吉田長次郎氏との再会

もう1か年が過ぎてしまって、HPにアップする時期をなぜだか逸してしまっていた下記の話をご紹介したい。

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平成26年8月月末、自宅に突然のお電話頂いた。
お宅様のHPを拝見しました。
<あのー>、失礼ですが、吉田長次郎の娘です。
家族でも、寺田寅彦と父親が何か親交があったとは知っていますが、
詳しいことは分かりませんでした。父は約40年前に亡くなっています。
最近、ネットで検索したところ私(egami)のHPに書かれているのを見て、
ご家族も吃驚したというような内容でした。

吉田長次郎氏は寺田寅彦の随筆には無く、没後まとめられた書簡集に何か所か
お名前が出てくる程度の氏であると理解していた。詳しくは私のアーカイブを参考にして頂きたい。

http://e-bbb333.com/tripleB/archives/766

http://e-bbb333.com/tripleB/archives/495

なぜ私が長次郎氏に興味を持ったのかは、寅彦が昭和10年、年の瀬が迫った12月に病死するのであるが、
病床にいても、さらに代筆を頼んでまでもして、最期の手紙を送った受け取り主だったからである。
それは、病死した昭和10年の3月ごろに、長次郎氏が寅彦へ(正岡)子規30年記念号を贈った、返礼の
手紙であった。

私も電話先の娘さんへHPに書いた内容も見もせずに、頭の中に焼き付けられてる
これこれ、云々の理由、背景を話させて頂いた。
ふと考えると、家族が知っている親の世界と家族が知らない親の世界があって、
家族が知らない世界が現代の魔法のツール、インターネットのHP,ブログで
父親の死後40年を経て知ったという稀有なストーリになってしまった。

娘さん、西山展子さん(81歳)がまとめられた冊子・楽天に詳しく長次郎氏の生き様が
まとめられているが、これらは私がこれまで知らなかった一市民、長次郎氏の一生であった。
人は生を受けたからには、普通両親の出身地や親の仕事の関係でどこそこに
住み始め、そこが人生のスタートとなる。

長次郎氏も四国の多度津で命を受け、母親方の出身が松山で、松山が生活の基盤となったようだ。
長次郎氏は東京帝大を卒業し、文学、美術・絵画を得意とし、松山の学校で
教師を勤めたそうである。時代も時代、そんな環境で、夏目漱石の教え子の寺田寅彦、
若くして没した正岡子規の俳句を通して、人が人を誘い、切磋琢磨していたことが分かる。
残念かな、漱石の俳句、寅彦の俳句はそれほどでもなかった様だ。
吉田長次郎氏は、ホトトギスの会員で、吉田橙子(とうこ)と名乗って
俳句など文学活動をしていたそうである。

西山様の冊子・楽天には、父親長次郎氏が旧制高校の後に愛媛大となり、愛媛大で教鞭をとっている
最中に、西山様も学生として愛媛大に学び、学友の先生が長次郎氏であり、また自分の父親である
板挟みの環境にご苦労された事も書かれている。

長次郎氏は、退官後は東京に居を移し、暮らして、今から40年ほど前に80歳で旅立たれ、
正岡子規の倍以上、50台後半で去った寅彦、49才で去った漱石より充実した
人生を送られたに違いないと信じている。娘さんが、きちんと冊子・楽天を残されているからである。

最近話題の村岡花子も、子・孫が親・祖母を振り返り、親が生きた時代よりも、
死して現代に知らせしめた様なもので、私も村岡花子は知らなかった。

親が死して、その後、親の人智の及ばないで世界で子が親の生きざまをまとめ上げる。
そんな境遇には私は決してならないとは思うが、長次郎氏の娘さん、西山展子さんは
それを実行している。その努力に敬服したい。晩年の長次郎氏のお写真も頂きました。

合掌

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