十年前の古い事なので、私の勝手な思い込みで、その塔が有るのか無いのか、建造物自体が残っているのか心配したが、正に残っており、“鎮座”していた。通り過ぎる電車の中から観察すると、それは屋根の千木みたいな位置にある大きな丸い飾り物のように見えた。後で調べると、それは世界真光文明教団の建物と分かった。遠目に“太陽の塔”と信じ見えたものは、その宗教団体の星をモチーフにしたシンボルであった。

大阪に行く機会は無いわけではないので、川崎・生田の山でなく大阪万博跡のリニューアルされた太郎と本当の再会をしてみたいとも想っている。5月1日この原稿に終止符を打とうとしている時、大城氏が1967年沖縄初の芥川賞を受賞されていたことを知り、なんと私の無知を曝け出すことか。

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