寺田寅彦と新潟

残念だ。
どこに憤懣をぶつけたらいいのだろうか。
最近の若者、いや、40-50代のその若者の親の世代も知らないようだ。若い時に本や小説とあまり関わったことが無い世代の大人も”寺田トラヒコって誰?”と言ってしまう。本当に知られていないことが私の胸を突き刺した。寅彦の没後約70年、平成16年の晩秋を迎えて、平成の寺田寅彦を目指しても面白そうだと考えてもみた。
私は今日、さらに第2の大打撃を食らった。若者や中年層もあまりにも寺田寅彦を知らないというので、近隣の図書館へ行って調べた。作家名、あいうえお順検索、書名検索でも”トラヒコ”が居ない。本当に手軽に手にしたいトラヒコの文庫本も架台に無いのだ。ようやく作家名鑑(新潮社)のごとき辞典で引くと、トラヒコのプロフィールが2ページに渡って紹介されているだけであった。いまの公共の図書館でもこの有様だ。私の家内などは同い齢というのに、”寺、、、”そうそう、寺山修司。なに言ってやがる。トラヒコと寺山修司は全然違う。寺山修司に失礼だ。寺山修司は彼なりの別な世界を築いた”ある界隈”の豪傑ものである。

少しトラヒコの生涯について覗いてみよう。
明治11年生、昭和10年没。父は高知土佐出身。東京麹町に生まれ、明治29年五高に入学、そこで夏目漱石から英語を学ぶ。明治32年東大物理学科へ入学。明治37年東大講師、大正5年東大理学部教授。12年に関東大地震に合い、その後東大地震研究所の専任となる。”天災は忘れたころにやって来る”は寅彦の警句である。

生涯で3人の妻を娶った。自身も大正8年ごろから胃を病んだが、妻たちも病死であった。大学入学前から夏目の影響を受け、漱石の家の連座に参加。明治38年漱石が”吾輩は猫である”を発表し、水島寒月に寅彦の面影が写されていると言う。寅彦自身の作品は小文が多いが、実験物理学に裏打ちされるように文学者の随筆には見られない新鮮な効果があり、科学随筆などと遠く及ばぬ知性と風格を示している。早くから関心を抱いていた音楽や絵画をたしなみ、楽器の演奏、写真はただの趣味に終わっていない。作品と深く結びついている。寅彦が最も興味を覚えているのは人間と人間の関係であると言われている。冬彦集、藪柑子集(やぶこうじ)、万華鏡(カレイドスコープ)が主な作品である。
(新潮社、作家名鑑より)

私の世代では良き高校時代に夏目漱石、正岡子規、芥川龍之介、その他、明治、大正時代の文豪を知る機会がまだ多々あった。私は偶然、寅彦も親交のあった子規の菩提寺(東京都北区田端4丁目、大龍寺)近くに住んでいる。本当の偶然で、彼の墓から直線で100メートルも離れていない。昭和53年に住み始めるまで知らなかった。時代が江戸から明治に移って、その時代は現代のように必ずしも英語ではなく、仏語、独語が主流であって、明治の文豪達は外来語を難しい漢文の和製表現にすることを得意とした。今では、いとも簡単にカタカナ表示にしてしまう。お堅い役所文書・報告書の類でもこのカタカナ外来語の羅列で、普通の人は何を言いたいのか一向に理解できない。

夏の暑い夕暮れに飲む、いや、今では寒い冬でも暖房の効いた部屋でキューッと飲むビール (beer) を麦酒と書くのが一番分かりやすい例であろう。”吾輩は猫である”の主がこれを飲んでしまった。気持ちがよくなって、行動も大胆、想像も大胆、どうなったことやら、漱石の読者へは結末の説明もいらないであろう。

日本酒を始め、アルコール発酵酵母を使って、種種の糖のもとになる穀類を分解して、美味の、時には悪さをするアルコールを天は授けてしまった。人類がアルコールを知ってしまったのは数千年前からと言われている長い長い付合いがある。

ところで、先般の新潟中越大地震(平成16年10月下旬)では日本酒の著名な酒蔵、朝日山、久保田(萬壽、千寿、碧寿という銘柄がありましたね)、他多くの小さな蔵元が大打撃を受けてしまったという。さらに追い討ちを掛けるように、信濃川に沿った地盤に大きな損害もあったので、銘酒の陰に名米ありと言われるように魚沼産の美味しいお米の来春の作付けも非常に限られてしまうというニュースも報道されていた。

私自身、震災のボランティア精神もって、現地まで行って実際を確かめてはいないが、それほどまでの被害は無かったようだ。都内の酒店で会員だけに選りすぐった銘柄の日本酒を頒布しているお店があるが、そのオーナーに聞くとやはり前の報道は少し誇張されていたようだ。新潟のことをよく知っているオーナーが囁いたが、最近は日本酒の売れ行きがよくないね。同情を得るための記事も時には必要だと。

この中越地震では運悪く、酒蔵の直下に3-4つの断層があって、複雑に滑り合い、揺れは震度7から6強、6弱とか、込み入った最近の震度で言われても、日本人が一番好きな酒蔵が生き残ってくれるかが一番の寒心事だ。地震とお酒、偶然の取り合わせになってしまった。美味しい水、お米、気候、それに相応しい酵母、熟練した杜と全てがそろった”新潟”が被災したことに黙祷したい。

平成16年11月22日

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