見えないスポットライトを浴びる

令和4年9月22日深夜番組を見ていたら、夏の甲子園・高校野球、仙台育英高校が初めて優勝旗を勿来の関を越えさせた努力はいかにというような、注目を得ようとする流れであった。

これまで、東北地方や北海道の高校が野球の甲子園で活躍して、それなりの結果を残すと、それは所謂都市部にある中学の野球経験を積んだ生徒が親元を離れ高校留学をして、地方の地元出身の生徒が極めて少ないチームが編成されたことが大きな要因だと評判となる。しかし、地方の余裕のある学校が増えると、そういった学校同士の競争となり、そうそう特定な地方の高校も甲子園では優勝するのも辛い状況となる。野球以外のスポーツ種目でも、個人競技種目でも高校留学はあたりまえのこととなっているのが実情である。そこで、スポーツという世界、同じルール条件で競争するには、いい選手・いい指導者(監督・コーチ・支援スタッフ)が必要という話となる。時には指導者達の行き過ぎた熱血指導が問題となることも多々世間を賑わす。

今年、令和四年夏の甲子園を制した宮城県の高校では、優勝監督のデータに基づく選手の管理育成 組織論とマネージメントというコンサル事業のキーワードや私が見た他のスポーツとの類似性に少し触れたい。

そのTV番組のコメンテータは過去のトップ選手ばかりで宮城の高校の優勝監督は野球経験ありだが、補欠にもなれない、18名のベンチ入りも出来ない3流と言っていたが、スポットライトも当たらない選手の心を理解し、どう工夫すれば自己改革ができるかを理解し、それを実現して行こう、く若い子供を現代風DXとデータの見える化を行い初の優勝へ導いたストーリー>と言えるタイトルがぴったりな内容であった。元高校球児、プロの有名投手を経て監督などを務めたA氏は所謂、スポットライトを浴びた側の人間、野球界では限られた一人のスタープレヤーからなる選手投手から構成された古い型のチーム構成でマネージメントをして来た方ではあるが、新しい時代に即した新しいマネージメント手法に共感していた。陸上競技のトップランナーでオリンピック、世界選手権にも出場し、小さい時から常にトップの位置を占め、野球とは異なった一匹野郎的な個人T氏であったが、T氏自身、スポットライトを浴びていたので、当時はそこまで理解しようとも思わなかったようだが、この仙台育英の監督の新しい選手育成能力引き出し法ともいえる手法に共感していた。

私は呟いた、見えないスポットライトというのもあるのかも知れない。最近のグループを主にする歌謡ショーでは踊り振付が優先し、歌唱力は二の次、暗闇のステージにかなりの人数の煌びやかな衣装をまとった若い人たちがパッと浴びるスポットライトはもう一筋でなく、何筋もあり、その筋はどんどん速い動きに合わせて行ってしまい、過去の直立不動の演歌歌手が本当の明るいスポットライトを浴びている様とは全然変わってしまっている。

新しい組織論、マネージメント手法、分担型能力育成、人材の満足度を高めるリーダの存在とお互いの信頼というキーワードを思いついた。例えば、エース級の投手を3人育成し、予選決勝トーナメントを戦う中で単に疲労分散だけでなく、選手の性格、当然ポジションとして要求される機能面も少しずつ異なった面を持ち合わせるように育成することであろう。野球よりチーム人数が多いサッカー、ラグビー、そしてアメフト(American Football) のルールを読み直して、試合当日ベンチ入りできる人数、交代要員、再出場の可否について調べた。数字を上げる前に当然分かることだがこれらはそれぞれのポジションの選手(組織論で言えば異なった階層的役割を持つ人材の育成は違う)の育成練習方法と結果を出した自己の評価も違う事になる。


種目  試合出場人数 ベンチ入り人数   交代可能人数   再出場の可否

野球    9        18        自由        No

サッカー  11        18       (3)        No

ラグビー   15       22        (7)        No

アメフト    11       45      自由     可能 何人でも

アマチュアの選手以上にプロ選手の世界では、このような大勢の選手からなるチームの場合の個々の選手の評価が難しい。野球の場合、攻めと守りで大きく違う選手の評価、野手は攻めの打ちで評価され、投手は守り(私は投手の攻めと思う)の投げで評価されるので、一種の団体戦のように思われるが、個人の打点(打率やホーム数)や勝ち数(奪三振数や自責点)で評価されてしまう。

最後にアメフトのルールは究極で、ベンチに大勢が待ち受け、頻繁に交代があり、再プレーも出来て、スポーツ以上の組織運営論へ話が飛びそうになる。アリの大きな集団では働きアリの2割は何もしていないのだそうだ。始めから休憩してスポットライトが当たっていないのではなく、見えないスポトライトが当たっており、それで指図を受けているような如くに振舞っているのではないかと思うのである。

白; 知らないことの新鮮さ

最近、読み聞かせ、それも文字を習う前の小さな子を対象としない、大人の読み聞かせを体験する機会があった。大人を対象にするので、朗読やちょっとした江戸時代の小話を聴く、みじかい落語の感じがした。このような体験の延長で声優さんのいろいろな作品を朗読しているYoutubeを検索・視聴し、そんなことを暇に任せてお盆休み前にしていたら、芥川龍之介の作品は短編が多いので、結構、朗読対象になっていたことを知った。これまで、長編作品のたけくらべなど難解な樋口一葉の作品に挑戦し、そのままになっていた。今年のお盆前には芥川の羅生門の朗読を始めとして、蜘蛛の糸を繰り返し繰り返し、聴き惚れてしまった。

そして、六九歳になって初めて知ることになる「白」という短編作品がYoutubeのトップページを飾っており、それは淡いグレーと濃いグレーの単調2段階でデザインされて、特徴の無い犬が淡いグレーで描かれており、ははーん、これで<しろ>という犬の話になるのだなと思ってしまった。以降、私はその朗読を聴いた「白」の感想を呟くつもりはなく、詳しくは文字で全貌が紹介されている青空文庫などを参照して頂きたい。

さて、子供の絵本の読み聞かせ会などがあるが、文字をまだ知らない小さな子は絵本で与えられているカラフルな絵柄という作家特有な映像と耳から得た聞きことば情報を的確に覚え、自分の頭に刻み込んでいるのだ。諳んじている自分の知っている絵本の内容を早くお披露目したく、我が家では子供がまだ小さい時、家内が絵本を読み始めると長男がまだそこまで進んでいないストーリーを弟・妹にばらしてしまい、よく小さな喧嘩の始まりとなった。

大人の読み聞かせには例として初めて聞く作品の朗読が一番だと思う。初めて聴く新鮮な言葉を受け入れ、それを瞬時に同期させ、こんな情景なんだろなとか、思い浮かべる自らが創造する色合いの情景は私には楽しい。個人個人によって情景の配置や色合いは異なって当たり前であろう。しかし、著名な作品が映画化、TVドラマ化され、さらにヒットしてしまうと自分で想像するという前に監督だのドラマ演出家の意図が前面に出て、作品の著者が意図していない方向へどんどん行ってしまう事もあろうが、そういう時は小さな諦めも必要だ。

私は初めての「白」から1週間ほどして、2度目の<しろ>を探した。というのは、芥川は結婚9年目で自殺してしまったが、その4年前の結婚5年目にして自殺を暗示させる作品を残そうとしていたのかと背筋が本当にゾッとした。隣のくろと呼ばれる黒い犬が犬殺しに捕まり、自分は咄嗟に逃げ、自分だけ生き残った事を苛み、「白」の中で1度だけ自殺したいということばが出てきた。実は<しろ>は外観が黒い犬「芥川は鍋底よりも黒いと表現している」に変わってしまい、田端の駅付近から流浪の旅に出るのだが、出来れば死にたい死にたいと、あちこちで、蛇や狼と戦い、火や鉄道に飛び込み子供を助け、アルプスの山では遭難しかけた一高生を助け、死にきれずに自宅に戻るのある。その流浪の旅は決してカラフルでなく、ほとんど白黒の世界に近かった。

数年前、私は芥川が世間で言われている神経衰弱で病み、藤沢の鵠沼の海岸近くで療養し、自殺する前に東京田端の自宅との間を行き来した時期について調べた。新婚生活を始めた鎌倉にも近い鵠沼、その後田端の自宅に戻っても二階に籠り文章を練る作業に没頭し、神経衰弱の源は自分の作品なのか、それとも別なものなのかと、さらに健康もすぐれずにいたという。鎌倉や鵠沼と聞くと自然豊かな、新緑の緑を表現する場合や碧い海と連なる同じくあおい空を表現する場合には、組み合わせや、グラデーションまで考えると数え切れないわくわくする空間を想像し、そんな色合いが豊富な世界・暮らし向きを勝手に考えてしまうが、実はそうでなかった芥川の白黒の濃淡の世界が支配していたのだろうと想った。

朗読を拝聴し、自らは書かれた文字を目線で追う作業の代りに(といより軽減し)、余裕を持って色とは別の次元の世界の探索、つまり書き手の気持ち、意図、精神状況、心理状態等々を想像・推測出来ると信じている。<しろ>は人の話していることは分かっている。しかし、人は<しろ>の言葉は分かっていないという。「白」では精々茶色い世界までしか覗けず、それでも裕福だと思い詰めている。<しろ>が何とか自分の家に戻って来るが外観が黒く汚れているので、坊ちゃん・お嬢ちゃんには分かってもらえず、手荒く・ぞんざいに扱われてしまう状況に落ち込んでしまった。

よく、漱石の話で出てくる I love you を月が綺麗ですねと訳せる心持と、どうしても引用させて頂きたいのだが、芥川と結婚が決まっていた文はお相手のお名前は聞かれても言い出せずに、そっと羅生門の冊子を差し上げたという逸話を最近知ることになって、芥川も文さん位のある種の心持の余裕があればもっと長い結婚生活をおくれたのではないかと思った次第です。

ここ掘れワンワン、水と油 (2)

井戸があって、10メートルまで掘れる技術を持った部族Aがいた。遠く離れた地域の部族Bがいて、その部族は20メートルまで井戸を掘れる技術を持っている。さらに、別の部族Cは30メートルまで井戸を掘れる技術を開発して、水を得て部族を養っていた。

10メートルの井戸が枯渇して部族Aは滅んでしまったと言う。しかし、部族Bから20メートルまで掘れる技術を習ったとしても、部族Aが住む地域で20メートルまでの深さで水が出るか否かは賭けみたいなもの。必ず、20メートルまで掘れば水が得られるという確信があればハッピーという事になる。

又、よく考えると、深さ10メートルで取れた水の値段と部族Cが30メ-ルまで掘り下げて得た水の価値は違うはずだ。それらを容器に詰めて市場へ持って行き、同じ水で価格の違ったものなど売れない。しかし、10-20メートルの井戸が枯渇して、全て30メートルより深い井戸を掘れる技術の重要性と高いコストが市場で受け入れられると、時間とともに水の値段が上がる世界があることになる。

こんな井戸など掘らなくとも、季節毎に天から雨が降り、それを貯めて充分部族全員を養える部族Dが、やはり遠く離れた地域にいる。しかし、年が経つと天から雨だけでは足りず、悩み始めた部族がいるという。

現実に戻ると、今やこの笑い話の水を石油や天然ガスに替えて考えると、まさに我々が直面しているエネルギー問題になる。水を飲むだけならいいが、化石燃料を燃やして各種エネルギーを得ると、悪者にされた二酸化炭素ガスが排出され、地球の温暖化の犯人とされている。先の2009年12月のコペンハーゲン会議で、シナリオ450が提案され、現状の化石燃料の使用ペースのままだとレファレンスシナリオと言って、ゆくゆく大気の二酸化炭素ガス濃度が1000ppmまで高まり、予測温度上昇が6度とされている過酷な悲劇的な状態に陥ってしまうものを言う。シナリオ450の450は大気の二酸化炭素ガス濃度を450ppmまでに抑えようとする(現状は約390ppm, 2030年まで)、各種再生可能エネルギーの積極的開発投資政策と省エネ政策を全地球規模で推進しようとするものである。このシナリオ450でも、温度上昇は2度とされている。

季節毎に天から降る雨と比喩したことは、再生可能エネルギー量のことであって、天高くから降り注ぐ、太陽光(ソーラ発電)、太陽熱の直接利用、地熱利用、バイオマス利用、風利用の風力発電などである。降る雨は貯める大きな甕で十分であるが、我々が直面している各種再生可能エネルギーを有効利用するためには、“深く井戸を掘れる技術”に相当するイノベーション技術を開発しなければならない。

こんな事を話しているが、化石燃料資源がまだまだあることが最近解ってきて、近い将来それが大量に利用出来るようになると、その化石燃料の価格がかなり下がるかもしれないという。コストがかけられる井戸を深く掘れる技術のもう一面は化石燃料の埋蔵量、埋蔵地域をドラスティックに変えてしまう事である。例えば地下2000mまでの原油を掘れる技術と、埋蔵している地域をこれまでの資源国と考え、新たに地下4000mまで掘削出来る技術を持った所に、運良く深部に天然ガスが埋蔵されている地域があるという新たな戦略的資源国が解ってきた。左記に紹介した資料の11ページを読むと、米国に相当な埋蔵量のシェールガスがあることが示されている。
http://www.meti.go.jp/committee/materials2/downloadfiles/g90406c07j.pdf

以上の様な話が12年前の9月に記され、2022年の2月以降、世界のエネルギー争奪、物価高騰、食料供給危機等で、世界の地政学的色分け問題にまで発展するなど誰も予想だにしていなかった。ただ従来の路線の延長ではエネルギー価格の高騰が多様な物価高騰に繋がる程度の事と思っていた。

貧しい欧州の国々の人達が15-16世紀に海洋を西進し、アメリカ大陸を発見し、同じ欧州の東寄りの国の人達が地続きの極寒の大陸を東進し、最果てのサハリン・カムチャッカに達した。アフリカの大群を制するボス格の象は遠く離れた水の気配を感じ取ることができ、乾季に数百キロmを歩いて水場へ群れの生命の為に導くという。それに比べて人は、地下の深い地層に含まれる石油や天然ガスを取り出し、地表の太いパイプで数千キロm輸送できるインフラシステムを構築出来るまでのスマートさを誇示するに至っているが、その途中にバルブを設け、それを右向け右と経路を変えたり、閉ざすことによってエネルギー供給を戦略的いや意図的に運用しようとする輩も地球上にはいるのだ。

ある意味では幸せな人生

令和四年四月に入って築百年以上と言われている平屋建ての「離れ」 からなる宿に泊まる機会があった。もともと西武系の企業が所有していたらしく、庭の手入れも行き届いて芝や木々も山間の地形に相応しく、昔流に言うと湯治にゆっくり日にちも数えずに休んで、楽しみたいという処であった。
  さて、ここからが舞台の幕開けで、その離れ宿に入りますと、玄関の引き戸の鍵が真新しくはなっているのだが、方式は古いものであった。畳敷きの二間の空間は全て襖で仕切られている。私の背丈は180㎝はないが、立ったままだと四畳位の玄関へ連なる小部屋と大部屋を仕切っている襖の取っ手に自分の手が届かない位低い所にあるのだ。そうだ、無作法に立ったままで襖の開け閉めをしてはいけないので、一度跪いて座るように腰を下げるとぴったりの高さに設計されているのだ。 次の大広間を見ると本当にただの畳敷きの部屋で椅子などはない。さすがに和風の卓机と座る時の背もたれは用意されていた。部屋の見分として、玄関から部屋に向かわずに板張りの廊下を左に行くとトイレ(便所、厠、御不浄等々の名称があるがあえてトイレと言葉を使った)があり、和風の板張りの空間で結構広く便器は流石に現代風のウォシュレット付きのものであったが、手を洗う水道は蛇口でなく、吊り下げ式ブリキ桶で下にあるネジを捻るとお水が適量流れ出てくる手水鉢のようなものを再現した古い仕掛けのものが残されていた。今回の宿でこれが私には一番気に入った。さらに一~二歩先は風呂場で脱衣所と浴室(洗い場と湯舟)になるわけだが、湯舟は石造りで温泉の源泉がゆっくりと出てくる。決して広くはないが百年前の日本人規格には十分であったと思う。
  私はこの数年来腰痛と坐骨神経痛に悩まされ、久しぶりに東京から近い温泉場に浸かりに来た訳だが一番の大敵は中腰状態で、それを避けるには立ったままの方が楽で、加えて椅子に座れば比較的普通の状態で維持できる。その離れの造りは鴨居も低く私が立ったままで手を少し伸ばせば簡単に掴まれる位である。

さて、庭を散策しようと玄関に向かうと靴を履こうとして靴ベラを探した。無いようだと思い、一瞬腰を曲げようとしたら白い長さの短いプラスチック状のものがあり、それが靴ベラであった。普段自宅では柄の長いほゞ立ったままで使える靴ベラを使っているので無意識に柄の短い靴ベラという概念が消え去っていたのだ。百年以上も前にこの離れでお客人を接待もてなしていたであろう小柄な日本人は何の不自由もなく、立ったり座ったりして、ふすまを開け・閉め、お出かけのお客人も玄関先に座って柄の短い靴ベラで十分な健康人であったに違いないと信じている。それに比べ、むやみに体格が良くなった現代人は胡坐をかいて畳に坐ること・こじんまりとした椅子に腰かけることや低いテーブル・洗面台の前にして中途半端な角度に腰を曲げたり、腰痛を発生させる機会が多いと感じているが、そうかと言って、大きな椅子、サイズを大きくしたテーブルや洗面台は規格品でそう容易く規格変更も出来ない。
  約百年前の日本人の寿命は42-43歳、偶然にも1920年に第一回の国勢調査が行われ正確なデータが残っている。体格・背丈はと調べると、当時の二十歳の男女で160-150㎝、40歳代の大人は150-140㎝台半ばでさらに小柄で、日本人が縄文・弥生・古代・近世時代と変遷する間で一番小柄だったという江戸時代を引きずっているように思われる。最近の寿命は女性で八十歳の後半に入っているようだが健康寿命は平均して十年は短い。という事はその十年間は如何様な状態なのかという事を議論する必要があろう。老いが迫り、認知能力も体力・機能低下も同時に起きてくればこれは単に病を治療することではなく、痛み・苦しみ・悲しみ等々との対峙である。人生五十年、還暦(六十歳)を迎えられることが最大のお祝い事だった時代に生きた人々は他の感染等の疾患には相当悩んだにはちがいないが、現代の高齢者が遭遇する十年以上の*torture も無く、高度成長期にイケイケどんどんと満身創痍で家庭を顧みず仕事だけに立ち向かい、ストレス多き環境を経験した世代にとってそのtortureが二度目の長きストレスになることにも関係無く、ある意味では短くとも幸せな人生を過ごせたのではないかと思った次第である。

*torture, 長らく米系外資系企業に勤務していた時に本社のマネージャが日本人相手の仕事は torture だよと度々言っていたことを思い出して引用した言葉である。辞書的意味 ; 拷問、罰、もともと捻られる捩じられるという責め。

ノン・コグニティブ・スキル 非認知能力

 日本語を理解する際に一番厄介なことは先人が所謂英語の発音をカタカナで表記したカタカナ外来語である。その理由は先人がそもそも適当な和訳漢字を見出せなくて、発音をそのまま表記したことで、難しさも醸し出しながら、本来の意味はと知りたい一般人を惑わせている。
 さて、以前プラズマという言葉について呟いた際の宿題として自らが自らに課した事(non-cognitive skill/ノン・コグニティブスキルの本意)に少し立ち入る。発端はノーベル賞受賞経済学者(James J. Herckman/ ジェームズ・ジョセフ・ヘックマン)が所謂学力、IQ値を英語ではcognitive ability と言い、それに対してnon-cognitive skill が子供たちの小さい時から育つ環境によって大きく異なり、大人になって豊かな生活(精神的にも経済的にも)を送れることを左右すると指摘した。そのジェームズ・ヘックマンは学力・IQ値を全否定したものではないが、翻訳の世界・業界が英語から日本語へその論理展開される際に、私が疑問に思ったことがあって、non-cognitive skill が非認知能力と和訳され、認知症の認知と混乱したことであった。その原英文ではconfidence and perseverance <自信や根気強さ >のようなこととされている。

 付け加えると我々日本人がいつ頃から認知という語句を使い出したのか定かでないが、私の短い経験では痴呆症を認知症と言い換えた比較的最近の出来事;平成十六年厚生労働省の痴呆を差別的でない用語で置き換える検討会が開かれ、最終的に認知症とした。
痴呆 から 認知症 認知障害 用語変更検討 平成十六年 厚生労働省
https://www.mhlw.go.jp/shingi/2004/12/s1224-17.html

 もう少し詳しい経緯を調べたのだが、非認知能力とは学力・IQ値を否定した意味ではなく、感情や情緒など精神的な範囲のことをいい、ジェームズ・ヘックマンが指摘してから、文科省の研究課題に取り上げられ著名な大学の先生方で検討された報告書(2017年)まで目を通させて頂いた。その報告書ではnon-cognitive skillを情緒的強みと言い換えている。さらに、最近の大手新聞のコラム記事「2022年1月13日読売新聞朝刊 p11 ニュースの門、memoより では、次のように <一学級の児童数が減った教育現場は、> 学力のほか、意欲や根気強さ、協調性といった非認知能力に対してどのような効果があるのかという課題が提起され、児童数が減ったクラスが即、非認知能力の育成に繋がるのか?という疑問が紹介されていた。

 実は私がこの独り言をまとめるに際して一番時間を割いたのが、心理学者アンジェラ リー ダックワース さん(Angela Lee Duckworth)の2013年TEDトーク(YouTubeで検索出来ます)で、子供の教育現場での観察・研究が進められ、子供が成し遂げた成功・成果は学力・IQ値に関係なくGRITだとの示したことである。

Angela Lee Duckworth: Grit: The power of passion and perseverance | TED Talk

A本寄稿を準備していた際に起きてしまった、もっと痛ましいのは令和4年1月15日の大学受験の第一ステップの共通テストの早朝に中部地域から都心へ移動し、某著名大学の入り口付近で受験生と老人に傷害を与え、近隣の駅での放火や在籍学校について騒がしたりした事件を起こした受験前の高二の生徒のnon-cognitive skillの醸成は忘れられ、周囲もcognitive abilityのみを求め、それだけに答えようとして無理をしていた高二の子供の心を爆発させたのでしょう。また、関西の女子大生が関東圏の著名私立大に再入学したいという意欲的な意思を持ちながら、同15日の共通テストでスマフォとSNSを使い、試験場外の第三者を通じて所謂カンニングを行い、メディアではそのスマフォを使ったカンニング方法の詳細は?と賑わせたが、その女子大生が自首して、犯人は誰かという事の決着は得た。しかし、医者になりたいという高二の子供と十九才の女子大生の心情、なぜそこまでの行動に追い込んでしまったのかという議論はメディアではされずに、新型コロナの第6波の感染者急増にテーマを替えてしまった。

 アンジェラさんの2013年TEDスピーチではnon-cognitive skill という英語は使われていないが、成功への鍵はGrit(Grit is passion and perseverance for very long-term goals.)であるとお話したが、非認知能力も非常に時間のかかる目標を達成するための情熱と根気強さと同じことです。そもそもGRITなる英語の意味は?で、アンジェラさんは再定義し、Guts(度胸):困難なことに立ち向かう能力、Resilience(復元力):失敗しても諦めずに続ける力、Initiative(自発性):自分で目標を見つける力、Tenacity(執念) :最後までやり遂げる力 の頭文字を取ったものです。GRITという言葉が広まって、和訳されて“グリット“という外来語になって皆さんに変に表面的だけの意味を受け入れて欲しくないというのが私の願いです。

小椋佳さんの縁語と創造性

 作詞家の小椋佳さんは若い時に相当悩んだそうだ。人は何故生きるのか、創造性のみが生きる証にみたいな哲学的に深く思慮することなく、東京大学を卒業してしまい社会に出てしまったことを悔いていることを吐露している深夜TV番組を令和3年7月の最後の日、8月1日にならんとする前の時間帯に私は観たのだ。

 私は創造性が人の生きている証だというような小椋氏的哲学的な思唯もせず、機械的に、人間味もなく只、効率よく発明をしたい、創造をしたいと理由で、よく世間で言われているような閃きで発明出来たとか、創造できたとかというプロセスをもっと科学的にやりたいと、若い頃から考えていた。次のイノベーションというプロセスを外部からインプットする前に、図解は省くが言葉の連関性を少し数学的に纏めることによって出来そうだということを、サラリーマンを早期退職してコンサルティング業を始めて、異業種セミナー、コンサルティングセミナーで紹介する機会もあった。
 イノベーションという既存にあるものを新しい組み合わせで、今までにない機能や効果をもたらすという行動、活動が単に科学的発明という領域でなく、ビジネスの領域で叫ばれ、興隆し、大きな成果や事業実績を欧米企業があげて、国内企業も後を追いかけ、それなりの成果を示してきている。
 さて、小椋佳さんは作詞をする際に、縁語(ご縁があるという表現を使うが、類似している言葉、仲間のような言葉)を用いて、言葉の世界を広げて、創造性を高めているようなお話をされていたのだ。例えば、海という言葉から島、波というような縁語を発生させて、さらに生まれた島や波という言葉から次々と縁語を発生させて、言葉を紡ぎ、唄の歌詞を創造していく独自のプロセスを作り上げたそうだ。それらはまさにイノベーションであって”苦しんで生み出す”そうだ。そのTV番組では奥様の談話があって、本当は”楽しんでやって欲しい”との事だった。小椋さんの縁語というやり方は中心の言葉があってその言葉から比較的容易に類推、創りだせる言葉の集合体といえる。
 閃きを科学するプロセスは言葉、そのものではなく、言葉の集合体で説明される知の一つの事象で、例えば中心の事象xxがあって、容易に類推できる事象xxxと容易には類推できない事象yyyがあって、容易に類推出来ない事象をある段階、あるステップで繋ぎ、今までにない事象を見出していこうとする方法である。
 小椋さんの縁語でも、海から容易に創りだせる島や波という言葉でも、逆に島から”海”という言葉を思い浮かべる重みと波から”海”という言葉を思い浮かべられる重みとは同等でなく、違うはずである。それも人の経験や背景で違うのも当然であろう。海から島を思い浮かべる頻度と島から海を思い浮かべられる頻度が異なるということだ。

異業種の会などで私の紹介した5つの事象例は
 A 水は0度で凍る。
 B 氷は0度で溶ける。
 C コップに入れた水と氷の共存、冷たい飲み物
 D コーラを飲む。炭酸水、氷、味の共存。
 E 塩を加えると温度が下がる、添加物を加えると凝固点温度が下がる。

 ここで一つ一つの事象の間に連関ベクトルを定義する。一般に連関ベクトルの大きさの特徴は異なり、例えばA-B B-Aはほゞ同じ大きさと思われるが、A-E E-Aは異なる。さらに、A-C C-Aや
C-D D-Cも異なる。さて、これらの事象を4ステップで繋ぎ、その連関ベクトルが小さいと推定されるルート、D-C-A-Eによって、コーラを飲む—添加物を加えると凝固点温度が下がる という普通は類推しないような事象にも注目してみようという、知的財産創造プロセスへのアドバイスになる信じ、提案している。紙面が限られているので、ご自分の創造したい領域で、考えてみてはいかがでしょうか。

 素人の戯言で申し訳ないのだが、小椋さんの縁語は文字が読めない・書けない小さな子供でも諳んじられる音を中心とした「ことば」で紡がれ、自然発生的に創造される歌詞とメロディーが上手く共鳴するように織り重なって、心地よい歌を沢山生んだものに違いないと確信した。
  「歌創り50年青春に帰る」というTV番組のタイトルも、何か老け込んだと言っても怒られない、誰もが否定はされない今現実の小椋さんではあるが、彼の若さ、あどけなさは彼の歌詞・メロディーに染み入っており、それらが若い人に引き継がれ口ずさまれ、生き続けていく。

自宅で出来る仮想体験 – 宇宙シアター

以前約9年前、三鷹の国立天文台の施設で4次元宇宙シアター体験(4D2Uドームシアター)が出来たことを書いた。簡単に言うとこれまでの宇宙天体観測で人類が知り得た全ての星、銀河の空間情報をコンピュータに取り込み、地球から飛び立った宇宙船に乗った様子が3Dシアターで楽しめる仕掛けである。先ず、太陽系から脱出、途中には小惑星帯、冥王星より外のオルト帯も離れ、われらの天の川銀河系(我々の太陽系は比較的外側の腕の所に位置している)から脱出、宇宙誕生から130億年の全容が見られる遠方まで宇宙船が進む。途中では銀河系が一様に分散分布しておらず、局部的に存在しそれが網目状になっている様子も分る。我々人類にとって調べることが出来ない宇宙領域もある。それは我々の銀河、天の川があまりにも明るく、天の川銀河の断面方向から見る先の宇宙が途中に存在するガスの吸収などで見えないことである。

このような仮想体験がクラウドで自宅のパソコンで可能であることを最近(令和4年1月21日)知ったのである。天体の観測データの蓄積とIT関連の技術革新;ネットワークの速度、デバイス、ハードウェアー、ソフトウェア―等々が僅か十余年で進み、YouTubeで The eBOSS 3D map of the Universe をキーワード検索して頂ければ視聴できます。

二つの疑問;新型コロナウィルス感染率とワクチン接種

昨日、令和4年1月9日現在、東京都内の1日当たりの感染判明者は1224人、総検査数が分からないが、感染者率が10%とすると、その他90%の発熱相談者約11000人の方は新型コロナに感染していなくとも、他の何らかの発熱をもたらしたウィルス、病原菌に起因すると想定される感染症に罹患しており、コロナの9倍もの方が社会活動しているのだ。

2番目の問題として、今回のオミクロン種罹患者で2回のワクチン接種者はワクチン効果で軽症、もしくは無症状率が高いと報じられている。ということは、ワクチン2回接種者が普通の社会行動をして、自ら感染源として作用していることとなる。私はこの状態が過去に見なかった週毎の10倍以上の感染者上昇率をもたらしているのではないかと推測している。

旧型のコロナ種患者は肺に重篤な症状をもたらしたが、このオミクロン種罹患者は鼻・喉に炎症をもたらす程度で、始めの指摘の発熱相談者数に含まれないのだ。

高速・高集積度の半導体チップを搭載したイーサネットスイッチの売上が好調

令和3年12月16日リリース情報、オリジナルソースは文末のサイトを参照して下さい。

2021年第3四半期の結果がDell’Oro社より以下のように公表された。データセンター向けにイーサネットスイッチが11%も売り上げが伸びた。シスコ、アリスタ、Huaweiがトップ3社(順に)であるが、トップのシスコは数%シェアーを落としている。2番手のグループのwhite box maker のアリスタやジャニパーが伸ばしている。

グーグルとアマゾンは既に400Gbps スイッチを300万ポートもハイパースケールDCに導入済でマイクロソフトも第3四半期より導入開始するという。

Ethernet Switch Revenues Reach New High as Cisco Loses Ground – SDxCentral