都市には静寂がない。
空が白みかけるやいなや、主であるカラスの鳴き声、学校の鶏の雄叫び、ときには季節の渡り鳥のさえずり、先ず人間さまより早起きの鳥類の声。鉄道の走り出すレールの音、山手線の始発は確か4時30分ごろだろうか。
家々が目覚める朝時の雑音、車が動き出し、人が走り出す。地下鉄に駆け込む通学の子供たち。都心では電車で通学する小さな子供達が多い。
地下鉄に乗るとアナウンスの声、レールの金属音、ブレーキや急な曲がりで混雑・雑踏の中で居眠りしている人もハットする。オフィスビル近くの地下街。清掃機の音、女性のヒールの音、何か物をたたく金属音。
近くの高速道路を走る車の低周波振動も伝わってくる。又、始まった“おばさん”が使う清掃機のガタガタ、ゴトゴト、ゴーゴーという音。ふっと振り返り顔を見やると、失礼、朝からお掃除をしてくれていたのは若い女性。否、当然そう思っていたシルバーのおばさん・おじさんではなかった。フリータ上がりに見える若い女性であった。その女性の生い立ちを憶測する間もない。
坂口安吾著、安吾史譚(しだん)-源頼朝- 章の一節に
本当に人の心をゆりうごかす感動は、顔の表情の逆上的なユガミだの、涙だの、叫びだのを伴う必要のないものだ。それは本来最も静かなものである。なぜなら、本当の感動とは、その人の一生をかけたジミな不断の計算や設計の中にしかないからだ。本当の感動とは本当の生活ということであり、つまり一番当り前のタダの生活、着実をきわめたタダの生活ということである。だから、彼(頼朝)が感動に逆上亢奮して挙兵した当初というものは、まるでもう足が地を踏んでいないようなダラシなさであった。
という、静かなる人をゆり動かす感動について書かれている。
このくだりはまさに現代の生活に欠けている静寂について、きつい一言だ。
物理的な共鳴は音でも電波でも、同じ周波数(一定の時間に繰り替えす波の数)で、強制的にパワー(力)を与えれば、“ド”の高さで鳴っている音叉が近くにある音を発していない音叉を“ド”の音で鳴り出させるような現象で、こころの中で感動しなくとも、強制的に自動的に音が上がり出してしまうことだ。本当に強制だ。
現代に欠かせない携帯電話。無線という電波が見えないがどこかに立っているアンテナから発せられ、手に持っている“はやり”の携帯電話(スマートフォン)に届いて、綺麗な音が鳴り出す。勝手に電波が手元の携帯電話に来たのではない。実は特定な周波数を持った電波に携帯電話の受信アンテナが共鳴しただけである。しかし、共鳴したものは非常に弱く、電気的に増幅されて、初めて小さなスピーカーから“冬ソナ”が挨拶する。実は携帯電話で話すより、文字や記号でメールを送り、地下鉄がホームに近づくと静寂、無言のコミュニケーションが始まる。今は、若者だけでなく約1億人をゆり動かす静かなる感動を、携帯電話はもたらすのであろうか。
最後に、安吾が嘆いています。静寂ではあるがバッグから取り出す小道具による作業、地下鉄の混雑にも関わらずご自分の面々を化粧う(つくろう)女性。ゆり動かす感動がありましょうか。
平成16年11月、冬ソナが流行った時期に記す。一部追記。