暗黙知を超える?

注目

次の冬季オリンピックで金メダルを目指す女子1500mの高木美帆選手は、最近硬いブレードに交換して、なかなかしっくり来ないそうである。美帆選手は1000mでは世界一を成し遂げたが、1500mでは欧州・中国とライバル選手が多く、ちょっと先を行かれているが、ライバル選手は既に硬いブレードを使い続けて、成果を出しているという。

硬い氷に硬いブレードと素人考えでは未知の組み合わせでもないように思うが、美帆選手にとっては体幹的に何か言語化出来ないものがあるという、それは従来暗黙知と言われている分野を超えるもののようだ。普通、暗黙知は文字化・仕様書化できれば万々歳であるが、もとより高木選手は専門家であり、プロフェッショナル・その分野でトップを行く人であっても、自らが”言語化”出来ないのだと嘆いている。

夏の暑い最中に、かき氷を削って食べたいと思う心が野心的になれば、美帆選手ももっと気軽になって、挑戦して欲しいと思う。(途中です)

ラジオ放送もなかった関東大震災最中の田端文士村

今 NHK で 話題になっている 朝ドラはアンパンマンの主人公、やなせたかしさんの出生地は(現 東京都北区)東京府北豊島郡滝野川町と書かれていて、ときは関東大震災の数年前、たかしの父・清のキャリアーは講談社に勤めていたが東京朝日新聞社に引き抜かれて、滝野川界隈から都心に勤めていて、清自身も文学の文に自分も関わりたいと言う事を周囲に漏らしていた。大日本雄弁講談社の初代社主の野間清治は北区田端に別邸を構えており田端文士村のメンバーとして認知されていたが、たかしの父、清も講談社時代に雑誌雄弁の編集長として活躍していた事(1921年4月まで)が最近、関連の資料が講談社に保管されていた事がわかった。

次のキーワードは関東大震災と田端文士村の文士達、そして大災害時の人々の行動とコミュニケーションについて、気になったことを数多の出版物を参照してまとめてみたいという熱い気持ちが湧いてきた。更に今年2025年がラジオ放送開始100周年であることは、関東大震災が発生した1923年はラジオ放送も無かったのである。さて、1923年大正12年9月1日午前11時55分頃、の関東大震災に田端に在住の文士の中で何名かを選び、その吾人と知り合いの当時若者だった人たちを揚げると、
先ず芥川龍之介は田端の自宅にいた、
 次いで室生犀星も自宅にいた。
 菊池寛も田端近在の小石川区、本郷駒込神明町に居し、
1月 文藝春秋創刊、所在地は小石川区林町十九番地
7月 本郷駒込神明町三一七に転居
10月 震災のため東京市外田端五二三の室生犀星宅に転居してきた。
    室生犀星は妻・子と共に田端を離れ一旦故郷の石川県に身を寄せた。
菊池寛は若者を纒める中核で、川端康成と芥川の仲を取り持った。
 この震災当時は既に知り合いであった。
 更に川端康成と横光利一の仲を取り持った。

川端康成は当時東京帝大の学生で<芥川の7歳下>、住まいは千駄木の下宿の2階で被災したが、古家の崩れる様をちょっと記している。横光利一も然り、神田神保町の古本屋街で罹災し、駆け足で小石川の下宿先に戻った。川端は横光利一の小石川の下宿を直ぐに見に行ったそうで、「思い出二三」で証言している。

萩原朔太郎は、震災時は田端には住んでおらず、震災後萩原自身は現田端3丁目・田端区民センター脇の小道を行ったあたりの借家住まいを始めて、馬込文士村に移るまでの数年間,田端人であった。背景は室生犀星と他の友人との詩誌 感情の創刊活動の履歴については次のようにある。
犀星は北原白秋を慕って、石川県から上京、
1915年、萩原朔太郎・山村暮鳥らと詩誌「感情」を創刊
さらに1917年(大正6年)室生犀星が当地で詩誌『感情』を創刊した。
この『感情』には室生犀星の盟友である萩原朔太郎も加わり、萩原自身も1925年(大正14年)に田端に一時居を構えていた[田端文士村HP]。

馬鹿げた芥川の吉原見学・同行の川端が詳細を記す。文士の心理的状況が震災と崩れていく様、文士たちの行動は書き残されており、芥川龍之介と川端康成は吉原を見に行ったという。 女性たちの「関東大震災」の哀れな、血生臭い光景、、、、。
私が思う、ラジオが無かった時代は人の心理と防災対策は江戸の大火事の様子と酷似、あまり進歩も見られなかった。
こういった大災害の時に冷静に物事の判断が著名作家といえども、冷静さを失わせて自分の個性、一番卑しい性質が出てもよさそうと種々の参考資料を読み漁ったが、誰一人として私の予想に合致出来てはいない。
1923年9月下旬、の菊池寛(今流のマイフェイバリット作家)は新聞にこんな言葉を寄せた。前に記したように同年1月に「文芸春秋」を創刊した菊池は、製本中の最新号が焼失し、社屋から焼け出されていた。傷心から発したのかもしれない「芸術無力論」は文壇に波紋を広げたが、私は 無力だが無用ではなく、逆に文学・芸術は必要であると信じたい。

関東大震災は東京に壊滅的な被害をもたらした。田端は地盤が比較的強固だったため、幸いにもさほど被害はなかったそうだ。[2011年3月11日に発生したM9を超える東日本大震災では発生時、私は地盤の良くないお玉が池<埋め立てられてしまっている>の先の小伝馬町の客先の9階建ての古いのっぽビルにいた。ここで人生初めて机の下に潜り込み揺れが収まるまでの間、待った。もし東京湾を大津波が侵入?というイメージが脳裏に現れたが、事なきを得た。]
しかし、この震災がきっかけで東京市内から多くの人が移住し、田端付近はベッドタウン化していったという。文士は動いて、主流は馬込文士村へ移った。

田端文士村の講談社初代社主野間清治と社員柳瀬清


私は結婚後、家内の実家がある北区田端に住み始めた。私の年代・世代(昭和28年の巳年)では大学受験前は所謂大学封鎖や安田講堂封鎖等々の学生運動が血気盛んな状況で、そんな中でも、誰も文学青年ではないのだが、私も理系を目指していた一高校生ではあったが、坂口安吾、井伏鱒二、太宰治、織田作之助や教科書に出てくる作家の森鴎外・夏目漱石・正岡子規・寺田寅彦・芥川龍之介などの名を上げられる程度のちっぽけなものであった。大学入学後、江藤淳に少しはまったが、それは文士というより、当時古墳や遺跡発掘が漸く始まって、古代史や萬葉集の方に私の興味は向きかけたのは20代前半の事であった。

さて、これから田端<芸術村>文士村に関連する私から見た小さな発見や意外なことについて、飛び飛びになってしまう時系列的な出来事について呟きたい。

田端文士村なんてあったのか、を世に知らしめたのはJR田端駅前に田端文士村記念館が再開発プロジェクト事業の一つとして建設されてからの事、1993年11月(平成5年)。私が田端に移り住んでから15年が過ぎていた。当時は私の長男が通い始めた地元の中学校の校歌が文士村の一員室生犀星によって書かれたものであることだけはよく知っていた。また文化勲章の栄誉に称えられた、陶芸家の板谷波山や 柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺 の句を詠んだ正岡子規のお墓がある大龍寺は自宅前の道を挟んだ至近距離にあったのだ。

芸術関係の方々は上野にある今の東京芸大の関係者がひとりふたりと芸大までの地の利が良いという理由で移り住むようになって、芥川龍之介の3歳年上で1889年生の室生犀星は北原白秋を慕い、石川県の同郷の高等小学校で一緒だった芸術家吉田三郎<板谷波山の弟子>を頼って1917年(大正6年)に田端の借家に、大学入学前という年齢は若いのだが芥川龍之介は家族とともに1914年(大正3年)下町から山の手の地に移り住んで来た。また芥川は板谷波山の友人で鋳金家の香取秀真と関わり、初期の頃は陶芸家の板谷波山が中心であったことが分かった。

注;田端文士村のHPには芸術家・文士が誰の勧めで田端に移り住むことになった背景説明まで記されていて、貴重な情報となっている。例として板谷波山の勧めで、益子焼の名を世に広く知らしめた濱田庄司(民藝運動を推進)も 昭和3年から暫く田端495番地にいた。

田端文士村記念館のHP情報も年とともに充実してきているようで、最近勉強させられたことは、昭和9年に上京し田端608番地にいた五味保義は島木赤彦・土屋文明に師事し、その後戦後のアララギ誌の発行責任者となった歌人。

ここからが8月号の独り事の本題です。前述の通り、充実してきた文士村HPによると、初代講談社の社主・野間氏の名が文士村文士のメンバーとして、野間氏の略歴が記され、田端に別邸を構えていたとあり、当時の社名は大日本会講談社、その中核として雑誌雄辯の編集長として抜擢されたのが・やなせ清さん・やなせたかし(アンパンマンで有名な漫画家)の父であった。最近講談社で柳瀬清さんに関する資料が見つかり、講談社の資料センターの公表物を参照させて頂いている。清さんは1921年4月まで、雑誌雄辯の編集長として在籍し、その後清は東京朝日新聞社に引き抜かれて転職し、比較的直ぐに中国へ記者として、家族と共に赴任したとされている。

確かに初代社主の野間氏は田端に別邸を構えていたので田端文士村の一員で、雑誌雄辯の凄腕編集長として活躍した柳瀬清の一家は東京府北豊島郡滝野川町の借家住まいと言う事迄判明した。その滝野川町には大字が複数あって<滝野川、西ヶ原、中里、上中里等々>、その一つが田端、残念かな、その借家の正確な大字は不明で田端でなかったようだ。清も文で立ち文を極めたいという志はあったようだが、それが実を結ぶ前に赴任先で、病で急逝してしまった。33歳であったそうだ。

ジョンレノンとなぜか長嶋茂雄


 令和7年6月3日の朝、速報で長嶋茂雄選手のご逝去が報じられた。それから本当に僅かな数日間に走馬灯のように長嶋選手の生い立ちや選手引退後の様子がこれでもかこれでもかという位に報じられたのである。私は長嶋茂雄にとって、初体験となった監督業の苦しさと楽しさ喜び嬉しさ・現役時代と比べても勝る生き様のはつらつさ、生き生きさ、それらの表現の仕方で、語彙というか言葉の選択に私自身が悩む羽目になりそうなくらいの89年間という長嶋茂雄の人生は誰もが否定はしない、否定出来ない、正に彼そのものだった。
 丁度、日本が長嶋茂雄の喪に服すという言葉が似合わない、速報、号外新聞、各種大手メディアの特番が流れる中、はたと私が引き込まれたのは、ジョンレノンとオノヨウコがフィーチャーされていた番組である。ジョンレノンはかのビ-トルズのメンバーの一人で音楽活動を休止し、米国のNYCで暮していて息子さんを授かる時期前後辺りから番組を見始めた。それが日本がというよりも世界中が長嶋さんのご逝去を偲ぶというより、なぜか、私には世界中が長嶋さんありがとうと声援してように感じて、ジョンレノンが登場した。番組ではイマジンの曲が流れていた。
 ジョンレノンは40歳で熱狂者の銃弾によって自宅近くで最期を遂げた。その時、日本人の妻オノヨーコとの間で授かった息子さんは未だ5歳。息子、シェーンさんはア―チストの両親からの暖かい想いとゆったりとした愛情で一杯の時間の中で育てられようとしたが、僅か5年という短い時間で終わってしまった。そこで間を置かず長嶋選手が千葉の田舎高校で晴れ舞台の甲子園出場の機会もなく、練習に励み将来大物になるかもしれないという評判が立ち、ある試合を父親が隠れるように見に来てくれて、後によかったとみたいな言葉をかけてくれたそうである。その時の美談が暫くの間私の頭の中を浮遊していた。というのは、昨今はプロにまで登りつめた野球選手で少年野球の時から素人お父さんの熱血指導を受けて、我が息子・ここにありみたいな「美談」が増えており、長嶋選手のお父さんのような美談は聞いたことがない。もうひとつ、これも長嶋選手が自ら説明されていたことだが、大学入学後、環境と周囲からの期待要請があったようで、4年生3年生の先輩を新入生長嶋の指導コーチ役につかせてくれたことに対して大変感謝していた。甲子園未経験の長嶋選手の将来性、もちろん大学後のプロ野球界での活躍を夢見てのことである。
 さて、ジョンレノンが亡くなったのは1980年のこと、今2025年で存命であれば85歳と長嶋に比べて4つだけ若いにすぎない。野球とミュージシャンの世界での共通点を探そうと微塵にも考えてもいない。それどころか、特にクラシック音楽と野球の世界は天才的後継者の育成という点で非常に異なっている。詳しいことは省略。しかし、両世界で、普通の方がミュージシャンを目指したい、野球少年が甲子園出場を果したいと言う事は多い。世の中にはビートルズの様になりたい、長嶋選手の様になりたいとか、と言い出すことも出来ない位に、皆が認めた高い手の届かないレベルにまでなってしまった。ーは自らの夢を自らがあきらめ境地で、狭めてしまう判断を下す。そうすることで、自らはそれらの世界で、応援するサイドに席を移す。即ちプロの世界、本物のコンサートや試合を見に行き、浸ることである。
 書き残した長嶋選手のプロの世界、実は長嶋選手はプロではじめて打席に立った時、連続4回の空振りの三振を喰らった。最近知った事だが、翌対戦の第一打席でも三振を喰らい、つごう連続5回の三振をしても、今どきだったら2軍落ちを宣言されて半年又は1年位華やかな1軍での試合に出られない事もなく、何かを持っていた。この空振り三振についても長嶋翁がちょっと説明をしていて、こんな大振りをしてもヘルメットも落下しない<と周囲の人が不思議がる>、実はヘルメットは大き目のをかぶるといいんですよ。その大振りのシーンを観たが頭首胴体が回転軸となり、真直ぐになっていて、その回転軸に腕の先の手にしっかりと握られた木製のバットが直角方向、則ち、水平方向にくっると勢い余って2回程回る感じで、長嶋選手の腰もしかっりしており、のけ反ったりして体勢を崩さずに平然そのもの。この説明と残っている映像には長嶋選手があたかも演技している空振りのようだった。
 もう一つ、長嶋監督の闇の中での指導、対松井秀喜選手の話である。野球では素振りが基本で毎日何回やったと自慢気に話す子供、お父さんが自分の子供に課した夕食後の美談は多いが、結果としてどうだったのかの話には普通のお子さんならば、ならない。長嶋監督の自宅の地下室や後楽園ドームの控室での松井選手の経験、全て部屋の電灯は消して行われたそうである。< 闇の中の 素振り 空を切る音 いや違う また素振り そういいね > と私は表現してみた。松井選手は始めた頃は何がなんだか分からずにやていたそうであるが、察するところ時を重ね、監督がそういいねと語った素振りの本質を、自らが試み、それを体幹で覚え、再現することで、米大リーグで誰もがそうだと賛同してくれた松井選手の成功への道。
何せ長嶋選手監督には数字でもって説明できずに、感性というか体感でのみでしか分らない言葉を数少なに使われることが多いので有名な監督であった。
 続く。

DNAと進化論と次の夢

最近、高度なDNA解析により、単なる、人・現代人/ホモサピエンスの進化が詳しく解明され始めただけでなく、例えば、アフリカを脱した人類がある時期に究極的に進化し(恐らく気温が高い環境下)、ネアンデルタール人・デニソワ人とホモサピエンス・現代人だけがその後の急速に寒冷化した氷河期を体験し、個体数が減少したネアンデルタール人・デニソワ人(極めて最近、沖縄の海中より発見された人骨のDNA解析)が地球上からいなくなり、ホモサピエンスだけが生き残っている状況である。夢物語かと聞き間違えるような、地球上から人が滅び、その後に台頭するかも知れない生物はどんな生物なのか、幾つかの記事が見られるようになった。
私も人が滅んだ後の地球を託せる生物についてはどの様な進化をして欲しいという個人的な連想を、呟いてみたいと想う。人工的遺伝子操作はしないような条件で構想してみた。というのは、この2-3か月という非常に短い時間で調査し、人工的に植物と動物の細胞を融合させたプラニマル細胞を作成して数日間生存させたという東京大学などの発表(考案した時期は2024年11月頃)を聞いたので、所謂自然淘汰型の、DNA と進化論でいわれる過程でも起りうるだろうという事を信じての想いを優先させたい。
恐竜から進化した鳥、社会・階層をコロニー経営が出来る昆虫の蟻、蛸だという人もいたり、ストーリーは我々が真剣に考えなければならないと思う。先ず鳥であるが、我々は飛べない鳥、ペンギンを知っている。やや人から見て心もとない2足歩行しているが、人類が発展した来たように、もっと強化された歩行になり、仲間の間でコミュニケーションが出来る小鳥・シジュウカラ(200-300語彙)のようになれば、先ず一歩である。参照⑧ 勝手な想いであるが、空を自由に飛ぶ頭脳明晰な烏(カラス)を支配下においた鳥社会はどうだろうか。次に昆虫の蟻はスキップして、蛸が台頭して来るという話もある。私は全く蛸の事は不勉強であった。
タコとイカは、約2億7000万年前に進化過程で分岐したとされているというが、吸盤を使って体の一部を制御する共通点や、体の構造の違いは、生物が進化の過程で常に最善の解決策を見つけ出すことを示唆していると思います。蛸は8本の吸盤の付いた足を独立にセグメント別に制御できる高度に発達した神経網を持っており、更に海から陸に上がってからも特別な呼吸が出来、かなりの時間を生き耐えるそうだ。更におまけを付けて、現代は大気中の酸素が20%含まれているが、歴史を遡って行くと酸素がまだまだ薄かった時代の名残りで発酵に重要な嫌気性細菌があり、酸素1%以下の環境を好み水中では水深1m程度ならば生きれるのだそうだ。そうすると動物もひもじい時期を乗り越える為に光合成が出来る動物もいても良さそうである。現蛸の進化系の薄い酸素大気、光合成も出来る植物性動物蛸が私の夢物語の中に出現するタコである。

読者の方で人類が滅んだ後で台頭する生物の夢を描いてみようと思いう方へ限られた情報を幾つか次に記す。
① 藤井一至著 『土と生命の46億年史』、BLUE BACKS
② 桜井弘著 『生命にとって金属とはなにか』、BLUE BACKS 
動物で血液に用いられている金属元素としては、鉄、銅、マンガンが挙げられる。このなかで、脊椎動物のみが、ヘム鉄をもつヘモグロビンやミオグロビンのような酸素分子を効率よく結合できるタンパク質をもっていることは注目に値するなど。
③ ダーウィンの進化論(1850年代)に続く、よく考え直すと進化論の科学的根拠の説明が、遺伝子がコピーされる際の間違いで別の変った遺伝子に変異してしまい、それが、新たな環境下で生き延びれるか否かの自然淘汰という概念が進化といわれ、ダーウィンの自然淘汰の進化論であった。
④ 中立進化=中立変遺伝+遺伝的浮動 を1968年に考案した大塚資生氏の研究成果を拝見し、この中立進化で生物の形質遺伝子変異を上手く説明出来るのだそうだ。今の主流の考え方である。
⑤ 「無限の進化のタイムループ」にとらわれたバクテリアを発見、(ロビン・ローワーら、自然微生物学、2025)
個々のバクテリアの寿命はわずか数日であったためかその進化・遺伝子の変化スピードはめまぐるしく、1年間で何千世代もの進化が起こっていたが、季節が移り変わるとほとんど1年前と同じ状態に戻ること80%が分かったとのこと。バクテリアの遺伝子変異の究極的な結果として、20%が元の遺伝子から変化してしまった。
⑥ 窒素固定が出来る藻、始めは細胞内に共生している細菌の働きと疑ったが、DNA解析でこのビゲロイという藻自身が持つ働きと分かったそうだ。窒素固定が出来る植物は肥料無しで食料が可能で、これは食糧難を解決か、。
⑦ 光合成が出来るウミウシは餌資源である藻類が持っている葉緑体を消化することなく自分の腸壁細胞に取り込み、上手く機能させることにより光合成産物を得る。 これは盗葉緑体現象と呼ばれています。 葉緑体さえ取り込んだら光合成ができるかと言えば、実はそうではありません。 葉緑体は単体では機能しないので 光合成には葉緑体の外で作られる光合成タンパク質が必要です。 藻類は光合成タンパク質を葉緑体に運び、機能させる。
⑧ 自分の事を「人類史上、一番シジュウカラを観察した人間」と自負する東京大学 先端科学技術研究センター・鈴木俊貴氏。今後の目標は、動物行動学、言語学、認知科学を融合させた“動物言語学”という新しい分野を立ち上げて、動物のコミュニケーションの理解を深めること。シジュウカラがベースの20以上の単語を組み合わせて、2‐300語彙とも言われる言葉を使っているそうだ。シジュウカラAやコガラBの掛け声のやり取りを詳しく分析し、A語とB語の翻訳語まで存在する事にも言及している。2022年6月18日Newsweek

今年福男の還暦頃の呟き

日本の時刻制度”橋本万平著(塙書房;昭和四十一年九月二十日発行)という古本を手にした時期も忘れ、ちょっとは役立った話の紹介をしたい。

知り合いの方が「お八つ」とはのお話が、「六つ」というと午前の六時ころか、十八時ころかが分からないので、午前は「明け六つ」で、午後は「暮れ六つ」と言った室町時代のころから日の出から日の入りを六等分する不定時法が定着した。ひるの「八つ」はだいたい十四時ころで、その頃間食をしたので「おやつ」というのだそうだ。<今風にいうと“おやつ”は大体午後三時頃に、腹が減って来た頃に口にする、お菓子みたいな食べ物のこと。>
私は横浜生まれで、その後神奈川県の中部、茅ケ崎で育った私の記憶では、友人の実家(大農家)ではおやつを“おこじゅ“と呼んでいた。それはネットなどがない昭和四十年前後の頃の話。今、ネットを紐解くと、”おこじゅー“は神奈川や多摩地域の”おやつ“のことの方言と説明されている。
 さて、知り合いの薀蓄では旧暦の時間の分割の仕方が西洋風とは異なり、日本では不定時方法によると、昼の八つは今の午後二時頃になるそうだが、今は定時の午後三時頃に口にするちょっとした食べ物が“おやつ”になってしまっている。さらに続けると、今我々は一日に三食食事を取っているが、その昔は日本も西洋も朝、夕の二食だったと聞いている。そんなことで、身体を使う仕事をしている人が殆んどだった昔はちょうど腹が減る頃に何かを食したいことになる。所謂、おやつ・間食で、恐らくそれが昼食(ランチ)となり、三食制へと変わっていたのではないかと推測出来るのである。現代人は、朝、昼、晩と三食も食らう人種となってしまっても、さらにおやつと称して午後三時頃何かお菓子・フルーツ・最近では見栄えのいいスウィーツみたいなものをしっかり食べるようになってしまっている。昼食を食べることが本来の“おやつ“とするとそれで十分なはずである。
武士の家計簿に、暦が太陽暦になったとき、江戸時代の人が大混乱を起こしているさまが書かれているそうだ。正月のいつに餅つきをするのかさえ分からなくなっている。特に武家には年中行事があって、それがいつになったかが分からなくなり「鮒の藻刈りに酔いたる体」。鮒が住処を失って息も絶え絶えになってしまったという感想を述べているそうだ。武士の家計簿に大混乱と記されていてそれだけ、一大社会変革でもあったようだ。太陽暦との一番の誤りは七夕だと思います。今の七月初めは梅雨で、彦星と織姫が澄み通った夜空で出会い事は稀で、旧暦の七月七日を新暦で言うとだいたい1カ月以上ずれて八月十五日位になる。そうすれば真夏で夜空も期待できる訳ですから。次に、新年の挨拶で新春をお喜び申し上げますなんて、何で寒い最中に言うのかという事も、旧暦の正月は、新暦の二月中旬前になるので、そろそろ季節代りを期待しての挨拶がぴったりになる。
現代人には、頭の中には概念として、旧暦(太陰暦)と今我々がお世話になっている新暦・太陽暦があることを知っている。しかし、人が年間の四季を通じて、肌身で感じる日常の生活では、十二ヵ月制の太陽暦と季節感や二十四節気との間に、実は乖離があることを感じている。地軸が傾いているので、地球上の何処に住んでいても、季節によって昼夜の長さが刻々と変わるという生活は避けられないので、便宜上不定時法が浸透したのだと思っている。今、我々は時間を計る仕組みやその機械装置のことを“とけい”と呼んでいるが、古くは水が滴る量をもとに時を見ていたので、それは漏刻(水時計)と呼ばれていた。手元の古本には陽とともに暮して来た人の習慣で、昼間の明るさ(猫時計;猫の目の瞳の細さを便宜的に利用)や棒を立てて、その蔭の長さから時を知る方法が浸透している事も説明されている。その棒は長さが二尺又は四尺あって、蔭の長さや方向で冬至の日まできちんと読みとっていて、“土圭”と呼ばれていたそうだ。それが今の時計という言葉に変化したようだ。
現代最新物理では、重力によって時の刻みも影響を受けてしまう事(アインシュタインの理論)や人知を遥かに超えた精度を持つ時間の計測方法が確立されてはいるが、<最近、一台が5億円もする>超精密な光格子時間計測器・時計も売り出されており、凄い世の中になってきたように思われるが、実際五億円もする時計はインターネットが高速になってきているという我々のニーズ要求がそうさせているのだ。所詮我々の生活は一息や一歩という尺度ですむ事が多く、農耕は太陽と季節、漁師は潮の流れ・満ち引きを正確に理解する事で、糧を失わぬよう叡智を凝らしてきた。所謂、腹時計の方が有用な時もあることを忘れてはいけないようだ。
2013 New Yearとして、2013年、平成二十五年巳年も恙なく、穏やかに新年を迎えることが出来ました。あまり、過ぎ去った昨年を振り返ることなく、新年の歩みを確実に進めて行きたいと思います。近在の八幡様へ初詣に行き、神社暦を頂いたところ、新暦・旧暦が合せて記載されておりました。旧暦の正月は新暦の二月十日です、という事は新暦の正月は旧暦でまだ十一月二十日と有ります。暦の定め具合によって正月を祝う気持ちは変わりませんが、世間の風習は旧暦起源で行われ、季節感を堪能出来ます。東アジア起源と思われる旧暦の行事は我々が農耕民族であったことの証である収穫を確実にする(生きて行く為に必要な糧を得る)季節毎に行うべき活動が集約されているものです。これらは伝統的なイノベーションであることに間違いありません。
平成二十五年の今年は私自身巳年の還暦となり、神社でお目にかかった近在の方も同じ干支との事、年齢的には二周り上の親の世代の方でした。そういえば、祖母も巳年、親の更に二周り上の世代でした。八十台で亡くなりましたが、存命であれば百八歳。先日、日本の百十五歳の男性の方が世界一の長寿だとニュースで報道されていましたが、人の運命によっては、まだまだ暦上で歩みを進め、干支も廻り続けておられます。IT社会になったと言えども、”社会的収穫”を確実にする”IT暦”や節目毎の行動を示唆する”IT風習”は未だ我々自身で提案出来ておらず、身に付いたとも言えない状況です。いつか近い将来、そんなITイノベーションがオープンに共有出来る時代が来るはずです。

2013年元旦初夢前に、夢を語る。

気まぐれに呟く


本来であれば、昨年の十一月頃に呟こうと思っていた。それがずるずると今日令和七年一月二十三日まで延びてしまった。

その理由は一月二十日に行われた米国大統領の意思表明であった本来であれば、昨年の十一月頃に呟こうと思っていた。それがずるずると今日令和七年一月二十三日まで延びてしまった。その理由は一月二十日に行われた米国大統領の意思表明であった。

もし私ごときのつまらない呟きが、多くの憶測に基いた不確かな情報とも言えない話で、近い将来こんなバラ色に包まれた様な事になるのではないかという、一抹の不安があったことや二
三の些細な優先させたいと事があって、今日になってしまったというのが本当である。

もうコンサルタントをしていると、嘘八百とは言わないが、結構推定・予測・統計データに基づいて作成したモデルとか将来像を自分の真念と業界の一般的にはという他人にすがるような常套手段でお茶を濁ス様な事も多い。

民主主義とは 
  立候補者の要件について、私なりに以前提案させて頂いていた。
  Democracy vs Republican という構図になった昨年の米国大統領選の結果で、私なりに勉強になったことは多数決とかの手法でない、米国の富裕層と労働者層の歴然とした対立の構造になっている事。

国内では、急遽行われた衆議院議員選挙の結果、選挙前の与党勢力が少数与党(I首相率いる)へ陥落。兵庫県知事選の結果、S知事が再選されて、SNSが候補者の公約や政策の浸透のという面で若者へのアピール効果が高いことを示し、このSNSの効果は昨年の夏前の都知事選で既に相当な力になることも分かっていた。これは民主主義の政策・広報と言う面で、所謂ニセ情報の発信をいかに防ぐかという課題(有権者の行動等の要件)を突き付けた。

ここでもう一度、民主主義とは、、、について纏めると立候補者の要件・選挙中の広報手段・有権者の要件の三点に十分に注意して議論しなければならないことが解る。

米国大統領選挙結果が判明した後、さらに関心の高まりにより、T大統領の宣言まで聴いて確かめた後になってしまった。米国の要求が米国の有権者のみならず、非常に明確で、世界の一般の人が分る言葉で表現されていたことであった。

国内でも、最終的に腑に落ちて、納得した事は有権者、全ての団体が暮らしを良くしたい、特に法人税や個人の所得税減税を望み、国内ではこれまで高齢者向けのインセンティブを優先的に諸策の検討をしていた流れを少子化対策へと変えて、予算のある、金のある地方自治体が、子供医療費、給食費、義務教育でない高等学校の授業料無償化、さらに大学授業料の無償化まで要求が拡大し、そのための予算枠を確保出来るのか否かの議論に落ちてしまっているように見える。

我々のような七十歳を超えた高齢者は振り返ると昭和二十八年生れが境であった。戦後のベビーブーム・昭和二十二年生より少し後の世代の話をしてみる。先ず、義務教育で必要な教科書は有償であった。それが、昭和二十九年生れの世代からは無償になった。私の世代は給食も小学校まで、東京のような大都市では給食は中学校まで、勿論給食費は必要だった。大学入学時に国立大学の授業料を3倍にする法案が通り、3倍になった。この大変化は当時の政局をストップさせ、予算が可決したのはズレ込み4月に入ってからで、3月下旬の国立大学の手つづきでは旧来の授業料や入学金を納めて終わった。が、もう一つ、大学入学時の授業料が従来だと4年後の卒業時まで続くのであるが、昭和四十七年の特例で、4月に入って可決した3倍もの授業料を後期から納めろということだった。

さて、国内も米国も有権者の要求は本当に自分の暮らし向きをただ良くしてくれそうな立候補者を選ぶことのみに集中し、本来は政治(祭りごと、国を治める)であって、国民主義・基本的人権の尊重・平和主義(国の安全/国防)というの憲法に規定された主意を維持するための、法律(簡単に言うと人として生きていくためのルール策定・周知・施行・ルールを犯した場合に対する処置)などを規定する三権分立の立法を、掌らなければならない。

自分の暮らし向きをよくしてくれる候補者を希望し、皆様もご理解頂けると思うが、一地方の議員さんが対処出来る課題でないことはT大統領が次々と署名していく米国大統領令の内容は日本一国でも対処できない、とても幅広いグローバルな連携と具体的な実施し得る行動的施策ばかりで、相当な経験、紙上だけの勉学ではない多国籍企業のマネージャのような実務経験や海外留学で培う人的コネクション(ふとしたことで、後になって役立つ異国の輩と知り合うこと)、さらにこの分野ならば任せてくれと言える秀でた専門性まで身に着けておきたい。

単に民主主義とはと言った事では済まされず、経済至上主義だけでもいけない、そこは焦らずに時間をかけてもいい、先ずは自分をスタート点として、皆様が全く同じ環境に居るわけでもないので、それぞれ考えて行けばいいのではないかと思った次第です。

新春雑感2025

 事の起りは、令和7年元旦の早朝のことで、YouTubeで3代目桂三木助氏の芝浜という有名な落語を聞いて、少し庶民の気持ちを晴れやかにしてくれていて、間をおいて観始めたTV番組である。それはN放送の何とか徳島というタイトルで既に始まっていた。見始めると直ぐに、徳島県の四国お遍路第11番目の寺が紹介され始めていた。
  なぜかこんなことを思い出し、大学4年の卒業式を済ませ、大学院の入学式をまじかに控えた約50年前のサイクリング四国1周(約1000㎞)の初日に東京有明ターミナルの徳島行きのフェリーに夕刻にサイクリング車と乗船した。翌日昼間に小松島港に着き、走り始めて当時四国は未舗装の幹線路も多く、直ぐにタイヤがパンクして、修理をはじめていた。こんな小さな釘が刺さっていたのだ。これを凶と見るか吉と考える暇もなく、また自転車こぎ始めて、今晩泊るところは確か板野町のお遍路さんに組み込まれたお寺だと言う事でひたすらに、こいで初日の宿に到着した。
当時は輪行の友は縮尺5万分の一の地図で、それを自分が踏破するルートに沿って買い集めておくことと、宿は主にユースホステルだったので、その小冊子(電話番号が記載)の2つであった。
 そのTV番組では、時間に余裕のある方は四国霊場88カ所を徒歩でいくという、次ぎの霊場迄7時間も掛けて歩き、途中で難儀している高齢者に遭遇すれば手を差し伸べ、歩を緩め同行するという素晴らしい紹介をされて、さらに50年前の当時とは違い、綺麗でモダンな宿坊も紹介されていて、異国からも多くの参拝者が来られ、東京京都大阪と言ったシティ派とは違う日本文化を享受している方々を取り上げていた。
 私の50年前の様子は、お寺さんの宿坊3か所、「徳島、四万十川沿いの中村という町にあったお寺さん、そして室戸岬の崖の上にあるお寺さん」で、後はユ-スホステル3軒と港町の民宿(四国の最西端の佐田岬手前の三崎町)での1泊であった。私の輪行は7日間で約1000kmの距離で、1日で100㎞、長いと150㎞位迄、半日で80㎞程度の走行。道路の路面状態(未舗装で砂利道、上り下り、山道とか)や天候に大きく依存した。平地では雨降り、標高300mまで上がると雪にも、四国の松山で、4月早々で遭遇するという天候だった。
 N放送の番組でフォーカスしていたのは、確かに50年前もいらした各お寺さんで戴く御朱印帳め、急ぎの為タクシーを利用する方々ではなく、日本文化をゆっくりと体験してみようという趣きにあった。

私は、なぜ四国88カ所の霊場なのかと言う数字の8に惹かれた、88である理由、四国にはもっと沢山のお寺さんはあるのだが、、、 では、AI関係のネット調査を行うと、 即座に次の囲みに記した解説を教えてくれた。

四国八十八箇所のお遍路さんが88箇所である理由は、弘法大師(空海)に由来するとされています。空海は四国で修行し、多くの寺を開いたり、修行の場所として選定したりしたと言われています。彼が修行した場所を巡ることで、心の修行や成長を象徴する旅とされています。 (中略) 88は仏教の修行階梯を象徴する数字とされ、それに基づいて88箇所が選ばれたとされています。

 中国では⑧はいい数字で、吉だそうだ。北京オリンピックは暑い最中の2008年8月8日を開会式にリザーブするぐらいの国家行事としたぐらいであった。
 これは未だ公に紹介したことはないのだが、私が幼稚園児の歳に親以外で初めてもらったお年玉が昭和33-4年の頃で真新しい10円硬貨で80円だったこと、もし、くれた祖父祖母が、8が縁起の良い事を知っていて、お年玉としてくれたのかと大人になってから長年の疑問がくすぶっていた。数年が経ち小学校の低学年の時の祖父祖母からのお年玉は金ぴかの100円玉で2-300円だったと記憶しています。今、金が1gで1万数千円もするので、当時の稲穂が彫られている100円硬貨は銀貨と言われるくらいで銀の含有量が多く、余談ですが現在の価値は”300円”超えることが計算でわかります。
 そろそろ終わりにしたいのだが、落語で芝浜という有名な演題の事も疑問があって、魚屋の主が江戸の芝浜(現、品川から浜松町あたりの海岸)で皮の財布をひろって、中身の銭の総額が82両という大金であったことを思い出し、⑧にこだわっている私の気持ちが、なぜ芝浜で拾った銀の粒が82両分(小判82枚でないのだ)なのかということも、ネット検索したところ、落ちがありまして、噺家によって、財布の中身は50両や42両という具合に変わっているそうで、ちょっとした額を拾ったのではなく、江戸の当時の大金であること(1年以上も暮らせる)、番所にも届けず隠しもっていて、庶民がビクビクしながら、何かと周囲を気遣って暮らし通せる金額の範囲であれば良かったそうである。

野中郁次郎氏 ご逝去

野中郁次郎氏が89歳でご逝去されたことを新聞で知った。私は若き頃(今は2025年1月27日、約50年弱前)、半導体業界にいたが、研究分野では特許発明の申請を年に何回することが業務目標の一つに含まれてた。野中先生を知るようになったのは数年して、日本創造学会の集まりに出入りするころで、既に暗黙知を形式知に変換しようと各界・多くの研究者が取り組んでいられた。私自身、暗黙知なる言葉に初めて巡り合い、こういう表現も出来るんだという驚きであった。合掌