東北旅行雑記(平成18年)

目的

栄華の奥州藤原氏の確認

岡本太郎の縄文探求の確認

三内丸山縄文遺跡地形確認

 

旅程

5・2

早朝6時出発

東京、一ノ関、平泉、一ノ関、盛岡、秋田

娘と偶然のフレンチディナー

5・3

秋田、秋田飛行場、角館、田沢湖、角館、秋田

秋田さとみ温泉(520円)

5・4

秋田、東能代、あきた白神、いさりび温泉(400円)、秋田

迎賓館で夕食

5・5

秋田(寝台特急)、東能代、弘前、青森、三内丸山、青森、野辺地、八戸(普通)

八戸、盛岡、上野

午後10時半ごろ帰宅

 

発見

平泉では、奥州藤原氏・初代清衡が豊田の館(現岩手県江刺市)からここへ移動してきた理由が理解出来ました。地の利ですね。要塞的、河川の岸で肥沃。交通の要所。北上川の西岸に少しばかりの平地と山地を上手く使って、拠点、中尊寺、毛越寺が立てられている。平安当時、都に上納した物品をみても、狩猟的物産が多いですね。とても、稲作文化のものではないですね。何と言っても、金、砂金がザクザクだったのでしょう。何かの時、金5000両を贈ったそうです。当時の一両は10数グラムとあります。

 安倍一族、清原一族を引き継いで、上手く奥州藤原氏は栄華を極めたわけですね。それで、当時の末法思想にもとづき、極楽浄土をめざし、一族を安寧する中尊寺を再建、金堂を建てたのでしょう。中尊寺は既に850年に天台宗の寺として開基されており、再建されたわけです。でも、4代、100年ぐらいで、頼朝に攻められ儚く散ったところですね。藤原4代がミイラとして今に至るまで、現存している、これは歴史的に素晴しいことですね。学術的にはそのミイラが標本になり、DNA,骨格、その他が調べられているとの事。

中には江戸時代に立てられたままの社もあり、雨風、積雪に耐え、木目が浮き出た柱、壁がタイムマシンのようです。金堂の古い鞘堂(金箔の金堂を保護するためにその周りに立てた大きな建物のこと、大仏を守る大仏殿みたいなものと考えてください)もあり、実際に、その鞘堂は松尾芭蕉が訪れた時代のものです。最近復元された金ぴかの金堂の鞘堂はコンクリート製、空調制御された今風のものでした。既に鎌倉時代の終わりごろ、この金堂も風雨に曝され、源氏にしても焼き払わず、初めての鞘堂が作られていたそうです。

 中尊寺のある地形は細長い、京の比叡山に比べると小さくこじんまりとした山の稜線にお堂、社が建てられている。いかにもミニチアという感じがします。でも、歩いて登ると結構しんどいですね。当時は神仏混同ですから、稜線には白山神社もあり、大小色々あります。

 やはり、地理的位置が重要。納得。平安時代でも、出羽の山を越えると日本海、そこから船で京へいとも簡単に行くことが出来る。実際、そのルートで、(源)義経が逃げたといううわさもある。陸の山道をテクテク行くのは難儀です。グーグルの図もつけました。

 大胆な自説ですが、8世紀半ばに聖武天皇の生活遺品を納めた正倉院が東大寺近くにあります。その御物といわれているものはシルクロードの最東に位置し、もうこれ以上東に進めないと考えられている。しかし、金堂には夜光貝を使った螺鈿細工、紫壇、アフリカ象の象牙がふんだんにつかわれており、12世紀なって、ここ平泉まで“シルクロード”の精神が東進したと考えています。

毛越寺は中尊寺から下って、扇状地的場所にあり、広く伽藍は京を模して造られたそうです。最近遺跡が発掘され、地域の公園となり、保存されています。今の建物は新しく建造されたもの。池も今日の大覚寺の模したようです。以前、大覚寺に行って平安風舟遊びが出来る池を見てきました。そっくりというより広いですね。訪れたのが5月2日、3日から義経祭りが始るので、地元の方が準備に忙しく働いていました。中尊寺ほど感慨はありませんでした。

角館はブランドも先行。5月の連休中に桜が満開、人寄せが最高。ただ混みすぎる。田沢湖へ行く車がやっと通り抜けできた。時間がある方はひっそりと時期をずらして訪問してください。

田沢湖、自然が一杯。この時期でも雪が残っていて風も冷たい。ちょっと不便なので、訪れる人も少ない。金ぴかの辰子像に吃驚。ここまで来て金ずくめとは。でも、岩手・秋田は黄金の里、平泉の金堂が金ぴか。それで許されたと理解。西武・プリンスがここまでも進出、田沢湖プリンスが鎮座していました。他に大きな建造物なし。東屋の稲庭うどんが美味しかった。こっちの柔らかいうどん・蕎麦というより、盛岡冷麺に匹敵するくらいのしこしこ感。噛み応えありました。

帰りの道で、県道・国道を外れて、特設農道というものがあり、国の補助金と思われる予算に任せて、立派過ぎる道路があり、空き空きでスピード出しすぎ。農道でトラクターがゆっくり?そんなこと出来ない、車が90kmで突っ走る。 でも、農道だから、インターとかがなく、通常道路との接続が少し悪い。知る人ぞ知る、地元の人優先。

秋田県の川沿いの平野は見渡す限りの田んぼ、それに八郎潟の開拓までやってしまって。他県の小さな田んぼはやめてしまって、効率よく秋田で日本中の秋田こまちを生産したら。ここが日本かと思えないぐらい広い。

それが青森に入ると、とたんに、山沿いの傾斜にもりんごの木が栽培され、土地の使い方が違うと感心。

秋田県は人口100万人、東京の世田谷区程度、インフラ、地元の人の暮らし東京と比べてリッチ。自給どころではなく、全国へお米配給可能。比内地鶏、2日夜、おいしんぼというフレンチレストラン、偶然に見つけて入った。これが、5000円のコースで最高。食材は男鹿半島の生うに、鱸、地鶏の卵でムース、クリーム。それに秋田牛が美味しい。

青森から八戸へ

鉄道の道すがら、外を眺めて、相当厳しい自然が立ちはだかっている。見える家も少ない。野辺地、三沢ぐらい。今でも東北・奥州の奥地という感じがする。2両編成の普通電車でも特急並みにスピードを上げていた。ここで、東北新幹線に乗り換えて、約3時間で東京へワープして、旅は終わりました。

 

東北旅行雑記、ハタハタ

秋田、青森方面の日本海側ではハタハタという有名な魚がある。

一時採りすぎで資源枯渇が騒がれたが、保護運動のため、また皆さんが食することが出来るようになりました。今回の旅や娘が秋田に居るのでこのハタハタが私にとって、身近になっていた。産卵時期大きな卵を抱えたハタハタは”ぶりっこ”というそうで、一度食べました。

キャビアどころではない、粒も大きく非常に歯ごたえのある卵でした。今まで、気にしていなかったが、ハタハタが 魚へんに神、魚神 と書いてハタハタと読ませている。これは大変だ、漢字にして、魚の神様?

気になりちょっと調べた、今回はウィッキは参考にならなかった。グーグルでは、以下のような記載があるサイトをいくつか紹介していた。

魚神の次に良く説明されているのが、魚雷、魚へんに雷、これでハタハタ。その理由は天候が悪く雷がなるような冬の時期に、ハタハタが産卵のため海岸に寄ってきて、獲れるから、そう呼ばれているらしい。言葉が訛って、ハダハダとも言う。

検索ヒット数は多いがどこも同じようは情報。

ただひとつ、地元紙、河北新報が、魚雷を、神鳴魚(かみなりうお)と3文字で書くこともあると説明。さらに、波太多雷魚などとも書くらしいことが説明されている。地元紹介で、こんな記事があり、納得した。

”わが家の正月の風景には、いつもハタハタがあった。決まって最も大きなものが2匹、豊作の神に捧げられた。「オダノ神にはブリコ(卵塊)のある、一番でっけえハタハタをあげねばダメだ」。母が語ったのを覚えている。秋田県南、横手盆地の農村の話である。”

魚の王者、神という意味でなく、神に捧げる魚であったのだ。地元の人たちがこの自然の恵みを感謝し、捧げる大事な感謝が込められている。さすが、地元紙であることの存在感を示している。

こんな写真集もありました。

http://www.e-komachi.jp/virtual/12ue-siki-hatahata/hatahata.htm

世界広く、魚を生きるための糧にしている民族は多いだろう。

言葉、文字は別にして、神に捧げる魚といわれるべき魚は非常に多いだろう。地域によって、色々な小魚がそう呼ばれているかもしれない。世界の民族全て(ただし魚を食しない民族は除くが)が魚に依存し、ひょっとしたら、世界中、魚の名前は、”魚神”になっていたかもしれない。

”笑”、ちょっと仕事していますが、そうだとすると、翻訳者は楽ですね、世界共通訳ができますから。

Fish for Kami, Buddha, God.

 

5月5日に青森、三内丸山縄文遺跡を訪問した。

念願の訪問であった。JR青森駅からバスで30分ぐらいの小高い山の上にある。その手前には、スポーツセンターがあり当日陸上競技の大会をやっていた。行き帰りのバスでの変わった経験をお話したい。駅で乗車しとき、東北らしいなと感じた。

高齢化の時代で、東京でも目立つが、お年寄りが多く乗っておられた。途中で、xx病院で停車、xx温泉で停車。元気な方は温泉か、身体に心配のある方は病院へ通わなければならない。さらに、途中途中の交差点でバスが止まると、”最近お年寄りの交通事故が増えております、お年寄りの方は目立つ色の洋服を着ましょう”という交通安全協会のスローガンみたいなのテープを流していた。道路の脇を歩いている時や横断する時に、車からわかりやすい用にカラフルな洋服を着てくださいというのだ。これも新しいmarketingだなと思った。従来、地味で黒っぽいもので十分だと単純に考えていたものだが、車を運転する側でもいくら前方注意していても、高齢者が判断スピードが衰えたり、体の具合で、ふらふらとすることもあるだろう。お互い、事故になっては悲劇だけが待ち受けているだけだ。これが、若者のように斬新、派手な洋装をして、不幸を避けることができるならば一石二鳥だ。

いっそのことオバアチャン、おじいちゃん、孫の洋服を貸してもらう運動したらどうであろうか。でも、腰曲がりのオバアチャンがミニスカート、おじいちゃんが片方だけ膝までたくし上げたズボンを見るのも良い時代が来るかもしれない。本当だ、団塊の世代はこんなこと簡単にやってしまうであろうと。

 

岡本太郎の縄文:

JR平泉駅を出て右に折れて旧街道筋を真っ直ぐ行くと高館義経堂(たかだち・ぎけいどう)がある。それでも、17世紀になって仙台の伊達藩が源義経を偲んで建立したものだ。そこに何か縄文までが映し出されているとは遠い昔のことだから思わない。途中に宇治の平等院を模した無量光寺跡がある。これは奥州藤原氏が贅をつくしたもので、跡地だけが残っていた。200円を払って高館義経堂を登りつめると、義経堂左手前に木彫りの仁王像があり、仁王像にしては小さいが、その顔が縄文的と勝手に感じた。写真あり。ご覧頂き皆様のご判断を。

また、一ノ関駅にもなにやら、かまど神の像、面があって、これも縄文の顔つきをしていると勝手に感じた。かまど神については下記のHPを参考にされたい。

http://www.nobi.or.jp/kamagami/index.html

岡本太郎が存命中に見ていたであろう、また、彼が影響を受けた時の縄文遺跡の数は今より相当少なかったはずだ。彼は主に、土器、土偶に影響されていた。土偶は女性を象徴化したものである。

私はどちらかというと、その時代を生きていた人、人間そのものに関心がある。ずーと最近になって(縄文時代というスケールに比べて)、大和政権を樹立した弥生後期から継承している人種は、縄文とかなり違う。これが、当時のアイヌ、今のアイヌ、南方系、北方系民族と明らかに違うことは確かだ。大和政権は懐柔策をとったので、アメリカのようにヨーロッパからの移民者たちがアメリカインディアンをほとんど滅ぼしたのと違って、縄文系に非常に近い人種は日本に相当残っているはずだと考えている。古事記や日本書紀に朝鮮半島から侵入して移住した当時の人が土蜘蛛と呼んで、山の穴の中に住んでいたという原住民がいた。恐らく縄文系ではと私は考えている。その理由として、三内丸山縄文遺跡で見た当時の住居跡で、登呂遺跡にあるような弥生時代の竪穴住居と異なり、竪穴式ではあるが屋根が萱で葺いたものではなく、木の皮も使ってさらにその上に土の層をのせて断熱性を高めたであろう住居が縄文時代に多く見られた。その土の上には草も多い、今風の芝が覆ったようなものだ。入り口も低く、私はこれを見て、古事記の土蜘蛛ではないかとはっと思い、胸が高まった。

 

疑問:

三内丸山遺跡

地形は小高いところ、北の海に向かって傾斜している。グーグルアースで事前確認。良く分からなかった。写真の倍率が低い。当時は今よりもっと温暖。雪国の吹雪をしのいでいた場所ではなさそう。

山の幸、海の幸が一杯ごみ捨て場から出ている。骨、殻等々。当時の海、海岸線の位置がいまだはっきりせず。かなり遠浅だったようだ。

でも、マグロの骨が出ている、タイも体長1mぐらいの骨が出ている。結構、今風リッチな食卓。どうやって獲ったか、もしや、もっと海に近い縄文海人が取ったものを物々交換で手に入れ、食していたのか。これ、基本経済が出来ている証拠?骨製の釣り針(小さい)も出ている、これで大型魚類を獲ったとは思えない。

有名な直径1mもある栗の木6本を柱にした巨大建造物跡。

再現建物は発想が貧困な学者たちを暴露?高さ20m以上もあるのに、上る階段、梯子も無い。屋根も無い。屋根が絶対あったはずだ。35cmを単位とする縄文尺があった文化レベルなのに、もっと考えて再現してもらいたい。他の建物も立派な今風萱葺き屋根で、柱の間隔も4.2m(0.35 x 2 x 6)間隔とかきちんとしている。単なる物見やぐらではなさそう。神道の大社造りを想像してしまうと行き過ぎ?私は海に面した灯台のようなものと想像。海からこれだけの収穫物を得て、戻ることを考えれば遠くからも見える。火をかざせば、暗い時間でも見える。

子供が結構小さくして亡くなったようだ。子供のお墓が住居近くに埋葬されている。貯蔵、煮炊きに使わない真新しい大きな縄文甕に死体を入れて埋葬された。説明書には時には小石が1つ、2つ入れられていたものがあると。その後の説明が無い。私は、無ければ零才で死んだ子供、1つは一才、2つは二才の子供の甕と考えた。それ以上大きくなると子供は甕に入らなくなる。

先端技術で人骨を分析した結果が紹介されていた。興味深かったのは、穀物系を主に食べていた人と、かなり肉・魚を食べていた人とが別れるという。なぜだ、個人的な好き嫌いか。当時はそんなこと言っていられない。生きるのに精一杯であったはずだ。

これは当時の縄文民族でも食文化で分かれていた人種が共同で住んでいたことなのか?

有名な縄文土偶、それも全て女性を象っている。

数センチの小さいものから、大きくても25-30センチぐらいですね。今回、沢山見た土偶で、2つだけ女性の性器を描いたものがあった。男の男根は無い。おおっぴらに男と女が表されていない。意外でした。遺物から日本海を中心としてもちろん北海道との交流も明らかで、ものだけでなく、当然人の交流、婚姻もあったと想像。それが4500年もの昔、戦争略奪でない形であったのか、遺跡からは戦争用武具武器は発見されていない。反対に弥生の遺跡は武器だらけです。土偶の顔かたちを見ていると複数の顔かたちがあると思えます。意外と逆三角の面長タイプ、それにどっしりと丸い顔。これは、前の人種の話で、複数の人種、文化があったことにはなりませんか。

最後の疑問。1500年も続いた遺跡。何かその間で文化の発展、技能的発展があったのではと期待していたが、あまりなさそうでした。津軽半島の別の場所の縄文後期の遺跡では明らかに、漆、土器の焼き方、造り方が高度になったものが出ています。同じ人種、当時の民族が同系列で発展せずに、異形民族がでて高度な文化を発達させたのでしょうか。

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