明治の文豪らは当時欧州文化の急速流入の中で欧米語を盛んに”和製漢語”へ変換する活動をしていた。その漢語変換作業でバッテリーが電池になった経緯は知らない。少なくとも戦後の一般教育を受けた者でも、電は電気から、池は水がたっぷり溜まっている池を想像し、即ち電気がたっぷり蓄えられている小型の池=電池になったのだろうと考える。
所謂電池は種々の化学反応により電気を取り出せる”魔法”の箱なのである。今では小型で超高性能で繰り返し充電できる電池がある。さらに燃料電池というものも開発され、水素(H2)やアルコールを元に電気を取り出せる方式のものもある。容量も工場や家庭の消費を賄える大型の燃料電池、最近ではパソコンや携帯電話に使う目的で小型のものまで現れている。意外と普段の生活で使っている材料でも面白半分程度ならば、電気の取り出せる電池も作成出来る。そうすると、電池は予め備えられた電極素材で化学反応を進行させ、電気を出し切ってしまう”魔法”の大箱、小箱と、エネルギーを外から注入し充電して、繰り返し使えるタイプの”魔法”の箱があるのが分かる。
人間も似たようなものだ。人として予め備わっていたものを死ぬまで、いや三途の川を渡るはるか手前で使い切ってしまう人々。少しずつ自分にうそをついて、騙し騙し使って、三途の川をまさに渡ろうとしている時にでも、残っていたりする人間は成仏出来ないかも知れない。
さて、人として何か備わっているものとは何だろう。
おぎゃーと世に第一声を上げた時点で、すでに備わっているもの。DNA とか遺伝子とかいうやつだろうか。これらDNA・遺伝子も後天的に己がどのような環境で生きるか、どのような影響を受けてきたかによって大きく左右されることは医学的にわかってきている。そうすると、自分の行動、努力によって、いかようにも自分の進む道、方向は操縦可能になろう。しかし、多くの凡人はこれに気が付いていない。充電できる蓄電池や化学的原料を用いる燃料電池のごとく、その働き・性能を外界から加える充電、原料の時期、その量によっていかようにも制御可能になる予感がする。しかし、本当にそうだろうか。100のうち、40-50ぐらいは操縦できそうだが、どうしようか、右に曲がろうか、真直ぐに進むべきかと、未だ、人間の行動の根源になる刺激や意志を解明できていないのが現実と思う。
電池は電気をもたらす。電気は電流と電圧でその大きさが規定される。1.5Vの乾電池の電流は5mA とか。人間は以前大きな誤りを犯した。私はそう思っている。電気の正体がよく分からない時期、水が高き所から低き所へ流れ落ちていくがごとく、電流も+1.5Vの電圧から0Vのアース地点間を流れると表記した。その後、原子とか陽子とか電子とかの運動が解明されると、本当は負の電荷を持った電子が正極、即ちプラスの電圧方向に引き寄せられる現象であることであった。言い換えるとマイナスの電子は電流と逆の方向に運動しているのである。この混乱的電気物理は凡人の小、中、高の学校教育で大変な事態をもたらしているはずだ。最初からマイナスの荷電粒子がプラスの電圧を有する所へ引き寄せられていく電流と考えていれば、世界の、人類の科学教育の実状はもっと革新的な結果をもたらしたかも知れない。
このように電気の対、正負の荷電粒子の詰まった”魔法の箱”がバッテリーと呼ばれる電池である。ただ、2つの要素で対になっているような状態、カップル、ペアーというと、夫婦や婚前の男女、フィギャースケートの男女の組がそのように呼ばれている。主に人の男女である。ところが野球の投手、捕手はバッテリーと呼ばれている。この差異はどこにあるのだろうか。ひょっとしたら、言葉の如く電池の構造と似ているのだろうか。投手は直径10cm、重さ200gぐらいの硬球をホームまで約18mの間隔を初速時速150kmで捕手を目がけて投げる。これはあたかも負の電極から電子が正の電極へ向かって、電圧差をもって加速度運動をするのと似てはいないだろうか。これはかなりのエネルギーである。電池はエネルギーを発し、モーターが回ったり、携帯電話の電子回路やカラー表示板、ボタンのLED光の元になる。エネルギーを生む一組の対がバッテリーと呼ぶべきなのだろうか。
男女でもいい、男・男、女・女の組み合わせでもいい。そして、なにかその間をやり取りする行為が認められ、エネルギーを発するよう訓練されたDNAが個人に備わってきて、初めて異種の人間二人からなる最小の社会をバッテリーとして世間に認められるのだろうか。
平成18年4月8日