遠隔教育なんて昔からあったが

コロナ禍で世界中で遠隔(リモート)、オンライン教育(OL)、e-learning(以降EL)が導入されてきて、中等教育から大学を含む高等教育まで対象となり、大学生などは1年遅れで入学式に出て、初めて同級生と会った事が話題になるくらいである。しかし、わが身を振り返っても(50年前)ラジオ講座で第3外国語のフランス語を勉強したこと、受験勉強でアルファベットの最後の文字を使った〇会の郵便・紙ベースの教材・特に数学などの添削も立派な遠隔教育であった。インターネットの恩恵を受け、2013-2014年頃に今考えると初期のELのプラットフォーム導入を知り合いと検討していた時期にアップしたマイブログ記事を読み直す機会があった。

題 成人教育向けELの鍵(こつ) 2013/12/29:
これまで、K-12の義務教育やedXの様な大学高等教育にELを上手く活用し、教育機会を提供したり、高額な大学の月謝などの費用を軽減できる一つとして、議論されてきた。今回、Kirsty Chadwickさんは生涯教育というより、企業社員教育としてのELの役割について幾つか言及している。プログラムやツール・プラットフォームの出来やデザインではなく、教育を受ける大人の気構え、意識と言ったところでしょうか。モチベーションを第1番に指摘し、スキルを身に付けさせるというのではなく、会社は君、社員を必要としている、会社は社員に係っているのだという事を如何に説明するかだという。第2番には、研修を受けなさいという指示ではなく、知識や経験に優れた大人は、ある分野での知識や専門性を前もって評価して、もしギャップがあるならば、それを埋めようという経験を尊重することだという。第3には自分で方向性を見出させる事、第4には受け身的に講義を受けるのではなく、相互的に(Interactive)教育プロセスに参加しているのだという十分な満足感を得る雰囲気作りがポイントだという。

題 ハーバードが同窓生、卒業生向けEL 2014/02/15:
ハーバード大が現役の学生でなく、卒業生・同窓生向けにEL のコースを3月から提供するという。
名称はHarvardX for Alumni だそうだ。ハーバードを卒業した立派な大人に、何が不足でどんなELのコースを提供するのだろうかと少し案じたが、このコースは卒業生専用でフルコースではないようで、教授と再交流出来る意味合いが強く、それ以上に同窓生の絆を強め、卒業生の資産を高める所にこの新しい取り組みの価値を見出したい意図があるそうだ。

題 意外なオンラインEL受講者像  2014/02/23:
知っておいたら今年2014年はワクワクするかも。
①平均年齢が34歳、②82%が大卒以下の学歴、③81%が社会人として仕事についている、④世界のFortune500社に入る企業の40%以上が研修ツールとして採用している、⑤オンライン教育を採用している企業は50%以上の生産性を向上させる可能性を秘めている、⑥その様な企業が研修に費やしている経費1ドル毎に30ドルに値する生産性を生みだしている、⑦人事管理者への調査では離職者の最大の理由として研修が不充分であるとしているのは12%、⑧社員へ最良のELとOJTを提供している企業は社員1人当り26%以上の売上増を生みだしている、⑨2011年には世界でELの自主学習に3兆5000億円が投入されたが、現在では5兆5000億円、さらに2015年には2倍になる、⑩企業の72%がELは業界での変革に対応出来るように最新な状態に居られるように助かっているし、ニッチな市場で優位性を維持できると述べている、⑪教育・研修志向文化を持つ企業はそうでない企業よりも市場で優れている、⑫内訳として34%以上の企業で顧客のニーズにもっと対応したい、⑬46%以上は業界でリーダ役を果したい、⑭17%以上が市場のトップシェアを獲得したいと考えている。

題 卒業生向けHarvardXの続報  2014/02/26:
2014年3月22日から、ハーバード大の卒業生向けELコースで7つの講座が準備されスタートするそうだ。それら7つの講座はどのような過程で選抜されたのか分らないが、米国人としての関心の高まりなのか、どの国、文化圏に居住している人達にも興味ありそうな内容である。
 アメリカの詩歌
 古代ギリシャの英雄
 コンピュータサイエンス
 中国の歴史
 神経科学
 アイシュタインによる革命
 有形資産(これは直訳、歴史的遺物・貴重品)など
2週間毎のコース、又はハーバードクラブか別の場所に集合して行う。サンプル講座はedXプラットフォームに出ているという。

以上は7年位前の古き時代の話ではなく、今でも初期のわくわく感が満ちている。手法的には教師なし反転教育の追及、単に大教室での教授の講義をビデオにしたままのものは効果的でなく、私の企業教育での実体験ではロールプレー方式で自らが相手に分かってもらおうとするプレゼンテーションを行う事や、結論結果を先に示し補足と説明を加える簡単なやり方、文字は少なく画像、映像をうまく利用すると非常に効果的で90%の有効性があり、単に資料を読んだり見たりしただけでは10%しか理解されないそうだ。その差は歴然としている。

垣間見るデジタルマーケティング

 五月二日の深夜番組、英語のブラシュアップの為に観ている米国CNBCの番組で最新のIT技術を適応させたデジタルマーケティング(DM)について議論していた。簡単にいうとDMを上手く適応させて消費者に特定商品をもっと使ってもらおうと策を練っている企業の責任者と、ネット通販で色々な商品を購入経験のある消費者を代弁している方、あとは番組のコーディネーター役の方が登壇している。
 米国の有名企業のDM信奉者と消費者を代弁しているようの見える通販経験者との話が嚙み合わない。どこが嚙み合わないのか、DM信奉者はインターネット、モバイル機器、アプリの技術論のみにフォーカスしている。広告の始めの10秒プラス幾らかの時間は視聴率のカウントをしないでほぼ全部をみてくれた広告の後の方の時間で視聴率をカウントするとか、消費者の通販購入履歴データや未購入品をネット検索したデータを基にネット視聴中の画面に広告を入れ込む細工をするとか、消費者が持ち歩いているスマフォが有名コヒー店の前を通り過ぎようとすると、コーヒー如何ですかみたいな瞬時広告をするとかの話しを早口の英語で喋り捲し立てている。消費者を代弁しているネット通販経験者は、どちらかというとDMの恩恵は受けているとは思うのだが、感情論が中心で、本当に視聴率なんか正しいのか、皆さんも経験あると思うが、インターネットの画面に固定的で広い面積に、もう買ってしまったので購入しない商品の宣伝広告が表示され、本当に見たい、検索したい事のスペースが狭くなってしまうことへの不満、さらに私は○○の商品はネットで調べるだけで購入は店舗だ、みたいなことを言い合っている。
  昨年からのコロナ禍でリモートワーク、オンライン学習・会議、ひいてはライフスタイルを変革しようと世界中で叫ばれ、実行され始め、業績を実際に伸ばし、利益を確保出来ている企業は所謂、ネット通販を含むインターネットサービス提供企業とネットワーク機器とデータセンター・クラウドインフラ投資をしている企業で、殆どが欧米系の企業である。
 ちょうどこのCNBCの番組の前日の五月一日に私が経験したことは、知らずのうちにDMの事業戦略に取り込まれているというか、言葉は悪いがDMの”餌食”になってしまうのかと思わせるくらいのものだった。
 家庭で印刷できる名刺や各種分類表示出来るカード、接着剤付きラベルなどを販売しているA社という企業がウェブ上で無料公開している印刷ソフトサービスを久しぶりに利用しようとした。ユーザが名刺を作成したい時、A4サイズで十枚名刺をプリントできる用紙を先ず購入する。そして、インターネットのサイトを検索して、提供されているソフトのページを探す。そこに行くと自分のパソコンにダウンロードしますか? クラウド上で利用しますか?と問われ、今windows10版が利用できますと諭され、私はクラウドの方を選択した。あとは以前利用したことがあるので、縦横書きの文字選択や写真を含む図形作成やダウンロードで対応して行こうと思っていた。

  これも元々DMの一環
  自分のアカウントを登録でき、ログイン可能だが私は未登録で利用

久しぶりに使おうとして遭遇したこと
  以前あった用紙選択の機能がない  
  手元の購入した用紙に記載の5桁の番号を入力する方式へ
  私は他社のA4版で一般的でない十二枚ラベル印刷できる用紙を用意していた
  類似の十二枚用のA社の用紙番号を前もってネットで調べる必要があった
  日本語用文字フォントが少ないことに気が付いた
  親会社が米系外資企業

ソフトの使い勝手
  以前とほぼ同様、作成ファイルの保存が以前はアプリの名称フォルダー自動生成されたが、
  新サービスアプリではwindows10のダウンロードフォルダーへクラウドから落ちる

 DMと広告費用だが、以前コンサルの仕事で調査したとき、世界一の多国籍インタ―ネットサービス企業が得る広告収入は日本国内の企業が出費する広告費用とほぼ同じ金額であった。ユーザがあるサイトへ動画を提供し、多くの視聴者が「いいね」みたいな好意・賛同を示すと多くの視聴者の心を動かした影響力のある動画を提供したユーザはある規模のリターン・収益を、そのサイト運営者から得る仕組みが出来ている。短絡的にはサイト運営者に広告料を支払った企業が負担するのである。しかし、広告は商品を沢山消費者に購入してもらうための具であり、結局は消費者が負担しているのだ。

20年前のノート

四月一日、年度末の仕事や確定申告も済んだので、書類をまとめ書棚のだいたい決めた場所に差し込んでいたら、上から四段目の一番右端で普段は物陰になって何が差し込んであるのか分からないところにあったノートを取り出すと、二十年前の2001年が書き初めで、サラリーマンを早期退職する2004年の年末の直前までに、私が仕事上や普段の事で、気になった事や将来に向けた少し科学的な構想を手書きでメモした汚い自分のペン字が見えた。

恐らく、皆さんと同じく初めの一頁目は綺麗な字で書き始めて、そのうち、自分で書いた字を判読するのに難儀するようなページが続いた。おかしなもので、書いたページが時系列になっておらず、長い空白のページが途中に居座っている所などあり、今日の令和三年四月一日エイプリルフールの日にこのノートを見つけたと差し込みたい位である。

書き方は、日付とメモのタイトルで、幾つか気になったものを列挙する形式で、箇条書きや少しまとまった文章で書いたものが混在しており、その時々の頭の中の思考形態を反映していたかもしれない。次に全部ではないが、それらを示す。

  • 大学時代、研究室で指導を受けた助手の方(年代的には既に某国立大の教授)の科学的自論
  • 法隆寺の五重塔の心柱と各層の組み合わせの耐震構造(壊れない程度にずれる歪む)と自分のコメント
  • 消費・インフラ分析と各利用製品の耐用年数
  • 学会で講演会を聴講したまとめたメモ(業務上であり詳細は省く)
  • JRの列車乗車中にメモしたと注意書きのある、図解の古代、百済、新羅、高句麗出自の日本列島への移民となぜ、東国からわざわざ遠路西国の警備に防人があてられたのか
  • サラリーマン時代にコンサル講座を受けた関連の講演会メモやコンサル研修仲間との談話
  • 自分で考えた将来へ向けた安定健全な投資行動について(低金利時代に入るので高配当株がいいとか)
  • セラミックスの破壊モデルに基づく地震予知(破壊初期時にピエゾ電気効果と超音波が発生する)
  • 2001年に書き留めたこれからのIT時代に向かう姿勢(トラフィックが一万倍になる年数とか)
  • 当時の仕事に関係した通信ネットワークや光海底ケーブルについて
  • 自分のブログのネタ記事(複数ある)
  • 今後の労働環境と日本の強み向上(人材育成が重要)
  • 地元東京北区瀧野川地域、主に神社仏閣を探索した際のメモ(当時まだデジカメの性能が低かった)

それらの中で、2003年に東北大で開催された情報通信関係の学会の個別専門分野の学会講演発表の詳しいメモに交じって、当時普通の学部卒で若くして前年2002年のノーベル化学賞を受賞された民間企業の田中耕一氏(会場の東北大学工学部ご出身)の特別講演(三月十三日)のメモ書きもkey words と付記され、赤字で綺麗に残っていた。以下、具体的に私がメモったものをそのまま紹介する。

☆細かな技術論は別にして
  新鮮さの維持が大切     
  時にはテーマ・仕事を変えよう    
・門外漢の新鮮さ    
・過去に取らわれない、既成事実にそくばくされない  
 0を 1にする発明、努力
 1 ~を100、1000に改良、改善する努力

定かでないのだが、これら赤字のメモは田中さんが話された言葉そのものだったのか、仰った内容を私が咀嚼したものだったのか?やはりノーベル賞研究者の苦しみが分かるのは、何と言っても0を1にする発明発見であろう。1を100にする努力と比べてもその比は無限に大なるものである。(注;当時外資系企業勤務で英語ばかりで日本語力が落ち、下線を付したように誤字や平仮名のままの部分があった) 

私は日記を書かないが頭の片隅には覚えておく癖をつけている。最近では齢のせいか備忘録としてパソコンのエクセルファイルに地域活動の支援メモを何かを行った日だけ残している。それだけでも非常に助かっている。複数の人達と運営している活動では、文書化していないものも多く、誰が決めたのか、俺は知らない・聞いていないということも多く、幸い大きなトラブルに至った事はなかった。

20年前のノートのように身近に隠れていそうな玉手箱を探されては如何でしょうか。

物の認知とCloaking

これまで私の独り言で無や空について仏教関連や数学的に素人なりに呟いた。最近、無や空に気になったことがあった。空(から)とは大きな滝があって、ごうごうと大量の水が飛沫を上げて落下している様をみて、普通はその水の向こうには山崖が窪んだ何もない空間があるようなことだとTVで説明している方がおられたのである。実際30年以上も前にナイアガラの滝のカナダ側で、観光客としてその滝の落水の内側を歩いた体験を思い出した。

そんなきっかけで、そこに物が有るか無いかの認知についてちょっと科学的に触れてみたくなった。

聞かれた事があるかも知れないが、暗闇で飛ぶコウモリは洞窟の中でぶつからずに獲物を捕えることが出来るという。これを学者が研究し発表した論文を読んだことがあるのだが、コウモリは赤外線でなく超音波を発し、高度な認知機能を持っており、その超音波も高音と低音の異なった周波数を上手く使い分け、反射してくる超音波から動く獲物の方向や距離を知るという。それで獲物を捉えて自らの生の為の糧とするのである。

これを少し一般化して、科学的に見てみたい。
物を検知、認知するために何かを発して、その何かが物から反射してきたり、透過する状態を知る、受ける過程(物と発した何かとの相互作用)を解析しなければならない。例えば手元のガラスが赤く見えるのは、理由は三つあって、一つはガラス自体が赤く発光している場合と透明なガラスの向こうに赤く光る光源があって透過して赤く見える場合、さらにガラス表面に赤い塗料が塗ってあって白色光を当て赤く散乱して赤く見える場合である。
その何かとは、拡張すると、光や音、電磁波や超音波、エネルギー粒子(電子、陽子、中性子等々)である。受けるとは検出器、アンテナ、受光器、マイクロフォン、最近はその検出器を2次元・平面的に配列させたものまで開発され、実用化されている。
身の回り、特に医療の検査では、電磁波の一つであるレントゲン、X線で胸部写真を撮り、その影で、古くは結核、今では肺炎、癌などを判定する。超音波エコー画像でも体内の臓器の状態判定がされる。一番進んで断層写真技術(CT)を繋ぎ合わせて、Ⅹ線CT、磁場を使うMRI-CTなどで、体内の高精細な3次元立体像を得て、病層の状況が判定される。以上は、見えないところを暴露させて、明らかにしていこうというものである。

逆に、同じような科学的手法、過程で、物があるのだが、無いように認知させてしまうことが出来てしまう。よく聞く話だが、レーダに捕らわれない・映らない戦闘機だとか、海上の軍用船などである。仮に可視光(眼に見える)を発し、何かにぶつかり反射すると強弱は別にして可視光は発した方向に戻り、その何かが存在することが認知される。もし、その発した可視光が物から戻ってこない状況を再現出来れば、物が存在していても、見えないから「無いと認知させてしまうカムフラージュ」が可能である。
これをレーダのある周波数の無線と考えると、その無線・電磁波を吸収できるような材料で飛行機や船が作れればいいのである。実際は日本が昭和の初期に開発したフェライト材料が電波を吸収するので、使われているそうだ。叉、これには子供に興味がある透明マント(cloak)が引き合いに出される。この透明マントを着て悪戯(わるさ)をしても正体がばれずに済むというわけだ。
最新の技術では微細加工で検出用の物理的波動の波長(発する何か)より小さなものを作ると、見えないという原理原則があり、可視光(普通は500nm程度の波長)では100nm以下のものは見えないので、電磁波の仲間で波長が1nm(ナノメータ)より小さいX線を使うと見えてくるのである。無線電波の領域でも、電波の波長を算出し、その波長より小さな物は見えづらくなる。類似の技術がこれからの5Gスマフォやさらに次世代のモバイル端末に応用すべく開発がスタートしている。

しかし、人の触覚・触るという行為は光や電波を照射して認知されなくても、闇の中でも掴める・触れることで、物があると認知出来てしまう。これは如何なるものかとふと考えたのだが、触って何かあるという事は物理の作用・反作用で質量と重力が関わるものであることが分かる。

最後に、人の認知とはその存在、影響力、将来性、可能性などを社会的活動・交流、コミュニケーションなどから受けとめるものと思うが、人としてこちらから発する何かとはそれらで十分であろうか。まだ相対(あいたい)する透明マントのようなカムフラージュしてしまう状態とはいかなるものであろうか。人を知る、認知する事はそう容易くはいかない。いっそのこと、こちらの心を開き曝け出し、人を常にリスペクト(respect)すればいいのかもしれない。 (令和3年3月記す)

ギメの日本美

  私の独り言は自然に内なるところから湧き出るものでなく、何か外からの刺激があってそれに反応し、結果として表出してくるものが多い。令和3年1月20日の深夜番組NHKのBS放送(後で調べたのだが、2003年に放送された番組の再放送)を観て呟きたくなった。
明治9年に仏より来日したエミール・ギメという若い実業家が日本中の仏様(ほとけさま)、仏像の類と幕末から明治維新の時代に書かれた絵図を収集し(対価の金銭を払い購入した)、仏に持ち帰り自分の美術館を建て、保存保管していたという内容である。
  幕末に和蘭(オランダ)や英米人が来日し、浮世絵や江戸の郊外、谷中巣鴨辺りの植木を買い集め欧州へ持ち帰った話なども多い。また、明治になって経済的に困窮した旧大名、旧家が手放した物品も欧米へ流出した。
よく宿題みたいに本を読んだ感想とか映画を見た印象を文章にしてくれと言われても、子供たちは本当に良かった、素晴らしかったと体感できても、それを文章にしろと言われても、なかなか出来ないものだ。この深夜番組も感動が先で、後で文章にした少し作業的になってしまうが、その感動を少しでも残したいという私の意図がある。写真、絵などを省き、その感動を文字だけにしたためてお伝えすることは一番の難題と分かっている。
  TV番組の場合はこれでもかこれでもかというくらいに鮮明な映像を見せつけてくれるが、ギメが収集した大小の仏像、木造・青銅製の仏像だけでなく、番組では一般庶民が所有していたと思われる大黒様に焦点を当て、ギメが多種多様の日本美として受け入れた仏像を紹介していた。廃仏毀釈で不要とされた「日本の美」を日本人は簡単に処分してしまったのである。
  驚くことには、法隆寺にあった仏像、目黒の行人坂先にある幡龍寺の丈六(高さ4.8m)、青銅製の阿弥陀如来像まで収集し、残念だが三分割されて仏まで輸送され、今でも博物館で保管管理され、日本美として鎮座している姿が紹介されていた。しかし、三分割された切り口は痛々しかった。法隆寺より流出した国宝級の仏像(脇侍・勢至菩薩)は近年里帰りし、主の仏像(阿弥陀仏)と合わせて三体が一緒に写真に収まっていたが、流出した経緯は不明のままである。 記録によるとギメは中国の仏像として購入したらしい。
  さらに関連の仏像を紹介説明している書物まで収集し、その書物を求めたであろう日光にある骨董店にまで取材に出かけ、十二代当主になる淺倉屋・吉田文夫氏の話も番組で取り上げられ、ギメの日本美に対する探求心のようなものまで掘り下げていた。
  今回のNHKのこの番組は著名な写真家が仏にあるギメの美術館、生家を訪れるのだが、あまり番組の内容や私の感動体験をリードしてくるものではなかったので、敢えてお名前は記さなかった。実際、ギメが訪れたあろう日本国内の地を番組の為に巡られた日仏外交研究家クリスチャン・ポラック氏は温厚、静寂感、ゆったりと喋る日本語は十分受け入れられるものであった。
  最後に、ギメが気にいった武者絵師の河鍋暁斎にモデルになってくれと依頼し、同行した画家・レガメが河鍋像を描き始めたところ、河鍋もじっとしながら暇だったので、筆でささっとレガメ像を描き上げてしまったという笑い話みたいなことも番組で取り上げて、私はその部分が一番印象的であった。ギメに同行した画家・レガメの描く河鍋は銅板エッチングのような細い線の集合体として硬く感じたが、河鍋の日本美は、非常に速く走らせる一本の筆で描く墨の濃淡、筆の力具合で変わる太さの集合体からなる人物像であった。

  追記、東京ステーションギャラリーで2020年11月28日から2月7日まで開催されている「河鍋暁斎の底力」展を1月27日にに偶々知る。是非2月に入って訪れてみたいと思う。1月30日記す。

人工知能AIというより子供の成長をみて

今や誰もが人工知能AI(artificial intelligence)と言って何も疑わない。

実は殆どの人がそのプロセス、如何にAIの示している事が導き出されるか知らないし、専門家に説明されても分からないと思っている。

数学的専門用語を使って申し訳けないが、私自身も若いころ(47年も前になってしまった)に、数値解析や汎用コンピュータしかない時代に独自にやっていた。非線形関数のテーラー展開、多変数解を得るために最小2乗法を適用し行列式で近似解を求める、その過程でデータから入れ替え行列、逆行列を生成、その初期値生成のために初期パラメータのランダム化にマルコフ法を適用したり、行列式をいっぺんに解かず(発散する場合がある)、のそりのそりと収束させた。

そういった行列式を解く過程がAIのpythonというプログラムの中に組み込まれているという。

machine learning deep learning neuromorphic process グーグルの猫の顔の話など、少しAI関連の事に触れた方はキーワードとして重要な事は分かるが詳しく知ろうとしても先に進まない。

さて、人の子供、赤ちゃんがこの世に生まれ少なくとも簡単な言葉が話せる2歳始めまでの事を詳しく観察できる機会を得て、所謂AIのプロセスを考察したい。

生まれたての赤ちゃんの視力は弱く、先ず音声が耳から入り、脳で受容認知され、記憶として形成されていくであろう。その際に優先して受容される音声は母親の呼びかける言葉を始め、家族であることは間違いない。

だんだん視力が良くなり目を動かし周囲を興味深く観察しだす。それと共に先に受容認知していた音声と何か初めて視野で認知された映像が次に記憶されるであろう。それらが音声というラベルで、記憶される映像が紐付きされるであろう。後にそれら音声単独の記憶の発達、単語レベルの数の増大と言葉としての構造化(あえて文法とは言わない)の習得が進むであろう。

赤ちゃんの言葉の受容、学びは周囲の真似から始まる。それも簡単に言いやすい発声しやすい言葉以前のあー、うー、ふーとかである。次に同じ母音を2つ繰り返すあーあー、うーうーである。更に異なる母音が組み合わさった発声の真似になる。このレベルで簡単な言葉だが結構な組合わせができる。その先は容易に類推できるが3音の組み合わさった言葉の真似である。

にこにこー猫のこと(飼っている猫の名前がにこ)

わんわんー犬のこと

おかさな(お魚のこと、一部かとさが入れ替わっている)

おとうさん、おかあさん(両親が所謂パパ、ママと言わせなかった)

次の段階で言葉の構造化、xx yy(またはyyy)の真似ができる。抽象化は未成熟なので、もの、名詞で表現出来る映像が伴うことが必須である。事例を二-三あげてみる、

わんわん おおきい (大きな犬)

(父親が家に居ない時)

おとうさん、しごと

おとうさん、かいもの

順次観察された言葉文章表現レベルまでのまとめ(2歳2-3ヵ月頃まで)と周囲の道具デバイス(あえておもちゃとは言わない)にどのくらい興味を持って使いたがるか、自分の意のままに使いこなすかについてまとめ(2歳2-3か月)をしたい。そのうちに子供TV番組の歌とダンスを覚えて、結構長い時間の歌詞やふりを真似している。これぞ、文盲の大人のレベル。下手に文字を覚えた大人はそれらの歌詞が空では覚えられない。

さらに、願望の表現と行動へ

親に身体を持ち上げて、高い高いをして欲しい

親がキッチンにしまってある網かごを探しに行き、見つけ網かごを帽子のように被りたがる

実はスマフォの操作(親の真似)が出来、YouTubeの見たい映像の再生、ストップの印を覚え

それらができる

4×3や5×4ピース程度の所謂ジグソーパズルで、好きな絵合わせをしたがる

カンカン、見に行きたい(近くの電車が通る踏切がカンカンと鳴るので)

こう見ると遥かにAIを超えていると言わざるを得ない。個体差・個人差(主に環境・親の接し方)はあるが、2歳を超えたこの2-3か月という短い時間に小さな脳の中で人らしく成長し、大人への第1歩を踏み出していると確信する。(続く)

寺田寅彦の子規追憶

先日、子規が眠る東京北区田端の大龍寺の前を通ると、子規の石碑に柿が供えられていた。調べると10月26日が柿の日だという。由縁は子規が有名な 柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺 を詠んだ日という。

以前にもお話したかもしれないが、結婚して偶然家内の実家に住むことになり、その家内の実家が田端の大龍寺の道を挟んで斜め前にあったので、大龍寺を通して、書籍の世界の子規、漱石、寺田寅彦氏などが私の実の世界に現れることになったのである。それは住み始めた昭和五十三年三月頃からである。それまでは神奈川県で普通の中学生高校生として、夏目漱石、芥川龍之介、萩原朔太郎、森鴎外、大学へ入ると小林英雄、江藤淳、寺田寅彦などを主に、度の強い近眼の眼鏡を通して接していた。

そして、田端が田端文士村と言われて著名な作家の方々が人伝に人が人を慕い、明治後期から昭和初期にかけて文化を育てた地と知った。しかし、文士村でなく初期は現東京藝術大学関係のアーチストが居を構え、陶芸の板谷波山が窯を焼き、そのアーチストを慕って作家の卵、北陸から室生犀星を始め、その後日本を背負って立つ名前を示した萩原朔太郎、芥川龍之介、若き小林秀雄など多くが移り住んだ。板谷波山を慕ってその後益子焼を有名にした濱田庄司も田端に移り住み、暫しの間、時を進めた。

さて、東京帝国大学の地震学者となった寺田寅彦は漱石が熊本の第五高の英語教師の時の教え子で、上京後漱石に子規を紹介されたりして俳諧にのめり込んだ。子規の早世について2編の追憶を記しているが、一つは死後約三十年に経って次のようにまとめている。

昭和三年九月『日本及日本人』 子規の追憶 寺田寅彦 「青空文庫より」抜粋  二 学芸の純粋な進展に対して社会的の拘束が与える障害について不満の意を洩らすのを聞かされた事も一度や二度ではなかったように記憶する。例えば美術や音楽の方面においていわゆる官学派の民間派に対する圧迫といったようなことについて、具体的の実例をあげていわゆる官僚的元老の横暴を語るのであったが、それがただ冷静な客観的の噂話でなくて、かなり興奮した主観的な憤懣ふんまんを流出させるのであった。どういう方面からそういう材料を得ていたかまたその材料がどれだけ真に近いものであったかは自分には全然分らない。しかし故人がそういう方面の内幕話に興味を有ち、またそういう材料の供給者を有っていた事はたしかである。  子規は世の中をうまく渡って行く芸術家や学者に対する反感を抱くと同時に、また自分に親しい芸術家や学者が世の中をうまく渡る事が出来なくて不遇に苦しんでいるのを歯痒はがゆく思っていたかのように私には感ぜられる。

最近それを読む機会があり、行を追っていくと、世間で騒いでいる日本学術会議の会員任命をあたかも批判しているような勢いだったのだ。

確かに任命権者は総理大臣だが、仕組みはよく知らないが、私も若い頃大学院生と引き続き民間企業の研究員をしていた頃、末端の組織でその会議の何かの委員を選出する有権者だった。普段は行政のプロセスで推薦者と任命者の調整がされ、わざわざ総理大臣が最終判断をすることなく、これで宜しいと押印するだけの事と思っていたが、実は令和二年十月に新総理大臣がある特定の候補者を除いて任命とした自ら口表したのが事の発端である。

寅彦が、子規の死後三十年も経って彼の追憶を彼の弁をして、かなり強く書き記した理由も定かでないが、自分の代弁とさせて、昭和初期三年(病死する六年前)ごろに 似たようなアカデミック界であったのかも知れない。

追、いつも年末になると寅彦を振り返ってしまう。寅彦は昭和九年の十二月に病死している。

居は田端の西方隣、駒込曙町である。最近、其方へは散歩をしていないが暖かい日を見つけて大龍寺から行ってみよう。

いずれも青空文庫で読むことが出来ます。

根岸庵を訪う記(明治32年9月)-初めての訪問

http://www.aozora.gr.jp/cards/000042/files/24406_15380.html

子規の追憶(昭和3年9月)-初めての訪問から30年後

http://www.aozora.gr.jp/cards/000042/files/24418_15372.html

意外な自分自身の経験

先日(2020年9月初旬)、CATVのローカル番組で2007年に放送された関東大震災の横浜での記録が再放送されていた。震源地は相模湾だったが大都市東京の悲惨さばかりが後年報道されて、震源に近い横浜の災害状況がどうだったのか報道されていることは極めて少なかった。
私は今67歳、横浜生まれ、父も大正10年の横浜生まれで、関東大震災の2年前だった。この番組を見て、父が生まれた中区長者町(伊勢佐木町の近く、私の出生本籍地も)が壊滅的な被害を受けたことを白黒の映像から知ってぞっとした。
都内でも火災で10万人以上の死者があり、横浜でも同様に火災で多くの死者が出て、2歳の父がその焦げた瓦礫の下になってしまったと想像すると、、、、<今の私の独り言は幽霊詞になってしまう>
父が生き延び、その小さな父を守ったくれた祖父も昭和20年に63歳で戦死ではなく病死したそうである。父が6年後に結婚し、昭和28年に私が横浜の生麦で生まれ、横浜出身として、世間に言いふらすようになった。

ここからが自分の経験とは何か、少し考えてみたい。
実際、私が横浜で暮らしたのは、7年と5か月と短い。小学校1年の途中で同じ神奈川県の小1時間かかる農家がまだ牛を農耕に使っていた他地域へ、普通の工場の勤め人だったオヤジが家を建てたので引っ越した。しかしこの短い横浜と言う経験が私を育ててくれたと思う。

経験は実体験と後で学んだ歴史的事実が加わった今でいうバーチャル経験であってもいい、想像すると人の経験はこの類である。。
それは関東大震災の番組の中で、ある老人(87歳、震災時父と同じ2歳)があたかも自分が被災した事、町の様子、例えば木造のxx橋が崩れる前に山の手側(今の元町の高台)に逃げ延びられたことを説明されていた。非常に生々しい内容だが、TVのテロップでは当時大きかったお兄様より後年お聞きになった話がベースとされたとあり、それらを自分の体験に転嫁されたようである。これがバーチャルであって、自分の小さい頃の横浜の経験も同じだと思ったのである。

本当に当時小さな私が意識し記憶している体験を列挙し、それらが後の学習によって正しいのであるが加飾された例(*印がある行の説明)を幾つか上げる。

鶴見区生麦に生まれた私は、家族で2両で繋がった電車(京浜急行)に乗って出かけた。
*生麦が、薩摩藩士が幕末、英国人を切りつけた歴史的場所などと当時知る由もない。歴史書

二年保育の幼稚園に通ったが、そこは家族経営の幼稚園で園長先生が二階に住んでおり、時々朝、園長先生を呼びに行かされた。
*その幼稚園は、後プロレスラーになった猪木選手の実家で、ブラジル移住後はお兄さんが残り経営した。当時猪木選手は中学生だったらしいが、小さな私は見かけたこともなかった。親の話

横浜の大桟橋でよく遊んだ。
*写真好きだった父が残してくれた桟橋で撮った兄との兄弟写真があり、それを見て桟橋によく行ったと記憶している。

よく覚えている叔母さん(父の姉)の家に行った時に頼んでくれて美味しかった店屋もののトロミのある中華そば。
*家は南京町(当時は中華街とは呼ばれていない)の近くにあり、中華麺は横浜で有名な生碼麺。「さんまーめん
という発音は記憶している。

その叔母さんの家に行くには電車で生麦から横浜駅へ、そこで乗り換えるのだが、路面電車(市電)とバスがあった。
*バスは野庭口行の市バスと上大岡を経て鎌倉街道をゆく大船行のオレンジ色の鎌倉急行があって、いつもバスに乗せられた。

父からよく聞いた話、父が山下公園で遊んだこと、海辺なので鮭の切り身を餌にカニを釣ったこと。
*山下公園は関東大震災の瓦礫で浅瀬を埋め立てて出来た公園(昭和五年)であることを後年知る。歴史書

これらの学習した横浜は後で学んだことが加わって自分の体験として身についた。よく考えるとそれはバーチャルで加飾された体験である。皆さんの小さい頃の体験・経験を振り返ってみては如何ですか。

リフォーム前の壁掛け作品

令和になって、5月の連休後に、築30年を向える我が家のリビングとキッチンスペースの大リフォーム工事が始まった。2月頃から業者と打ち合わせを開始し、これからは30歳をとうに過ぎた子供達が使うので、子供達の好み要望を沢山出してもらい、それに合わせて業者からの提案を受け、煮詰めて最終案となった。どちらかというと私の願望は抑えた。わざわざ大阪にいる二男は建築科出身ということもあって東京の打合わせに顔を出し、業者もメールで二男へ回答などもくれていた。二男は予算の金額には目もくれず、良いものや改造案をどんどん出していく性格だ。娘もキッチンのシステム化や対面式・オープン化でどしどし母親を押していく。長男夫婦は綺麗好きで、食洗機は勿論、配置でも物を出来るだけ置かないようにシンプル派だ。

個性と性格が出て当たり前、システムキッチンのショールーム見学へはお嫁さんや娘は勿論、二男は結構業者に食らいついたようだ。私も同行したが、皆が気に入る環境作りが出来れば善しとした。最後の詰めは家内と娘が行き、キッチンの色をもっと明るく白っぽくしてきて、少し予算額を下げた。

普通、新しく仕上がった壁紙の壁には写真の1枚や2枚、絵画の1枚や2枚位、別に骨董的価値に問わず、飾りたくなるものだが、今回のリフォームの約束は一切何も壁には掛けないと決めたのである。時を知る時計もない。

実はリフォーム前はご多分にもれず、どこの家庭でも見られる光景のように子供が小さい頃から撮った写真を大きくしてフレームに入れ、壁に吊るしておいたのだ。枚数は定かでないが、娘が3才頃初めて料理をしてサラダを作った、東京に大雪が降り雪を掻き集め“かまくら”をやっとのことで作り上げ、小さな子供が2人入れる小さな穴が鎮座、子供の剣道、体操姿、京都の修学旅行、一番成長したもので次男の高校の入学式でなぜだか止まった。それらの中で白黒の作品2つだけ違っていた。1枚は私が学生時代(1975年)に北海道(道東)野付半島近くの尾岱沼で冬撮影した白鳥と、もう一つは30年前の新築祝いで家内の知り合いから頂いた銅版版画(エッチング)である。

私の冬の凍った湖と数羽の白鳥よりも、頂いたエッチングの主(学校の美術系の先生と伺っていたが作家と呼んでおこう)が気になった。私は一度もお会いしたことのない作家さん(家内の知り合いの女性の旦那さん;年齢的に定年退職され、数年前都内よりご出身地の方へ戻られている)であるが、エッチング作品に残されているアルファベットの署名で調べると著名な方と分かった。xxx展覧会の審査員を務めていらっしゃる。人の顔をデフォルメした当時お祝いで頂いた作品(木霊Xと題されている)から進化転化され、写真と間違えそうな位、繊細で緻密な森の木々を描いた作品はインターネットで紹介されていた。ご出身の群馬の山奥か、私の記憶を辿ると上高地の沢沿いのまだ樹木が残って枝落ちし、それが朽ちかける経過のように凄い年数を思わせる作品だ。私には寂しげだが長い長い静かな生命を感じた。

なぜ、30年前の当時このような作品を頂いた由縁を考えると、ご両親のお仕事の関係で子供さん達を朝早く保育園に連れて行くことが出来ず、家内が代わって知り合い(地元の学校の同級生同士)のお子さん達を連れて行ってあげていたのだ。当時は待機児童という言葉もなく、近所で協力していたのだ。家内も仕事をしていたが朝、時間の余裕は少しあったようだ。インターネットで、作家さんご夫妻が昨年、〜木と水と土と〜 と題して二人展を開催されていたこと知り、お子様たちも親の手から離れたのだろうと安堵した気持ちになった。まさに森の木とせせらぎの水、土とは奥様の陶芸家としての粘土だと私の独り言となった。

令和元年7月2日記す

45年前の万葉の旅と令和


令和元年5月の連休明けに始まった築30年の我が家のリフォーム工事の為に数か月前より、家の中の断捨離を子供達に急(せ)かされながらやった。ちょうど5月17日の朝、断捨離を済ませ生き残った古本が綺麗に並べられて、ベットの横の本棚の奥の右側に、万葉の旅(上、下、現代教養文庫・社会思想社;1972年)が見えた。そうだな、理系の学生の私だったが、学生時代、時間があるとこの万葉の旅で詠われている万葉歌の故地を尋ねるのを趣味としていた。学生時代の講義では故江藤淳先生のレポートで悲劇の大津皇子や二上山を題材にした時もこの万葉の旅にお世話になった。

前置きよりも、私はとっさに、下巻を掴み見出しをパラパラと送り、キーワード;大宰府を探してしまった。大宰府には(一)(二)があって、見出しの(二)の前のP126に“梅花の宴”が纏められており、約45年前に手にした本には、こう書かれていた。

梅花の歌三二首と中国詩文を模倣駆使した美文の序とが巻五に所収されている。

序の一節に「時に初春の令月、気淑く風和ぎ、梅は鏡前の粉を披き・・・」

この一節が新年号・令和の由縁とされたもので、世間で騒がれている大先生以上の著者の犬養孝氏は既に昭和39年9月にあとがきを記している。

残念だが、当時九州旅行では他の万葉歌が歌われている地区を旅してしまった。大宰府は超有名どころで、当時は徒歩でしか行けないような鄙びた別な所を探し回った。本の見出しに鉛筆でチェックした跡が残されている所を旅したのだなと記憶を戻した。学生時代という短い期間ではあったが、本で見たり、実際に訪れ、8世紀ごろ以前の日本の国の広さ(文化、支配圏)が、万葉歌が詠われている最北端地、最南端地で理解できるのではないかと思い、訪ねてみた。

最北は東北線の小牛田近くの黄金神社(当時金が採れたという)で、せいぜい宮城県多賀城遺跡の少し北であり、最南は鹿児島県阿久根市の薩摩の追門(黒の瀬戸、鳴門の渦潮みたいな流)である。黄金神社は雪降る大学3年生の2月ごろ訪れ、当時は本当に普通の神社で私の他に誰も訪れている人はなかった。薩摩の追門は少し暖かい時期に尋ね、確か国鉄の阿久根の次の折口駅から徒歩で往復した。いわゆる天草の入り組んだ瀬の一つで、古代当時は隼人が中心だった地域である。歩いて腹が減ったので確か駅前の小さなラーメン屋で麺を注文したら、ちゃんぽん麺みたいな汁と麺が出され、おばさん一人でやっている店で味わった。阿久根へは薩摩半島の長崎鼻を訪れ、西鹿児島経由で来た。当時の国鉄の列車に乗っていて非常に脳裏に焼きついている事は、北九州辺りの方言は分かるのだが、熊本を過ぎもっと南の地域では乗り込んできた老婆の九州弁は若い学生にとってイントネーションがベトナムかアジア南部の方が話している様だった。

この万葉の旅は上、中、下の3冊あるのだが、今は(中)が迷子で見当たらない。(上)にはメッカの大和地域で詠われた万葉歌が多く紹介され、詳細に分類されている。付け足しだがこの(上)を参考にして、学生当時(1976年頃)、友人の父親が単身赴任で住んでおられた奈良西大寺近くの官舎を根城にさせて頂き、大和三山、山の辺の道などを、友人と供に歩いて味わった。色彩豊かな壁画が描かれた高松塚古墳が1972年に発見された4年後であるが、当時は見学者を受け入れる状況にはなっていなかったと思う。

九州の旅は鹿児島大であった学会の後の一人旅だったが、今振り返ると昭和の帝が、約13年後に身罷われ、更に30年後に現上皇が自ら退位の意を表され、普通は深い悲しみの中で新年号を受け入れるのであるが、この令和の新年号はどちらかというと慶事の雰囲気漂う中で待ち望んだ。予期もせず、こういう初めての、心の持ちように万葉歌がしてくれたと想いたい。