通信使

この連休中(平成17年9月のお彼岸)に家で徳川時代に行われていた朝鮮通信使のことが書かれている本を読んだ。 朝鮮通信使は徳川家康が豊臣秀吉の犯した朝鮮への侵攻を謝罪し、二度と朝鮮を侵さないと約束し、国交正常化の証として、江戸時代に派遣されていたことはご存知のことである。 これは家康が秀吉の戦後処理を行い、自らの政権を確立した証とも言える。

読み続け、ある文にさしかかった時である。 通信使の”「通信」とはよしみを通わすという意味である。”と書かれていた。 ここで私は”はっと”した。 20年も光通信に携わりながら、通信という日本語を一度も熟考したことが無かったのである。全く、反省すべきである。 日本、いや、中国でもいつから通信という言葉が使われ始めたのか知らないが、通信= Telecommunication とあまりにも結び付けすぎ、Tele + communication と考えれば、Tele (遠隔)を実現させるために、通信に利用している手段やハードのことばかり考えすぎていたことに反省した次第である。

よしみを通わす。漢字で書くとよしみは誼である。信、信用、信頼、思いやりを互いに通じ合わすこととも読み取れる。IPメールでは伝達されるテキストだけにこだわり過ぎ、送り手、受け手の感じる”信”を無視していたことも反省した。これからは”よしみ”を通わすことが出来る言葉、文、文章を熟考しながらメールを送ってもいいのではないか。携帯だと複数の指先を魔術師のごとくすばやく動かせる若者の世界だが、私を含む50を越えた世代は熟考して言葉を選び、メールを送っても悪くは無いであろう。

ただ、一方的に送りつけてくるメール(e-mail)、ダイレクトメール(封書)、電話による(悪意でないが)勧誘(何か読まされているだけの商品説明のテキスト)は通信でないと断言できる。これらは伝送、伝達、連絡の類である。我々は山ほどの意味の無い伝送、伝達、連絡に埋もれそうである。事実埋まりつつある。今や、インターネットは光通信で支えられている。 受け取っている電子メールでジャンクメールの割合が50%以上の方も多いのではないだろうか。光通信は光・通信であり、光で”よしみ”を通わす仕組みである。これまであまりにも光伝送にとらわれ過ぎていた。 これからは本来の光・通信の精神に戻ってみたい。

対馬を経由して、博多、難波、東海道を通って、江戸に到着するまで朝鮮通信使は数ヶ月要したそうである。当時でも、飛脚、早馬であれば国書、親書で伝達、連絡はそれほど日数も必要ないであろう。誼を通わせる、相手に分ってもられる誼は時間をかけて、運ばねばならない時もあるであろう。 一般人は季節の贈答、お邪魔するときに持参する品、土産の類はよしみを表わすものと信じている。

光で”よしみ”を通わす仕組みと時間かけてでも、相手に十分”よしみ”を受け入れてもらえる都合の良い仕組みを同時に実現出来れば、IPメールでも許されるであろう。

平成17年9月23日

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